第43話 自分が信じたかった嘘
王国神殿の記録室には、朝から雨音が響いていた。
細い窓を叩く雫が、薄暗い石壁へ淡い影を落としている。
かつては神官長の許可なく入ることさえできなかった場所だ。
今は王宮警備隊が入口を固め、王国と皇国の記録官たちが古い帳簿を一冊ずつ運び出していた。
セレナ。
マリアナ。
名前を消された星霜の加護持ちのうち、二人の名は戻った。
残る一人。
白い残滓を宿していた女性の名だけが、まだ分からない。
彼女に関する記録は、他の二人以上に徹底して消されていた。
「年代の特定はできましたか」
ユリウスの問いに、王宮記録官が顔を上げる。
「およそ二百四十年前。セレナより前です」
「最も古い方ですね」
「はい。ただ、当時の神殿記録は大火で失われたとされています」
「本当に大火だったのでしょうか」
ユリウスの声には、苦い疑念があった。
神殿が何かを隠すため、記録を失ったことにした。
今となっては、そう疑わずにはいられない。
皇国魔術師が、机の上へ一枚の地図を広げた。
古い王都の見取り図。
現在の大聖堂が建てられる以前、同じ場所には小さな星見の聖堂があったと記されている。
「白い残滓から、わずかに海の魔力が検出されました」
「海?」
王国側の者たちが顔を見合わせる。
王都は内陸にある。
大河は流れているが、海までは遠い。
「潮の魔力に近いものです。本人が海辺の出身だったか、長く海に関わる土地で暮らしていた可能性があります」
「二百四十年前、王国の西岸地域には神殿領がありました」
ユリウスが記憶を辿るように言った。
「現在は廃止されていますが、海辺の小さな修道院がいくつかあったはずです」
「その記録は」
「王都大聖堂ではなく、西部神殿支部へ保管された可能性があります」
記録官がすぐに書き留める。
「西部支部へ照会します」
「待ってください」
ユリウスが止めた。
「通常の照会では、星霜の加護に関する資料だと悟られます。神殿上層部に協力していた者が残っていれば、先に処分されるかもしれません」
「では、王宮警備隊を派遣する」
「はい。事前通告なしで」
法務官は静かに頷いた。
「国王陛下の命令を取りつけます」
最後の名へ近づくためには、急がなければならない。
だが、焦って推測で埋めてはならない。
その女性は海辺の生まれだったかもしれない。
それ以上は、まだ確認できない。
確かな記録が見つかるまで、空白の石には何も刻まない。
それが、リリアーナの望みでもあった。
調査のために帳簿を閉じようとした時、若い記録官が小さく声を上げた。
「こちらを見てください」
彼が持っていたのは、星見の聖堂が取り壊された際の資材目録だった。
石材、燭台、祭具、長椅子。
その中に、一つだけ不自然な記載がある。
『白貝の祈り箱――西岸修道院より返還』
「祈り箱」
「中身の記録はありません。ですが、返還と書かれています」
「王都へ運ばれたものを、西岸へ返したという意味でしょうか」
「それとも、王都に残すべきでないものを送り返したか」
皇国魔術師が目を細める。
「白貝には、記憶を留める性質を持つものがあります。海辺の民が手紙や祈りを納める習慣もある」
「では、その箱に名前が」
「可能性はあります」
推測にすぎない。
けれど、これまでで最も具体的な手がかりだった。
「西岸修道院の現在地を確認してください」
法務官が命じた。
「残っていない場合は、廃絶時の移管先も」
「はい」
窓の外で、雨が少し強くなる。
空白だった過去に、小さな道筋が見え始めていた。
同じ頃。
神殿の保護室では、ミリアの再聴取が始まろうとしていた。
今回は法務官から求められたものではない。
ミリア自身が、もう一度話したいと申し出たものだった。
小さな部屋には、女性法務官と記録官。
少し離れた場所に、年配の侍女が控えている。
机の上には水だけが置かれていた。
ミリアは、幼い頃に作った布袋を膝へ載せている。
歪んだ花の刺繍。
それに触れていないと、逃げ出してしまいそうだった。
「準備はよろしいですか」
女性法務官が尋ねる。
ミリアは頷こうとして、一度止まった。
「怖いです」
「では、今日は中止しますか」
「いいえ」
すぐに首を横へ振る。
「怖いけれど、話します」
「分かりました」
記録官が羽根ペンを構える。
その音を聞くと、胸が苦しくなる。
言ったことが残る。
取り消せない。
以前のミリアにとって、記録は自分を追い詰めるものだった。
だが、リリアーナを追い詰めた言葉もまた、記録されるべきなのだと思い始めている。
「何からお話しになりますか」
ミリアは、布袋を強く握った。
「階段から落ちた日のことです」
「はい」
「私は、足を滑らせました」
初めて、曖昧にせず言った。
記録官のペンが動く。
「リリアーナ様に押されたところは、見ていません」
「はい」
「あの日、階段を上がる前に、リリアーナ様と話しました。王太子殿下の執務室へ、許可なく入るのはやめるようにと言われました」
「リリアーナ嬢の口調は」
「冷たく聞こえました」
ミリアは一度、目を閉じた。
「でも、怒鳴られたわけではありません。掴まれてもいません。廊下ですれ違って、それだけでした」
「その後、階段で転落した」
「はい。考え事をしていて、裾を踏みました」
女性法務官の表情は変わらない。
責めもしない。
慰めもしない。
ただ、続きを待っている。
「落ちた時、すぐには誰に押されたとも言いませんでした。侍女たちが、リリアーナ様と何かあったのかと聞きました」
「何と答えましたか」
「リリアーナ様に冷たくされた、と」
声が小さくなる。
「それから、もしかしたらあの方が近くにいたかもしれない、と言いました」
「実際に見たのですか」
「いいえ」
「なぜ、そう言ったのですか」
ミリアは答えられなかった。
喉が塞がる。
ずっと、その問いから逃げていた。
怖かったから。
混乱していたから。
嫌われていたから。
どれも嘘ではない。
だが、全部ではなかった。
「ミリア嬢」
「……そうであってほしかったからです」
ようやく、言葉が落ちた。
「リリアーナ様が私を傷つけたことにしたかった」
「理由は」
「アルヴィス様に、守ってほしかったからです」
涙が浮かぶ。
ミリアは、布袋を握ったまま続けた。
「リリアーナ様に注意されるたび、私は自分が小さくなったように感じました。あの方は間違ったことを言っていませんでした。許可なく部屋へ入ってはいけない。王太子殿下の公務を邪魔してはいけない。礼法を覚えなければならない。全部、正しいことでした」
「それが、つらかったのですか」
「はい」
正しいから、言い返せない。
正しいから、自分が悪いと突きつけられているように思えた。
ミリアは正しさを、自分への攻撃として受け取った。
そして、ただ優しくしてくれるアルヴィスの方へ逃げた。
「アルヴィス様は、私が泣くとリリアーナ様を責めました。私に、君は悪くないと言ってくれました」
「それが嬉しかった」
「はい」
涙が頬を流れる。
「だから、階段から落ちた時も。リリアーナ様のせいかもしれないと言えば、また守ってくれると思いました」
「リリアーナ嬢が罰せられる可能性は考えましたか」
「叱られると思いました。婚約者としての態度を改めろと言われるくらいだと」
「婚約破棄については」
「……望んでいました」
記録官のペンが、一瞬だけ止まりかける。
「アルヴィス様が、私を選んでくれたらいいと思っていました」
「そのため、リリアーナ嬢が加害者であると思わせようとした」
「はい」
認めるたび、胸の中にあった綺麗な物語が壊れていく。
自分はただ怯えていたのではない。
何も知らず、流されただけでもない。
望んでいた。
リリアーナが悪者になり、自分が選ばれることを。
「毒入り菓子についてもお話しします」
ミリアは自分から続けた。
「あの日、私は朝から気分が悪かったです」
「理由は分かりますか」
「前の晩、侍女に隠れて甘い菓子を食べました。神殿でいただいたものです」
「その菓子の記録は」
「残っているか分かりません。でも、包み紙は自室の箱に入れたままかもしれません」
女性法務官が、記録官へ視線を向ける。
調査項目が追加される。
「茶会で菓子を食べた後、吐き気がして。リリアーナ様からの贈り物かと、私が先に聞きました」
「なぜ、そう考えたのですか」
「また、あの方のせいにできると思ったからです」
ミリアは、涙を拭かなかった。
「侍女たちは、リリアーナ様が茶会の準備に関わっていたと知っていました。だから、私がそう言うと、きっとリリアーナ様の贈り物だと言いました」
「あなたは、それを否定しなかった」
「はい」
「毒が入っていたと考える根拠は」
「ありませんでした」
言葉にしてしまえば、あまりにも明らかだった。
毒物の特定もない。
菓子が誰のものかも知らない。
ただ体調を崩し、リリアーナのせいにしたかった。
「舞踏会の前には、虚偽であると分かっていましたか」
ミリアの身体が強張る。
最も答えたくなかった問いだった。
「全部が嘘だとは、思っていませんでした」
「では、どの部分を疑っていましたか」
「階段から落ちたのは、自分で裾を踏んだからだと分かっていました。菓子も、リリアーナ様が用意したところは見ていないと分かっていました」
「それでも訂正しなかった」
「はい」
「なぜですか」
ミリアは唇を噛んだ。
血の味がする。
「訂正したら、アルヴィス様に嫌われると思ったからです」
「それだけですか」
「……リリアーナ様が、王太子妃になるからです」
声が震える。
「私が何もされていなかったと分かったら、アルヴィス様はあの方のもとへ戻る。私は、また可哀想な平民の少女に戻る。それが嫌でした」
記録官のペン先が、紙の上を進む。
ミリアは俯いたまま、言葉を絞り出す。
「処刑命令が出た時、驚きました。あそこまでするとは思っていませんでした」
「止めようとは」
「一度、アルヴィス様へ声をかけようとしました」
ミリアは、あの日のことを思い出す。
怒号。
貴族たちの視線。
処刑を命じるアルヴィス。
青白い顔で立つリリアーナ。
「でも、何も言えませんでした。止めたら、どうして止めるのかと聞かれるから。私が嘘をついていたと分かるから」
「リリアーナ嬢が死ぬことより、自分が疑われることを恐れた」
「……はい」
声にならないほど小さな答えだった。
それでも、記録された。
ミリアは泣いていた。
けれど、法務官へ縋らない。
可哀想だと言ってほしいとも思わないようにした。
思ってしまう自分がいることは分かっている。
それでも、その感情を相手へ押しつけない。
「私は」
ミリアは、震えながら顔を上げた。
「リリアーナ様に傷つけられたと、信じていたのではありません」
「はい」
「そう信じたかったんです」
それが、核心だった。
勘違いではない。
ただの恐怖でもない。
自分の望みに合わせて、曖昧な出来事を都合よく形作った。
周囲が信じ始めると、それを事実として受け入れた。
「私は、自分が選ばれる物語を信じたかった」
記録官のペンが、その一文を書き留めた。
「そのために、リリアーナ様を悪役にしました」
室内に沈黙が落ちる。
ミリアは、初めて逃げずにその沈黙を受けた。
誰も慰めない。
誰も大丈夫だとは言わない。
当然だった。
大丈夫ではないことを、話しているのだから。
「本日の証言は以上ですか」
法務官が尋ねる。
ミリアは一度考えた。
「もう一つあります」
「どうぞ」
「私は、リリアーナ様へ謝罪文を書きません」
記録官が顔を上げる。
ミリアは続けた。
「今書けば、許してほしいから書くことになります。処分を軽くしてほしいから。悪い人だと思われたくないから」
「はい」
「だから、まだ書きません」
女性法務官は、静かに頷いた。
「それも、記録します」
「お願いします」
ミリアは布袋の歪んだ花を見つめた。
話したから許されるわけではない。
すべてを正直に言えば、よい人になれるわけでもない。
それでも、嘘の上に立ち続けることだけは、もうやめたかった。
再聴取の報告は、その日の午後に王宮へ届けられた。
国王エルネストは、全文を読み終えた後、長く黙っていた。
宰相エドガー、ギルベルト、法務官が同席している。
「自ら、虚偽に近い訴えであったと認めたか」
「はい」
法務官が答える。
「階段の転落は事故。毒入り菓子についても、リリアーナ嬢の関与を確認していないことを認識していた。舞踏会前には、少なくとも重要部分が事実ではない可能性を理解していたと」
「それでも訂正しなかった」
「自分が選ばれるため、と証言しています」
ギルベルトは、報告書を持つ手に力を込めた。
怒りはある。
娘を処刑台へ立たせた原因の一つが、はっきりした。
ミリアは知らなかっただけではない。
途中で気づきながら、訂正しなかった。
「娘は、彼女の物語の悪役にされたのですね」
静かな声だった。
エドガーが目を伏せる。
「ああ」
「リリアーナが何をしたかではなく。ミリア嬢が、そうであってほしいと願ったから」
「そして王太子殿下も、神殿も、周囲も、その物語を受け入れた」
「私も」
ギルベルトは、苦く付け加えた。
「父である私も、娘の言葉より分かりやすい物語を信じた」
誰も否定しなかった。
ミリア一人の嘘だけでは、処刑命令まで届かない。
アルヴィスが信じた。
神殿が利用した。
貴族たちが沈黙した。
ギルベルトが娘を守れなかった。
いくつもの選択が重なり、リリアーナを処刑台へ送った。
「再調査委員会の事実認定は、ほぼ固まったな」
エルネストが低く言った。
「階段転落および毒入り菓子について、リリアーナ・エルフェルトの関与を否定。ミリア・ロゼットによる虚偽または重大な誤認を含む申告。王太子アルヴィスによる証拠確認なき違法な断罪と処刑命令」
「はい」
「聖堂不敬については」
「神殿側が、不正を指摘したリリアーナ嬢を排除するために利用した疑いが濃厚です」
「ならば、冤罪の正式認定へ進める」
ギルベルトが顔を上げる。
「陛下」
「ああ」
エルネストは、重く頷いた。
「リリアーナ・エルフェルトにかけられた罪状を、王国として正式に撤回する準備を始めよ」
「……ありがとうございます」
ギルベルトの声は震えていた。
感謝すべきことではない。
本来なら、最初から罪に問われるべきではなかった。
それでも。
娘の無実が、ようやく王国の正式な記録へ刻まれようとしている。
「謝罪と賠償についても協議する」
エルネストは続けた。
「ただし、爵位や領地、王国での地位を与えることで償ったつもりになるな」
「はい」
「彼女は戻らない。加護を差し出さない。その前提を崩す提案は認めぬ」
エドガーが頭を下げる。
「承知いたしました」
王国はようやく、悪役令嬢という物語を公式に壊し始めていた。
国境砦へミリアの証言が伝えられた時、リリアーナは自室にいた。
庭へ出ようと支度をしていたが、カイゼルの表情を見て足を止めた。
クララとオルガも同席している。
「ミリア様が、話したのですね」
「ああ」
カイゼルは、内容を隠さなかった。
階段からの転落が事故だったこと。
毒入り菓子への関与を確認していなかったこと。
自分がアルヴィスに選ばれるため、リリアーナを加害者だと思わせたかったこと。
処刑命令が出た後も、自分の虚偽を疑われるのが怖くて止めなかったこと。
リリアーナは、黙って聞いていた。
顔色は少しずつ白くなった。
それでも、途中で止めてとは言わなかった。
「そう、信じたかった」
最後に、リリアーナが呟く。
「私が悪いと」
「ああ」
「事実を間違えたのではなく。自分が選ばれるために、私が悪い方がよかった」
「ああ」
胸が痛い。
鋭い痛みではない。
あの日の記憶が、ゆっくりと開かれていくような痛みだった。
「私、ミリア様が本当に怖かったのだと思っていました」
リリアーナは、膝の上で手を重ねた。
「思い込みだったとしても、心から私を加害者だと信じていたのだと」
「一部は、そうだったのかもしれない」
「でも、その思い込みを選んだのですね」
「ああ」
クララが、悔しそうに唇を噛んでいる。
オルガの表情も厳しい。
リリアーナは、自分の胸に手を当てた。
「怒っています」
はっきりと言った。
「とても」
「ああ」
「可哀想だと思う気持ちより、今は怒りの方が強いです」
「それでいい」
カイゼルの声に、リリアーナは目を閉じた。
怒っていい。
相手も被害者だからと、怒りを消さなくていい。
ミリアが神殿に利用されたことと、自分を悪役にしたことは別なのだから。
「私の人生を、自分が選ばれる物語の道具にした」
声が震える。
「私は、ミリア様の物語に登場する悪役ではありません」
「ああ」
「アルヴィス殿下の正義を示すための悪女でもありません」
「ああ」
「王国を支える星でもありません」
リリアーナは目を開けた。
「私は、リリアーナです」
胸元の星飾りが、淡く光った。
怒りに暴れる光ではない。
自分の輪郭を確かめるような、澄んだ光だった。
「怒っていると、伝えてもよいでしょうか」
リリアーナは尋ねた。
カイゼルはすぐに答える。
「伝えたいのか」
「分かりません」
一度考える。
「今すぐミリア様へ手紙を送りたいわけではありません。返事を求めたいわけでも」
「ああ」
「でも、王国の正式な記録には残したいです。私は彼女の証言を知った。神殿に利用されたことは理解している。それでも、私を悪役にしたことへ怒っている、と」
「なら、声明として記録へ加えればいい」
「本人へは送らずに?」
「ああ。調査委員会へ出せる」
リリアーナは、少しだけ安堵した。
相手に直接ぶつけなくてもいい。
返事を待たなくてもいい。
自分の感情を、正式な記録として残すことはできる。
「書きます」
リリアーナは言った。
「今日は少し休んでから」
「そうしろ」
即答され、リリアーナはほんの少しだけ笑った。
「止めるのがお早いですね」
「必要だからな」
「はい。分かっています」
クララがすぐに温かい茶を用意する。
オルガが肩へショールを掛ける。
以前なら、怒りを見せた後に世話をされることを恥ずかしいと思ったかもしれない。
今は、怒っていても。
疲れていても。
誰かに支えられていいと思える。
しばらく休んだ後、リリアーナは短い文を書いた。
『ミリア・ロゼット様の証言を確認しました』
『神殿によって聖女という役を与えられ、利用されていたことについては、調査によって事実が明らかにされることを望みます』
『しかし、ミリア様がご自身の望む物語のため、私を加害者とする疑いを広め、無実の可能性を理解しながら訂正しなかったことに、私は強い怒りを抱いています』
『私は、誰かが選ばれるための悪役ではありません』
『この怒りを理由に、ミリア様へ過剰な刑罰を求めるつもりはありません。ただし、私が許したと解釈されることも望みません』
『私は、今もミリア様を許していません』
最後の一文を書き、リリアーナは手を止めた。
強い。
けれど、偽りではない。
「これを、再調査委員会へ」
カイゼルは文面を確認し、静かに頷いた。
「送ろう」
「はい」
リリアーナは、深く息を吐いた。
許していない。
その言葉を公に残すことは、少し怖い。
冷たいと言われるかもしれない。
優しくないと思われるかもしれない。
けれど、もう。
誰かが望む優しい被害者を演じる必要はない。
その日の夕方、再調査委員会へリリアーナの追加声明が届いた。
黒狼の封蝋と、星の印。
国王エルネストは、その最後の一文を静かに読み上げた。
『私は、今もミリア様を許していません』
誰も、それを責めなかった。
許しは、王国が命じるものではない。
被害者の優しさを求め、加害者や王国を救わせるためのものでもない。
「このまま記録せよ」
エルネストは命じた。
「一文字も変えるな」
「はい」
リリアーナの怒りが、初めて王国の正式な記録へ刻まれた。
それは悪役令嬢の冷酷さではない。
傷つけられた一人の人間が、許していないと告げる当然の権利だった。
そして西部神殿支部へ向かった王宮警備隊は、その夜。
海を見下ろす廃修道院の地下で、白い貝殻に覆われた古い箱を発見した。
箱の蓋には、消えかけた文字が刻まれていた。
『海へ帰りたい、あの子のために』
最後の星霜の加護持ちへ繋がる記録は、潮の匂いが残る暗い地下室で、長い眠りから目を覚まそうとしていた。
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毎日19時半ごろ更新予定です。




