第38話 消された星霜の乙女
王国大聖堂の地下調査は、三日目を迎えていた。
皇国魔術師団と王宮魔術師、法務局の記録官、王宮警備隊が交代で祭具室へ入り、ひび割れた祭壇具と古文書の解析を続けている。
星を呼び戻す鎖は、すでに二重の封印結界に収められていた。
黒く変色した金の鎖は動かない。
それでも時折、結界の内側で微かな音を立てる。
まるで、遠く離れた何かをまだ探しているように。
老魔術師は、その音が鳴るたびに眉をひそめた。
「術式の本体は、ほぼ沈黙しています」
「ほぼ、ということは、完全ではないのですね」
王宮魔術師が尋ねる。
老魔術師は祭壇具から視線を離さず、静かに頷いた。
「鎖の術式は、この器具だけで完結していません。大聖堂そのもの、王都の結界、そして王国各地に置かれた古い聖堂を経由している可能性があります」
「王国全土に」
「正確には、かつて星霜の加護が守っていた土地を辿る構造です」
記録官の羽根ペンが止まった。
祭具室にいた王国側の者たちが、息を呑む。
単なる一つの危険な祭壇具ではない。
神殿は、王国の土地そのものを巨大な鎖として使おうとしていた。
「そのような大規模な術式を、神官長一人で作れるものなのですか」
「不可能でしょう」
老魔術師は即答した。
「これは、近年作られたものではありません。少なくとも二百年以上前から存在している。神官長は、残されたものを使ったに過ぎない」
「では、過去にも……」
王宮魔術師の声が掠れる。
老魔術師は、祭壇の奥にある石壁へ目を向けた。
壁には古い女神像の浮き彫りが施されている。
だが、よく見れば不自然な箇所があった。
女神像の足元。
他の部分より新しい石材で埋められている。
「そこを調べます」
警備隊長が一歩前へ出た。
「神殿側の許可は」
「必要ありません」
法務官が冷静に答える。
「現在、この祭具室は国王陛下の命により調査委員会の管理下にあります。隠し区画がある可能性を確認してください」
石工の知識を持つ兵士が壁を調べる。
指で軽く叩くと、埋められた部分だけ音が違った。
内側に空洞がある。
兵士たちは周囲の術式を傷つけないよう慎重に石を外していく。
やがて、人一人が通れるほどの狭い入口が現れた。
その奥には、下へ続く石段がある。
冷たい空気が吹き上がり、古い紙と湿った土の匂いが祭具室へ流れ込んだ。
「神殿から提出された見取り図に、この階段はありません」
記録官が青ざめた顔で言う。
法務官の目が冷たくなる。
「記録してください。大聖堂地下祭具室の奥に、未申告の隠し区画を発見」
「はい」
老魔術師は銀の杖に光を灯した。
「瘴気は薄い。ただし、古い封印が残っています。私が先に入ります」
「皇国の方だけを危険に晒すわけにはいきません」
王宮魔術師が並ぶ。
老魔術師は彼を一度見てから、短く頷いた。
「では、離れずに」
石段は深かった。
降りるほどに空気が冷たくなり、地上の光が遠ざかっていく。
壁には小さな星の印が刻まれていた。
だが、そのほとんどが刃物のようなもので削り取られている。
消そうとした跡だった。
階段の先には、小さな石室があった。
中央にあるのは、一脚の椅子。
石の床へ固定され、肘掛けと足元には黒ずんだ金具が取りつけられている。
椅子を囲む床には、星形の術式。
壁際には朽ちかけた書棚が並び、革表紙の記録書が積まれていた。
「これは……」
王宮魔術師が言葉を失う。
老魔術師の顔からも、血の気が引いていた。
「祭壇ではない」
彼は低く呟いた。
「拘束室です」
部屋の空気が凍りついた。
法務官は、石の椅子を見つめる。
金具の大きさは、成人女性の手足を固定するためのものだった。
「ここで、星霜の加護持ちを拘束していたのですか」
「おそらくは」
老魔術師は椅子へ近づく。
金具には、乾いた黒い染みが残っている。
銀の杖をかざすと、淡い光が震えた。
古い血。
瘴気。
そして、ごく微かな星霜の光の残滓。
「一人ではありません」
老魔術師の声が、さらに低くなる。
「異なる時代の魔力痕が、少なくとも三つあります」
「三人……」
誰かが息を呑んだ。
星霜の加護持ちは、過去にも存在した。
そして、神殿は彼女たちをここへ繋いだ。
王宮警備隊が書棚の記録を慎重に運び出す。
多くは湿気で傷み、表紙から題名が削られていた。
だが、一冊だけ、銀の留め具がついた薄い記録帳が残っている。
老魔術師が封印を調べ、危険がないことを確認してから開いた。
最初の数頁は、丁寧に切り取られている。
残っていたのは、途中からだった。
『星霜の乙女、第七十三日。王都結界への接続を継続。宿り手は食事を拒み、故郷へ戻りたいと訴える』
『星霜の乙女、第八十一日。北部の穢れは鎮静。宿り手の衰弱が進むも、王国安定のため接続を解除せず』
『星霜の乙女、第九十日。宿り手は、自らの光を王国へ与える意思はないと宣言。反抗と判断し、拘束を強化』
記録官の手が震えた。
それでも、文字を書き写す。
法務官は顔を歪めた。
「反抗……自分の力を使いたくないと言っただけで」
「神殿にとっては、王国へ光を与えないことが罪だったのでしょう」
老魔術師の声には、押し殺した怒りがあった。
頁をめくる。
『星霜の乙女、第百二日。光量低下。術式による感情誘導を実施。王国民の苦痛を幻影として見せ、責任感を刺激する』
『星霜の乙女、第百六日。宿り手、再び王国のために祈る。接続安定』
『星霜の乙女、第百十三日。宿り手、意識混濁。星霜の光、急激に減少』
次の頁は、黒く汚れていた。
文字の一部が読めない。
それでも、最後の数行は残っている。
『宿り手、死亡』
『王都および北部結界、一時崩壊』
『本件は聖女殉教として公表する。星霜の名は記録より削除』
誰も、言葉を発せなかった。
石室には、冷たい沈黙だけが満ちている。
死亡。
殉教。
そして、記録から削除。
王国を守った女性は、自ら望んで命を捧げた聖女として作り替えられた。
彼女が拒んだことも。
故郷へ帰りたいと願ったことも。
拘束され、心を操られたことも。
すべて消された。
「名前は」
王宮魔術師が掠れた声で尋ねる。
「この方の名前は残っていないのですか」
老魔術師が最初の頁を確認する。
切り取られている。
表紙も削られている。
だが、裏表紙の内側に、爪で引っかいたような傷があった。
灯りを近づける。
文字だった。
震える手で刻んだ、小さな名前。
『セレナ』
その下に、さらに短い一文が刻まれている。
『私は、星ではなく、人だった』
王宮魔術師が顔を覆った。
記録官の羽根ペンから、インクが一滴落ちる。
法務官は唇を強く結んだ。
「記録してください」
声は震えていた。
それでも、はっきりと命じる。
「過去の星霜の加護持ちと推定される女性、名はセレナ。神殿によって拘束され、本人の意思に反して王国結界へ接続。衰弱死後、聖女の殉教として記録を改ざんされた疑い」
「はい」
記録官が書く。
今度は、名前を消さないために。
人であった彼女を、星という役割だけに戻さないために。
老魔術師は石の椅子を見つめた。
「リリアーナ様も、ここへ連れてこられる可能性があった」
「……」
「処刑されず、神殿が先に星霜の加護へ気づいていれば。あるいは皇国に救われた後、王国へ連れ戻されていれば」
その先を、誰も言えなかった。
リリアーナもまた、この椅子へ繋がれていたかもしれない。
王国のため。
民のため。
加護持ちの使命のため。
そう言われ、自らの優しさを鎖に変えられて。
「すべて運び出してください」
法務官が言った。
「この部屋そのものも保存する。国王陛下、宰相閣下、神殿調査委員会へ緊急報告を」
「はい」
「そして、皇国へも」
「当然です」
老魔術師は、削られた壁の星を見つめた。
「リリアーナ様には、事実を伝えなければなりません」
「お身体への影響は」
「大きいでしょう」
彼の顔に苦悩が浮かぶ。
「それでも、ご本人に関わる歴史です。隠すべきではありません」
その日の午後、王宮へ届けられた緊急報告は、国王エルネストと宰相エドガー、ギルベルトを沈黙させた。
机の上には、隠し石室の見取り図。
拘束椅子の記録。
星霜の乙女セレナに関する記録の写し。
そして、彼女が残した一文。
『私は、星ではなく、人だった』
エルネストは、長くその文字を見つめた。
「神殿は……過去にも同じことをしていたのか」
「少なくとも一人については、記録が残っています」
宰相の声は硬い。
「魔力痕は三人分。さらに多くの加護持ちが拘束されていた可能性も否定できません」
「聖女の殉教として改ざんした」
「はい」
「人を縛り、力を奪い、死ねば美談にしたのか」
王の声には、怒りと嫌悪が滲んでいた。
ギルベルトは、報告書を持つ手を震わせている。
リリアーナが。
娘が。
もしカイゼルに救われていなければ、この石室へ連れていかれていたかもしれない。
星霜の加護を持つと判明した瞬間、神殿に保護という名で囲われ、王国のために光を使えと命じられたかもしれない。
「……処刑台だけではなかった」
ギルベルトが呟く。
「娘を待っていたのは、死だけではなかった」
生きたまま、役割へ繋がれる未来。
どちらがましだったなどとは、考えたくもなかった。
「神殿上層部の拘束範囲を広げる」
エルネストは決断した。
「星霜の加護に関する記録を閲覧、管理していた者をすべて調査対象とせよ。過去の記録改ざんも含め、徹底的に調べる」
「承知いたしました」
「神官長の聴取を急げ」
「医師からは、短時間であれば可能との報告が」
「ならば今日中に始めよ」
王は、セレナの最後の言葉へ視線を戻した。
「そして、この名前を正式な記録へ戻す」
「陛下」
「彼女を“名もなき聖女”のままにするな。セレナという一人の人間が、神殿に何をされたのかを記録せよ」
エドガーが、深く頭を下げる。
「承知いたしました」
王はようやく、過去に消された一人の女性へ、名前を返そうとしていた。
あまりにも遅い。
それでも、しなければならないことだった。
神殿の保護室では、ミリアにも隠し石室発見の噂が届いていた。
神官たちの話し声は、扉越しでも聞こえた。
過去の星霜の乙女。
拘束。
衰弱死。
記録の改ざん。
ミリアは、寝台の上で毛布を握りしめた。
「聖女の殉教……」
その言葉は、幼い頃から美しい物語として聞かされてきた。
王国のために命を捧げた聖女。
民を愛し、最後まで祈り続けた清らかな女性。
けれど、その正体が。
帰りたいと願い、拒み、拘束され、死んだ人だったとしたら。
「私も……」
声が漏れる。
自分も聖女になろうとしていた。
白い衣装をまとい、祭壇に立ち、王国のために祈る存在に。
神殿は自分を利用していた。
それは分かり始めている。
だが、もし自分の光が本物だったなら。
もし神殿にとって利用価値のある力だったなら。
自分もいつか、同じように繋がれていたのだろうか。
その考えに、身体が震えた。
リリアーナへの嫉妬は消えていない。
自分からすべてを奪ったと思う気持ちもある。
けれど初めて、別の恐怖が胸に生まれた。
リリアーナが救われなければ、どうなっていたのか。
そして、自分が神殿にとって本当に役立つ聖女だったなら、どうなっていたのか。
ミリアは、両手で顔を覆った。
「私、何も知らなかった……」
それは言い訳にはならない。
だが、初めて自分以外の誰かが受けた痛みへ、ほんの少しだけ想像が届いた瞬間だった。
国境砦へ報告が届いたのは、夕刻だった。
リリアーナは、カイゼルの執務室へ呼ばれた。
今回はクララとオルガだけでなく、老魔術師の代理として別の皇国魔術師も同席している。
その顔を見た時点で、よくない報告だと分かった。
リリアーナは椅子に座り、膝の上で手を重ねる。
「神殿の祭壇具について、新しいものが見つかったのですね」
「ああ」
カイゼルの声は低い。
「隠し石室があった」
「隠し石室」
「過去の星霜の加護持ちを拘束していた場所だ」
リリアーナの呼吸が止まった。
クララがすぐに手へ触れる。
カイゼルは、それ以上を急がない。
「続けてもいいか」
「……はい」
声が震えた。
それでも、リリアーナは頷いた。
「聞きます」
皇国魔術師が、慎重に報告を読み上げた。
石の椅子。
手足を固定する金具。
三人分の魔力痕。
記録に残された一人の女性。
セレナ。
王国へ光を与えることを拒み、感情を操られ、衰弱して死んだ星霜の加護持ち。
そして、最後に残した言葉。
『私は、星ではなく、人だった』
リリアーナの顔から血の気が引いた。
胸元の星飾りが、小さく震える。
光は出ない。
ただ、古い痛みに触れたように冷たくなった。
「セレナ様は……帰りたかったのですね」
「ああ」
「拒んだのに」
「ああ」
「王国のために、祈らされた」
声が掠れる。
「私と、同じように……」
「同じにはさせない」
カイゼルの声が、強く落ちた。
リリアーナは顔を上げる。
「君はここにいる。拒める。私たちがいる」
「でも、もし陛下が来てくださらなかったら」
考えたくない。
けれど、考えてしまう。
処刑されなければ。
星霜の加護が発覚していたら。
神殿に保護されていたら。
あの石の椅子に、自分が座っていたかもしれない。
「怖いです」
リリアーナは、正直に言った。
「私も、名前を消されていたかもしれない」
「消させない」
カイゼルは即答した。
「君はリリアーナだ。星霜の乙女ではない。王国の加護でもない。役割が先にあるのではない」
「……はい」
涙がこぼれる。
クララが手を握る。
オルガが静かに寄り添う。
リリアーナは震えながらも、胸元の星飾りを握った。
「セレナ様の名前を、覚えていたいです」
「ああ」
「王国のために死んだ聖女ではなく、帰りたいと願った一人の人として」
「ああ」
リリアーナは、涙を拭った。
「私にできることはありますか」
「今すぐ何かをする必要はない」
「はい」
一度受け止める。
すぐに役へ変えない。
リリアーナは深く息を吸った。
「では、今は覚えます。セレナ様の名前と、言葉を」
「それでいい」
カイゼルが静かに頷く。
リリアーナは、もう一度その名を口にした。
「セレナ様」
胸元の星飾りに、淡い光が灯った。
これまでの温かい光とは少し違う。
悲しみを帯びた、静かな光だった。
部屋の中へ小さな星屑が浮かび、その一つが窓辺の白百合へ落ちる。
花びらが、風もないのにわずかに揺れた。
遠く離れた王国大聖堂の隠し石室で、石の椅子に残っていた星霜の光が一度だけ瞬いた。
誰にも呼ばれず。
誰にも命じられず。
ただ、消された名前を誰かが覚えたことに応えるように。
壁に削られていた星の印の一つが、淡く白く浮かび上がる。
その下に、新しい文字が現れた。
『忘れないで』
星霜の加護が求めていたのは、王国へ戻ることではなかった。
祭壇へ祀られることでもない。
役割として讃えられることでもない。
一人の人間が、確かに生き、苦しみ、帰りたいと願ったことを。
忘れないでほしい。
ただ、それだけだった。
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