第44話 海へ帰りたかった星
王国西岸に残る廃修道院は、切り立った崖の上に建っていた。
かつては海を渡る船乗りたちの無事を祈り、嵐で命を落とした者を弔う場所だったという。だが、二百年以上前に閉鎖されてからは訪れる者も少なく、白かった外壁は潮風に削られ、屋根の半分は崩れ落ちていた。
眼下には、鈍い灰色の海が広がっている。
崖へ打ち寄せる波の音が、廃墟となった礼拝堂の中まで響いていた。
王宮警備隊と法務官、王国と皇国の魔術師たちは、地下室の中央で見つかった古い箱を囲んでいた。
箱は、大人が両腕で抱えるほどの大きさだった。
木地はほとんど見えない。大小さまざまな白い貝殻が表面を覆い、その隙間を古い銀糸が縫うように走っている。
蓋には、消えかけた文字が刻まれていた。
『海へ帰りたい、あの子のために』
誰が刻んだのか。
いつ刻んだのか。
そして、あの子とは誰なのか。
まだ何も確認できていない。
「封印術式があります」
皇国魔術師が箱へ杖をかざした。
「攻撃的なものではありません。箱の中身を劣化から守る保存術式と、特定の魔力以外には開かない拒絶術式です」
「星霜の加護に反応するのですか」
王国側の魔術師が尋ねる。
「近いですが、少し違います。星霜の加護そのものではなく、海と星の両方に縁を持つ魔力を鍵にしているようです」
「この場所で保管した者が、開けられたということですか」
「おそらくは」
法務官は、地下室の壁を見回した。
小さな祈りの場だったらしい。
壁には波と星を組み合わせた古い紋様が残り、奥には海へ向けて開く細い通気口がある。潮の匂いは、そこから地下へ流れ込んでいた。
「修道院の記録は残っていますか」
「地上の書庫から数冊見つかりましたが、閉鎖前後のものはほとんど失われています」
記録官が答えた。
「ただし、この修道院に所属していた修道女の名簿が一部残っております。最後の院長は、アデラという女性です」
「箱を封じた者かもしれませんね」
皇国魔術師は、白い貝殻へ触れないよう杖を滑らせる。
淡い青い光が箱を包んだ。
一瞬、貝殻の隙間を走る銀糸が白く瞬いた。
だが、蓋は開かない。
「無理に解除すれば、中の記録が傷む可能性があります」
「では、国境砦のリリアーナ様へ協力を求めるのですか」
警備隊長の問いに、皇国魔術師はすぐに首を横へ振った。
「現段階では求めません」
「しかし、最後の加護持ちの名前が入っているかもしれない」
「可能性があるというだけです」
皇国魔術師の声は、少しだけ厳しくなった。
「箱を開くために、リリアーナ様へ力を使わせる。それが本人にしかできないから当然だと考えるなら、我々は神殿と同じ過ちを繰り返します」
「……失礼しました」
警備隊長は深く頭を下げた。
「まず、我々で鍵となる魔力を探します。この修道院に残る祭具、貝殻、海水、記録。箱を封じた者が残したものの中に、開く方法があるはずです」
調査は、その日の夕方まで続いた。
礼拝堂の崩れた床。
修道女たちが使っていた小部屋。
潮風に傷んだ書庫。
海へ続く細い石段。
一つずつ確認し、記録し、運び出していく。
やがて、崖の中腹にある小さな洞窟で、古い祭壇が見つかった。
祭壇と呼ぶには簡素なものだった。
平らな石の上に、白い貝殻と錆びた銀の燭台が置かれている。その奥には、海へ向けて作られた小さな窓があった。
窓枠の下へ、文字が刻まれている。
『波が名を消しても、海はあの子を覚えている』
法務官は、長くその一文を見つめた。
「神殿は名を消した。だから、ここで残そうとしたのか」
「その可能性があります」
記録官が祭壇の脇を調べる。
石と石の隙間に、細い革紐が挟まっていた。
慎重に引き出す。
革紐の先には、小さな白い貝殻が結ばれていた。
貝殻の内側へ、微かな文字が刻まれている。
「名前です」
記録官の声が震えた。
潮風と年月によって、半分ほど削られている。
それでも、読めた。
『ルシア』
誰も、すぐには口を開かなかった。
最後の一人。
白い残滓を宿していた女性の名かもしれない。
だが、まだ断定はできない。
「この貝殻だけでは、星霜の加護持ち本人の名とは確認できません」
法務官が言った。
「箱との反応を見ましょう」
「はい」
白い貝殻を地下室へ運ぶ。
皇国魔術師は、記録官、法務官、王宮魔術師の立ち会いを確認してから、貝殻を箱の近くへ置いた。
触れさせる前に、銀糸が光った。
白い貝殻の内側に刻まれた名も、淡く輝き始める。
『ルシア』
箱全体を覆う貝殻が、波のように順番に白く瞬いた。
かちり、と小さな音が響く。
蓋の封印が解けた。
「反応を記録してください」
「はい」
全員が見守る中、皇国魔術師がゆっくりと蓋を持ち上げた。
中に入っていたのは、豪華な祭具ではなかった。
古い青色の布。
白い貝殻で作られた髪飾り。
何通もの手紙。
そして、一冊の薄い日記だった。
手紙の多くは封をされていない。
宛名だけが書かれている。
『ルシアへ』
筆跡はすべて同じだった。
修道院最後の院長、アデラが書いたものだと、後に名簿の記録と照合された。
法務官は、最初の手紙を開いた。
『ルシア。あなたが王都へ連れていかれてから、もう半年が過ぎました』
『神殿からは、あなたが尊い役目を与えられ、王国のために祈っているとだけ知らされています』
『けれど、私は信じられません』
『あなたは海を離れたくないと泣いていました。王国の星になどなりたくない。ただ、この修道院で傷ついた船乗りを癒やし、海辺の子どもたちへ文字を教えたいと話していました』
地下室に、波の音が響く。
誰も動かなかった。
法務官は、続きを読んだ。
『神殿の者たちは、あなたを星霜の乙女と呼びました』
『けれど、私たちにとってあなたはルシアです』
『嵐の夜に一人で浜へ走り、遭難者へ灯りを掲げた娘です』
『貝を拾うのが好きで、歌が下手で、魚料理の骨を取るのが苦手な、ただのルシアです』
記録官の目から、涙が一粒落ちた。
紙を濡らさないよう、慌てて顔を背ける。
次の手紙。
『神殿へ面会を求めましたが、断られました』
『星霜の乙女は俗世の縁を断たねばならないと言われました』
『あなたが海へ帰りたいと訴えているという噂を聞きました』
『それを反抗と呼ぶ者がいるそうです』
『帰りたいという願いが、なぜ罪になるのでしょう』
さらに次の手紙。
『王都から戻った下働きの少年が、あなたを見たと教えてくれました』
『白い服を着せられ、両手を鎖で繋がれ、歩くこともできないほど痩せていたと』
『私は王都へ向かいます』
『会わせてもらえなくても、あなたが一人ではないと伝えたい』
だが、その手紙には別の筆跡で短い記録が添えられていた。
『院長アデラ、王都大聖堂への侵入を試みた罪により拘束。三十日後、西岸修道院へ送還』
アデラは戻された。
ルシアを連れ帰ることはできなかった。
箱の底にあった日記には、その後のことが記されている。
『王都より知らせが届いた』
『星霜の乙女は、王国を守る祈りの中で光へ還ったという』
『名は告げられなかった』
『尊い犠牲であったと、神殿は言った』
『私は彼らに尋ねた』
『あの子は最後に、何と言ったのか』
『神官は答えなかった』
頁の端には、涙の跡のような染みが残っている。
『ルシアは海へ帰りたがっていた』
『ならば、せめて名だけでも海へ返したい』
『神殿がルシアの名を消すなら、私は貝へ刻む』
『紙が燃やされても、石が砕かれても、海へ流れた貝の一つくらいは、あの子の名を覚えているだろう』
『この祈り箱は、星の力では開かない』
『ルシアが愛した海の記憶と、あの子自身の名でのみ開く』
日記の最後の頁。
『もし、いつかこの箱を見つける者がいるなら』
『ルシアを聖女と呼ばないでほしい』
『星霜の乙女とも呼ばないでほしい』
『あの子は、ルシアだった』
『海へ帰りたいと願った、一人の娘だった』
法務官は日記を閉じた。
地下室に、海の音だけが残る。
皇国魔術師は、白い貝殻を静かに見つめた。
「共同保全箱の白い残滓と照合します」
「この貝殻を王都へ運ぶのですか」
「いいえ」
皇国魔術師は首を横へ振った。
「王都へ持ち去る必要はありません。残滓の一部を測定具へ写し、この場所で反応を確かめます」
「ルシアのものを、また王都へ連れていかないために」
「はい」
それは、魔術的な必要ではなく。
人としての配慮だった。
白い残滓の波形を記録した魔石を、貝殻のそばへ置く。
魔石が白く光った。
貝殻も、それに応える。
海の窓から、風が吹き込んだ。
箱の中の青い布が、ふわりと揺れる。
「一致しました」
皇国魔術師が静かに告げる。
「白い残滓は、ルシアのものです」
最後の名が、戻った。
セレナ。
マリアナ。
ルシア。
王国が星霜の乙女という役へ押し込み、記録から消した三人の女性。
その全員が、ようやく名前を取り戻した。
王宮へ報告が届くと、国王エルネストはすぐに、西岸修道院跡と白貝の祈り箱を王国の保護対象に指定した。
「箱も手紙も、王都へ移す必要はない」
王は命じた。
「ルシアが帰りたがった海辺で保管せよ。王国が管理するという名目で、また彼女から海を奪うな」
「では、廃修道院を修復しますか」
宰相エドガーが尋ねる。
「必要最低限だ。豪華な記念聖堂にはするな。神殿の新たな信仰対象にもさせぬ。手紙と記録を守り、望む者が静かに名を知ることのできる場所にせよ」
「承知いたしました」
ギルベルトは、ルシアに関する報告書を見つめていた。
「海へ帰りたいと願った娘を、王国は王都へ繋いだ」
「ああ」
「そして死ねば、名を消して聖女にした」
「ああ」
エルネストの声は重い。
「王国は、三人へ謝罪することすらできぬ」
「亡くなっていますからね」
「だからといって、何もしなくてよいわけではない」
王は報告書を閉じた。
「彼女たちの名と、神殿が行ったことを公的記録へ残す。殉教聖女として伝わってきた記述も訂正する」
「民へ、すべて公表なさるのですか」
「段階的にだ。遺族や子孫の確認が取れていない者もいる。だが、神殿の美談を残すつもりはない」
エドガーが頷く。
「三名の名は、リリアーナ嬢にもすぐ知らせます」
「ああ」
ギルベルトは静かに言った。
「娘は、最後の空白の石へ名前を刻むでしょう」
「それを命じるな」
エルネストの言葉に、ギルベルトは顔を上げる。
「もちろんです」
「彼女が望むなら止めぬ。だが、過去の星霜の乙女を弔う役目まで、リリアーナへ背負わせるな」
「……はい」
王国は、まだ学び始めたばかりだった。
できる者へ任せることと。
その者にしかできないと、役割を押しつけることは違う。
その境界を。
神殿の保護室では、ミリアがリリアーナの追加声明を読んでいた。
法務官から、受け取るかどうか尋ねられた。
迷った末に、読むことを選んだ。
『私は、誰かが選ばれるための悪役ではありません』
『私は、今もミリア様を許していません』
文字を追ううちに、ミリアの指が震えた。
怒っている。
当然だった。
それなのに、心のどこかで期待していた。
リリアーナなら優しいから。
神殿に利用された自分を可哀想だと思ってくれるから。
過剰な刑罰を求めないと言ってくれたから。
いつか許してくれるのではないかと。
「また……」
ミリアは、小さく呟いた。
「また、あの方の優しさに逃げようとしていた」
年配の侍女は、何も言わずそばにいる。
ミリアは声明を膝へ置いた。
「怒っていると、書いてあります」
「はい」
「許していないと」
「はい」
「怖いです」
自分を憎む者がいること。
自分を許さない者がいること。
それを受け止めるのは、怖かった。
可哀想な自分を見せれば、相手の怒りが弱まる。
そう信じてきたから。
「私は、あの方に許されないまま、生きなければならないかもしれない」
「はい」
侍女の答えは静かだった。
「それでも、生きるのですか」
「それを決めるのは、ミリア様です」
「……そうですね」
また、誰かに答えを求めようとした。
ミリアは布袋の歪んだ花へ触れる。
「私は、処分を受けます」
「はい」
「許されるためではなく」
「はい」
言葉にするだけでは足りない。
これから、何度も逃げたくなるだろう。
自分も被害者だと叫び、すべてを神殿のせいにしたくなるかもしれない。
それでも。
「自分がしたことを、なかったことにしません」
ミリアは、リリアーナの声明を丁寧に畳んだ。
「これは返してください」
「保管なさらないのですか」
「私が持っていると、いつか言葉を都合よく読み替えてしまいそうだから」
過剰な刑罰を求めない。
その一文だけを取り出し、許されたと思いたくなるかもしれない。
「調査記録の中へ戻してください」
「分かりました」
侍女は声明を受け取った。
ミリアは、空になった膝の上を見つめる。
許されていない。
その事実から、今度こそ逃げなかった。
国境砦へ最後の名前が届いたのは、翌日の朝だった。
リリアーナは庭で、セレナとマリアナの名が刻まれた二つの白い石を布で拭いていた。
隣には、まだ何も刻まれていない最後の石。
カイゼルが庭へ入ってくる。
その手に報告書があることへ気づき、リリアーナは立ち上がった。
「見つかったのですか」
「ああ」
カイゼルは、彼女の前で足を止めた。
「最後の名は、ルシアだ」
「ルシア様」
リリアーナは、その名を静かに繰り返した。
胸元の星飾りが、温かくなる。
「海辺の修道院で暮らしていた。船乗りを癒やし、子どもたちへ文字を教えていたらしい」
「優しい方だったのですね」
「ああ」
「海へ帰りたいと」
「ああ」
カイゼルは、白貝の祈り箱とアデラの手紙について伝えた。
歌が下手だったこと。
魚の骨を取るのが苦手だったこと。
貝を拾うのが好きだったこと。
星霜の乙女でも、殉教聖女でもなく。
ルシアという、一人の娘だったこと。
リリアーナの目から、涙がこぼれた。
けれど、悲しみだけではなかった。
「よかった」
声が震える。
「記録が、残っていたのですね」
「ああ」
「ルシア様を、役ではなく知っていた方がいた」
「ああ」
アデラという女性が。
神殿に逆らい。
拘束されても。
ルシアの名を貝へ刻み、海へ返そうとした。
「一人ではなかったのですね」
リリアーナは、空白の石へ触れた。
「神殿では孤独だったかもしれません。でも、忘れない方がいた」
「ああ」
それは、リリアーナ自身にとっても大切なことだった。
処刑台に立った時。
誰も自分を見ていないと思った。
けれどクララがいた。
カイゼルが来た。
完全に一人ではなかった。
「ここへ、ルシア様のお名前を刻みたいです」
「君が望むなら」
「はい。望みます」
クララが、すでに職人へ伝えるための紙を用意していた。
リリアーナは自分の手で、そこへ名前を書く。
『ルシア』
一文字ずつ。
誰にも消されないように。
役名へ置き換えられないように。
「セレナ様。マリアナ様。ルシア様」
三人の名を、順に呼ぶ。
星飾りから、淡い光が広がった。
セレナの石。
マリアナの石。
そして、まだ空白の石。
三つの灯りが同時に瞬く。
遠く王都の共同保全箱では、三本の小瓶に残る光がそれぞれ強く輝いた。
白。
淡い銀。
薄い金色。
今まで一度も揃わなかった三つの光が、同じ強さで瞬いている。
皇国魔術師は、測定石を確認した。
「全残滓の反応が安定しました」
「名前を取り戻したからですか」
「断定はできません」
老魔術師は慎重に答えた。
「ですが、少なくとも三つの光は、互いを奪い合わなくなっています」
これまで神殿の術式によって一つに混ぜられ、聖女の光として使われていた残滓。
その一つ一つが、別の人のものだったと認められた。
セレナ。
マリアナ。
ルシア。
三人は、同じ星ではない。
王国のための一つの力でもない。
それぞれの人生を持った、別々の人間だった。
「解放の準備へ進めます」
老魔術師は告げた。
「王国各地への接続は、ほぼ解除できました。最後に残る三本の繋がりを切れば、残滓を本来の巡りへ還せます」
「リリアーナ様の協力は」
「模擬術式の結果を確認してからです」
最後まで、本人の意思と安全を先にする。
その原則は変わらない。
国境砦の庭では、リリアーナが空白の石を見つめていた。
明日には、そこへルシアの名が刻まれる。
「三人とも、名前が戻りました」
「ああ」
「これで、すぐに解放しなければならないのでしょうか」
リリアーナが尋ねる。
「いや」
「待ってもいいのですね」
「ああ」
カイゼルは静かに答える。
「準備が整い、君が決めてからでいい」
「はい」
リリアーナは、三つの灯りへ目を向けた。
急がなくていい。
名前が戻ったから、すぐに何かをしなければならないわけではない。
自分が背負わなければならないわけでもない。
「少しだけ、三人のお名前と一緒にいたいです」
リリアーナは言った。
「解放する前に。セレナ様と、マリアナ様と、ルシア様がいたのだと、静かに覚える時間がほしい」
「ああ」
カイゼルは否定しなかった。
「待とう」
「はい」
海から遠い皇国の庭で。
三人のための灯りが、静かに揺れていた。
ルシアが愛した海の音は聞こえない。
マリアナが帰りたかった山も見えない。
セレナの故郷は、まだ分からない。
それでも。
三人の名は、もう空白ではなかった。
そして数日後。
王国と皇国の魔術師団は、星霜の残滓を解放するための模擬術式を完成させた。
最後の扉を開くかどうか。
その選択は、誰かの命令ではなく。
リリアーナ自身へ委ねられることになる。
お読みいただきありがとうございます。
続きが気になる方は、ブックマーク・評価で応援していただけると嬉しいです。
毎日19時半ごろ更新予定です。




