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婚約破棄された悪役令嬢ですが、処刑台の上で敵国皇帝に求婚されました 〜私を捨てた王国は滅びかけていますが、もう知りません〜  作者: 碓氷さゆ


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第42話 もう一人の名前

 王国大聖堂の隠し石室から運び出された記録は、王宮の一室へ集められていた。

 朽ちた革表紙。

 切り取られた頁。

 黒い薬液で塗り潰された文字。

 神殿が意図的に消そうとした痕跡は、どの資料にも残っている。

 王宮の記録官たちは、皇国魔術師団の協力を受けながら、一枚ずつ慎重に調べていた。

 古い紙へ薬液を塗って文字を浮かび上がらせる。

 別の紙へ写す。

 年代、筆跡、封印印を照合する。

 地道な作業だった。

 だが、誰も急かさなかった。

 過去の神殿が、本人の意思を無視し、王国の都合だけで星霜の加護持ちを扱った。

 ならば今度は、記録を扱う側こそ慎重でなければならない。


「こちらの帳簿を、もう一度確認していただけますか」


 ユリウスが、一冊の薄い会計帳を差し出した。

 神殿の祈祷費、食料費、祭具補修費が記された、ありふれた帳簿に見える。

 記録官が頁をめくる。


「星霜の加護に関する記述はありません」

「表向きは、です」


 ユリウスは、帳簿の端を指した。


「この記号。星ではなく、六枚花の印に見せていますが、神殿の古い暗号では“特別祈祷対象者”を示します」

「特別祈祷対象者」

「公にできない加護持ちや、神殿の管理下に置かれた者を示す言葉です」


 記録官の表情が変わった。

 皇国魔術師が帳簿を覗き込む。


「年代は」

「およそ百七十年前です」

「セレナの記録より後ですね」

「はい」


 帳簿には、同じ記号が何度も現れていた。

 食事。

 薬湯。

 拘束具補修。

 鎮静香。

 祈祷室清掃。

 日付が進むほど、食事の量は減り、薬湯と鎮静香が増えている。


「これは、誰かを収容していた記録では」

「私もそう思います」


 ユリウスは、帳簿の後半を開いた。

 一頁だけ、下部が破れている。

 だが、紙を光へ透かすと、切り取られた紙の圧痕が次の頁へ残っていた。


「文字を浮かび上がらせます」


 皇国魔術師が、淡い青色の粉を紙面へ散らす。

 その上から銀の杖をかざすと、紙に残る僅かな凹凸へ粉が集まり始めた。

 途切れた文字。

 数字。

 そして、一つの名前らしきもの。


『……アナ』


 最初の文字が潰れている。

 記録官たちは、別の資料を探し始めた。


「同じ日付の薬草庫記録は」

「こちらです」

「厨房の搬入記録も」

「確認します」


 積み上げられた記録の中から、同じ記号と日付が探し出されていく。

 厨房記録には、病人用の薄い粥。

 薬草庫には、眠り草と鎮静薬。

 衣料庫には、若い女性用の寝間着。

 そして、神殿の医療記録の断片に、短い記述があった。


『星霜対象、マリアナ。今朝も北方訛りにて帰郷を願う。情緒不安定として処置』


 記録官の手が止まる。

 誰も、すぐには口を開かなかった。

 名前があった。


「マリアナ……」


 ユリウスが、静かに読み上げる。

 皇国魔術師は、空白の石室見取り図へ名前を書き込んだ。


「二人目の名前ですね」

「はい」


 だが、その喜びはすぐに痛みへ変わった。

 記録の続きが残っていたからだ。


『対象は、故郷の山村に母と妹がいると繰り返す。王国安定のため帰郷不可と説明するも理解せず』


『対象、星霜の光を意図的に抑制。王国民への反逆的行為と判断』


『感情誘導術式により、故郷の村が瘴気に呑まれる幻影を提示。対象は接続を再開』


 ユリウスの顔が青ざめる。


「故郷を、人質にしたのか」

「実際に村へ危害を加えたのではなく、幻影を見せたようです」


 皇国魔術師の声にも、嫌悪が滲んだ。


「ですが、本人には区別がつかなかったでしょう」

「母と妹を救うために、光を使わせた」

「おそらくは」


 記録官は、震える手で続きを写す。


『対象、接続後に錯乱。母の名を呼び続ける』

『対象、三日間眠らず』

『対象、光量低下』

『対象、祈祷不能』


 最後の頁には、たった一行だけが残されていた。


『星霜対象マリアナ、儀式中に消失』


「消失?」


 王宮魔術師が眉をひそめる。


「死亡ではなく」

「遺体が残らなかった可能性があります」


 皇国魔術師は、古い術式記録と照らし合わせる。


「加護持ちが限界を超えて力を使った時、身体ごと光へ崩れる現象が、ごく稀に記録されています」

「では、マリアナは」

「死んだと考えるべきでしょう」


 だが、神殿は死亡と記録していない。

 遺体がなかったから。

 あるいは、責任を曖昧にするために。

 消失。

 その一言で、人の人生を終わらせていた。


 法務官は、しばらく目を閉じた後、命じた。


「正式記録へ戻してください」

「はい」

「星霜の加護持ち、マリアナ。北方の山村出身。母と妹の存在を訴え、帰郷を希望。神殿による感情誘導と強制接続の後、儀式中に死亡した可能性が高い」

「記録します」


 羽根ペンが紙を走る。

 今度は、消失という一語で済ませないために。

 母を呼んだことも。

 妹を案じたことも。

 帰りたかったことも。

 人であったことも。

 残すために。


 ユリウスは、帳簿の一箇所を見つめていた。


「北方の山村が、どこか分かるかもしれません」

「本当ですか」

「当時、神殿が特別祈祷対象者の家族へ、少額の扶助金を出していた記録があります。表向きは“聖女奉仕者家族支援金”です」

「家族へ真実は」

「知らされていなかったでしょう」


 おそらく。

 娘は神殿で尊い役目に就いている。

 王国のために祈っている。

 そう伝えられたのだろう。

 帰りたいと泣き、母と妹を呼び、最後には光へ崩れたことなど知らないまま。


「村を探してください」


 法務官が言った。


「子孫がいるかどうかも」

「はい」

「ただし、確認できるまでは推測で知らせない。家族へ新たな傷を与える可能性がある」

「承知しました」


 名前を見つけたからといって、すぐにすべてが救われるわけではない。

 名を戻すことも、真実を伝えることも。

 相手の時間と心を尊重しなければ、また一方的な正しさになる。

 調査は、慎重に続けられた。


 王宮へ届けられた報告を、ギルベルトは宰相エドガーと共に読んでいた。


「マリアナ」


 ギルベルトが、ゆっくりと名を口にする。


「セレナに続いて、二人目か」

「ああ」


 エドガーは、報告書の最後へ視線を落とした。


「家族を案じる心を利用された。リリアーナ嬢へ使われた鎖と、同じ構造だ」

「娘なら、必ず反応したでしょう」


 ギルベルトの声が苦くなる。


「私や民が苦しんでいる幻影を見せられれば、たとえ自分が傷ついても光を使った」

「だからこそ、皇国に救われた」

「はい」


 その事実へ安堵すると同時に、胸が抉られる。

 父である自分は、娘を救えなかった。

 敵国皇帝が救った。

 それを悔しいと思う資格すらない。

 だが、リリアーナがマリアナと同じ結末を迎えなかったことだけは、心から感謝していた。


「マリアナの家族について、調査を進めます」

「生きているはずはありません」

「本人の母や妹はな。だが子孫がいる可能性はある」

「真実を伝えるのですか」

「確認してからだ」


 エドガーは慎重に答えた。


「彼らが知ることを望むか。何をどこまで伝えるか。王国が決めつけるべきではない」

「……そうですね」


 ギルベルトは、リリアーナの手紙を思い出した。

 優しさを鎖にしないでください。

 本人のためだと信じて、一方的に何かを押しつける。

 それもまた、鎖になり得る。


「娘へは、皇国を通じて報告します」

「ああ。隠す理由はない」

「ただし、すぐに何かを求める文面にはしません」

「当然だ」


 ギルベルトは、静かに頷いた。

 リリアーナはきっと、マリアナの名を覚えたいと言う。

 だが、彼女へ追悼の役目を背負わせてはならない。

 何をするかは、娘が選ぶことだ。


 神殿の保護室では、ミリアが小さな布袋を膝に置いていた。

 幼い頃に自分で縫った、歪んだ花の刺繍。

 聖女候補ではない自分。

 アルヴィスに選ばれる前の自分。

 その頃のことを、ミリアは思い出そうとしていた。

 神殿へ来る前。

 貧しい家。

 華やかなものなど何もなかった。

 母は病弱で、父は幼い頃に亡くなった。

 周囲の人々は、可哀想な子だと言った。

 ミリアは、その言葉が嫌いではなかった。

 可哀想と言われれば、少し優しくしてもらえた。

 失敗しても、仕方がないと言ってもらえた。

 だから、いつの間にか。

 可哀想でいることが、自分を守る方法になっていた。


「ミリア様」


 年配の侍女が、扉を叩いて入ってくる。

 聖女候補の頃からではない。

 神殿へ入ったばかりのミリアを世話したことがある女性だった。


「お食事をお持ちしました」

「ありがとう」


 以前なら、食欲がないと言って下げさせたかもしれない。

 泣きながら、誰かが心配するのを待ったかもしれない。

 だが今日は、スープを一口だけ飲んだ。

 温かい。

 味は薄い。

 それでも、喉を通った。


「食べられましたね」


 侍女が、静かに言う。

 褒めすぎない。

 大げさに喜ばない。

 ただ、事実として。

 それがミリアには不思議だった。


「私、これから何をすればいいのでしょう」


 ミリアは、布袋を握りながら尋ねた。


「それは、私には決められません」

「そうですよね」


 誰かに決めてほしいと思っていた。

 聖女になれと言われれば、聖女になる。

 アルヴィスの隣へ来いと言われれば、隣に立つ。

 リリアーナは悪いと言われれば、悪いと信じる。

 自分で決めるのは、怖かった。

 選んで間違えれば、自分の責任になるから。


「私は、リリアーナ様に謝るべきでしょうか」


 侍女は、すぐには答えなかった。


「ミリア様は、謝りたいのですか」

「許してほしいです」


 答えてから、ミリアは目を伏せた。

 まただ。

 自分が欲しいものを先に考えている。

 許されたい。

 処刑されたくない。

 悪い人と思われたくない。


「……違いますね」


 ミリアは、小さく首を振った。


「まだ、謝りたいのか分かりません。ただ、許されたいだけです」

「そう思えるのなら、今はお手紙を書かない方がよろしいかもしれません」

「はい」


 侍女の言葉は優しい。

 けれど、逃げ道を与える優しさではなかった。


「でも、事実は話さなければなりませんね」

「はい」

「怖くても」

「はい」


 ミリアは、布袋の歪んだ花を指でなぞった。

 聖女ではない。

 被害者だけでもない。

 だからといって、何もないわけでもない。

 間違えた自分。

 嫉妬した自分。

 嘘をついたつもりはなくても、都合のよい思い込みを広げた自分。

 それを隠さず話すことから始めるしかない。


「法務官の方へ、伝えてください」


 ミリアは顔を上げた。


「もう一度、話したいことがあります」

「分かりました」

「今度は、リリアーナ様が悪いと思った理由だけではなくて……私が、どうしてそう思いたかったのかも」


 侍女は、静かに頭を下げた。


「お伝えします」


 ミリアは、布袋を胸元へ抱いた。

 すぐに変われるとは思えない。

 自分が可哀想であることへ逃げたくなる気持ちも消えていない。

 それでも。

 今度は、自分で話すと決めた。

 許されるためではなく。

 起きたことを、少しでも正しく残すために。


 王太子宮では、アルヴィスが父王からの正式な通知を受け取っていた。

 再調査委員会における本人の証言を受け、王太子としての裁定権停止は継続。

 今後、最終報告がまとまるまで、重要政務からも外される。

 それは実質的な謹慎に近かった。


「受け入れます」


 アルヴィスは、通知を届けた文官へ答えた。

 以前なら、王太子の権威を損なうと反発しただろう。

 だが今は、当然だと思った。

 人一人の命を、感情だけで奪おうとした。

 その者が、以前と同じ権限を持ち続けてよいはずがない。


「殿下」


 ルーカスが、文官が去った後で声をかける。


「よろしいのですか」

「よいかどうかを決める立場ではない」

「……はい」

「王太子でいられるかどうかも、いずれ問われるだろう」


 口にすると、胸は痛んだ。

 王になる。

 幼い頃から、それだけを教えられてきた。

 自分は選ばれた者だと。

 誰より上に立つ者だと。

 だが、その権力をどう使ったのか。

 答えは、処刑台に残っている。


「怖くはありませんか」


 ルーカスが尋ねる。

 アルヴィスは少し考えた。


「怖い」


 正直に答えた。


「王太子でなくなれば、自分に何が残るのか分からない」

「はい」

「だが、ミリアも同じなのだろうな。聖女でなくなった自分に何が残るのか、分からない」


 アルヴィスは窓の外を見る。


「私たちは、役を持っていることを、自分の価値だと思いすぎた」

「殿下」

「リリアーナだけが、役を失っても自分で立とうとしている」


 いや。

 彼女も最初からできたわけではないのだろう。

 皇国で守られ、少しずつ言葉を取り戻し、ようやく歩き始めた。

 自分はそれを、遠くから知ることしかできない。


「私は、何が残るのかを考える」


 アルヴィスは静かに言った。


「王太子ではないとしても、私がしたことの責任は残る」

「はい」

「そこから逃げない」


 それは、贖罪と呼ぶにはまだ小さな決意だった。

 けれど、少なくとも以前の彼なら口にできなかった言葉だった。


 国境砦へマリアナの名が届いたのは、夕暮れ前だった。

 リリアーナは、カイゼル、クララ、オルガと共に庭にいた。

 皇国の使者から渡された報告書を、カイゼルが先に確認する。

 その表情が僅かに硬くなる。

 リリアーナは、胸元に手を置いた。


「お名前が分かったのですか」

「ああ」

「聞かせてください」


 カイゼルは、報告書を閉じた。


「マリアナ」

「マリアナ様」


 リリアーナは、ゆっくりと名前を繰り返した。

 胸元の星飾りが、微かに温かくなる。

 痛みではない。

 遠くで誰かが、ようやく振り返ったような感覚だった。


「北方の山村の出身だった。母と妹がいたらしい」

「帰りたかったのですね」

「ああ」

「神殿は、故郷が穢れに呑まれる幻影を見せ、彼女に光を使わせた」

「……」


 リリアーナは目を閉じた。

 自分だったら。

 父が苦しんでいる姿。

 クララが傷つく姿。

 王国の民が瘴気に呑まれる姿。

 それを見せられれば、拒み続けられただろうか。


「怖いです」


 リリアーナは小さく言った。


「私も、きっと光を使ってしまったと思います」

「ああ」

「だから、マリアナ様が弱かったとは思いません」

「ああ」


 カイゼルの返事に、リリアーナは少しだけ救われる。

 耐えられなかったのではない。

 優しさを、愛情を、神殿に利用されたのだ。


「最後は、儀式中に光へ崩れた可能性が高い」

「お身体が、残らなかったのですね」

「ああ」


 リリアーナは、空白の白い石の一つへ近づいた。

 指先で、何も刻まれていない表面へ触れる。


「ここに、お名前を刻んでもよろしいでしょうか」

「君がそうしたいなら」

「はい。そうしたいです」


 クララが、すでに用意していた小さな紙へ名前を書き留める。

 砦の職人へ頼み、明日には刻んでもらえるだろう。


「マリアナ様」


 リリアーナは、もう一度呼んだ。


「お帰りになりたかったのですね」


 星飾りの光が、淡く広がった。

 白い石の上へ、一粒の星屑が落ちる。

 その瞬間。

 遠く離れた王宮の共同保全箱の中で、淡い銀色の残滓が強く瞬いた。

 封印を壊すほどではない。

 ただ、一度だけ。

 誰かに名前を呼ばれたことへ応えるように。


 皇国魔術師と王宮魔術師は、その反応を記録した。


「銀の残滓が、マリアナのものだと考えられます」

「本人の名へ反応した」

「はい」


 残る光は、あと一つ。

 白い残滓。

 まだ名前を取り戻せていない、最後の一人。


 国境砦の庭では、三つの灯りがともされていた。

 セレナ。

 マリアナ。

 そして、まだ空白の一人。


 リリアーナは二つの名を静かに見つめる。


「あと、お一人です」

「ああ」

「見つかるでしょうか」

「確認できない」


 カイゼルは、推測で慰めなかった。

 リリアーナは、小さく頷く。


「はい。分かりませんね」

「ああ」

「でも、探してくれています」

「ああ」

「なら、待ちます」


 急がせない。

 勝手な名を与えない。

 見つからない不安を、綺麗な物語で埋めない。


 ただ、その人がいたことを忘れずに。

 名前が戻る日を待つ。


 庭の灯りが、夕風に揺れる。

 二つは名前を照らし。

 一つは、まだ何も刻まれていない白い石を照らしていた。


 空白は、存在しなかった証ではない。

 消されたものが、そこにあった証だった。

お読みいただきありがとうございます。

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毎日19時半ごろ更新予定です。

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