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婚約破棄された悪役令嬢ですが、処刑台の上で敵国皇帝に求婚されました 〜私を捨てた王国は滅びかけていますが、もう知りません〜  作者: 碓氷さゆ


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第35話 黒狼の魔術師たち

 皇国魔術師団が王都へ入った日、グランベルク王国の空は重く曇っていた。

 黒狼の旗を掲げた馬車が王都の大通りを進むと、道行く人々は自然と足を止めた。馬車の側面にはヴァレンティス皇国の紋章が刻まれ、随行する騎士たちは黒い外套を揺らしている。

 かつて王国の民が恐れた、北の強国。

 その皇国の者たちが、今は王国神殿の調査のために堂々と王都へ入っている。

 それだけで、王国が置かれた立場は明らかだった。


「本当に皇国の魔術師が来たのか」

「神殿の地下を調べるんだって」

「聖女様の儀式で瘴気が出たから?」

「違う。リリアーナ様の加護を無理やり呼び戻そうとしたからだって聞いたぞ」

「そんなこと、神殿がするのか」


 人々の囁きは、馬車の車輪の音に紛れて広がっていく。

 誰も、もうはっきりと神殿を信じきれてはいなかった。

 聖女認定式の失敗。

 大聖堂の封鎖。

 王宮からの告示。

 リリアーナの冤罪再調査。

 それらは、民衆の中に小さな疑念を植えつけるには十分すぎた。


 馬車は大聖堂前の広場で止まった。

 王宮警備隊が周囲を固め、宰相府の文官たちが出迎える。

 先頭の馬車から降りたのは、白髪交じりの老魔術師だった。国境砦でリリアーナの加護を確認した人物である。

 その後ろには、黒いローブをまとった若い魔術師たちが続いた。

 彼らは聖堂の美しさに目を奪われることなく、すぐに大聖堂の正面扉を見上げた。


「ここが、王国大聖堂ですか」


 若い魔術師の一人が呟く。

 老魔術師は目を細めた。


「外は美しい。だが、内側はかなり傷んでいるようだな」

「見ただけで分かりますか」

「石が疲れている。結界石も、かなり前から限界が近かったはずだ」


 出迎えた王宮魔術師が、苦い顔をした。


「リリアーナ様の記録にも、その指摘が残っていました。王都正面聖堂は、外壁装飾より結界石の点検を優先すべきだと」

「正しい判断です」


 老魔術師は、迷いなく言った。


「その判断を不敬とした者こそ、聖堂を軽んじています」


 その言葉に、王国側の文官たちは何も返せなかった。

 ただ、深く頭を下げる。

 皇国魔術師団は、王宮魔術師と警備隊の案内で大聖堂の中へ入った。

 かつて聖女認定式のために白い花で飾られた聖堂は、今は静まり返っている。祭壇の白布は取り払われ、黒ずんだ跡の残る石床には仮の結界が張られていた。

 女神像だけが、何も言わずに彼らを見下ろしている。


 大聖堂の奥、封鎖された階段を下りると、空気が変わった。

 冷たい。

 湿っている。

 そして、微かに黒い瘴気の匂いがある。

 若い皇国魔術師が眉をひそめた。


「まだ残っています」

「触れるな。記録を優先しろ」


 老魔術師が命じる。

 地下祭具室の扉には、王宮の封印と神殿の古い封印が重なるように貼られていた。

 王宮警備隊長が封印を確認し、扉を開ける。

 重い音を立てて、祭具室の扉が開いた。


 中に入った瞬間、全員が沈黙した。

 中央の祭壇には、星形の溝が彫られている。

 その周囲には、黒く変色した金の鎖が散らばり、亀裂の入った星形の器具が置かれていた。床には黒い染みが広がり、壁に刻まれた古代文字の一部が焦げたように歪んでいる。

 封じられた記録書は、祭壇の奥で開いたままになっていた。

 ページには、まだ白い文字が浮かんでいる。


『星は戻らず。鎖は断たれた』


 老魔術師は、その一文を見つめて深く息を吐いた。


「……星霜の記録が、神殿を拒んだのですね」

「記録が意思を持つのですか」


 王宮魔術師が尋ねる。

 老魔術師は首を横に振った。


「意思というより、加護に残された警告です。過去の宿り手たちの祈り、拒絶、痛み。そのようなものが、記録に焼きついている」

「では、この文字は」

「リリアーナ様の拒絶に呼応したのでしょう」


 その名が出ると、祭具室の空気がわずかに震えた気がした。

 王国側の者たちは顔を見合わせる。

 リリアーナ。

 悪役令嬢と呼ばれた少女の名が、いまやこの祭具室を調べる中心にある。


 老魔術師は祭壇具へ近づいた。

 直接触れず、細い銀の杖をかざす。

 杖の先に淡い青い光が灯り、祭壇具を包む。

 次の瞬間、青い光が黒く濁った。


「やはり」

「何か分かりましたか」

「この術式は、神殿式の浄化術ではない。拘束術です」


 周囲がざわめく。

 老魔術師は、淡々と続けた。


「本来の浄化祭壇は、土地に溜まった穢れを集め、祈りによってほどくためのものです。だがこれは違う。星霜の加護の宿り手と土地の縁を強制的に結び、宿り手の情や責任感を媒介に意識を引き戻す構造になっている」

「意識を……」

「本人の意思を弱める作用も含まれています」


 王宮魔術師の顔色が変わった。


「それは、精神干渉ではありませんか」

「そうです」


 老魔術師は、祭壇具を見つめたまま言った。


「リリアーナ様の優しさを鎖に変える術式です」


 その言葉は、祭具室に重く落ちた。

 記録官の羽根ペンが震える。

 王宮警備隊長の表情が険しくなる。

 王国側の魔術師たちは、自分たちの国の神殿が何をしようとしたのかを突きつけられ、顔を青ざめさせた。


「これは、明確な危害行為です」


 老魔術師は言った。


「しかも、皇国から警告を受けた後に行われた。弁明の余地は少ないでしょう」


 王宮魔術師は、沈痛な面持ちで頷いた。


「……記録します」

「祭壇具を封印します。ただし、完全に破壊する前に術式構造を写し取る必要がある。神殿が同系統の術具を他にも保管している可能性があります」

「他にも」

「これだけとは限りません」


 老魔術師は、開かれた記録書へ視線を向けた。


「星霜の加護を縛ろうとした記録があるなら、同じ過ちが過去にもあったはずです」

「過去にも、星霜の加護の宿り手が」

「ええ」


 老魔術師の声は静かだった。


「そして、おそらくは傷つけられたのでしょう」


 祭具室の空気が、さらに冷えた。


 その頃、王宮では宰相エドガーが調査の第一報を受け取っていた。

 報告書を読んだ彼は、しばらく無言だった。

 やがて、机の上に紙を置き、深く息を吐く。


「拘束術。精神干渉。本人の意思を弱める作用……」


 言葉にするだけで、嫌悪が滲んだ。

 同席していたギルベルトは、顔を白くしていた。


「つまり、神殿は娘の心を縛ろうとしたのですか」

「現時点の解析では、その可能性が高い」

「王国のために民を思う心を、利用して」

「そうだ」


 ギルベルトは、拳を握りしめた。

 爪が掌に食い込む。


「リリアーナは、王国の民を心配していた。戻らないと言いながら、それでも民を苦しませたいわけではないと書いた。その優しさを、神殿は」

「エルフェルト公」


 エドガーが静かに呼ぶ。

 ギルベルトは目を閉じ、怒りを押し殺した。


「分かっています。ここで私が怒鳴っても、娘の傷は癒えない」

「だが、怒って当然だ」

「……はい」


 ギルベルトは、深く息を吐いた。


「宰相閣下。神殿の調査対象を広げるべきです。星霜の加護に関わる記録だけでは足りません。過去の聖女認定、加護持ちの管理、神殿儀式に関わる古文書すべてを」

「同意する。国王陛下へ進言する」

「私も証拠保全に協力します。エルフェルト家に残る神殿関連の写しも提出する」

「よろしいのか」

「娘が守ろうとした記録です。隠す理由はありません」


 それは、かつてのギルベルトなら選ばなかった言葉だった。

 公爵家の体面よりも、王家との均衡よりも、神殿との関係よりも。

 今は、娘が歪められた真実を正すことを選んでいる。


 エドガーは頷いた。


「では、神殿調査委員会を正式に設置する。再調査委員会とは別だ」

「王太子殿下の件と、神殿の件を分けるのですね」

「絡んではいるが、別の罪だ。王太子は証拠不十分な断罪を行った。神殿は記録を隠し、加護へ干渉した。その両方を曖昧にすれば、どちらも逃げる」

「その通りです」


 ギルベルトは低く答えた。


「どちらも、逃がしてはならない」


 王太子宮では、アルヴィスがその報告の一部を聞かされていた。

 神殿の祭壇具。

 精神干渉。

 リリアーナの優しさを鎖に変える術式。

 その言葉を聞いた時、彼は一瞬、呼吸を忘れた。


「優しさを、鎖に……」


 呟いた声は、掠れていた。

 ルーカスが、静かに報告書を置く。


「皇国魔術師団の第一報です。詳細はまだ王太子宮へ完全には開示されておりませんが、神殿側の責任はさらに重くなるかと」

「そうか」


 アルヴィスは、机の上のリリアーナの声明へ視線を落とす。

 王国の民を憎んでいるわけではない。

 苦しみを望んでいるわけでもない。

 必要な知識や危険性について伝えることは、可能な範囲で協力する。

 そう書いた彼女の優しさ。

 神殿は、それすら利用しようとした。

 だが、自分はどうだった。

 自分もまた、リリアーナの責任感や優秀さに甘えていたのではないか。

 彼女なら王太子府を整える。

 彼女なら財務局との調整をする。

 彼女なら神殿にも角を立てずに話をつける。

 彼女なら、何をしても最後には王国のために動く。


 神殿の鎖と、何が違う。


「……私は、鎖ではなかったのか」


 アルヴィスは、ほとんど声にならない声で言った。

 ルーカスは答えなかった。

 答えないことで、アルヴィスは理解する。

 自分もまた、彼女を縛っていた。

 婚約という名で。

 王太子妃候補という役で。

 王国の未来という言葉で。


 椅子から立ち上がろうとして、足に力が入らなかった。

 アルヴィスは机に手をつく。


「リリアーナに、謝罪文を」

「殿下」

「いや……まだ駄目だな」


 自分で言って、自分で止めた。

 今の謝罪は、彼女のためではない。

 自分が少しでも楽になりたいだけだ。

 そう気づいてしまった。


「私は、まだ謝る資格すらない」


 その言葉に、ルーカスがわずかに目を伏せた。

 アルヴィスは、初めて自分の罪を直視し始めていた。

 それは遅すぎる一歩だった。

 だが、一歩であることは確かだった。


 神殿の保護室では、ミリアが膝を抱えて座っていた。

 追加聴取は一時中断されている。

 神殿上層部の調査が本格化し、ミリアの周囲も慌ただしくなった。

 彼女はもう、聖女候補として丁重に扱われてはいない。

 まだ罪人ではない。

 だが、被害者とも見なされていない。

 曖昧な立場。

 それが、ミリアをひどく不安にさせた。


 扉の外から、神官たちの声が聞こえる。


「皇国魔術師が地下へ入ったらしい」

「祭壇具は拘束術だったとか」

「神官長猊下は何を考えておられたのだ」

「星霜の加護が本物なら、ミリア様の聖女認定はどうなる」


 自分の名が出た瞬間、ミリアは身体を強張らせた。

 聖女認定。

 その言葉が、もう遠い。

 少し前まで、手を伸ばせば届くはずだった。

 白い衣装をまとい、王太子の隣に立ち、民から崇められるはずだった。

 それなのに今は、保護室で監視されている。


「どうして……」


 涙がこぼれる。

 だが、自分でも分かっていた。

 泣いても、もう誰も来ない。

 アルヴィスも、以前のようには来ない。

 神官長も負傷している。

 侍女たちも距離を置いている。

 可哀想な聖女候補でいられた時間は、終わりつつあった。


「私は……何だったの」


 答えは返ってこない。

 ミリアは、自分の手を見つめる。

 淡い光なら、まだ出せる。

 でも、その光は人々を救わなかった。

 リリアーナのように土地を鎮めるものではなかった。

 それでも、聖女でなければ、自分には何が残るのか。


 その問いに、ミリアはまだ答えられなかった。


 国境砦では、リリアーナが自室で静かに手紙を書いていた。

 宛先は父、ギルベルト。

 返事を書くのはまだ先にするつもりだった。

 けれど、神殿の祭壇具について聞いた後、どうしても一言だけ伝えたいことができた。

 クララがそばで見守り、オルガは少し離れて茶の支度をしている。

 カイゼルは隣室にいる。

 呼べば来る距離。

 それが今のリリアーナにはちょうどよかった。


 羽根ペンを持つ手は、少しだけ震えていた。

 それでも、文字は書ける。


『父上へ。お手紙を受け取りました。すぐに返事は書けないと思っていましたが、一つだけ先に伝えたいことがあります』


 リリアーナは、一度息を吐いた。


『私は、父上の謝罪を読みました。王国からの謝罪も読みました。どちらも、今すぐ許すことはできません。けれど、受け取りました』


 その一文を書くのに、少し時間がかかった。

 許せない。

 でも、受け取った。

 その両方を書いていいのだと、自分に言い聞かせる。


『神殿が私の優しさや責任感を鎖に変えようとしたことを知りました。とても怖く、悲しかったです。けれど私は、王国の民を心配する気持ちまで捨てたいわけではありません。父上への情も、神殿で祈った記憶も、すべて捨てたいわけではありません』


 視界が滲む。

 クララがそっとハンカチを置いてくれた。

 リリアーナは小さく頷き、続きを書く。


『だから、それらを鎖にしないでください。私の優しさを、私を戻す理由にしないでください。私が王国を心配することと、王国へ戻ることは別です』


 書きながら、胸の奥が少し軽くなっていく。

 自分の境界線を、また一つ言葉にできた。


『私は、優しさを捨てません。でも、もう利用させません』


 最後に、その一文を書いた。

 リリアーナはペンを置き、長く息を吐く。

 クララが目を潤ませている。


「お嬢様らしいお手紙です」

「少し、強すぎるかしら」

「いいえ」

「本当に?」

「はい。とても大切なことです」


 オルガも静かに頷いた。


「この一文は、必ず届けるべきです」


 リリアーナは手紙を見つめた。

 優しさを捨てない。

 でも、利用させない。

 それはまだ、完璧にできる自信のあることではない。

 けれど、目指したいと思った。


 その時、扉が叩かれた。


「リリアーナ。私だ」

「どうぞ」


 カイゼルが入ってくる。

 リリアーナは少し迷った後、手紙を差し出した。


「父への手紙です。確認していただけますか」

「私が読んでいいのか」

「はい。届ける前に、危険な表現がないか見ていただきたくて」

「分かった」


 カイゼルは手紙を受け取り、静かに目を通した。

 最後の一文で、彼の目が止まる。


『私は、優しさを捨てません。でも、もう利用させません』


 カイゼルは、ゆっくりと顔を上げた。


「いい文だ」

「強すぎませんか」

「いいや」

「わがままでは」

「違う」

「では」

「君の意思だ」


 その言葉に、リリアーナは胸の奥が温かくなるのを感じた。


「届けよう」

「はい」


 カイゼルは手紙を丁寧に畳んだ。

 その扱い方が、まるでリリアーナの言葉そのものを守るようで。

 リリアーナは、少しだけ泣きそうになった。


 翌朝、エルフェルト公爵家へ向けて、皇国の封蝋を押された小さな書簡が送られた。

 それは外交文書ではない。

 王国を揺るがす告発でもない。

 ただ、娘から父へ宛てた短い手紙だった。

 けれど、ギルベルトがそれを読んだ時。

 彼はきっと、王国が二度としてはならないことを知るだろう。


 リリアーナの優しさを、もう鎖にしてはならないのだと。

お読みいただきありがとうございます。

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毎日19時半ごろ更新予定です。

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