第37話 王太子の証言
再調査委員会が開かれる朝、王宮の空は薄い灰色に覆われていた。
雨が降るほどではない。
けれど陽は差さず、王宮の白い外壁も、いつもより色を失って見える。
小会議室には、すでに宰相エドガー、法務官、記録官、財務官マルセル、そしてエルフェルト公爵ギルベルトが揃っていた。
長机の中央には、断罪事件に関する資料が並べられている。
階段からの転落。
毒入り菓子。
聖堂不敬。
舞踏会当日の断罪命令。
処刑手続き。
そして、リリアーナ・エルフェルト本人の声明。
そのすべてが、今日、王太子アルヴィスの証言と照らし合わされる。
扉が開いた。
アルヴィスが入ってくる。
王太子の正装ではない。
装飾を抑えた濃紺の上衣に、王家の紋章を最低限だけ付けた姿だった。
かつてのような自信に満ちた歩みではない。
けれど逃げる様子もなかった。
彼は長机の前に立ち、静かに頭を下げる。
「王太子アルヴィス・フォン・グランベルク。再調査委員会の求めに応じ、証言に参りました」
宰相エドガーは、表情を変えずに頷いた。
「着席を」
「はい」
アルヴィスは用意された席へ座る。
その正面に、リリアーナの声明が置かれていた。
紙面に記された文字を一瞬見て、彼の目がわずかに揺れる。
だが、すぐに視線を戻した。
法務官が口を開く。
「殿下。本日の証言は、卒業記念舞踏会における婚約破棄および断罪、処刑命令に至る判断経緯を確認するためのものです」
「承知している」
「記録はすべて保存されます」
「ああ」
「王太子殿下としてではなく、当該裁定を下した本人として、事実のみをお答えください」
「……分かった」
記録官が羽根ペンを構える。
部屋に、紙を擦る音が響いた。
「まず、ミリア・ロゼット嬢が階段から転落した件について伺います。殿下は、リリアーナ・エルフェルト嬢がミリア嬢を突き落としたと判断されました。その根拠は何ですか」
「ミリアが、リリアーナに突き落とされたと訴えた」
「本人の証言以外に、直接的な証拠は」
「侍女たちの証言があった」
「その侍女たちは、現在、直接見ていないと証言を訂正しています」
「……知っている」
「当時、殿下は現場検証を命じましたか」
「命じていない」
「リリアーナ嬢の当該時刻の行動確認は」
「していない」
「第三会議室の出席記録を確認しましたか」
「していない」
一つずつ、短い答えが落ちる。
記録官のペンが止まらない。
アルヴィスは、膝の上で手を強く握っていた。
「なぜ、確認しなかったのですか」
法務官の問いに、アルヴィスはすぐには答えられなかった。
数日前までなら、ミリアを信じていたからだと即答しただろう。
だが今は、それでは足りないと分かっている。
「……必要ないと思った」
「なぜ」
「ミリアが泣いていた。怯えていた。リリアーナは、ミリアに厳しい態度を取っていた。それで、やったのだと思った」
「思った」
「ああ」
その言葉を自分で口にして、アルヴィスの顔が苦しげに歪む。
「証拠ではなく、殿下の印象による判断だったということですか」
「……そうだ」
部屋に重い沈黙が落ちた。
ギルベルトは、何も言わない。
だが、その横顔は硬い。
娘が処刑台に立たされた理由が、また一つ、正式な記録となっていく。
法務官は次の資料へ移った。
「毒入り菓子について。殿下は、リリアーナ嬢がミリア嬢へ毒入り菓子を贈ったと判断しました」
「ああ」
「菓子がリリアーナ嬢個人の贈り物であると確認しましたか」
「していない」
「菓子は王太子府の厨房で用意されています」
「知ったのは、再調査が始まってからだ」
「毒物の特定は」
「されていなかった」
「菓子の現物は」
「残っていない」
「では、何を根拠に殺害未遂と判断したのですか」
アルヴィスは目を閉じた。
あの時は、疑問にすら思わなかった。
ミリアが体調を崩した。
リリアーナからの菓子だと言った。
それだけで、十分だと思った。
「ミリアが、そう言ったからだ」
「それだけですか」
「……それだけだ」
自分の声が、遠く聞こえる。
王太子が人一人を死刑へ送るために使った根拠。
それだけ。
その言葉が、あまりにも軽かった。
「聖堂不敬について伺います。リリアーナ嬢は、神殿修復費の用途と結界石の点検について意見を述べています。殿下は、その内容を確認しましたか」
「神官長補佐から、リリアーナが神殿を侮辱したと聞いた」
「資料は」
「読んでいない」
「リリアーナ嬢本人への確認は」
「していない」
「では、神殿側の言葉だけを採用した」
「……そうだ」
また一つ、答えが落ちる。
アルヴィスの額に、薄く汗が滲んでいた。
それでも、彼は逃げなかった。
宰相エドガーが静かに尋ねる。
「アルヴィス殿下。断罪の場で、リリアーナ嬢は正式な調査と証拠の提示を求めましたね」
「ああ」
「なぜ退けたのです」
「見苦しい言い逃れだと思った」
「何を根拠に」
「……彼女が、泣かなかったからだ」
その答えに、部屋の空気が止まった。
アルヴィス自身も、口にしてから顔を歪める。
だが、もう戻せない。
「泣かなかった」
「ああ。ミリアは泣いていた。リリアーナは冷静だった。だから、罪を認めずに取り繕っているように見えた」
「泣いていない者は、傷ついていないと」
「当時の私は、そう見ていた」
ギルベルトの拳が震えた。
だが、彼は口を挟まない。
娘がどれほど泣けないよう育てられたか。
その責任は、自分にもある。
だから今は、ただ事実を聞く。
「処刑命令は、いつ決めましたか」
法務官の問いが続く。
「舞踏会の前から、罪状が事実なら厳罰にすると決めていた」
「厳罰と処刑は同義ではありません」
「断罪の場で、リリアーナが反省していないと感じた。王家と聖女候補への反逆を示したと判断し、処刑を命じた」
「法務局への照会は」
「していない」
「国王陛下の裁可は」
「事後でよいと考えた」
「貴族院への報告は」
「していない」
「弁護人の用意は」
「していない」
答えるたびに、アルヴィスの肩が落ちていく。
王太子の裁定。
正義の断罪。
そう思っていたものが、法的手続きすら踏んでいなかったことを、自ら認めている。
「なぜ、そこまで急いだのですか」
アルヴィスは、しばらく沈黙した。
その問いに答えることが、最も怖かった。
ミリアを守りたかった。
それは事実だ。
だが、それだけではない。
「……リリアーナに、負けたくなかった」
「負ける、とは」
「彼女は、いつも正しかった」
声が掠れる。
「政務でも、予算でも、礼法でも。私が何かを決めると、問題点を指摘した。間違っていると言ったわけではない。もっとよい方法があると、冷静に示した。だが私は、それを責められていると感じていた」
「リリアーナ嬢は、殿下を補佐していたのでは」
「今なら分かる」
アルヴィスは、自嘲するように笑った。
「だが当時の私は、彼女の前では自分が王太子であることを認めてもらえていないように感じていた。ミリアは違った。私を頼った。私の言葉を信じた。私が守れば、喜んだ」
「そのために、ミリア嬢を守る自分を選んだ」
「ああ」
アルヴィスは、リリアーナの声明へ視線を落とした。
「リリアーナの言葉が正しいかもしれないと認めれば、私は自分の判断が間違っていたと認めなければならなかった。だから、聞かなかった」
記録官のペンが、わずかに止まりかける。
だがすぐに、また動き始めた。
「私は、真実ではなく、信じたい方を選んだ」
アルヴィスは、はっきりと言った。
「そして、リリアーナを処刑台へ送った」
誰も、すぐには言葉を返さなかった。
それは、王太子自身による過ちの認定だった。
法的な最終判断ではない。
だが、断罪の経緯を決定づける証言になる。
宰相エドガーは、静かに目を閉じた。
やがて口を開く。
「殿下。あなたは今、自らの判断が不十分であったと認めますか」
「不十分ではない」
アルヴィスは、顔を上げた。
「誤っていた」
ギルベルトの目が、わずかに動く。
アルヴィスは彼を見なかった。
見る資格がないと思った。
「私は、証拠を確認せず、リリアーナの言葉を聞かず、自分の感情で裁いた。その結果、無実かもしれない人間へ処刑を命じた」
「かもしれない、ではありません」
ギルベルトが、初めて口を開いた。
声は静かだった。
だが、怒りも痛みも隠されていない。
「現時点で、娘の罪を証明するものは何一つありません」
「……そうだな」
アルヴィスは、ゆっくりと頷いた。
「私は、無実のリリアーナを処刑しようとした」
その言葉が、正式な記録に刻まれた。
記録官のペン先が、紙の上を走る。
小さな音。
だが、それは王太子の立場を崩す音でもあった。
法務官は、最後に尋ねた。
「リリアーナ嬢へ伝えたいことはありますか」
「ある」
アルヴィスは即答した。
そして、すぐに続けられなくなる。
謝りたい。
戻ってきてほしい。
許してほしい。
以前なら、そう口にしたかもしれない。
だが今、それらはすべて彼女を縛る言葉になると分かっている。
「だが、今は伝えない」
「理由は」
「私が謝れば、彼女に返事をさせることになるかもしれない。許すか、許さないかを考えさせる。それは、また彼女へ負担を押しつけることになる」
アルヴィスは、苦しげに息を吐いた。
「まず、私がしたことを王国の記録に残してくれ。謝罪は、その後だ。彼女が受け取らないと選んでも、それを認める」
ギルベルトは、長くアルヴィスを見つめた。
許したわけではない。
怒りが消えたわけでもない。
だが、王太子が初めて、娘の選択を先に置こうとしていることだけは分かった。
「証言を記録しました」
法務官が告げる。
「本日の内容は、再調査委員会の報告書へ反映されます。追加確認が必要な場合、再度出席を求めます」
「承知した」
アルヴィスは立ち上がった。
足元は揺れなかった。
ただ、その背中からは王太子としての傲慢な強さが消えていた。
代わりにあるのは、自分の罪を背負い始めた者の重さだった。
扉へ向かう前に、アルヴィスはギルベルトを見た。
「エルフェルト公」
「何でしょう」
「謝罪はしない。今は」
ギルベルトの目が冷たくなる。
アルヴィスは続けた。
「謝罪したいという言葉すら、今の私には自分のためのものだからだ。ただ、証言から逃げないことだけは約束する」
「……それを、最後まで貫いてください」
ギルベルトの答えは、それだけだった。
アルヴィスは深く頭を下げる。
かつて婚約者の父へ向けた形式的な礼ではない。
王太子としてでもない。
娘を傷つけた者としての礼だった。
会議室を出ると、廊下にはルーカスが待っていた。
アルヴィスは、彼の前で足を止める。
「終わりましたか」
「ああ」
「何と」
「すべて話した」
アルヴィスは、窓の外へ視線を向ける。
雲の切れ間から、ほんの少しだけ光が落ちていた。
「私は、自分が正義だと思っていた」
「はい」
「だが、正義だったのは、証拠を求め続けたリリアーナの方だった」
ルーカスは答えなかった。
アルヴィスも、それ以上は言わなかった。
今さら気づいたところで、彼女は戻らない。
それでも、気づかなかったことにはもう戻れなかった。
神殿の保護室では、ミリアが新しい報告を聞かされていた。
王太子アルヴィスが、再調査委員会で証言した。
証拠を確認しなかったこと。
リリアーナの言葉を聞かなかったこと。
自分の感情で断罪したこと。
そのすべてを認めたという。
「アルヴィス様が……」
ミリアの顔から血の気が引いた。
伝えに来た法務官は、表情を変えない。
「殿下の証言内容について、今後あなたにも追加確認を行います」
「どうして、アルヴィス様がそんなことを」
「ご自身の判断経緯を、事実として証言されたためです」
「私を守ると言ってくださったのに」
「それと、事実確認は別です」
別。
その言葉が、ミリアの胸へ冷たく刺さる。
アルヴィスは、自分を守る人だった。
何があっても信じてくれる人。
泣けば抱きしめ、リリアーナを責めてくれる人。
その人が、自分の言葉を証拠にしなかったと認めた。
「私を、捨てるの……?」
呟きは、誰にも答えてもらえない。
法務官は、静かに書類を閉じた。
「殿下が何を選ぶかは、殿下ご自身の問題です。いま確認されているのは、あなたの証言が事実であったかどうかです」
「私は、嘘をついたつもりは」
「その言葉も、すでに記録されています」
ミリアは唇を噛んだ。
どの言葉も、もう涙で消せない。
記録される。
残る。
リリアーナが残していた記録のように。
今度は、自分の言葉が自分を追い詰めている。
国境砦の庭では、白い小花の蕾が、ついに一輪だけ開いていた。
朝の光を受け、薄い花びらが風に揺れている。
リリアーナは、それを見つけて目を輝かせた。
「咲いているわ」
「はい!」
クララが嬉しそうに答える。
「昨日までは蕾だったのに」
「待ったからですね」
「ええ」
リリアーナは、花の前に膝をついた。
触れない。
ただ、近くで見る。
小さな花だった。
王国の庭園に咲く豪華な薔薇や、大輪の百合とは比べものにならない。
けれど、リリアーナにはとても美しく見えた。
急がせず。
無理に加護で咲かせず。
ただ水をやり、土を少し整え、待った花。
「ちゃんと、自分で咲いたのね」
小さく呟く。
その言葉は、花へ向けたものだった。
けれど、リリアーナ自身の胸にも響いた。
カイゼルが庭へ入ってくる。
手には、王国からの報告書があった。
表情はいつも通り静かだが、目元には少しだけ複雑な色がある。
「陛下」
リリアーナは立ち上がった。
「花が咲きました」
「ああ。見えた」
「待つことも、大切なのですね」
「そうだな」
カイゼルは花を見た後、リリアーナへ視線を戻す。
「王国から報告が来た」
「再調査についてですか」
「ああ。アルヴィスが証言した」
その名に、リリアーナの笑みが少し薄れる。
だが、逃げるように視線を逸らすことはしなかった。
「何を、ですか」
「証拠を確認しなかったこと。君の言葉を聞かなかったこと。自分の感情で断罪したことを認めた」
「……そうですか」
胸が、静かに痛んだ。
喜びではない。
ざまあと思う気持ちも、今はまだ強くない。
ただ、ようやく認めたのだと思った。
あの日、自分がどれほど訴えても届かなかったことを。
「殿下は、謝罪を送ると言っていますか」
「今は送らないと証言した」
「送らない」
「自分が楽になるための謝罪になる。君に返事を考えさせる負担を押しつける、と」
「……」
リリアーナは目を伏せた。
以前のアルヴィスなら、考えなかったことだろう。
自分の言葉が相手をどう縛るか。
自分が謝りたい気持ちと、相手が受け取りたいかどうかは別だということ。
「少し、変わったのでしょうか」
「かもしれない」
「でも、許せるわけではありません」
「当然だ」
「証言したことは、よかったと思います」
「ああ」
「それでも、戻りません」
「ああ」
カイゼルの答えは揺らがない。
リリアーナは、それに安心する。
誰かが変わったからといって、自分が応えなければならないわけではない。
アルヴィスが後悔したから、戻る必要はない。
謝罪しようとしているから、許す必要もない。
「私は、ここで花が咲くのを待ちたいです」
リリアーナは、白い小花を見つめた。
「王国のためではなく。誰かに求められたからでもなく。私が、そうしたいから」
「そうすればいい」
カイゼルの声は静かだった。
リリアーナは、小さく微笑む。
「はい」
風が吹き、庭に飾られた刺繍の星が揺れた。
少し歪んだ銀の星。
その下で、小さな白い花が一輪だけ咲いている。
完璧ではない。
華やかでもない。
けれど、それは誰にも急かされず、自分の時で咲いた花だった。
リリアーナは、その花を見つめながら思う。
自分も、いつか。
誰かの望む形ではなく。
王太子妃候補としてでも、星霜の加護持ちとしてでもなく。
ただ、リリアーナとして咲ける日が来るのかもしれない。
その胸元で、星飾りが穏やかに瞬いた。
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