第46話 悪役令嬢ではなかった
王都の中央広場には、朝早くから多くの民が集まっていた。
王宮から重要な発表がある。
前日の夕刻に出された短い予告だけで、噂は王都全体へ広がっていた。
王国神殿の不正に関する新たな発表ではないか。
聖女候補を外されたミリア・ロゼットの処分が決まったのではないか。
あるいは、王太子が廃されるのではないか。
人々はそれぞれの予想を口にしながら、王宮正門前に設けられた壇上を見つめていた。
やがて王宮騎士団が道を開き、宰相エドガーと複数の法務官、記録官を伴って、国王エルネストが壇上へ姿を現した。
広場のざわめきが消える。
国王自らが、民衆の前で文書を読み上げる。
それが異例のことであると、誰もが理解していた。
エルネストは広場を見渡した後、記録官から一通の文書を受け取った。
「グランベルク王国国王、エルネスト・フォン・グランベルクの名において、ここに再調査委員会の最終認定を発表する」
王の声が、広場へ響く。
「リリアーナ・エルフェルトにかけられた、ミリア・ロゼットへの暴行、毒殺未遂、聖堂不敬、反逆行為に関するすべての罪状を撤回する」
民衆の間に、大きな動揺が走った。
「階段からの転落は、ミリア・ロゼット本人の過失による事故であった。リリアーナ・エルフェルトが現場にいた事実はなく、関与は完全に否定された」
広場の一角で、若い男が顔を伏せた。
処刑の日、友人たちと共に悪女だと囁いた男だった。
「毒入り菓子とされた件についても、毒物が使用された証拠はない。菓子は王太子府の厨房で用意されたものであり、リリアーナ・エルフェルトが用意、または毒物を混入した事実は確認されなかった」
子どもを連れた女性が、口元を押さえる。
「聖堂不敬とされた行為について、リリアーナ・エルフェルトは王国神殿の不透明な支出と、劣化した結界石の危険性を正しく指摘していた。彼女の言葉は不敬ではなく、王国と民を守るための正当な進言であった」
女性の隣にいた老人が、ゆっくりと首を横へ振った。
「なら、あの方は最初から……」
「王国を守ろうとしていたのか」
小さな声は、すぐに周囲へ広がっていく。
エルネストは、文書を持つ手へ力を込めた。
「卒業記念舞踏会で行われた婚約破棄と断罪は、正式な法的手続きを踏まず、証拠の確認もないまま下された不当な裁定である。続いて命じられた処刑についても、法務局の審査、国王の裁可、弁護の機会を欠いた違法な命令であった」
国王が、王太子の裁定を違法と認めた。
広場へ、さらに大きなざわめきが起こる。
「王国は、無実であるリリアーナ・エルフェルトを罪人として処刑台へ立たせた。その責任は、虚偽に近い申告を行ったミリア・ロゼット一人へ帰するものではない」
王の声は、重く広場へ落ちた。
「申告を調べずに受け入れた王太子アルヴィス。自らの不正を隠すため、リリアーナ・エルフェルトを排除しようとした王国神殿。正式な手続きを止められなかった王宮と法務機関。そして、王として監督する責任を果たせなかった私にも責任がある」
壇上の下で、宰相エドガーが目を伏せる。
これは王家が体面を守るための発表ではない。
王国そのものが、自らの過ちを認めるためのものだった。
「よって、リリアーナ・エルフェルトを王国の正式な記録において無罪と認定し、悪役令嬢、反逆者、罪人として扱うすべての記述を撤回する」
悪役令嬢ではなかった。
その事実が、ようやく王国自身の言葉で民へ告げられた。
「王国は、リリアーナ・エルフェルト本人へ正式に謝罪する。ただし、この謝罪を理由として帰還、婚約の復元、王国への奉仕、星霜の加護の提供を求めることはない」
広場にいた貴族の一人が、驚いたように顔を上げた。
無罪となったのなら、呼び戻せばよい。
王国のために、もう一度働かせればよい。
そう考えていた者は、決して少なくなかった。
だが、王はそれを明確に否定した。
「リリアーナ・エルフェルトは、すでに王国へ戻らない意思を示している。王国は、その意思を正式に認める」
民衆の間に、落胆とも後悔ともつかない息が漏れた。
「彼女が王国を見捨てたのではない」
エルネストは、広場全体を見渡した。
「王国が先に、彼女を捨てたのだ」
広場から、すべての声が消えた。
処刑台に立つリリアーナを見た者たちは、あの日の姿を思い出していた。
青白い顔。
拘束された手。
それでも曲がらなかった背筋。
証拠を求め、正式な調査を求め続けた声。
冷たいのだと思った。
反省していないのだと思った。
悪女だから泣かないのだと思った。
違った。
泣けば誰かが助けてくれる場所ではなかったから。
最後まで、自分の言葉で立つしかなかったのだ。
「王国は今後、彼女が残した記録と知識を、本人の許可なく利用しない。星霜の加護を王国の所有物と主張せず、いかなる儀式によっても接続、拘束、召喚を行わない」
エルネストは文書を閉じた。
「そして、二度と誰か一人を分かりやすい悪として仕立て、証拠を確かめずに裁くことのないよう、法と神殿制度の改革を進める」
王は、広場の民へ向かって深く頭を下げた。
国王が、民衆の前で頭を下げる。
誰も予想していなかった光景に、広場は静まり返った。
「これは、王国が犯した過ちである。彼女が許すかどうかにかかわらず、王国はその責任を負う」
王が顔を上げても、すぐに歓声は起こらなかった。
拍手もない。
あるのは、重い沈黙だけだった。
それでよかった。
これは祝うための発表ではない。
一人の少女へ、あまりにも遅く返された無実だった。
王太子宮の執務室で、アルヴィスも国王の発表を聞いていた。
窓を僅かに開ければ、遠く広場から届く王の声を聞くことができる。
机の上には、再調査委員会の最終報告書と、リリアーナの無罪認定書の写しが置かれていた。
『証拠の確認もないまま下された不当な裁定』
『法的手続きを欠いた違法な処刑命令』
どちらも、自分が行ったことだった。
「殿下」
ルーカスが静かに声をかける。
「国王陛下の発表が終了しました」
「ああ」
「王宮内へも、正式な通達が出されます」
「ああ」
アルヴィスは、無罪認定書から目を離さなかった。
「リリアーナは、悪役令嬢ではなかった」
「はい」
「最初から」
「はい」
簡単な言葉だった。
だが、それを認めるまでに、どれほど多くのものを失ったのか。
「私は、彼女を悪役にした」
アルヴィスは静かに言った。
「ミリアの物語だけではない。私にとっても、リリアーナが悪ければ都合がよかった。彼女の正しさに向き合わずに済む。自分が王太子として不足していることを認めずに済む。ミリアを守る英雄でいられる」
自分の口から語るたびに、醜さが形を持つ。
それでも、もう目を逸らさなかった。
「父上へ、王太子位の返上を申し出る」
「殿下」
ルーカスが顔を上げる。
「私は、人を裁く権限を持つべきではない」
「最終的な処分は、国王陛下と貴族院が判断されます」
「分かっている。返上を申し出たからといって、責任を果たしたことにはならないことも」
アルヴィスは、机の上の書類へ手を置いた。
「王太子を辞めて楽になりたいだけだと思われても仕方がない。だから最終判断が出るまで、再調査と制度改革に必要な証言を続ける」
「はい」
「私の名誉を守るために、記録を減らすことも求めない」
「承知いたしました」
ルーカスは深く頭を下げた。
アルヴィスは、窓の外へ視線を向ける。
「リリアーナへ、この無罪認定書が届くのだな」
「皇国を通じて、正式な原本が届けられます」
「そうか」
彼女が何を思うかは分からない。
喜ぶのか。
怒るのか。
遅いと笑うのか。
何の感情も持たないのか。
それを尋ねる権利は、自分にはなかった。
「返事を求めるなと、使者へ伝えてくれ」
「王国からの正式文書ですので、返書は必要ありません」
「形式上だけではない。誰も、彼女の反応を急かすな」
「はい」
それだけが、今のアルヴィスにできる僅かな配慮だった。
神殿の保護室にも、リリアーナの無罪認定は伝えられた。
ミリアは、女性法務官から文書を読み上げられる間、膝の上で布袋を握っていた。
階段からの転落。
毒入り菓子。
聖堂不敬。
すべての罪状から、リリアーナの名が外される。
「リリアーナ・エルフェルト嬢は、王国の正式な記録において無罪と認定されました」
「……はい」
ミリアは、小さく答えた。
「あなたの証言については、故意に重大な誤認を広め、訂正可能な段階で訂正しなかった行為として、今後の審理対象になります」
「はい」
「神殿に利用された事実についても、処分の判断に含まれます」
「はい」
以前なら、自分も被害者だと訴えただろう。
今も心の中には、その言葉がある。
神殿が自分を聖女に仕立てた。
アルヴィスが何でも信じた。
侍女たちが話を広げた。
自分だけが悪いのではない。
それは事実だった。
だが、自分が悪くないという意味ではない。
「リリアーナ様は、悪役令嬢ではなかったのですね」
ミリアは呟いた。
「最初から」
法務官は答えなかった。
答える必要のない問いだった。
「私が、そういう人にしたかっただけ」
「その点については、ご自身の証言に記録されています」
「はい」
ミリアは、布袋の歪んだ花を見つめた。
「私への処分は、いつ決まりますか」
「神殿関係者と王太子殿下への調査結果を含め、貴族院と法務局が審理します。すぐには決まりません」
「待つのですね」
「はい」
「怖いです」
「そうでしょう」
「でも、待ちます」
逃げることはできない。
可哀想な自分へ戻りたくなる日もあるだろう。
許されたいと願う気持ちも消えない。
それでも、リリアーナが悪役ではなかったと王国が認めた以上、自分も彼女を悪役にした事実を認め続けなければならない。
国境砦へ無罪認定書が届いたのは、王国での発表から二日後だった。
黒狼の封蝋を押した皇国側の保護箱へ、王国の金色の封蝋が施された文書が収められている。
リリアーナは、自室の長椅子へ座っていた。
隣にはクララ。
少し離れた場所にオルガ。
カイゼルは、いつものようにリリアーナが呼べば届く距離にいる。
「開けますか」
オルガが尋ねる。
「はい」
リリアーナは答えた。
「今日は読めると思います」
「途中で止めても構いません」
「はい」
保護箱が開かれる。
中には、国王の署名が入った無罪認定書。
王国の正式な謝罪文。
再調査委員会の最終認定の要約。
そして、父ギルベルトからの短い手紙が収められていた。
リリアーナは、まず無罪認定書を手に取った。
『リリアーナ・エルフェルトに対する全罪状を撤回する』
『断罪および処刑命令は不当かつ違法なものであったと認定する』
『リリアーナ・エルフェルトは、いずれの罪についても無罪である』
一文字ずつ、目で追う。
ずっと求めていた言葉だった。
処刑台の上で。
拘束された地下牢で。
皇国へ運ばれる馬車の中で。
自分は何もしていない。
調べてほしい。
証拠を見てほしい。
何度も願った。
その言葉が、今になって届いた。
「……遅いです」
リリアーナは呟いた。
クララが、悲しそうに目を伏せる。
「本当に、遅いです」
処刑台へ立つ前に欲しかった。
婚約を破棄される前に。
罪人として罵られる前に。
父に罪を認めろと言われる前に。
もっと早く、この一枚があれば。
「嬉しいですか」
カイゼルが尋ねた。
無理に喜ばせない問いだった。
リリアーナは、少し考えた。
「分かりません」
正直に答える。
「ほっとしています。でも、嬉しいだけではありません」
「ああ」
「怒っています。悲しいです。どうして最初に調べてくれなかったのかと思います」
「ああ」
「でも、私が無実だったことが、正式な記録へ残るのは……よかったです」
無罪認定書を胸へ抱くことはしなかった。
崇めるように扱うつもりもない。
ただ、丁寧に膝の上へ置いた。
「これで、私は無実になったのでしょうか」
リリアーナの問いに、カイゼルは静かに首を横へ振った。
「君は最初から無実だ」
「……はい」
「王国が、ようやく事実を認めただけだ」
「そうですね」
リリアーナは、小さく息を吐いた。
この文書が、自分を無実にしたのではない。
王国が間違えていたことを、ようやく認めただけ。
自分の真実は、最初から変わっていなかった。
リリアーナは次に、父からの手紙を開いた。
『リリアーナへ』
『王国が、あなたの無実を正式に認定した』
『本来なら、このような文書を必要とする前に、父である私があなたを信じ、守らなければならなかった』
『遅すぎることは分かっている。それでも、あなたの名から罪人という記録が消えたことを、父として安堵している』
『この認定を理由に、帰ってほしいとは言わない』
『あなたが皇国で選ぶ未来を、妨げない』
『返事は不要だ』
短い手紙だった。
戻ってこいとは書かれていない。
公爵家のためとも。
王国のためとも。
会いたいとさえ書かれていない。
娘の返事を求めないために、父は自分の望みを抑えたのだろう。
「父上も、少し変わったのですね」
「ああ」
「でも、まだ会う準備はできていません」
「会う必要はない」
「いつか会いたいと思うかもしれません」
「ああ」
「思わないかもしれません」
「ああ」
「今は、決めなくていいのですね」
「ああ」
同じ答えが返ってくる。
リリアーナは、安心したように目を伏せた。
「王国へ、受領したことだけ伝えたいです」
「返事は不要と書かれている」
「はい。でも、私が伝えたいのです」
誰かに求められたからではない。
自分が、そうしたいから。
「無罪認定書と謝罪文を受け取ったこと。正式な記録を訂正したことは認める、と」
「ああ」
「でも、王国へ戻らないことも」
「ああ」
リリアーナは机へ向かった。
クララが便箋と羽根ペンを用意する。
長い返事は必要ない。
王国への慰めも、未来の協力を約束する言葉も。
自分が選んだ事実だけを書けばいい。
『グランベルク王国国王陛下へ』
『無罪認定書ならびに正式謝罪文を受領いたしました』
『私にかけられた罪状が撤回され、断罪および処刑命令が不当であったと正式に記録されたことを確認いたしました』
『王国が事実を認めたことは受け止めます』
『ただし、これによって私が受けた傷が消えるわけではなく、王国へ帰還する意思もございません』
『私は、ヴァレンティス皇国において、自分自身の未来を選びます』
最後に、自分の名前を書く。
『リリアーナ・エルフェルト』
公爵令嬢として。
王太子妃候補として。
星霜の乙女としてではない。
ただ、自分の名前を。
「これでよいでしょうか」
リリアーナが文書を差し出す。
カイゼルは目を通し、静かに頷いた。
「君の言葉だ」
「はい」
無罪を認められたから、王国へ戻るのではない。
謝罪されたから、許すのでもない。
リリアーナは、自分の未来を皇国で選ぶ。
その意思を、初めて王国へ正式に返した。
文書を封じた後、カイゼルが口を開く。
「リリアーナ」
「はい」
「すぐにではないが、君の体調が戻り、ここを離れる準備ができたら、皇都へ移るつもりだ」
「皇都へ」
「ああ。砦は長く暮らす場所ではない。神殿からの危険も、ほぼ排除された」
リリアーナは、少しだけ緊張した。
国境砦は、彼女が救われた場所だった。
白百合の部屋。
小さな庭。
三人の名を刻んだ白い石。
クララやオルガ。
カイゼルと少しずつ言葉を交わした時間。
ここを離れることは、新しい一歩を意味する。
「皇都へ行けば、私はどのような立場になりますか」
「君が望む立場だ」
「客人でしょうか」
「それでもいい」
「皇国の保護対象として?」
「望むなら」
「もし、それ以外を望んでも?」
リリアーナは、少しだけ勇気を出して尋ねた。
カイゼルの金色の瞳が、まっすぐに彼女を見る。
「君のための席を用意する」
「私のための」
「ああ。王国が決めた席ではない。私が勝手に決める席でもない」
カイゼルは静かに続けた。
「君が座りたいと思う場所を、君自身で選べばいい」
リリアーナの胸が、温かくなる。
皇都という未知の場所への不安はある。
それでも、カイゼルと同じ場所へ進んでみたいという気持ちが、ほんの少しだけ不安を上回っていた。
「皇都へ行きたいです」
答えは、思っていたより自然に出た。
「誰かに連れていかれるのではなく。私が、行ってみたいです」
「ああ」
「でも、この庭へはまた戻れますか」
「いつでも」
「三人の石も」
「守らせる」
「白い花も」
「庭師に任せる」
「刺繍の星も」
「それもだ」
リリアーナは、安心したように笑った。
「では、皇都へ行きます」
「ああ」
新しい場所へ向かう。
王太子妃になるためではない。
王国へ奉仕するためでもない。
逃げるためだけでもない。
ただ、リリアーナが自分で行きたいと選んだから。
その日の夕方、王国へ向かう使者が国境砦を出発した。
携えているのは、リリアーナからの短い返書。
『私は、ヴァレンティス皇国において、自分自身の未来を選びます』
王国が彼女の無実を認めた日。
同時に王国は、彼女がもう戻らないことを、正式な言葉として受け取ることになった。
悪役令嬢ではなかった少女は、王国に名誉を返してもらうためではない。
自分で選んだ未来へ向かうために、歩き始めていた。
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