第40話 聖女ではなかった少女
検査室に灯った淡い金色の光は、美しかった。
柔らかく、温かく、見る者に祝福を思わせる色。
かつて神殿の広間で、ミリアが初めて聖女候補として選ばれた時と同じ光だった。
あの日、神官たちは歓声を上げた。
侍女たちは涙を流し、ミリアは女神に選ばれたのだと告げられた。
アルヴィスも、その光を見て彼女を信じた。
リリアーナではなく、ミリアこそが王国に必要な聖女なのだと。
けれど今。
白銀の器から伸びた細い光は、ミリアの手へ絡みつくように輝いている。
彼女の身体から生まれているのではない。
女神の雫と呼ばれていた聖水の中から、外側へ引き出された光だった。
「光源は、聖水側です」
皇国魔術師の声が、静かな検査室に落ちた。
「ミリア・ロゼット嬢の生来の加護ではありません」
ミリアは、意味を理解できなかった。
いや。
理解したくなかった。
「……何を、言っているのですか」
声が震える。
皇国魔術師は測定石へ視線を落としたまま、説明を続けた。
「あなた自身にも、魔力へ反応する素養はあります。聖水に含まれる光の残滓を受け入れ、外へ現すだけの適性もある。しかし、いま発現している金色の光は、あなたの内側から生まれたものではありません」
「違います」
「測定結果は」
「違う!」
ミリアの叫びが、検査室の白い壁に響いた。
彼女は白銀の器から手を引いた。
その瞬間、金色の光が途切れる。
指先にも、掌にも、一粒の光も残らなかった。
「ほら……」
ミリアは慌てて両手を組んだ。
「見ていてください。私は祈れます。私は、光を出せますから」
目を閉じる。
何度も唱えた祈りの言葉を口にする。
「女神様。どうか、あなたの祝福を……」
何も起きない。
ミリアはさらに強く目を閉じた。
「どうか、王国をお守りください。皆様へ、光を……」
指先に力を込める。
息が浅くなる。
額に汗が滲む。
それでも、光は灯らなかった。
「お願い……」
声が掠れる。
「お願いだから、光って……!」
白銀の器に残る聖水だけが、淡く金色に揺れている。
ミリアの両手は暗いままだった。
「違う……」
彼女は目を開け、首を横に振る。
「今日は調子が悪いだけです。聖女認定式の時に、たくさん力を使ったから。神殿の騒ぎもあって、眠れていなくて」
「体調を考慮し、再検査することは可能です」
王国魔術師が答える。
「ですが、女神の雫を使用しない状態では、これまでの測定でも聖女の加護に該当する反応は確認されておりません」
「そんなはずない!」
ミリアは、検査台に置かれた測定石を払いのけた。
石が床へ落ち、硬い音を立てる。
王宮警備隊が一歩前へ出た。
女性法務官が片手を上げ、彼らを止める。
「ミリア嬢。落ち着いてください」
「私に落ち着けと言うの?」
ミリアは涙を浮かべて、法務官を睨んだ。
「私が聖女ではないって、皆で決めつけて。今まで信じていたものを全部偽物だって言って。それで、落ち着いて聞けと言うのですか」
「偽物だったと決めたわけではありません」
「同じでしょう!」
涙が頬を伝う。
「私の光じゃないって言った! 私が選ばれたわけじゃないって!」
誰も、すぐには答えなかった。
ミリアの声だけが、検査室に響いている。
皇国魔術師は、白銀の器へ視線を落とした。
「あなたは、神殿によって聖女の光を与えられた可能性があります」
「与えられた……」
「はい」
「では、私はやはり選ばれたのでしょう?」
ミリアは縋るように尋ねた。
「神殿が、たくさんいる女の中から私を選んだ。光を与えられるだけのものが私にあった。なら、私は特別なのでしょう?」
「魔力適性があったことは事実です」
「だったら」
「ですが、それは女神に選ばれた証明ではありません」
老いた王国魔術師が、苦しげに言った。
「少なくとも、神殿が告げていた意味での聖女ではない」
「……」
「あなたが悪いという話ではありません。適性試験の仕組みを知らされていなかったのであれば、神殿に偽りを信じ込まされた被害者でもある」
「被害者」
ミリアの瞳が揺れる。
その言葉は、彼女がずっと求めてきたものだった。
可哀想な少女。
傷つけられた被害者。
守られるべき存在。
それなのに、なぜ今は少しも安心できないのか。
「なら、私は悪くないのですね」
ミリアは法務官を見た。
「私は神殿に騙されていた。光が自分のものだと信じさせられていた。なら、私も被害者です。リリアーナ様だけではなく、私も」
「神殿による聖女選定については、その可能性があります」
「では、もう私を責めないでください」
女性法務官は、静かにミリアを見つめた。
「それと、リリアーナ嬢への証言は別です」
「また、それを言うのですか」
「はい」
声音は穏やかだった。
だが、少しも揺らがない。
「あなたが神殿に利用されたことは、あなたがリリアーナ嬢を証拠なく加害者と訴えた責任を消しません」
「私は、嘘をついたつもりはありません」
「つもりの有無も、すでに記録されています」
「では、どうすればいいのですか!」
ミリアは両手で机を叩いた。
「私も騙されていた。私も選ばれた役を信じていただけ。なのに、神殿だけではなく私も悪いと言われる。では、私はどうしたら許されるのですか」
「許されるために事実を話すのではありません」
「……え?」
「何があったのかを明らかにするために、話していただくのです」
ミリアは呆然と法務官を見た。
「許されるかどうかを決めるのは、あなたではありません。リリアーナ嬢へしたことについては、リリアーナ嬢があなたを許す義務もありません」
「そんな……」
「それでも、あなたは自分がしたことを認める必要があります」
ミリアの顔が歪む。
認める。
何を。
自分は可哀想だった。
リリアーナが怖かった。
アルヴィスの隣にいたかった。
聖女になりたかった。
だから、リリアーナが自分を害したと思った。
そう言えば、皆が信じた。
アルヴィスが守ってくれた。
その結果、リリアーナは処刑台へ立った。
「私は……あの方が死ぬとは思っていませんでした」
声が、小さく落ちた。
記録官の羽根ペンが動く。
「婚約を破棄されて、王宮から追い出されるだけだと思っていました。私がアルヴィス様の隣に立てるようになって、それで終わると」
「処刑命令が出た時は」
「怖かったです」
ミリアは唇を震わせた。
「でも、止めたら皆に疑われると思って。私が嘘をついていたと思われるから。だから……何も言えなかった」
「リリアーナ嬢が無実かもしれないと、その時点で考えましたか」
「……」
沈黙。
ミリアの肩が震える。
「考えました」
掠れた声だった。
「少しだけ。でも、認めたくなかった。もしリリアーナ様が悪くなかったら、悪いのは私になるから」
記録官のペンが、紙を走る。
ミリアは、その音を聞きながら涙を流した。
「私は聖女になりたかったんです」
「はい」
「アルヴィス様に選ばれたかった。皆に、必要だと言ってほしかった。だから、リリアーナ様が邪魔だった」
初めて、その言葉を言った。
嫉妬。
恐怖。
選ばれたいという執着。
綺麗な祈りや涙の下に隠してきたもの。
口にした途端、身体から力が抜けた。
「私は……聖女でも、被害者だけでもなかったのですね」
誰も答えなかった。
答えは、ミリア自身が見つけなければならないものだった。
検査結果と証言は、その日のうちに王宮へ届けられた。
国王エルネストは報告書を読み、長く沈黙した。
同席している宰相エドガー、ギルベルト、王宮魔術師団長も、それぞれ険しい表情をしている。
「女神の雫を使わない状態では、聖女の加護は確認されず」
「はい」
魔術師団長が答える。
「ミリア嬢には一般的な光属性魔力があります。希少ではありますが、聖女の加護とは異なります。神殿の聖水に含まれる残滓へ反応し、一時的に光を増幅させていたものと思われます」
「つまり、彼女は偽聖女を名乗るために自ら力を偽装したわけではない」
「その仕組みは知らなかった可能性が高いでしょう」
「だが、リリアーナへの訴えについては」
宰相が別の報告書を開いた。
「ミリア嬢自身が、リリアーナ嬢が無実かもしれないと考えながら、処刑命令を止めなかったと認めた」
「はい」
エルネストは目を閉じた。
神殿が偽りの聖女を作った。
ミリアはその偽りを信じた。
そして、聖女という役を守るためにリリアーナを悪役令嬢へ押し込んだ。
「罪状を整理せよ」
王は低く命じた。
「神殿による聖女選定の欺瞞と、ミリア・ロゼット本人の証言行為を分ける。神殿に利用された事実を考慮する一方、虚偽に近い訴えと処刑阻止を怠った責任は問う」
「承知いたしました」
「ミリア嬢の身分は」
「聖女候補から正式に除外すべきでしょう」
宰相の言葉に、エルネストは頷いた。
「そうせよ。だが、王宮や神殿の都合で彼女一人へすべてを押しつけることは認めぬ」
「はい」
「王太子も、神殿も、王家も責任を負う」
ギルベルトは、静かにその言葉を聞いていた。
ミリアを許せるわけではない。
娘は彼女の言葉によって処刑台へ立たされた。
だが、ミリア一人を悪女に仕立て、すべてを終わらせるなら。
それは、リリアーナを悪役令嬢へ仕立てた時と同じ構図になる。
「陛下」
ギルベルトが口を開いた。
「一つ、お願いがございます」
「何だ」
「ミリア・ロゼット嬢への処分が決まる前に、すべての証言と神殿による関与を公にしてください」
「理由は」
「彼女一人に罪を押しつければ、神殿も王太子府も逃げます」
ギルベルトの声は硬かった。
「娘が求めているのは、別の悪役令嬢を作ることではないはずです」
「……そうだな」
エルネストは深く頷く。
「事実をすべて明らかにする。その上で、それぞれの責任を問う」
「ありがとうございます」
それがミリアへの情けではない。
リリアーナの冤罪を、本当の意味で正すために必要なことだった。
王太子宮では、アルヴィスにも検査結果が伝えられた。
ミリアの光は、生来の聖女の加護ではなかった。
神殿の聖水によって、一時的に与えられたものだった。
アルヴィスは報告書を見つめたまま、動かなかった。
「……聖女ではなかった」
ルーカスは、少し離れた場所で控えている。
「はい」
「私は、何を選んだのだろうな」
「殿下」
「聖女だから選んだのか。頼ってくれたから選んだのか。リリアーナに劣等感を抱いていたから、彼女と反対の女を選んだのか」
答えは一つではなかった。
ミリアは可憐だった。
自分を見上げ、頼り、守ってほしいと言った。
その姿が愛おしいと思ったことは、嘘ではない。
けれど。
聖女候補という名がなければ。
リリアーナを悪女として裁く理由がなければ。
自分は同じようにミリアを選んだだろうか。
「ミリアに会いたい」
アルヴィスは呟いた。
ルーカスの表情がわずかに強張る。
「接触は禁止されています」
「分かっている」
「では」
「会って、問い詰めたいわけではない」
アルヴィスは目を伏せた。
「彼女もまた、神殿に選ばれた役を信じていた。だが、だからといってリリアーナへしたことは消えない。私は……その二つをどう見ればいいのか、分からない」
「いま、答えを出される必要はないかと」
「そうか」
以前なら、即座に善悪を決めた。
ミリアは善。
リリアーナは悪。
分かりやすく分けることで、自分は迷わずに済んだ。
だが今は、誰かが被害者であり加害者でもあることを、受け止めなければならない。
それは、正義を振りかざすよりずっと苦しかった。
「私は、簡単な物語を信じすぎたのだな」
アルヴィスの声は、疲れていた。
「聖女と、悪役令嬢という」
ルーカスは何も言わなかった。
その沈黙の中で、アルヴィスは自分の言葉の重さを受け止めていた。
国境砦へ報告が届いた頃、リリアーナはセレナの名を刻んだ白い石の前に座っていた。
庭には二輪目の白い花が咲いている。
刺繍の星は、今日も少し歪んだまま風に揺れていた。
カイゼルが隣に立ち、王国からの報告を伝える。
「ミリアの検査が終わった」
「はい」
「彼女に生来の聖女の加護はなかった。一般的な光属性魔力はあるが、聖女の光は神殿の聖水から与えられたものだった」
「そうですか」
リリアーナは、静かに息を吐いた。
驚きはある。
けれど、どこか予想していた結果でもあった。
「ミリア様は、知っていたのですか」
「知らなかった可能性が高い」
「……つらいでしょうね」
「ああ」
リリアーナは、セレナの名を見る。
過去の星霜の加護持ちから奪われた光。
それを与えられ、聖女だと信じたミリア。
誰かから奪ったものだと知らずに、それを自分の価値だと思っていた。
「でも」
リリアーナは膝の上で手を握った。
「私が無実かもしれないと思いながら、処刑を止めなかったことを認めたのですね」
「ああ」
「そうですか」
胸が痛む。
ミリアも神殿に利用された。
それでも。
自分が処刑台に立った時、彼女は黙っていた。
その事実は、消えない。
「私は、ミリア様を許せません」
リリアーナは、はっきりと言った。
「今は」
「ああ」
「でも、聖女ではなかったと知って苦しむことを、喜びたいとも思いません」
「ああ」
「変でしょうか」
「いいや」
カイゼルは迷わない。
「君が何を感じるかは、君が決めることだ」
「はい」
リリアーナは、少しだけ目を伏せた。
「ミリア様が聖女ではなかったから、私が正しかったわけではありません」
「君が正しいのは、罪を犯していないからだ」
「……はい」
その言葉に、リリアーナは顔を上げる。
カイゼルは、静かに続けた。
「君の無実は、ミリアの光が偽物だったことに依存しない。彼女が本物の聖女だったとしても、君へ罪を着せてよい理由にはならない」
「そう、ですね」
リリアーナは胸元に手を置いた。
自分とミリアを比べなくていい。
どちらが本物か。
どちらが選ばれたか。
その競争に、自分まで戻る必要はない。
「私は、星霜の加護があるから価値があるのではありませんね」
「ああ」
「ミリア様も、聖女ではないから価値がないわけではない」
「ああ」
「でも、したことの責任は取らなければならない」
「その通りだ」
一つずつ、言葉にする。
役割と人。
価値と力。
被害と責任。
それらを分ける作業は、簡単ではない。
けれど、リリアーナはもう、分かりやすい物語に誰かを押し込めたくなかった。
「陛下」
「何だ」
「私は、悪役令嬢ではありません」
「ああ」
「ミリア様も、偽聖女という名前だけの人ではないのでしょうね」
「そうだろうな」
「それでも、私は彼女のしたことを許せません」
「ああ」
カイゼルの答えは、どれも変わらない。
リリアーナは、その揺るがなさに支えられる。
「少しずつ、分けて考えられるようになった気がします」
「成長したな」
「そうでしょうか」
「ああ」
リリアーナは、ほんの少し照れたように笑った。
そして、セレナの白い石へ視線を落とす。
「奪われた光は、どうなるのでしょう」
「皇国魔術師団が、残滓を祭壇から切り離す方法を調べている」
「過去の方々へ返せるのですか」
「亡くなった者へ、力そのものは返せない」
「……そうですね」
「だが、神殿の道具として使われ続けることは止められる」
「はい」
それだけでも、意味はある。
奪われたものを完全には戻せない。
失われた命も、消された時間も。
それでも、これ以上使わせないことはできる。
名前を戻すことも。
何があったのかを記録することも。
「私も、残滓を解放する時に立ち会いたいです」
リリアーナは言った。
カイゼルの眉がわずかに寄る。
「王国へ行くという意味ではありません」
「分かっている」
「皇国側でできる方法があるなら。星飾りを通して、何かできるなら」
「負担を調べてからだ」
「はい」
「無理なら認めない」
「はい」
以前なら、すぐに自分を差し出そうとした。
今は条件を受け入れられる。
身体への負担を調べる。
無理ならやらない。
それでも、できる範囲で関わりたい。
「私が救わなければ、ではありません」
「ああ」
「私が、そうしたいのです」
「分かった」
カイゼルは頷いた。
リリアーナは、白い石の前に咲く花を見つめる。
セレナ。
まだ名の分からない二人。
そして、神殿に光を与えられたミリア。
みな、役割によって人生を歪められた。
けれど、それぞれの痛みも責任も、同じではない。
リリアーナは、胸元の星飾りへ触れた。
「私は、私の光を誰かから奪われたものにしたくありません」
「ああ」
「自分で選んで、使いたいです」
「そうしろ」
星飾りが、穏やかに瞬いた。
誰かに与えられた聖女の光ではない。
王国に所有された星でもない。
リリアーナ自身の意思に応える光だった。
その日の夜。
王国神殿の保護室で、ミリアは鏡の前に立っていた。
聖女候補の白い衣装は、もうない。
首元の聖印も回収された。
鏡に映るのは、淡い金髪と泣き腫らした目を持つ、一人の少女だけだった。
「私は……誰なの」
聖女ではない。
王太子妃でもない。
被害者だけでもない。
悪女だと切り捨てられるだけの存在でもない。
何の役もなくなった鏡の中で。
ミリアは初めて、自分自身の顔を見ようとしていた。
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