第39話 偽りの聖女を作ったもの
王国大聖堂の隠し石室で、新たな文字が現れた翌朝。
皇国魔術師団は、予定していた調査の手を止めた。
『忘れないで』
石壁に淡く浮かび上がったその言葉は、夜が明けても消えていなかった。
白い光はごく弱い。
だが、松明や魔石灯を消しても、文字だけは闇の中で静かに残り続けている。
老魔術師は、長い間その言葉を見つめていた。
「リリアーナ様が、セレナという名を口にされた時刻と一致します」
若い皇国魔術師が記録を見ながら言った。
「国境砦から届いた報告によれば、星飾りが反応したのは昨日の夕刻。こちらで文字が現れたのも、ほぼ同時刻です」
「距離を越えて、残留した加護が応えたのですね」
王宮魔術師が、石の椅子へ目を向ける。
拘束具には、いまだ微かな星霜の光が残っていた。
そこに温かさはない。
長い痛みと、諦めと、それでも消えなかった意志だけが染みついているようだった。
「名を覚えられたことで、反応したのかもしれません」
老魔術師は静かに言った。
「星霜の加護は、土地だけでなく、記憶とも深く結びついている。忘れられ、名前を消された者の意志が、同じ加護を持つリリアーナ様へ届いたのでしょう」
「では、残る二人についても、名前が分かれば」
「何らかの反応がある可能性はあります」
しかし、石室に残された記録の多くは、意図的に破壊されていた。
表紙は削られ、頁は切り取られ、名を示す部分だけが黒い薬液で塗り潰されている。
神殿は、星霜の加護持ちを人として残すつもりがなかったのだ。
必要だったのは、王国を守る力。
死後に民を感動させる殉教譚。
そこに、本人の名や願いは必要なかった。
「こちらへ来てください」
書棚を調べていた王宮魔術師が声を上げた。
彼の前には、一見すると何の変哲もない木箱が置かれている。
だが、蓋の縁には細かな術式が刻まれていた。
老魔術師が銀の杖をかざすと、術式が淡い紫色に光る。
「神殿式の保存結界です」
「記録書でしょうか」
「いや……これは、魔力を保存する術式です」
その言葉に、周囲の表情が変わった。
老魔術師は慎重に封印を解く。
木箱の蓋を開けると、中には透明な小瓶が十数本並べられていた。
ほとんどは空だった。
だが、三本だけ、底にごく僅かな光の粒が残っている。
白。
淡い銀。
そして、薄い金色。
「これは……」
若い魔術師が息を呑む。
老魔術師は小瓶へ直接触れず、杖の先で魔力を測った。
白と銀の光へ杖を近づけると、星霜の術式が微かに反応する。
金色の光は性質が異なった。
温かく見える。
だが、その中心は空虚だった。
「星霜の加護の残滓です」
老魔術師は低く言った。
「過去の宿り手から採取したものと思われます」
「加護を、瓶に保存していたのですか」
「保存というより、抽出でしょう」
石室の空気がさらに冷えた。
加護持ちを拘束し、王国結界へ接続する。
その身体から、光を取り出す。
死後も残滓を保存し、祭壇や術具へ使う。
神殿が星霜の加護をどのように扱っていたのか。
その答えが、少しずつ明らかになっていく。
法務官は顔を強張らせながら命じた。
「すべて証拠として保全してください。瓶の本数、残留魔力、箱の術式、保管位置を記録」
「はい」
記録官たちが動き出す。
老魔術師は、薄い金色の光が残る小瓶を見つめた。
星霜の加護ではない。
だが、完全に無関係とも思えない。
星霜の残滓を何度も別の術式へ通し、性質を薄めたような歪みがある。
「こちらの金色は何でしょう」
「調べます」
老魔術師が別の測定石を取り出した。
小瓶の周囲へ数個の魔石を置き、細い光の糸で繋ぐ。
金色の粒が、僅かに浮かび上がった。
それに反応して、測定石の一つが淡く輝く。
王宮魔術師の顔色が変わった。
「これは、聖女候補の適性試験に使われる光と似ています」
「適性試験?」
「はい。神殿では、祈りによって金色や白金色の光を発現した者を、聖女候補として選びます。ミリア・ロゼット嬢も、同様の試験で光を示したと記録されています」
「その試験に、何かの祭具を使いますか」
「女神の雫と呼ばれる聖水を、額と両手へ一滴ずつ」
老魔術師の目が鋭くなる。
「その聖水を調べる必要があります」
「まさか」
「過去の星霜の加護の残滓が、混ぜられている可能性があります」
誰もすぐには言葉を発せなかった。
聖女候補の光。
神殿が、女神の祝福として示してきた奇跡。
その正体が、過去に拘束された星霜の加護持ちから抽出した光だったとしたら。
「では、ミリア嬢の光は」
王宮魔術師の声が掠れた。
「本人の加護ではない可能性がある」
「まだ断定はできません」
老魔術師は慎重に答えた。
「彼女自身に、光へ反応する魔力適性があることは間違いないでしょう。まったく素養のない者へ残滓を与えても、光は出ません。ですが、彼女が示した光が生来の聖女の加護なのか、神殿の聖水によって一時的に引き出されたものなのかは、調査が必要です」
「神殿は、聖女を見つけていたのではなく」
「作っていた可能性があります」
その言葉が、石室に重く落ちた。
王宮へ緊急報告が届いたのは、正午を少し過ぎた頃だった。
国王エルネストは、報告書を読み進めるほどに顔を険しくしていった。
宰相エドガー、ギルベルト、王宮魔術師団長が同席している。
「星霜の加護を抽出した小瓶」
「はい」
「聖女候補の適性試験で使われる光と、性質が似ている」
「現時点では、そのように」
魔術師団長は慎重に答える。
「神殿が適性試験で使用する“女神の雫”を回収し、比較する必要があります」
「すぐに押収せよ」
「神殿側は、最高機密にあたるとして抵抗するかと」
「構わぬ」
エルネストは即答した。
「人を拘束し、加護を抽出した疑いがある以上、機密などという言葉で守らせるものか」
「承知いたしました」
宰相は、報告書の一文へ視線を落とす。
「ミリア・ロゼット嬢が受けた適性試験も、調べ直す必要があります」
「当然だ」
エルネストは、重く頷いた。
「ただし、間違えるな。ミリア嬢の光が神殿によって作られたものであったとしても、彼女がリリアーナへ虚偽に近い訴えを行ったこととは別の問題だ」
「はい」
「神殿に利用された被害者である可能性と、他者を傷つけた責任は両立する」
ギルベルトが静かに口を開く。
「その点を、曖昧にしないでいただきたい」
「ああ」
エルネストは彼を見る。
「ミリア嬢が神殿に利用されていたからといって、リリアーナが受けた傷が消えるわけではない」
「ありがとうございます」
ギルベルトは頭を下げた。
娘を傷つけた者の中にも、利用された者がいる。
その事実は複雑だった。
だが、複雑だからこそ、一つにまとめてはならない。
神殿の罪。
ミリアの証言。
アルヴィスの判断。
父として自分が守らなかったこと。
それぞれが別の責任を持つ。
「女神の雫を押収した後、ミリア嬢本人の魔力検査を行う」
エルネストは命じた。
「彼女へは、結果を隠すな。ただし、本人が精神的に不安定であることも考慮せよ」
「はい」
「それから、神殿の過去の聖女認定記録を、さらに遡れ」
「何代分まで」
「残っている限りすべてだ」
王は低く言った。
「王国が崇めてきた聖女たちが、本当に自らの意思で祈っていたのか。神殿に何をされたのか。すべて調べる」
その日の午後、王宮警備隊は神殿の聖具保管室へ入った。
女神の雫は、白銀の箱に収められていた。
神殿の上位神官たちは、最後まで引き渡しに抵抗した。
「これは聖女選定にのみ用いられる聖なる水です」
「だからこそ、成分を調べる」
「異国の魔術師へ渡すなど」
「王国魔術師団と皇国魔術師団の共同調査です」
法務官は冷静に告げる。
「拒否は、国王陛下の命に対する反逆とみなされます」
上位神官は顔を歪めた。
だが、もはや神殿に命令を拒める力は残っていない。
白銀の箱が開かれる。
中には、小さな水晶瓶が十二本。
透明な聖水は、一見すれば何の異常もない。
だが、皇国魔術師が銀の杖をかざした瞬間。
水晶瓶の中に、淡い金色の光が浮かび上がった。
石室で見つかったものと、同じ色だった。
「反応が一致しています」
若い魔術師が顔を強張らせる。
王国側の記録官が、息を呑んだ。
「では、本当に」
「詳細な解析が必要です。ただ、少なくとも無関係ではありません」
上位神官の一人が、突然声を上げた。
「それは女神より授かった光だ!」
「証明できますか」
「古くから、そう伝えられている」
「誰が伝えたのです」
「神官長が」
「その神官長は、星霜の加護持ちを拘束する祭壇具を使用しました」
法務官の声は冷たかった。
「伝承ではなく、記録と成分を確認します」
上位神官は黙り込む。
白銀の箱は封印され、王宮管理下へ移された。
神殿が聖女を選ぶために使ってきた光は、もう神聖という言葉だけでは守られない。
保護室へ報せが届いた時、ミリアは最初、意味を理解できなかった。
「私の光が……神殿の聖水で作られた?」
告げに来た女性法務官は、穏やかだが明確な声で答える。
「まだ確定ではありません。聖女候補の適性試験に使われた聖水と、過去の星霜の加護から抽出されたと見られる魔力残滓に、類似性が確認されました」
「そんなはずありません」
ミリアは即座に否定した。
「私は祈って、光を出しました。皆が見ていました」
「あなた自身に魔力適性があることは否定されていません」
「なら、私は聖女です」
「その光が何によって生じたものかを、これから確認します」
「私は聖女です!」
叫びが部屋に響いた。
法務官は、少しも動じない。
ミリアは立ち上がり、胸元を押さえた。
「私は選ばれたんです。アルヴィス様に。神殿に。皆に」
「ミリア嬢」
「リリアーナ様ではなく、私が!」
自分の声が、ひどく幼く聞こえた。
それでも止められない。
聖女でなければならない。
もし光まで偽物なら。
自分は、何のためにリリアーナを憎んだのか。
何のためにアルヴィスの隣へ立とうとしたのか。
何のために、可哀想な少女として泣いてきたのか。
「検査など、受けません」
「国王陛下の命です」
「嫌です」
「拒否された場合も、その事実は記録されます」
「何でも記録、記録って……!」
ミリアは両手で耳を塞いだ。
「もう嫌! どうして皆、私を責めるの! 私は何も知らなかったのに!」
「知らなかったことと、事実を確認することは別です」
「私は、利用されたのでしょう!? なら私も被害者です!」
法務官は、僅かに間を置いた。
「神殿に利用された可能性については、調査します」
「なら」
「ですが、リリアーナ嬢を加害者だと訴えた責任は別です」
ミリアの顔が凍りつく。
「別……」
「はい。あなたが被害を受けた可能性と、あなたの言葉によってリリアーナ嬢が処刑台へ立たされたことは、どちらも存在します」
ミリアは、何も言えなかった。
被害者なら、責められないと思っていた。
可哀想なら、許されると思っていた。
けれど、そうではない。
自分が傷つけられた可能性と。
自分が誰かを傷つけたことは。
同時に存在する。
「検査は明日の午前です」
法務官は静かに告げた。
「体調に問題があれば延期します。ですが、理由なく拒否することは認められません」
扉が閉まる。
ミリアは、その場に立ち尽くした。
やがて力が抜け、床へ座り込む。
「私の光まで、偽物なの……?」
答える者はいなかった。
手のひらを見つめる。
祈れば、まだ光は出るだろうか。
ミリアは震えながら両手を組んだ。
「女神様……」
祈る。
だが、光は出ない。
恐怖で集中できないだけかもしれない。
それでも、胸の奥がさらに冷たくなる。
「お願い……私を選んで」
何度祈っても、その日は一粒の光も灯らなかった。
国境砦では、リリアーナが白い花の咲く庭で、過去の星霜の加護持ちについての報告を待っていた。
セレナ以外の名は、まだ分かっていない。
それでも、王国が調査を進め、消された記録を戻そうとしていることは聞いていた。
胸は痛む。
だが、知ったことを後悔してはいない。
カイゼルが庭へ来た時、リリアーナは刺繍の星の前に、小さな白い石を置いていた。
石には、一つの名前が刻まれている。
『セレナ』
クララが、砦の職人に頼んで作ってくれたものだった。
「墓石ではありません」
リリアーナは、カイゼルへ説明した。
「セレナ様がどこに眠っているか分かりませんから。ただ、ここでお名前を覚えていたくて」
「ああ」
「勝手でしょうか」
「いいや」
カイゼルは、白い石を見下ろした。
「彼女が望んだのは、星として祀られることではない。人として覚えられることだろう」
「私も、そう思います」
リリアーナは、石の前に白い小花を一輪置いた。
庭に咲いた最初の花ではない。
自然に落ちた花を、クララが拾ってくれたものだ。
無理に摘むことはしなかった。
「新しい報告がある」
カイゼルが言う。
リリアーナは立ち上がった。
「過去の方のお名前が分かりましたか」
「いや。別の件だ」
カイゼルの表情は硬い。
「隠し石室から、過去の星霜の加護を抽出したと見られる小瓶が見つかった」
「加護を……抽出」
「ああ。そして、その残滓の一部が、神殿で聖女候補を選ぶために使われてきた可能性がある」
「では、ミリア様の光は」
「神殿が与えたものかもしれない」
リリアーナは、言葉を失った。
ミリアの光。
誰もが清らかだと褒めた光。
アルヴィスが本物の聖女の証だと信じた光。
それが、過去に拘束された女性たちから奪ったものかもしれない。
「ミリア様は、知っていたのでしょうか」
「現時点では、知らなかった可能性が高い」
「そうですか」
リリアーナは目を伏せた。
胸に浮かんだのは、喜びではなかった。
偽聖女の正体が暴かれた。
自分が本物だった。
そう勝ち誇る気持ちにはなれない。
ミリアもまた、神殿に作られた役を信じていたのかもしれない。
「可哀想だと、思ってしまいます」
リリアーナは正直に言った。
カイゼルは否定しない。
「ですが、私を傷つけたことは許せません」
「ああ」
「両方、思っていてよいのですね」
「ああ」
カイゼルは静かに答えた。
「彼女が神殿に利用されたことと、君を傷つけたことは別だ」
「王国も、同じように調べていると聞きました」
「国王が、そう命じた」
「……よかったです」
リリアーナは、セレナの名が刻まれた白い石を見る。
「誰かが被害者だったからといって、別の誰かへしたことが消えるわけではない。でも、悪いことをした人だからといって、その人が傷つけられたことまでなかったことにはしたくありません」
「君は、やはり優しい」
「利用されません」
リリアーナはすぐに言った。
カイゼルの目が、僅かに和らぐ。
「分かっている」
「ミリア様を可哀想と思っても、王国へ戻りません」
「ああ」
「許したわけでもありません」
「ああ」
「助けなければならない責任も、私にはありません」
「その通りだ」
一つずつ言葉にして、境界線を確かめる。
優しく思うこと。
許すこと。
助けること。
自分を差し出すこと。
それらはすべて別なのだ。
リリアーナは、静かに息を吐いた。
「ミリア様には、ご自分の光が何だったのか知る権利があると思います」
「ああ」
「つらくても」
「隠されるよりはいい」
「はい」
風が吹き、刺繍の星が揺れた。
セレナの白い石の上へ、柔らかな光が落ちる。
リリアーナはその光を見つめた。
「誰かに与えられた役ではなく、自分が何者なのかを知るのは、怖いことですね」
「ああ」
「でも、知らなければ、自分で選べません」
「そうだな」
その言葉は、ミリアへ向けたものでもあり。
過去の星霜の乙女たちへ向けたものでもあり。
リリアーナ自身へ向けたものでもあった。
翌朝。
王国神殿の検査室で、ミリアの魔力と女神の雫を照合する試験が始まった。
白銀の器へ聖水が一滴落とされる。
そこへ、ミリアが震える手をかざす。
淡い金色の光が灯った。
だがその光は、ミリアの身体から生まれてはいなかった。
聖水から伸びた細い光が、彼女の魔力へ絡みつき、外側から輝かせていた。
皇国魔術師は、測定石を見つめて低く告げた。
「光源は、聖水側です」
ミリアの顔から、完全に血の気が引いた。
「ミリア・ロゼット嬢の生来の加護ではありません」
聖女の光は、彼女のものではなかった。
それは、神殿が過去の星から奪い、与えた光だった。
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