第41話 名前のない光を還すために
王国大聖堂の地下から運び出された小瓶は、十二本あった。
そのうち九本は空で、三本にだけ僅かな光が残されている。
白。
淡い銀。
そして、神殿が聖女選定に用いていたものと同じ、薄い金色。
皇国魔術師団は、それらを王国側へ預けたままにはしなかった。
王宮魔術師、法務官、記録官の立ち会いのもとで二重封印を施し、皇国と王国がそれぞれ一つずつ鍵を管理する共同保全箱へ収めた。
どちらか一方だけでは、開けることができない。
神殿が再び持ち出すことも。
王宮が都合よく隠すことも。
皇国が勝手に処分することもできないように。
「この状態で、いつまで保てますか」
王宮魔術師が尋ねた。
老魔術師は、封印箱の表面を流れる術式を確認する。
「光そのものは非常に弱い。数十年単位で急激に失われることはないでしょう。ただし、残滓は安定しているわけではありません」
「暴走の危険が」
「それよりも、別の術式へ引かれる危険があります」
老魔術師は、神殿の隠し石室から運び出された記録を示した。
「これらの光は、長年にわたり王国の結界、祭壇、聖女選定の聖水へ分けて使用されてきた可能性が高い。各地に残る術式が、光を再び引き寄せようとするかもしれません」
「完全に切り離す必要がある」
「はい」
王宮魔術師の顔が曇る。
「しかし、切り離した後はどうするのですか。器から出せば、残滓は消えてしまうのでは」
「消滅ではありません」
老魔術師は静かに答えた。
「本来の巡りへ還る、と考えるべきでしょう」
「本来の巡り」
「土地へ。星へ。あるいは、かつての宿り手たちが望んだ場所へ」
正確なことは、誰にも分からない。
亡くなった人へ力を返すことはできない。
失われた命も、奪われた年月も戻らない。
それでも、神殿の器の中で利用され続けるよりは。
名前も願いも消されたまま、誰かを偽りの聖女へ仕立てる道具にされるよりは。
解放する方がよい。
そう考える者は多かった。
「問題は、残滓が王国中の術式と結びついていることです」
老魔術師は、王国各地の古い聖堂が記された地図を広げた。
「無理に切れば、どこかの結界へ反動が出る可能性があります」
「北部も」
「含まれるでしょう」
「では、解放できないのですか」
「いえ。段階的に接続を外します。その上で、星霜の加護に拒絶されない形で器を開く必要がある」
王宮魔術師は、すぐに意味を理解した。
「リリアーナ様の力が必要になる」
「必要と決めつけてはなりません」
老魔術師の声が僅かに厳しくなる。
「彼女にしかできないと断定し、役割を押しつければ、神殿と同じです」
「……申し訳ありません」
「まずは我々だけで可能な方法を探します。その上で、ご本人が望み、心身への負担が許容範囲である場合に限り、協力をお願いする」
王宮魔術師は、深く頭を下げた。
「はい」
そのやり取りも、すべて記録官によって書き留められた。
過去の神殿は、できる者へ当然のように命じた。
今度は違う。
必要だから使うのではない。
できるから差し出させるのでもない。
本人の意思を、最初に確認する。
その違いを、記録として残す必要があった。
国境砦には、調査内容をまとめた文書が届いていた。
カイゼルは執務室で一通り目を通した後、老魔術師の代理として残っている魔術師へ顔を上げた。
「リリアーナの力がなくても、接続は外せるのか」
「時間はかかりますが、大部分は可能です」
「大部分」
「最後に残る、ごく細い繋がりだけは、星霜の加護側の拒絶か受容が必要になる可能性があります」
カイゼルの眉間に皺が寄る。
「負担は」
「まだ確認できません。残滓を直接受け入れる必要はありません。星飾りを通じ、王国の祭壇との接続を拒むだけで済む可能性もあります」
「可能性では許可できない」
「承知しております」
魔術師は、緊張した面持ちで頭を下げた。
「そのため、模擬術式を作り、先に負担を測ります。リリアーナ様に協力をお願いするかどうかは、その結果を見てからです」
「本人へは」
「すべてお伝えするべきかと」
「ああ」
カイゼルは短く答えた。
机の上の報告書へ視線を戻す。
残滓を解放する。
それは過去の星霜の加護持ちたちへ、少しだけ尊厳を返す行為になるかもしれない。
リリアーナが立ち会いたいと言う可能性は高い。
だからこそ、止める準備も必要だった。
彼女が「自分がやらなければ」と思い始めたなら。
それは望みではなく、古い自己犠牲の形かもしれない。
「オルガとクララも呼べ」
「はい」
魔術師が下がった後、ラウルが窓際から振り返る。
「陛下、難しい顔ですね」
「難しい話だからな」
「リリアーナ様は、立ち会いたいとおっしゃるでしょう」
「ああ」
「止めます?」
「本人の望みなら、条件付きで認める」
「ご自分でそう言えるようになりましたね」
カイゼルは、冷たい目でラウルを見た。
「何が言いたい」
「以前なら、危険だから駄目だ、で終わっていたなと」
「……」
「陛下も、普通を練習中ですね」
「ラウル」
「はい、黙ります」
口を閉じながらも、ラウルの顔には笑みが残っていた。
リリアーナは、セレナの名を刻んだ白い石の前にいた。
庭では三輪目の花が咲いている。
最初の一輪より少し小さく、花びらの一枚だけ形が歪んでいた。
それでも、きちんと開いている。
リリアーナは、花へ水をやった後、小さな布で石の表面を拭いていた。
土埃を落とすと、刻まれた名がはっきり見える。
『セレナ』
まだ名前の分からない二人のために、隣には何も刻まれていない白い石が二つ置かれていた。
名前を勝手につけないために。
無名の星霜の乙女とも書かないために。
空白のまま、名が見つかる日を待っている。
「お嬢様」
クララが庭の入口から呼びかける。
「陛下がお話を、と」
「残滓のことでしょうか」
「おそらくは」
リリアーナは布を畳んだ。
胸が僅かに緊張する。
奪われた光を解放する方法。
自分にも関わるかもしれない。
だからこそ、聞きたい。
怖くても、知らないままにはしたくない。
「行きましょう」
リリアーナは、白い石へ一度だけ視線を落とした。
「また後で来ますね」
返事はない。
けれど、石の上へ落ちた陽の光が、ほんの僅かに白く瞬いたように見えた。
執務室では、カイゼル、オルガ、皇国魔術師が待っていた。
リリアーナは椅子へ座り、クララが隣に立つ。
カイゼルは、いつものように少し斜めの位置に腰を下ろした。
「残滓を解放する方法について、話がある」
「はい」
リリアーナは胸元の星飾りに触れる。
「私の力が必要ですか」
「なくても、大部分の接続は外せる」
「では、最後だけ」
「必要になる可能性がある」
カイゼルは、言葉を濁さなかった。
「だが、まだ何も決まっていない。負担も不明だ。先に模擬術式で調べる」
「はい」
「危険が大きければ、君には頼まない」
「……はい」
リリアーナは、少し考えた。
以前なら、危険でも自分がやると言ったかもしれない。
過去の人たちを解放できるなら。
王国の土地を守れるなら。
そう言って、すぐに自分を差し出しただろう。
今も、やりたい気持ちはある。
けれど、それだけで決めてはいけないことも分かっている。
「もし、負担が小さければ」
リリアーナは静かに言った。
「立ち会いたいです」
「ああ」
「でも、私がいなければ絶対にできないと言われたとしても、危険が大きければ断ってもよいのですね」
「当然だ」
カイゼルの返答は迷いがなかった。
「その結果、解放が遅れても?」
「ああ」
「王国の結界に影響が残っても?」
「それは王国と魔術師たちが考えることだ。君の命で埋める問題ではない」
リリアーナは、目を伏せた。
胸の奥にあった固いものが、少し緩む。
「分かりました」
「本当に?」
「はい」
カイゼルの確認に、リリアーナは頷いた。
「私は、助けたいです。でも、死んでも助けなければならないとは思いません」
「……ああ」
カイゼルの目元が、僅かに和らぐ。
オルガも静かに頷いた。
クララは、目に涙を浮かべている。
「クララ」
「だって、お嬢様がそんなふうに言えるようになったのが、嬉しくて」
「私も、少し嬉しいわ」
リリアーナは、自分でそう言って微笑んだ。
できることをする。
できないことは断る。
それでも、助けたい気持ちを捨てない。
少しずつ、その形が分かり始めている。
皇国魔術師が資料を広げた。
「残滓は、王国全土の古い祭壇術式と細く繋がっています。まず皇国魔術師団と王宮魔術師団が、一本ずつ接続を外します。最後に残った繋がりだけを、星霜の加護側から拒絶していただく可能性があります」
「私が光を取り込む必要は」
「ございません。むしろ、受け入れないでください」
魔術師の声が強くなる。
「過去の残滓はリリアーナ様のものではありません。それを一つにまとめて受け入れれば、ご自身と他者の記憶が混ざる危険があります」
「分かりました」
リリアーナは、はっきりと答えた。
「私は、セレナ様たちの光を自分のものにはしません」
「はい。その意思が最も重要です」
魔術師は、少し安心したように頷く。
「解放とは、受け継ぐことではないのですね」
リリアーナが呟く。
カイゼルが彼女を見る。
「覚えることと、背負うことも違う」
「……そうですね」
リリアーナは、セレナの白い石を思い浮かべた。
名前を覚える。
何があったのかを忘れない。
でも、その人の痛みをすべて自分のものとして抱える必要はない。
それは、過去の人を大切にすることとは違う。
「私は、お名前を覚えます。できるなら光を解放します。でも、セレナ様の人生を私が引き継ぐとは思いません」
「ああ」
「私は、リリアーナですから」
「ああ」
胸元の星飾りが、静かに光った。
その光は、強くはない。
ただ、彼女の言葉に応えるように澄んでいた。
王国では、ミリアの聖女候補除外が正式に告げられた。
保護室へ来たのは、女性法務官と王宮魔術師、そしてかつてミリアの身の回りを世話していた年配の侍女だった。
白い聖女候補の衣装も、聖印も、すでに回収されている。
それでもミリアは、無意識に首元へ手を伸ばした。
そこにあるはずだった聖印を探して。
「ミリア・ロゼット嬢」
女性法務官が、静かに文書を読み上げる。
「魔力検査および女神の雫の解析結果に基づき、あなたの聖女候補認定を取り消します」
「……はい」
声は小さかった。
昨日までなら、叫んだかもしれない。
違うと。
自分は選ばれたのだと。
けれど、何度祈っても自分だけの光は出なかった。
測定結果も、聖水の反応も見た。
否定する力が、もう残っていなかった。
「あなたには、一般的な光属性魔力が確認されています。今後、本人が希望し、処分および保護方針が決定した後であれば、通常の魔術教育を受けることは可能です」
「通常の……」
その言葉が、胸に刺さる。
特別ではない。
聖女ではない。
ただ、少し珍しい光属性魔力を持つ少女。
それだけ。
「私は、これからどうなるのですか」
ミリアは尋ねた。
「再調査の結果を受け、処分が決まります」
「処刑されるのですか」
「現時点で、決定しておりません」
「リリアーナ様は、私を処刑してほしいと言っていますか」
法務官は、僅かに間を置いた。
「リリアーナ嬢は、あなたへの処分を求める声明を出しておりません」
「では、許して」
「許したとも仰っていません」
ミリアは目を伏せた。
期待しかけた自分が、恥ずかしくなる。
リリアーナが処刑を求めていない。
だから優しい。
だから自分は許される。
また、相手の優しさへ逃げ込もうとした。
「……そうですね」
初めて、自分から言えた。
「私が許してほしいと思っても、あの方が許す必要はありません」
女性法務官の目が、僅かに和らいだ。
だが、褒めることはしなかった。
今はまだ、言葉にしただけだ。
これから、その意味を受け止めなければならない。
「衣服や生活用品については、保護室用のものを引き続き使用できます」
年配の侍女が、小さな箱を差し出した。
「聖女候補の品ではなく、ミリア様ご自身の品です」
「私自身の」
箱の中には、淡い色の髪紐、簡素な鏡、小さな櫛、子どもの頃から使っていた刺繍入りの布袋が入っていた。
聖女候補になる前に、神殿へ持ち込んだもの。
長く忘れていた、ただのミリアの持ち物だった。
「これ……まだあったの」
「保管されていました」
ミリアは、布袋を手に取る。
刺繍は不器用だった。
幼い頃、自分で縫った花。
花びらの大きさは揃っておらず、糸も何度か絡まっている。
聖女候補になってからは、みすぼらしいと思って触れなくなったものだった。
「下手ね」
ミリアは、小さく呟いた。
年配の侍女は、穏やかに答える。
「でも、ミリア様が縫われたものです」
「私が……」
役目のために与えられたものではない。
神殿から授かった聖印でもない。
アルヴィスから贈られた宝石でもない。
自分で作った、歪んだ花。
ミリアは、布袋を握った。
胸が痛い。
聖女ではない自分を、まだ受け入れられない。
それでも。
何もないと思っていた自分にも、聖女になる前から持っていたものがあった。
「私は、これを持っていていいのですか」
「もちろんです」
侍女は答えた。
「それは、ミリア様のものですから」
その言葉に、ミリアの目から涙がこぼれた。
今までのように、誰かを動かすための涙ではない。
誰かに可哀想だと思ってほしくて流す涙でもない。
ただ、役を失った自分の手に、まだ自分のものが残っていたことへの涙だった。
夕方、国境砦の庭では、リリアーナが白い石の前に小さな灯りを置いていた。
セレナの名が刻まれた石。
そして、名前のない二つの石。
灯りは三つ。
風に消えないよう、透明な覆いの中に入れられている。
カイゼルが隣に立ち、静かにその光を見つめていた。
「残滓の解放には、しばらく時間がかかるそうです」
「ああ」
「急がなくていいのですね」
「ああ」
「待っている間も、お名前を探してくれる」
「王国と皇国の記録を、両方調べている」
リリアーナは、空白の石を見つめた。
「見つかるでしょうか」
「分からない」
「はい」
確認できないことを、無理に希望で埋めない。
それでも、探すことはできる。
「見つからなくても、ここにいたことは忘れません」
「ああ」
「でも、見つかってほしいです」
「ああ」
両方の気持ちを、カイゼルはそのまま受け止める。
リリアーナは、小さく笑った。
「陛下は、私が迷っていても急かしませんね」
「急かす理由がない」
「王国では、いつも早く答えを出すよう求められていました」
「ここでは待てばいい」
「はい」
三つの灯りが、夕暮れの庭で静かに揺れる。
一つには名前がある。
二つには、まだない。
それでも光の大きさは同じだった。
リリアーナは胸元の星飾りへ触れた。
「解放する時、私は取り込まないと約束します」
「ああ」
「背負いません」
「ああ」
「ただ、扉を開ける手伝いをします」
「それならいい」
カイゼルの声は穏やかだった。
「彼女たちがどこへ行くかは、彼女たちの光が選ぶ」
「はい」
誰かの未来を、代わりに決めない。
死者であっても。
残された光であっても。
選ぶものとして扱う。
その考えに、星飾りが淡く応えた。
三つの灯りの上へ、小さな星屑が一粒ずつ落ちる。
セレナの石。
名前のない二つの石。
それぞれの灯りが、僅かに明るくなった。
遠く王国の共同保全箱の中で。
三本の小瓶に残る光もまた、一度だけ静かに瞬いた。
誰かの聖女になるための光ではない。
誰かの価値を証明する道具でもない。
王国の結界を支える燃料でもない。
名前を持つ者と。
まだ名前を取り戻せていない者の。
ただ、それぞれの光だった。
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