第47話 皇都へ向かう朝
皇都へ向かう朝、国境砦には薄い霧がかかっていた。
夜明け前に降った雨が石畳を濡らし、黒灰色の城壁を淡く光らせている。厩舎の前では馬車の最終点検が進み、騎士たちが荷の数と護衛の配置を確認していた。
出発を急かす声はない。
リリアーナの体調に合わせ、予定より一刻遅い時間が選ばれている。荷物も必要最低限に絞られ、移動中に休めるよう、寝台付きの車両まで用意されていた。
これほど大がかりな配慮を受けることに、リリアーナはまだ慣れていない。
けれど、申し訳ないから減らしてほしいとは言わなかった。必要なものを必要だと認めることも、彼女が覚えている途中のことだった。
「お嬢様、外套はこちらでよろしいですか」
「ええ。ありがとう」
クララが差し出した外套を受け取り、リリアーナはゆっくりと袖を通した。
淡い灰青色の布地に、白銀の糸で小さな星が刺繍されている。皇国で新しく仕立てられたものだった。
王国で着ていた華やかなドレスとは違う。王太子妃候補としての威厳を示すためでも、公爵家の富を誇るためでもない。
寒さから身体を守り、長い移動を少しでも楽にするための衣服だった。
「よくお似合いです」
「そう?」
「はい。とても」
クララの笑顔に、リリアーナも小さく笑う。
鏡の中には、以前より少しだけ血色を取り戻した自分が映っている。まだ痩せており、顔にも完全には消えない疲れが残っていた。
それでも、処刑台へ連れていかれた朝の自分とは違う。
あの日は、着るものも、歩く道も、行き先も、何一つ選べなかった。
今日は違う。
この外套も、皇都へ向かうことも、庭へ別れを告げる時間を持つことも、すべて自分で選んだ。
「参りましょうか」
「はい」
リリアーナはクララと共に部屋を出た。
廊下には、オルガが待っていた。
「お身体の具合はいかがですか」
「問題ありません」
「疲れは」
「少しだけ緊張しています」
「それは体調ではございませんね」
「……そうですね」
リリアーナは、素直に言い直した。
「身体の疲れはありません。緊張しています」
「承知いたしました」
オルガは満足そうに頷く。
「移動中、頭痛やめまいがございましたら、すぐにお知らせください」
「はい」
「我慢なさらないように」
「はい」
最近は、この確認にも自然に答えられるようになった。
大丈夫です、と反射的に返す前に、自分の身体へ尋ねられる。
本当に大丈夫なのか。
疲れていないか。
無理をしていないか。
それは小さなことだが、リリアーナにとっては大きな変化だった。
三人は、そのまま庭へ向かった。
朝露をまとった白い花が、風に揺れている。
最初に見つけた一輪から、花は少しずつ増えていた。すべてを加護で咲かせたわけではない。土を整え、水をやり、庭師が世話をし、自然に蕾が開くのを待った花だった。
庭の一角には、三つの白い石が並んでいる。
『セレナ』
『マリアナ』
『ルシア』
その前には、小さな灯り。隣には、銀糸の星を縫った刺繍枠が飾られている。
少し歪んだ星。
完璧ではない。けれど、リリアーナが自分のために縫った、最初の星だった。
「しばらく、来られなくなりますね」
「皇都からも、様子は知らせてもらえます」
「はい」
リリアーナは三つの石の前へ膝をついた。
「セレナ様。マリアナ様。ルシア様」
それぞれの名を、ゆっくりと呼ぶ。
「今日、私は皇都へ向かいます」
三つの灯りが、静かに揺れた。
「皆様の代わりに生きるためではありません。皆様の願いを背負うためでもありません」
胸元の星飾りへ触れる。
「私自身の未来を選ぶために行きます」
もう、返事を求めることはしなかった。
三人の光は、それぞれの場所へ還った。ここにあるのは、名前を覚えておくための石と、リリアーナ自身の祈りだけだった。
「また来ます」
リリアーナは立ち上がった。
「今度は、皇都のお話をしますね」
その声は、少しだけ明るかった。
庭の入口には、カイゼルが立っていた。
黒い軍装に、皇帝の紋章が入った外套をまとっている。すでに出発の準備は整っているはずだが、急かす様子はない。
リリアーナが自分から庭を離れるまで、静かに待っていた。
「お待たせしました」
「待っていない」
「ですが、出発の時刻を過ぎています」
「予定は君のためにある。君が予定のためにいるのではない」
あまりにも当然のように言われ、リリアーナは僅かに目を瞬かせた。
「そういうものなのですね」
「少なくとも、今回はそうだ」
「はい」
カイゼルは三つの白い石へ視線を向ける。
「別れは済んだか」
「別れではありません」
「そうか」
「また来ますから」
「ああ」
否定されず、約束を疑われることもない。
リリアーナは庭をもう一度振り返った。
白い花。
三つの石。
歪んだ星。
どれも、ここへ来た時にはなかったものだった。
自分がここで過ごした時間が、形として残っている。
「行きましょう」
「ああ」
リリアーナは、自分の足で庭を離れた。
砦の正門前には、皇都へ向かう一行が揃っていた。
先頭には皇国騎士団。その後ろへ、カイゼルの馬車、リリアーナとクララが乗る馬車、医療用品と荷物を載せた車両が続く。
ラウルは騎乗したまま、隊列を確認していた。
「リリアーナ様、おはようございます」
「おはようございます、ラウル様」
「皇都までの道中、退屈でしたら陛下の幼少期のお話を」
「必要ない」
カイゼルが即座に遮る。
「まだ何も話していませんが」
「話すな」
「では、陛下が初めて乗馬から落ちた時の」
「ラウル」
「はい、黙ります」
リリアーナは思わず笑った。
「陛下にも、馬から落ちたことがあるのですか」
「幼い頃の話だ」
「何歳の頃でしょう」
「知らなくていい」
「気になります」
「リリアーナ様、皇都まで十分に時間がございます」
「ラウル」
今度は、クララまで笑いをこらえている。
出発前の緊張が、少しだけ薄れた。
カイゼルは諦めたように息を吐き、リリアーナへ手を差し出す。
「馬車へ」
「はい」
リリアーナは、その手を見つめた。
処刑台から救い出された時も、彼は手を伸ばしてくれた。あの時は、縋ることしかできなかった。
今は違う。
自分で歩ける。それでも、差し出された手を選んで取ることができる。
リリアーナは、自分からカイゼルの手へ指を重ねた。
強く引かれることはない。彼は、彼女が踏み台へ足を掛けるのを支えるだけだった。
「ありがとうございます」
「ああ」
馬車へ乗り込んだ後、クララが向かい側へ座る。
カイゼルは本来、先頭の皇帝専用馬車へ乗る予定だった。
だが、扉を閉じる前にリリアーナが口を開いた。
「陛下」
「何だ」
「途中まで、ご一緒にはなれませんか」
言った後で、少しだけ恥ずかしくなる。
皇帝には移動中も確認すべき書類や、騎士団への指示があるだろう。自分の不安を理由に、予定を変えてもらってよいのか。
「無理でしたら」
「乗る」
カイゼルは即答し、リリアーナが言葉を続ける前に向かい側へ腰を下ろした。
「ですが、お仕事は」
「ここでもできる」
「陛下の馬車の方が」
「ここでいい」
ラウルが扉の外から顔を覗かせた。
「陛下の書類はこちらへ運ばせますね」
「ああ」
「最初からそのつもりで用意しておりました」
「ラウル」
「では、出発します」
返事を待たず、ラウルは扉を閉めた。
外で出発の号令が響く。
馬車が、ゆっくりと動き始めた。
車輪が濡れた石畳を進み、砦の門が開く。
リリアーナは窓の外を見た。
騎士たちが道の両側に並び、頭を下げている。
彼らの多くは、リリアーナを王国の罪人として見たことがない。
皇国へ保護された一人の女性として。
星霜の加護を持ちながら、無理に使わされるべきではない人として。
それぞれが見送っている。
馬車が正門を抜ける。
庭の白い花は、もう見えない。
黒灰色の砦が、少しずつ遠ざかっていく。
「寂しいです」
リリアーナは、窓の外を見たまま言った。
「ああ」
「皇都へ行きたい気持ちは、本当です」
「ああ」
「それでも、ここを離れるのは寂しいです」
「ああ」
どちらか一つでなくていい。
新しい場所へ行きたくても、今の場所を離れたくない気持ちは残る。
「陛下は、皇都へ戻るのが嬉しいですか」
「仕事が増える」
「それは、嬉しくないのですね」
「ああ」
「では、砦にいた方が」
「君を皇都へ連れていきたい」
あまりにも真っすぐな言葉に、リリアーナはカイゼルを見る。
彼は手元の書類を開こうとしていたが、リリアーナの視線に気づき、顔を上げた。
「私を?」
「ああ」
「なぜですか」
尋ねた瞬間、車輪が小さな石を乗り越えた。
馬車が揺れ、カイゼルの手が反射的にリリアーナの肩を支える。
すぐに離れる。触れ続けることはしない。
「砦では、君が選べるものに限りがある」
「皇都なら、増えるのですか」
「ああ。学びたいこと。見たい場所。関わりたい仕事。暮らしたい部屋。会いたい者」
カイゼルは一つずつ挙げる。
「何も選ばず、休むこともできる」
「それも選択なのですね」
「ああ」
リリアーナは、膝の上で手を重ねた。
「私が皇都で何も役に立たなくても、よいのですか」
「構わない」
「本当に?」
「君が生きているだけでよい、と言えば、君は役に立っていないと思うか」
「……少し」
「なら、別の言い方をする」
カイゼルは僅かに考えた。
「君が何をするかを、今すぐ決める必要はない」
「はい」
「役に立つことを探す前に、自分が何を好きか探せ」
「好きなもの」
問われると、すぐには答えられない。
白い花。
刺繍。
静かな庭。
温かい香草茶。
最近になって、好きかもしれないと思えるものは増えた。だが、それらを自分の人生を選ぶ基準にしたことはなかった。
「皇都には、好きなものを探せる場所がありますか」
「ある」
「たとえば?」
「書庫。庭園。市場。劇場。美術館」
「美術館」
「菓子店も多い」
クララが、ぱっと顔を上げる。
「お嬢様、皇都には蜂蜜菓子の有名なお店があるそうです」
「そうなの?」
「はい。ラウル様から聞きました」
「なぜラウルが知っている」
「甘いものがお好きなのでは?」
「本人は、酒に合う菓子を探していると言っていた」
「それは、ただ甘いものが好きなのではないでしょうか」
リリアーナは、また少し笑った。
皇都。
未知の場所。
不安の方が大きかったはずなのに、書庫や庭園、美術館、蜂蜜菓子の店という小さな興味が、一つずつ不安の中へ灯っていく。
「楽しみになってきました」
「そうか」
「少しだけ」
「十分だ」
カイゼルは書類へ視線を戻す。
けれど、口元がほんの僅かに緩んでいるように見えた。
馬車は、皇都へ続く街道を進んでいく。
国境の荒涼とした土地を抜けると、少しずつ緑が増え始めた。
昼前には、小さな村の近くで休憩を取ることになった。
街道沿いの宿場は、皇帝一行の到着を知って慌ただしくなっていたが、カイゼルは建物全体を閉鎖させなかった。最低限の警備だけを置き、一般の旅人も利用できるようにしている。
リリアーナは馬車から降り、ゆっくりと身体を伸ばした。
「めまいは」
オルガが尋ねる。
「ありません」
「疲れは」
「少しあります」
「では、昼食後に横になりましょう」
「はい」
素直に答えると、オルガが頷く。
宿場の庭には、大きな木が一本立っていた。
その下で、幼い姉弟が小さな木の実を拾っている。
姉らしい少女がリリアーナたちの一行に気づき、弟を背へ隠した。
黒衣の騎士たち。
皇帝の紋章。
見慣れない貴族の女性。
怖がるのも無理はない。
リリアーナは近づかなかった。ただ、少し離れた場所で足を止める。
弟の手から、集めていた木の実が一つ落ちた。
ころころと地面を転がり、リリアーナの靴の近くで止まる。
リリアーナは拾い上げた。
丸く、艶のある茶色の実だった。
「落としましたよ」
その場へしゃがみ、手のひらに載せる。
弟は姉の後ろから顔を出した。
すぐには近づかない。
リリアーナも、手を伸ばしすぎなかった。
しばらくして、姉が弟の背を軽く押す。
少年は恐る恐る歩み寄り、木の実を受け取った。
「ありがとう」
「どういたしまして」
リリアーナが微笑む。
少年は木の実を握りしめ、姉のもとへ戻った。
二人は何度も振り返りながら、宿場の裏へ走っていく。
「今の方、皇后様?」
遠ざかる前に、少年の声が聞こえた。
リリアーナの身体が固まる。
姉が慌てて弟の口を塞ぎ、そのまま姿を消した。
クララが目を丸くし、オルガは表情を崩さないよう努めている。
ラウルは、明らかに笑いをこらえていた。
「ラウル」
カイゼルが低く呼ぶ。
「何も言っておりません」
「顔に出ている」
「子どもの素直な疑問だなと」
「黙れ」
「はい」
リリアーナは、頬が熱くなるのを感じた。
「皇后様と、思われたのでしょうか」
「陛下と同じ馬車から降りられましたから」
クララが、小さな声で答える。
「それだけです」
カイゼルが言う。
「はい。分かっています」
リリアーナはすぐに頷いた。
それ以上の意味はない。
子どもが、皇帝のそばにいる貴族女性を見て勘違いしただけ。
そう理解している。
それでも、胸の奥が僅かに騒いだ。
「嫌だったか」
カイゼルが尋ねる。
リリアーナは、すぐには答えなかった。
嫌。
怖い。
嬉しい。
そのどれとも少し違う。
「驚きました」
「ああ」
「まだ、分かりません」
「ああ」
無理に答えを求めない。
そのことに安心する。
「ただ」
リリアーナは、カイゼルを見る。
「陛下のおそばにいることを、嫌だとは思いませんでした」
言ってから、さらに頬が熱くなる。
クララが息を呑み、ラウルは顔を逸らして肩を震わせている。
カイゼルだけが、しばらく何も言わなかった。
「陛下?」
「……そうか」
いつもの短い返事。
けれど、その声は少しだけ低く、柔らかかった。
リリアーナは視線を逸らす。
まだ、皇后という言葉を自分の未来と結びつけることはできない。
王太子妃候補という役から逃れたばかりだ。新しい役を、急いで選ぶつもりもない。
ただ、カイゼルのそばにいること。
同じ場所へ進むこと。
それを嫌ではないと思った。
今は、その気持ちだけで十分だった。
昼食と休憩を終え、一行は再び皇都へ向けて出発した。
午後には雲が晴れ、街道へ柔らかな陽が差している。
リリアーナは馬車の窓から、少しずつ変わる景色を眺めた。
国境砦はもう見えない。
王国も遠い。
進む先には、まだ知らない皇都がある。
不安は消えていない。それでも、その隣にはカイゼルがいる。
自分の未来を決める者としてではなく。
選ぶ時間を守る者として。
リリアーナは窓の外から隣へ視線を移した。
カイゼルは書類を読んでいる。
その手元へ、そっと声をかける。
「陛下」
「何だ」
「皇都に着いたら、最初に庭園を見たいです」
「ああ」
「それから、書庫も」
「ああ」
「蜂蜜菓子のお店も」
「ラウルに案内させる」
「陛下は、ご一緒ではないのですか」
カイゼルが、書類から顔を上げる。
リリアーナは自分の言葉に気づき、少しだけ目を伏せた。
「ご公務がお忙しいと思いますので、無理にとは」
「行く」
「よろしいのですか」
「ああ」
「では、一緒に行ってください」
「ああ」
約束は、あまりにも簡単に交わされた。
王国での約束は、いつも役目や義務と結びついていた。
公式行事。
外交。
王太子妃教育。
国のために必要な予定。
今交わしたのは、庭園と書庫と蜂蜜菓子の店へ行くという、小さな約束だった。
リリアーナは窓の外へ顔を向ける。
口元に浮かんだ笑みを、隠す必要はなかった。
夕方。
遠くの丘の向こうに、皇都の城壁が見え始めた。
高い塔。
黒と白の石で築かれた城壁。
その奥には、夕陽を受けて輝く皇城の尖塔がある。
「見えました」
クララが窓の外を指す。
リリアーナは、身を乗り出しすぎないよう気をつけながら遠くを見つめた。
「あれが、皇都」
「ああ」
カイゼルが答える。
ヴァレンティス皇国の中心。
これから暮らすかもしれない場所。
誰かに決められた未来ではない。
自分が見て、考え、選ぶための場所。
リリアーナは胸元の星飾りへ触れた。
光は穏やかだった。
「行ってみたいです」
もう一度、自分の意思を確かめるように言う。
「ああ」
馬車は、夕陽に照らされた皇都へ向かって進んでいく。
処刑台から始まった逃避は、ここで終わろうとしていた。
これから始まるのは、逃げ続けるための時間ではない。
リリアーナが、自分の未来を選ぶための時間だった。
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