第48話 私が選ぶ部屋
皇都の城門が近づくにつれ、街道沿いに立つ人の数が増えていった。
黒と白の石で築かれた巨大な城壁。その上にはヴァレンティス皇国の黒狼旗が掲げられ、夕風を受けて大きく翻っている。門前には皇国騎士団が整列し、沿道には商人や職人、親に肩車をされた子どもたちまで集まっていた。
国境砦から皇帝が帰還する。それだけでも、皇都の民にとっては大きな出来事なのだろう。
リリアーナは、馬車の窓からその光景を見つめた。
「大勢いらっしゃいますね」
「ああ」
「陛下をお迎えするために?」
「それもある」
カイゼルの答えに、リリアーナは僅かに首を傾げた。
「ほかにも理由があるのですか」
「君を見たい者もいる」
「私を?」
胸の奥が、ひやりと冷える。
グランベルク王国で断罪された公爵令嬢。敵国皇帝に処刑台から救い出された女。星霜の加護を持つ者。そして今では、王国によって無実を認められた元王太子妃候補。
自分に関する噂は、すでに皇都へ届いているのだろう。
「怖いか」
「……少し」
反射的に大丈夫だと答えそうになったが、リリアーナは正直に言った。
「何を見られるのか、分かりませんから。皇国の方々にとって、私は敵国の公爵令嬢です」
「元、だ」
「元?」
「王国へ戻る意思がなく、王国も帰還を要求しないと認めた。君が望まない限り、王国の公爵令嬢という立場に縛られる必要はない」
リリアーナは、自分の手を見つめた。
エルフェルト公爵令嬢という名を嫌っているわけではない。父との記憶も、家で過ごした時間も、すべてを捨てたいわけではなかった。
けれど、その身分を理由に王国へ尽くさなければならないと言われるなら、今は距離を置きたい。
「では、私は皇国では何者なのでしょう」
「リリアーナだ」
「それだけですか」
「ああ」
迷いのない答えだった。
「皇都の者が何を噂しようと、君が自分の立場を決めるまでは、それ以上でも以下でもない」
「私が決める」
「ああ」
「すぐに決めなくても?」
「ああ」
リリアーナは、小さく息を吐いた。
「では、今はリリアーナとして入ります」
「そうしろ」
城門が開かれ、馬車が皇都へ入った瞬間、大きな歓声が上がった。
「皇帝陛下、万歳!」
「黒狼皇帝陛下のご帰還だ!」
沿道から飛び交う声に、リリアーナの身体が僅かに強張る。だが、罵声は聞こえなかった。
代わりに、馬車へ向けて白い花を掲げる女性がいる。小さな星を描いた紙を持つ子どももいた。
「リリアーナ様だ」
「処刑台から救われた方でしょう?」
「王国が無実を認めたって」
「お顔は見えないのかしら」
自分の名が聞こえる。
リリアーナは窓から身を隠そうとはしなかった。ただし、大きく手を振ることもしない。何をすれば正しいのか、まだ分からなかったからだ。
「無理に応える必要はない」
カイゼルが言う。
「はい」
「見たくなければ、幕を閉めてもいい」
「いいえ。見ていたいです」
「ああ」
皇都の街並みは、王国の王都とは大きく異なっていた。
建物には黒い石と白い石が交互に使われ、窓枠や街灯には銀色の装飾が施されている。大通りには商店が並び、香辛料、革製品、色鮮やかな布、焼きたてのパンが店先を彩っていた。
遠くには、硝子張りの温室らしい建物も見える。
「庭園でしょうか」
「皇立植物園だ」
「植物園」
「南方や東方から集めた植物もある」
「見てみたいです」
「ああ」
「まだ皇都に着いたばかりなのに」
「見たい場所が増えるのは悪くない」
「はい」
小さな期待が、一つ増えた。
やがて馬車は大通りを抜け、皇城へ続く坂道へ入った。
皇城は、街の北側にある高台へ建っている。黒い石の基礎と白い外壁。複数の尖塔が空へ伸び、その中央には最も高い塔が立っていた。
王国の王宮よりも装飾は少ないが、厚い城壁と高い塔には、皇国を守る要塞としての重みがある。
「大きいですね」
「迷うかもしれない」
「陛下も迷われたことがありますか」
「ない」
「本当に?」
「幼い頃から住んでいる」
「では、陛下に案内していただけますね」
「ああ」
答えたカイゼルの目元が、ほんの僅かに和らいだ。
「何だか、嬉しそうです」
「そう見えるか」
「はい」
「気のせいだ」
「そうでしょうか」
リリアーナは小さく笑った。
皇城の正門が開き、中庭には皇国の重臣や侍従、女官たちが整列していた。
馬車が止まると、先にカイゼルが降りる。
「皇帝陛下のご帰還を、心よりお祝い申し上げます!」
皇国の臣下たちが、一斉に頭を下げた。
リリアーナは馬車の中で息を整える。
ここから先は、王国で何度も経験した公式の場に似ていた。背筋を伸ばし、表情を整え、一歩も間違えず完璧に振る舞う。
身体が、古い習慣へ戻ろうとする。
だが、扉の前に立ったカイゼルは、すぐには手を差し出さなかった。
「リリアーナ」
「はい」
「降りられるか」
「……はい」
命令ではなく、確認だった。
「緊張しています」
「ああ」
「でも、自分で降ります」
「ああ」
リリアーナは踏み台へ足を掛けた。最後の一段で差し出されたカイゼルの手を取り、皇城の中庭へ降り立つ。
顔を上げると、数十人の視線が集まっていた。
好奇心。驚き。警戒。同情。それぞれの感情が、隠しきれずに表れている。
リリアーナが王太子妃候補として教え込まれた完璧な礼を取ろうとした時、カイゼルが先に口を開いた。
「紹介する。リリアーナ・エルフェルトだ」
それだけだった。
星霜の加護持ち。王国の元王太子妃候補。皇国の保護対象。未来の皇后候補。
どの呼び名もつけず、ただ名前だけを告げた。
重臣たちは一瞬戸惑ったようだったが、最前列にいた白髪の老人が最初に膝を折った。
「リリアーナ様。ヴァレンティス皇国へ、ようこそお越しくださいました」
老人に続き、ほかの者たちも礼を取る。
「ようこそ、皇都へ」
歓迎の言葉が重なった。
リリアーナは少し迷った後、自分がしたいと思う礼を選んだ。
深すぎず、尊大にもならず、一人の客人として。
「温かくお迎えくださり、ありがとうございます」
声は震えなかった。
それだけで、十分だった。
歓迎の場は長く続かなかった。
リリアーナの体調を考慮し、挨拶は最低限。歓迎宴は開かず、公式な謁見も後日、本人が望んだ場合に限るよう、カイゼルが事前に命じていたらしい。
数名の重臣が挨拶を終えると、一行はすぐに皇城内へ入った。
「宴はないのですね」
「ああ」
「皇帝陛下のご帰還なのに?」
「必要ない」
「皆様が準備されていたのでは」
「させていない」
「私のために?」
「君だけのためではない。私も宴は好きではない」
「……少し、安心しました」
「なら、断った意味はあった」
皇城の内部は、外観よりも明るかった。
高い窓から陽が差し込み、白い石床へ淡い光を落としている。壁には歴代皇帝の肖像画や戦場を描いた大きな絵が並ぶ一方、廊下の角には小さな花瓶や長椅子も置かれていた。
武骨なだけではない。人が暮らす場所としての温かさもある。
リリアーナは、案内されながら何度も周囲を見回した。
「こちらが東翼です」
案内役を務める女官長が説明する。
四十代ほどの女性で、背筋を伸ばした厳格そうな人物だった。濃紺のドレスに、銀の鍵束を下げている。
「皇帝陛下の私室と執務室は、中央棟の上階にございます。東翼は、主に皇族の居住区として使われております」
「私は、こちらに?」
「候補となるお部屋を、三か所ご用意しております」
女官長はカイゼルへ視線を向けた。
「陛下より、リリアーナ様ご自身にお選びいただくよう申しつけられております」
「三か所も?」
リリアーナは、カイゼルを見た。
「どこでもよいとおっしゃっていましたが」
「実際に見なければ選べない」
「それは、そうですが」
「疲れているなら、今日は一つだけでもいい」
「いいえ。三か所とも見たいです」
「ああ」
最初の部屋は、東翼の最上階にあった。
広い居間と寝室、衣装部屋、浴室、侍女用の控え室が揃っている。窓からは皇都全体が見渡せ、遠くの山々まで見えた。
「皇族の賓客を迎えるための部屋でございます」
女官長が説明する。
家具は豪華で、金の装飾も多い。美しい部屋だったが、リリアーナは僅かに肩へ力が入るのを感じた。
「お気に召しませんか」
「嫌ではありません。ただ、少し広すぎる気がします」
「では、次へ参りましょう」
女官長は理由を問い詰めなかった。
二つ目の部屋は、中央棟に近い場所にあった。
皇帝の執務室から最も近く、重臣たちが使う会議室へもすぐに行ける。内装は落ち着いているが、扉の外には常に警備兵が立ち、廊下を行き交う人も多かった。
「陛下のお部屋に最も近いのはこちらです」
その言葉に、リリアーナの胸が僅かに動く。
けれど、窓の外に見えるのは別棟の壁だった。人の気配も多く、ここではゆっくり休むことが難しいかもしれない。
「便利そうですが、少し落ち着かないかもしれません」
「ああ」
カイゼルは、それ以上何も言わなかった。
三つ目の部屋は、東翼の二階、その最も奥にあった。
ほかの二部屋より小さい。それでも、国境砦の白百合の部屋よりは十分に広かった。
居間には暖炉があり、壁際には作りつけの書棚が並んでいる。窓辺には小さな机が置かれ、その向こうには中庭が見えた。
白い花と淡い紫色の花。低い生け垣の奥には、小さな噴水もある。
窓を少し開けると、水の音と花の香りが室内へ入ってきた。
「この庭は?」
「星花の中庭と呼ばれております」
女官長が答える。
「夜に花弁が淡く光る花が植えられているため、その名がつきました。現在は一般の者が立ち入ることも少なく、静かな場所でございます」
「庭へ出られますか」
「部屋の奥に、専用の階段がございます」
リリアーナは、居間の奥にある硝子扉へ近づいた。
扉を開けると、小さな石造りの階段が中庭へ続いている。
「ここがいいです」
言葉は、考えるより先に出た。
女官長が僅かに目を見開く。
「こちらでよろしいのですか。最上階のお部屋より狭く、中央棟からも少し離れておりますが」
「はい」
リリアーナは、もう一度室内を見回した。
書棚。窓辺の机。暖炉。静かな庭。
必要なものは揃っている。誰かに見せるための豪華さはないが、自分が暮らす姿を想像できた。
「私は、ここで暮らしてみたいです」
「承知いたしました。ただちにご用意いたします」
「今のままでも十分です」
「寝具と日用品の最終確認だけはさせてください」
「はい。お願いいたします」
リリアーナは、カイゼルへ視線を向けた。
「よいのですか」
「君の部屋だ」
「陛下のお部屋からは、少し遠いそうですが」
「ああ」
「……遠いのですね」
自分で言ってから、何を確認しているのだろうと思う。
カイゼルの金色の瞳が、僅かに細められた。
「歩けば来られる」
「陛下が?」
「ああ」
「お忙しいのでは」
「時間は作る」
リリアーナは、少しだけ頬を緩めた。
「では、こちらにします」
「ああ」
部屋が決まると、女官たちはすぐに動き始めた。
国境砦から運ばれた荷物が、必要なものから順番に届けられる。
衣服、書きかけの手紙、刺繍道具、クララが選んだ香草茶。そして、庭に飾っていたものと同じ模様の小さな刺繍。
「こちらは、どこへ置きましょう」
クララが尋ねる。
「窓辺の机へ」
「はい」
少し歪んだ星が、皇都の新しい部屋にも置かれた。
過去を捨てるのではなく、そこから大切なものを持って進む。
リリアーナは、窓辺へ置かれた刺繍を見つめた。
「お嬢様」
クララが、少し不安そうに尋ねる。
「こちらのお部屋で、よろしかったですか」
「ええ」
「もっと豪華なお部屋もありました」
「私も、昔なら最上階を選んだかもしれないわ」
「王太子妃候補にふさわしいから?」
「ええ」
眺めや格式、部屋の広さ、賓客にどう見られるか。以前のリリアーナなら、それらを基準に選んだだろう。
「でも今日は、私が落ち着ける場所を選びました」
「はい」
「少し、嬉しいです」
「私も嬉しいです」
クララが笑った。
オルガは、すでに寝室と浴室の安全を確認している。窓の鍵、階段の手すり、寝台の高さまで細かく調べていた。
「オルガ、いかがですか」
「寝台の硬さは、国境砦で使用されていたものに合わせて調整できます。浴室も問題ございません。ただし、中庭へ続く階段は朝露で滑りやすくなります」
「気をつけます」
「お一人では降りないように」
「……はい」
「少し不満そうですね」
「自分で降りられると思いました」
「体調が完全に戻ってからであれば、止めません」
「では、戻ったら」
「はい」
禁止ではなく、今は待つという約束。
リリアーナは、素直に頷いた。
夕食は部屋で取ることになった。
到着したばかりのリリアーナを大食堂へ出す必要はないと、カイゼルが決めたらしい。
温かい野菜のスープ、柔らかく焼いた白身魚、香草を混ぜたパン、蜂蜜を僅かにかけた果物。どれも胃へ負担がかからないよう、オルガと皇城の料理長が相談して用意したものだった。
リリアーナは半分ほど食べたところで、扉へ視線を向けた。
「陛下は、もうお仕事でしょうか」
「帰還直後ですので、重臣の方々から報告を受けておられるかと」
クララが答える。
「そうですよね」
「お会いになりたいですか」
「いえ。お忙しいなら」
言いながら、少しだけ寂しいと感じている自分に気づく。
国境砦では毎日のようにカイゼルの顔を見ていた。同じ馬車で皇都まで来たが、ここは皇城であり、彼は数多くの仕事を抱える皇帝だ。
これからは、会えない時間の方が増えるのかもしれない。
「リリアーナ様」
扉の外から、女官長の声がした。
「皇帝陛下がお越しです」
リリアーナは顔を上げた。
「どうぞ」
扉が開き、カイゼルが入ってくる。
外套は外しているが、まだ軍装のままだった。手には数枚の書類と、小さな紙袋を持っている。
「お仕事は」
「一段落した」
「もう?」
「必要なものだけ終わらせた」
カイゼルは、食卓へ視線を向ける。
「食べられたか」
「半分ほど」
「十分だ」
「オルガにも同じことを言われました」
リリアーナは、彼が持つ紙袋へ目を向けた。
「それは?」
「蜂蜜菓子だ」
「もう?」
思わず声が弾む。
「皇都へ着いたら、一緒にお店へ行く約束では」
「店へ行くのは後日だ。これは城下から届けさせた」
「陛下が頼まれたのですか」
「ラウルに」
「ラウル様が選んだもの?」
「ああ」
「では、酒に合う菓子でしょうか」
「本人は否定していた」
カイゼルが紙袋を開く。
中には、小さな星形の焼き菓子が入っていた。表面に薄く蜂蜜が塗られ、香ばしい匂いが漂う。
「可愛いですね」
「ああ」
「一つ、いただいても?」
「食事の後なら」
「はい」
リリアーナは、残っていたスープをもう数口飲んだ。
それを見たカイゼルの目元が、僅かに和らぐ。
「お部屋はいかがですか」
「気に入りました」
「そうか」
「自分で選んだ部屋ですから」
リリアーナは、窓の向こうへ視線を向けた。
夜が近づき、中庭の花々が少しずつ淡い光を帯び始めている。
「見てください」
硝子窓へ近づくと、白や紫の花弁が星屑のように光っていた。
「本当に、星のようです」
「ああ」
「国境砦の庭とは違います。でも、ここも好きになれそうです」
「無理に好きになる必要はない」
「はい。でも、好きになりたいと思っています」
カイゼルは何も言わず、リリアーナの隣へ立った。
中庭の光が、二人の姿を硝子へ映す。
黒い軍装の皇帝と、灰青色の外套をまとったリリアーナ。二人の影は少し離れているが、同じ窓の中に並んでいた。
「陛下」
「何だ」
「皇都へ来て、最初に自分で選んだものが、この部屋でよかったと思います」
「ああ」
「誰かにふさわしいと言われた部屋ではなく、私が暮らしたいと思った部屋です」
「ああ」
リリアーナは、窓辺の小さな刺繍を見る。
「私の星も、ここに置けました」
「ああ」
「新しい場所でも、私は私のままでいてよいのですね」
「当然だ」
即答だった。
胸の奥へ、温かなものが広がる。
リリアーナは少し迷った後、カイゼルを見上げた。
「陛下」
「何だ」
「ここへ、また来てくださいますか」
「ああ」
「お忙しくない時に」
「忙しくても来る」
「それでは、お仕事が」
「君が望むなら時間を作る」
リリアーナの頬が、僅かに熱くなる。
「では、望んでもよいですか」
「ああ」
カイゼルは、まっすぐに彼女を見る。
「望め」
短い言葉だった。
命令のようでありながら、リリアーナを縛るものではない。
欲しいと言っていい。会いたいと言っていい。そばにいてほしいと、望んでいい。
リリアーナは、そっと微笑んだ。
「では、また明日も来てください」
「ああ」
皇都で交わした、最初の約束だった。
その夜、リリアーナは新しい寝台へ横になり、窓の外に広がる星花の中庭を眺めた。
知らない天井。知らない部屋。知らない街。
それでも、以前のような心細さはなかった。
窓辺には、自分で縫った歪んだ星がある。机には、カイゼルが届けた蜂蜜菓子が残っている。
明日になれば、彼がまた来る。
ここは、誰かに決められた部屋ではない。誰かの妻になるために与えられた部屋でもない。
リリアーナが自分で選んだ、自分のための場所だった。
星花の淡い光を見つめながら、リリアーナは静かに目を閉じた。
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