第45話 三つの星を還す日
星霜の残滓を解放するための模擬術式は、国境砦の一室に組まれていた。
床へ描かれたのは、王国神殿で使われていた星形の術式ではない。中央に立つ者へ力を集める形でも、土地と人を鎖で繋ぐ形でもなかった。
円の内側から外側へ。
閉じ込められた光が、どの方向へも自由に進めるよう、複数の出口が作られている。
北へ続く線。
西へ続く線。
天井へ向かって開く線。
どの道を選ぶかは、解放された光へ委ねる。
「この術式は、リリアーナ様から力を引き出すためのものではありません」
皇国魔術師が説明する。
「王国に残る術式との接続を一時的に映し、リリアーナ様の星霜の加護がそれを拒絶できるか確認するためのものです」
「私が拒めば、扉が開くのですね」
「はい。ただし、三人の残滓をこちらへ呼ぶことはいたしません。あくまで模擬的な繋がりです」
室内には、カイゼル、クララ、オルガ、ラウル、数名の皇国魔術師が揃っていた。
リリアーナは術式の外側に立ち、描かれた線を見つめる。中央へ立つよう求められていないことに、少しだけ安堵した。
過去の祭壇なら、加護持ちは必ず中央へ置かれただろう。すべての光と負担を、その身へ集めるために。
だが、今回の中心は空いている。
誰も、そこへ縛られないための空白だった。
「最後に、もう一度確認する」
カイゼルがリリアーナを見る。
「嫌ならやめていい」
「はい」
「始めた後でも止められる」
「はい」
「王国側の準備が無駄になろうと、残滓の解放が遅れようと関係ない」
「……はい」
リリアーナは、少しだけ笑った。
「何度も確認してくださるのですね」
「必要だからだ」
「分かっています」
胸元の星飾りへ触れる。
怖くないわけではない。神殿から鎖を伸ばされた時の感覚は、まだ身体に残っている。
戻れ。
王国へ。
祭壇へ。
役目へ。
あの声を思い出すだけで、胸の奥が冷たくなる。
けれど、今ここにある術式は違う。
誰かがリリアーナを使うためのものではない。彼女が選び、彼女が止められる。
「始めたいです」
リリアーナは言った。
「私が、そうしたいから」
「ああ」
カイゼルが頷く。
皇国魔術師たちが、それぞれの位置へ立った。
「模擬術式を起動します」
床の円が、淡い青色に光る。
北、西、天井へ続く三本の線が順に輝き、中央の空白を囲んだ。
最後に、リリアーナの前へ細い白い線が伸びる。
星飾りが、僅かに温かくなった。
「接続を確認」
魔術師の声が響く。
「王国側の残留術式を模した、弱い干渉を流します。異常を感じた場合は、すぐにおっしゃってください」
「はい」
白い線の先から、細い糸のような魔力が伸びてきた。
触れた瞬間、リリアーナの胸に小さな痛みが走る。
王国の民が苦しんでいる。
父が助けを求めている。
聖堂が崩れている。
そんな光景が、ほんの一瞬だけ意識へ浮かんだ。
「……っ」
「止めるか」
カイゼルの声が即座に届く。
リリアーナは目を閉じた。
これは本当の光景ではない。模擬術式が作った、ごく弱い幻影。
それでも胸は痛む。
助けなければ。
自分が何とかしなければ。
古い考えが、反射のように浮かんでくる。
「リリアーナ」
カイゼルが呼ぶ。
「君は、どこにいる」
「……皇国の、国境砦です」
「誰の意思で」
「私の意思で」
「何をしに来た」
「誰かを背負うためではありません」
リリアーナは、ゆっくりと目を開けた。
「扉を開く手伝いをするためです」
「ああ」
幻影はまだ見える。
民が泣いている。
父が手を伸ばす。
王国が自分を必要としている。
けれど、リリアーナは白い糸を握らなかった。
「私は、あなたたちを助けるために自分を差し出しません」
模擬術式へ向けて、はっきりと言う。
「王国を心配する気持ちは、私のものです。その気持ちを、私を縛る理由にはさせません」
星飾りが光った。
リリアーナへ伸びていた白い糸が、細かく震える。
「接続が弱まっています」
魔術師が声を上げた。
「拒絶を維持してください。ただし、力を押し返そうとはしないでください」
「はい」
押し返さない。
壊そうとしない。
ただ、自分の中へ入れない。
「私は、受け取りません」
リリアーナは言った。
「私のものではない痛みも、役目も、光も」
白い糸に、亀裂が入った。
「ですが、閉じ込めもしません」
三本の出口が強く輝く。
「どこへ行くかは、あなたたちが選んでください」
ぱきり、と澄んだ音が響いた。
白い糸が切れる。
その破片はリリアーナへ流れ込まず、床へも落ちなかった。小さな光の粒となって、北、西、天井へ続く三本の線へ散っていく。
「接続、完全に切断されました」
皇国魔術師が測定具を確認する。
「星霜の加護への逆流もありません」
「リリアーナ様の身体へ、異質な魔力の混入なし」
「脈拍は」
オルガがすぐにリリアーナの手首を取る。
「少し速いですが、危険な状態ではございません。めまいは」
「少しだけ」
「では、座りましょう」
「はい」
リリアーナは、用意されていた椅子へ素直に腰を下ろした。
まだ立てる。
もう少し何かできる。
そう言いたくなる気持ちはあった。
けれど、今は休む。
それも今回の術式の一部なのだと思えた。
クララが温かい茶を差し出す。
「お嬢様、ゆっくりです」
「ええ。ありがとう」
両手でカップを持つ。指先は少し冷えていたが、震えはすぐに収まった。
カイゼルが、リリアーナの前へ身を屈める。
「続けられるかどうかではない」
「はい」
「本番へ参加したいか」
「……参加したいです」
リリアーナは答えた。
「でも、今日すぐでなくて構いません」
「ああ」
「王国側の準備と、私の体調が整ってからにします」
「それでいい」
カイゼルの目元が、僅かに和らぐ。
「模擬術式は成功です」
皇国魔術師が報告する。
「リリアーナ様が残滓を取り込まず、接続だけを拒絶できることが確認されました。本番でも、同様の手順を使えます」
「負担は」
「今の反応を見る限り、大きくはならないと考えられます。ただし、三名分の残滓が同時に動くため、時間を短くします」
「途中で止められるか」
「はい。リリアーナ様側の術式を閉じれば、残滓は保全箱へ戻ります」
その言葉を聞き、リリアーナは安心した。
一度始めたら、最後まで続けなければならないのではない。途中で止めてもいい。失敗しても、やり直せる。
「では、本番の日を決めましょう」
リリアーナが言う。
カイゼルは、すぐには頷かなかった。
「今日は休め」
「はい」
「明日、体調を確認する」
「はい」
「問題がなければ、王国側と調整する」
「分かりました」
以前なら、もどかしく感じただろう。
今は、その慎重さがありがたかった。
星を還す日は、三日後に決まった。
王国側では、大聖堂の地下祭具室ではなく、王宮魔術師団の管理する中庭が選ばれた。
神殿の祭壇を使わないため。
三人を、再び神殿の儀式へ戻さないため。
中庭の中央には共同保全箱が置かれ、その周囲へ三つの出口が作られた。
一つは空へ。
一つは北方へ。
一つは西の海へ。
ただし、どの光がどの道を選ぶかは決めない。
セレナの故郷は、まだ確認できていない。マリアナが北方の山村へ帰りたいと思っていたとしても、残された光が同じ場所を選ぶとは限らない。
ルシアも海へ帰りたいと願っていた。
だが、その願いを理由に、王国側が進む道を指定してはならない。
選ぶのは、解放された光だった。
当日の朝。
国境砦の庭で、リリアーナは三つの白い石の前に立っていた。
『セレナ』
『マリアナ』
『ルシア』
それぞれの名の前に、小さな灯りが置かれている。
クララが、リリアーナの肩へ薄い外套を掛けた。
「今日は少し冷えます」
「ありがとう」
「お食事も、半分以上召し上がりました」
「確認されていたのね」
「もちろんです」
リリアーナは小さく笑った。
緊張はしている。
けれど、処刑台へ向かう朝とは違う。
誰かに決められた場所へ運ばれるのではない。
自分で選んだ場所へ、自分の足で向かう。
カイゼルが庭へ入ってくる。
黒い軍装をまとっているが、剣は帯びていなかった。今日は戦うための日ではないからだ。
「体調は」
「問題ありません」
「無理は」
「しません」
「本当に?」
「本当です」
リリアーナは、少しだけ胸を張った。
「模擬術式の後も、きちんと休みました」
「ああ。聞いている」
「食事も取りました」
「それも聞いている」
「途中でつらくなれば止めます」
「ああ」
確認を終え、カイゼルは三つの白い石へ視線を向けた。
「準備はできたか」
「はい」
リリアーナは、三人の名を順に見つめる。
「ただ、少しだけ話してから行きたいです」
「話す?」
「はい」
石の前へ膝をつく。
「セレナ様。マリアナ様。ルシア様」
三つの灯りが静かに揺れた。
「私は、皆様の人生を知り尽くしているわけではありません。残された記録を読んだだけです」
セレナがどんなものを好きだったのか。
マリアナが母と妹以外に、誰を大切にしていたのか。
ルシアがどんな歌を歌ったのか。
分からないことの方が多い。
「皆様の痛みを、私がすべて分かるとは言いません」
分かったつもりにならない。
同じ加護を持つからと、一つの物語にまとめない。
「私は、皆様の光を受け継ぎません。皆様の代わりにもなりません」
胸元の星飾りへ触れる。
「ただ、閉じ込められた場所から出るための扉を、少しだけ開きます」
風が吹き、三つの灯りが揺れた。
「どこへ行くかは、皆様が決めてください」
リリアーナは立ち上がる。
「私も、自分の未来を自分で選びます」
国境砦の術式室では、王国との遠隔接続が準備されていた。
ただし、繋がっているのはリリアーナと王国ではない。両国の魔術師が作った術式同士だけだった。
リリアーナは円の外側へ立つ。
カイゼルはすぐ隣。
クララとオルガも、手を伸ばせば届く距離にいる。
王国側では、国王エルネスト、宰相エドガー、ギルベルト、法務官、王宮魔術師団、皇国魔術師団が中庭を囲んでいた。
アルヴィスとミリアは、その場にいない。
これは彼らの後悔や贖罪を示す儀式ではない。
三人の光を解放するためのものだった。
老魔術師が、共同保全箱の前に立つ。
「始めます」
二つの鍵が同時に差し込まれる。
王国の鍵。
皇国の鍵。
片方だけでは開かない箱の封印が、ゆっくりと解けていく。
蓋が開いた。
三本の小瓶が、静かに浮かび上がる。
白。
淡い銀。
薄い金色。
それぞれの光が、細い糸となって外へ伸びた。
同時に、国境砦の術式室で三本の黒い線が浮かび上がる。
神殿の術式が、最後まで残していた繋がり。
リリアーナの胸元で、星飾りが熱を持った。
「嫌……」
思わず声が漏れる。
黒い線の向こうから、古い祈りの声が聞こえた。
王国のために。
民のために。
星として。
聖女として。
役目を果たせ。
それは神官長一人の声ではない。
二百年以上にわたり、加護持ちを縛ってきた言葉の残響だった。
「リリアーナ」
カイゼルが名を呼ぶ。
役ではなく。
星でもなく。
彼女自身の名を。
「私は、リリアーナです」
リリアーナは答えた。
黒い線が揺れる。
「セレナ様は、セレナ様です」
一本目の線に亀裂が入る。
「マリアナ様は、マリアナ様です」
二本目が細くなる。
「ルシア様は、ルシア様です」
三本目の黒い線が震える。
「誰も、王国のためだけに存在する星ではありません」
星飾りの光が広がった。
「誰かに選ばれるための聖女でもありません」
三本の出口が開く。
「皆様の光は、皆様のものです」
黒い線が、同時に切れた。
王国の中庭で、三本の小瓶が砕けた。
硝子の破片は地面へ落ちず、細かな光となって宙へ溶けていく。
三つの残滓が、初めて器の外へ出た。
白い光。
淡い銀の光。
薄い金色の光。
三つは混ざらなかった。
一つの大きな聖女の光にもならない。
それぞれが、別々の方向へ揺れた。
薄い金色の光は、しばらく中庭の上を漂った。
どの出口へも向かわない。
まるで、行き先を探しているようだった。
やがて、ゆっくりと空へ昇っていく。
雲の切れ間から差した陽光の中へ溶け、星のように一度だけ瞬いた。
「セレナ……」
ギルベルトが、小さく名を呼ぶ。
それがセレナの光だという確証はない。
だが、誰も決めつけなかった。
ただ、その光が選んだ道を見送った。
淡い銀の光は、北へ続く術式の上を滑る。
王宮の壁を越え。
王都の空を越え。
遠く、北方の山々へ向かっていく。
その頃。
マリアナの故郷だった可能性が高い山村では、長く枯れていた小さな泉から、一筋の水が湧き出した。
村人たちは理由を知らない。
ただ、山から吹く風の中に、誰かが母を呼ぶような優しい響きを聞いた。
白い光は、西へ続く術式を選んだ。
王都から遠く離れた海へ。
崖の上の廃修道院では、白貝の祈り箱が淡く光った。
アデラの手紙が、風もないのに一枚だけめくれる。
海へ向かう細い窓から、白い光が飛び出した。
波の上へ落ちる。
けれど、沈まない。
白い光は海面を滑り、水平線へ向かって進んだ。
崖へ打ち寄せた波が、一度だけ大きく砕ける。
白い貝殻が、浜へ打ち上げられた。
内側には、誰が刻んだものでもない淡い光で、一つの名が浮かんでいた。
『ルシア』
国境砦の術式室で、リリアーナはそのすべてを映像として見たわけではなかった。
ただ、三つの気配が遠ざかっていくのを感じた。
一つは空へ。
一つは遠い山へ。
一つは海へ。
どれも、リリアーナの中には入ってこない。
別れを告げるように、星飾りの周囲を一度だけ巡り、そのまま自由な方向へ消えていった。
「終わりました」
皇国魔術師の声が響く。
「全残滓、解放を確認。王国祭壇および結界との接続、完全に消失しました」
「リリアーナ様への逆流なし」
「星飾りに異常なし」
リリアーナは、ゆっくりと息を吐いた。
身体から力が抜ける。
倒れる前に、カイゼルの腕が支えた。
「リリアーナ」
「大丈夫……では、ありません」
自分で言い直す。
「少し、疲れました」
「ああ」
「座りたいです」
「ああ」
カイゼルはリリアーナを椅子へ座らせる。
クララがすぐに毛布を掛け、オルガが脈を確認した。
「お嬢様、よく言えました」
「何が?」
「大丈夫ではない、と」
「……そうね」
リリアーナは、疲れた顔で小さく笑った。
終わった。
自分が三人を救ったとは思わない。
救えなかった過去は、変えられない。
ただ、最後に残っていた扉を開いた。
それだけだった。
「陛下」
「何だ」
「三人は、行けたでしょうか」
「ああ」
「自分で選んだ場所へ」
「ああ」
カイゼルは迷わず答えた。
「君は、道を決めなかった」
「はい」
「取り込まなかった」
「はい」
「背負わなかった」
「はい」
リリアーナは、胸元の星飾りへ触れた。
光は穏やかだった。
以前より強くなったわけではない。
三人の力を受け継いでもいない。
ただ、少しだけ澄んでいる。
「私は、私の光のままです」
「ああ」
カイゼルの声が柔らかくなる。
「それでいい」
王国側では、残滓が消えた後、神殿の古い術式に変化が起きていた。
大聖堂地下の拘束椅子。
黒く変色した金の鎖。
星を呼び戻す祭壇具。
それらに残っていた魔力が、同時に途切れた。
鎖は細かな灰となって崩れ落ちる。
石の椅子に残っていた黒い染みも、ゆっくりと薄れていった。
壁に浮かんでいた言葉。
『忘れないで』
その文字が、最後に一度だけ白く輝く。
そして、その下へ新しい三つの名が現れた。
『セレナ』
『マリアナ』
『ルシア』
名前はしばらく光り続けた後、石壁そのものへ刻み込まれた。
もう、誰かが紙を燃やしても消えない。
表紙を削っても。
記録を隠しても。
三人の名は、王国が犯した罪の証として残る。
国王エルネストは、その報告を受けると静かに命じた。
「石室を封じるな」
「陛下」
「証拠として保全する。神殿の恥だからと、再び隠すことは許さぬ」
「一般へも公開なさいますか」
「調査記録が整い次第、段階的に公開する。ただし、見世物にはするな」
王は、三人の名が記された報告書を見つめる。
「王国の過ちを知る場所とせよ。彼女たちを、新たな聖女として祀る場所ではない」
「承知いたしました」
宰相エドガーが頭を下げた。
ギルベルトは、窓の外へ目を向ける。
空には、三つの光はもう見えない。
それでも、どこかへ還ったのだと思った。
「リリアーナは」
ギルベルトが尋ねる。
「無事だと、皇国から報告がありました。疲労はあるものの、異質な魔力の混入はなし。現在は休んでいるとのことです」
「そうですか」
安堵の息が漏れる。
娘は、三人を背負わなかった。
そのことが嬉しかった。
かつてのリリアーナなら、三人の無念も、王国の未来も、すべて自分の責任だと思ったかもしれない。
今の娘は、手伝うことと背負うことを分けられた。
「宰相閣下」
「何だ」
「冤罪認定の文書は」
「最終確認が終わった」
「では」
「ああ。今夜、陛下が署名される」
ギルベルトは目を閉じた。
ようやく。
本当にようやく。
娘を縛っていた、悪役令嬢という最後の鎖が外されようとしている。
国境砦の客室で、リリアーナは寝台へ横になっていた。
窓の外は夕暮れ。
庭に並ぶ三つの白い石が、遠くに見える。
セレナ。
マリアナ。
ルシア。
その前の灯りは、今日は消していない。
三人がいなくなったから消すのではなく、名前を覚えているために静かにともされている。
カイゼルは、寝台のそばの椅子に座っていた。
「陛下」
「何だ」
「お仕事は」
「ラウルに任せた」
「また嫌そうなお顔をされていませんでしたか」
「していた」
「あとで、お礼を言わなければ」
「ああ」
短いやり取りの後、静けさが戻る。
リリアーナは、少しだけ迷ってから手を動かした。
毛布の上に置かれたカイゼルの手へ、そっと指先を重ねる。
カイゼルの身体が、僅かに止まった。
「リリアーナ?」
「今日は、少しだけ」
頬が熱くなる。
それでも、手を引かなかった。
「こうしていても、よろしいでしょうか」
「ああ」
カイゼルは、リリアーナの手を強く握り込まなかった。
逃げ道を塞がないように。
ただ、彼女が置いた指先を、そのまま受け止める。
「三人を見送ったら、少し寂しくなりました」
「ああ」
「でも、背負わなくてよかったと思います」
「ああ」
「私がそう言えるようになったのは、陛下たちが何度も止めてくださったからです」
「君が選んだ」
「それでも、そばにいてくださったから」
カイゼルは答えなかった。
だが、重ねた手は離れない。
リリアーナは目を閉じる。
「もう少しだけ、いてください」
「ああ」
いつもの短い答え。
けれど今は、その一言がひどく温かい。
「いる」
三つの星を見送った夜。
リリアーナは、誰かの光を受け継ぐのではなく。
誰かの役目を背負うのでもなく。
ただ、自分の手で選んだ相手の温もりに触れながら、静かに眠りへ落ちていった。
同じ夜。
グランベルク王国の執務室で、国王エルネストは一通の文書へ署名した。
『リリアーナ・エルフェルトに対する全罪状を撤回し、その断罪および処刑命令が不当なものであったことを、王国の名において正式に認定する』
悪役令嬢と呼ばれた少女の無実が。
ようやく、王国の正式な記録へ刻まれた。
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