第36話 娘の優しさを、鎖にしない
エルフェルト公爵邸に皇国からの書簡が届いたのは、朝の雨が上がった直後だった。
石畳はまだ濡れており、庭の銀百合は雨粒をまとって静かに揺れている。かつてリリアーナが毎朝のように歩いた庭だ。季節の花の状態を見て、使用人に声をかけ、王宮へ向かう馬車に乗っていた。
その姿は、もうここにはない。
けれど、彼女の気配はまだ邸のあちこちに残っていた。
書斎の机。
整えられた帳面。
王太子府の資料。
神殿修復費の写し。
そして、誰にも渡すなと命じた星飾りや白百合のハンカチに関する保管記録。
ギルベルト・エルフェルトは、執務室で皇国の封蝋が押された小さな書簡を見つめていた。
黒狼の封蝋。
その下に、控えめに添えられた星の印。
差出人を確認するまでもない。
リリアーナからだった。
「旦那様」
執事が静かに声をかける。
「お読みになりますか」
「ああ」
答えた声は、思ったよりも掠れていた。
ギルベルトは封を切る。
便箋は数枚ではない。
短い。
だが、その短さがかえって胸に重かった。
娘は、長々と言い訳をしない。
必要なことを、静かに、けれど確かに書く。
昔からそうだった。
ギルベルトは、最初の一文に目を落とす。
『父上へ。お手紙を受け取りました。すぐに返事は書けないと思っていましたが、一つだけ先に伝えたいことがあります』
たったそれだけで、胸が詰まった。
父上。
まだ、そう呼んでくれている。
許されたわけではない。
戻ってくるわけでもない。
それでも、その呼び名が紙面にあることが、ギルベルトには痛いほどありがたかった。
『私は、父上の謝罪を読みました。王国からの謝罪も読みました。どちらも、今すぐ許すことはできません。けれど、受け取りました』
ギルベルトは目を閉じた。
今すぐ許すことはできない。
当然だ。
むしろ、はっきりそう書いてくれたことに、安堵すら覚えた。
かつてのリリアーナなら、父に気を遣い、王国に配慮し、「お気持ちはありがたく受け取ります」とだけ書いたかもしれない。
だが今の娘は、許せないと書ける。
それは、彼女が少しずつ自分を取り戻している証だった。
『神殿が私の優しさや責任感を鎖に変えようとしたことを知りました。とても怖く、悲しかったです。けれど私は、王国の民を心配する気持ちまで捨てたいわけではありません。父上への情も、神殿で祈った記憶も、すべて捨てたいわけではありません』
ギルベルトの指が震えた。
父上への情。
その言葉が、胸を深く抉った。
娘はまだ、自分への情を完全に捨ててはいない。
だからこそ、神殿の術具はそこを鎖にしようとしたのだ。
娘の優しさ。
責任感。
王国への思い。
父への情。
そのすべてを、戻れという命令の材料にしようとした。
ギルベルトは、奥歯を噛みしめる。
『だから、それらを鎖にしないでください。私の優しさを、私を戻す理由にしないでください。私が王国を心配することと、王国へ戻ることは別です』
その一文を、ギルベルトは何度も読んだ。
王国を心配することと、王国へ戻ることは別。
どれほど当然で、どれほど王国が理解していなかったことか。
リリアーナは民を心配している。
だから戻るべきだ。
リリアーナには星霜の加護がある。
だから王国を救うべきだ。
リリアーナは公爵令嬢だ。
だから王国に尽くすべきだ。
その「だから」の積み重ねが、彼女を処刑台へ押し上げた。
父である自分も、その一端だった。
最後の一文が、目に入る。
『私は、優しさを捨てません。でも、もう利用させません』
ギルベルトは、便箋を机の上に置けなかった。
両手で持ったまま、じっとその文字を見つめる。
娘の字は、少しだけ震えていた。
それでも、最後まで崩れていない。
強い。
だが、その強さを誇るだけでは、もう駄目なのだ。
強くあれと育てた娘が、強さの裏でどれほど傷ついていたかを、彼はようやく知った。
「旦那様」
執事が、控えめに声をかける。
ギルベルトは顔を上げた。
「王宮へ行く」
「本日も、でございますか」
「ああ」
ギルベルトは便箋を丁寧に畳んだ。
「この手紙を、宰相閣下へ見せる」
「よろしいのですか」
「娘の許可は取っていない。だから全文を広げるつもりはない。だが、この一文だけは、王国が知るべきだ」
彼は、最後の一文へ視線を落とす。
「リリアーナの優しさを、もう鎖にしてはならない」
王宮では、神殿調査委員会の設置準備が進められていた。
再調査委員会とは別に、王国神殿の記録、祭壇具、聖女認定、加護持ち管理に関する過去資料を洗い出すための組織である。
宰相エドガーは、会議室に積み上がった資料を前に、疲労の滲む顔で文官たちへ指示を出していた。
「神殿から提出された目録と、王宮側に残る支出記録を照合せよ。存在しないはずの祭壇具が地下から出た以上、目録は信用できぬ」
「はい」
「聖女候補に関する記録もだ。ミリア・ロゼット嬢だけでなく、過去三代分まで遡る」
「そこまでですか」
「星霜の加護の記録が隠されていたのだ。他の加護に関する記録も改ざんされている可能性がある」
文官たちが顔を青ざめさせながら頷く。
そこへ、ギルベルトが到着した。
エドガーはすぐに彼を別室へ通す。
「エルフェルト公。何かあったか」
「リリアーナから手紙が届きました」
「リリアーナ嬢から」
エドガーの目がわずかに変わる。
ギルベルトは、便箋をすべて渡すのではなく、一枚の写しを差し出した。
そこには、リリアーナの手紙の一文だけが書き写されている。
『私が王国を心配することと、王国へ戻ることは別です』
『私は、優しさを捨てません。でも、もう利用させません』
エドガーは、長い間その二文を見つめていた。
やがて、深く息を吐く。
「……王国が、最も理解すべき言葉だな」
「はい」
「民を心配するなら戻れ。加護があるなら救え。父への情があるなら応じろ。神殿はそれを術式でやろうとしたが、王宮や公爵家も、言葉で似たようなことをしてきたのかもしれない」
「その通りです」
ギルベルトは目を伏せた。
「私も、娘の優しさと責任感に甘えていました」
「エルフェルト公」
「だからこそ、神殿調査委員会の基本方針に入れていただきたい。リリアーナの加護、情、責任感を王国帰還の理由にしないこと。彼女の協力は、彼女本人の意思がある範囲に限ること」
「……よかろう」
エドガーは頷いた。
「陛下にも進言する。これは神殿だけでなく、王国全体への戒めとして必要だ」
「ありがとうございます」
ギルベルトは、深く頭を下げた。
「娘は、まだ王国の民を心配しています。だが、その優しさを理由に戻れと言えば、王国は三度あの子を傷つけることになる」
「三度目は許されぬ」
「はい」
二人の間に沈黙が落ちる。
それは重いが、無意味な沈黙ではなかった。
王国は少しずつ、リリアーナを失った意味を理解し始めていた。
ただし、理解したからといって、失ったものが戻るわけではない。
その頃、神殿の保護室では、ミリアが法務官から告げられた内容に顔を強張らせていた。
追加聴取の結果、彼女の証言の多くが「直接見たもの」ではなく「そう感じたもの」「そう思ったもの」であったことが記録された。
そして、王宮側はミリアを正式に再調査対象として扱うことを決めた。
「再調査対象……」
ミリアは、椅子に座ったまま呟く。
「私は、被害者なのに」
「現時点では、その点も含めて確認中です」
法務官は淡々と答えた。
ミリアは顔を上げる。
「確認中って何ですか。私は階段から落ちました。具合も悪くなりました。怖かったんです」
「階段から落ちた事実、体調を崩した事実は確認されています。ただし、それをリリアーナ嬢が行ったとする証拠が確認できていません」
「でも」
「また、あなたがリリアーナ嬢に対して強い嫉妬や対抗心を抱いていたことも、昨日の証言で記録されました」
「嫉妬なんて」
ミリアは言いかけて、口を閉じた。
言ってしまった。
リリアーナばかり。
奪われる。
守ってもらうしかなかった。
可哀想だと思ってもらうしかなかった。
その言葉が、すべて記録されている。
「私は……」
ミリアの声が震える。
「少し、羨ましかっただけです」
「はい」
「あの方は何でも持っていたから。公爵令嬢で、王太子妃候補で、みんなに必要とされて」
「はい」
「だから、私だって、誰かに選ばれたかっただけで……」
涙が溢れる。
けれど、法務官はやはり止まらない。
「その思いから、リリアーナ嬢に害されたと事実以上に周囲へ訴えた可能性はありますか」
「……そんな聞き方、ひどいです」
「お答えください」
「私は、嘘をついたつもりはありません」
それは、ミリアの中では本当だった。
嘘をついたつもりはない。
自分は怖かった。
リリアーナに嫌われていると思った。
だから、きっとそうだと思った。
その思いを、アルヴィスも周囲も信じてくれた。
信じてくれたから、真実になった気がした。
「嘘をついたつもりはない」
法務官は、その言葉を書き留める。
「では、事実確認をしないまま、リリアーナ嬢が加害者だと訴えた可能性は」
「……」
ミリアは、答えられなかった。
沈黙が、記録される。
王太子宮では、アルヴィスがミリアの最新の聞き取り記録を読んでいた。
嘘をついたつもりはない。
その言葉が、胸に重く落ちる。
アルヴィスにも、分かってしまった。
自分も同じだ。
間違えたつもりはなかった。
正義のつもりだった。
ミリアを守るつもりだった。
リリアーナを裁くことが正しいと、本気で思っていた。
だが、つもりがどうであれ、リリアーナは処刑台に立った。
「つもりでは、戻らない」
アルヴィスは呟いた。
ルーカスが、少し離れた場所で静かに控えている。
アルヴィスは、リリアーナの声明を机に置いた。
そして、その隣に白紙を置く。
謝罪文を書こうとして、何度も止めた。
まだ資格がない。
そう思っている。
だが、何も書かずにいることもできなかった。
羽根ペンを取り、最初の一文を書いた。
『リリアーナへ』
その先が、続かない。
何を書いても、自分が楽になりたいだけの言葉に思えた。
すまなかった。
信じなかった。
処刑台へ送った。
君の言葉を聞かなかった。
どれも事実だ。
だが、事実を書いたところで、彼女の傷が消えるわけではない。
アルヴィスは、しばらくして羽根ペンを置いた。
「まだ、駄目だ」
声は小さかった。
ルーカスは何も言わない。
「謝る前に、私は事実をすべて話さなければならない」
「殿下」
「再調査委員会へ出る。私が何を根拠に断罪したのか、すべて話す」
それは、王太子としては屈辱的なことだった。
自分の判断がいかに曖昧だったかを、自ら認めることになる。
だが、それをしないまま謝罪などできない。
「手配いたします」
ルーカスは静かに頭を下げた。
アルヴィスは白紙を見つめた。
謝罪文は、まだ書けない。
けれど、逃げることももうできない。
国境砦では、リリアーナが庭の刺繍の星を見に来ていた。
今日は風が穏やかで、白い小花も静かに揺れている。
昨日より、蕾が少し膨らんでいた。
クララが嬉しそうに言う。
「ほら、お嬢様。やっぱり蕾がつきました」
「本当ね」
「私のなんとなく、当たりました」
「ええ。当たったわ」
リリアーナは、笑った。
その笑みは柔らかく、自然だった。
少し離れたところでは、カイゼルとラウルが王国からの報告を確認している。
内容は重い。
神殿調査。
ミリアの聴取。
アルヴィスの証言予定。
父へ送った手紙の到着。
だが、今この瞬間だけは、リリアーナの視線は小さな蕾に向いていた。
「咲くでしょうか」
「咲きますよ」
「断言するのね」
「はい。お嬢様が水をあげて、土も少し整えましたから」
リリアーナは、花の根元に触れないよう、そっと近くに膝をついた。
「無理に咲かせなくてもいいのよ」
小さな花へ向けた言葉だった。
けれど、言ってから自分にも向けているような気がした。
無理に咲かなくてもいい。
誰かに見せるために、急がなくてもいい。
蕾のまま、風に揺れる時間があってもいい。
カイゼルが近づいてきた。
「何か変化があったか」
「蕾がつきました」
「そうか」
「まだ咲いてはいません」
「なら、待てばいい」
「はい」
リリアーナは立ち上がり、カイゼルを見る。
「待つことも、大事なのですね」
「ああ」
「私は、早く役に立たなければと思う癖がありました」
「知っている」
「今は、少し待てる気がします。花も、自分も」
カイゼルの金色の瞳が、わずかに柔らかくなる。
「それでいい」
「はい」
リリアーナは、庭の小さな星と花を見つめた。
王国では、再調査が進んでいる。
神殿の罪も、ミリアの証言も、アルヴィスの判断も、少しずつ明らかになるだろう。
そのすべてを知るのは怖い。
でも、自分がすべて背負う必要はない。
自分の優しさを鎖にしないと決めたから。
白い小花の蕾が、風の中で小さく揺れた。
その姿は、まだ咲ききらないリリアーナ自身のようでもあった。
けれど、もう処刑台の上で凍えていた蕾ではない。
彼女は、皇国の庭で、ゆっくりと自分の季節を待っていた。
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