第34話 優しさを鎖にしない
投稿が遅れて申し訳ありません
皇国魔術師団からの解析報告は、国境砦の執務室に重い沈黙を落とした。
机の上には、王国神殿の祭壇具に関する写し、星霜の加護についての古文書、そして老魔術師がまとめた術式解析書が並んでいる。
カイゼルは、そのうちの一枚を手に取ったまま、しばらく動かなかった。
黒い軍装の袖口に、指が静かに沈む。
怒りを押し殺している時の癖だと、ラウルは知っていた。
軽口を叩くべき場面ではない。
老魔術師も、いつもよりさらに慎重な声で説明を続けた。
「星を呼び戻す鎖は、単純に加護を引き寄せる祭壇具ではありませんでした。加護の宿り手が持つ感情、記憶、土地との縁を媒介に、意識を王国側へ引き戻す構造です」
「つまり、リリアーナの心を縛るものか」
「はい。特に反応しやすいのは、罪悪感、責任感、祈りの記憶、血縁、そして民を思う感情です」
ラウルが、珍しく顔をしかめた。
「最悪ですね」
「ああ」
カイゼルの声は低い。
「彼女の優しさを利用するための鎖だ」
「はい。リリアーナ様が王国民を案じる心を持つ限り、その感情を入り口に干渉する危険があります」
「防ぐ方法は」
「星飾りが強く拒絶反応を示したため、現時点で直接の接続は断たれています。ただし、祭壇具の残留術式が王国側で暴走した場合、再度干渉の波が起こる可能性はございます」
「王国の管理に任せる気はない」
「私も同意見です」
老魔術師は深く頷いた。
「皇国の魔術師を派遣し、祭壇具の術式を直接確認するべきです。王国側にも魔術師はおりますが、神殿式の古い術具は政治的に扱いづらい。王宮が本気で封じるつもりでも、神殿残党が妨害する恐れがあります」
「派遣する」
「陛下、王国が拒めば」
「拒ませない」
カイゼルは報告書を机へ置いた。
「リリアーナへの攻撃の証拠だ。皇国には調査権がある。拒むなら、王国は神殿の行為を容認したとみなす」
「承知しました」
ラウルが低く答える。
その表情にも、いつもの軽さはなかった。
「リリアーナ様には」
「伝える」
カイゼルは即答した。
以前なら、守るために隠したかもしれない。
だが、もうそれはしないと決めている。
彼女が傷つくと分かっていても、彼女自身に関わることを彼女から奪わない。
「ただし、伝え方は選ぶ」
「オルガ殿も同席された方がいいでしょう」
「ああ。クララも呼べ」
ラウルは頷き、すぐに退出した。
執務室に残ったカイゼルは、窓の外へ目を向ける。
国境砦の庭では、白い小花のそばに小さな刺繍枠が飾られていた。
少し歪んだ銀糸の星。
リリアーナが、自分の手で縫った星。
その星を見た時の彼女の微笑みを思い出す。
神殿は、その優しさも、祈りも、父への情も、民を思う心も、すべて鎖に変えようとした。
許せるはずがなかった。
「二度と触れさせない」
低い声が、誰もいない執務室に落ちた。
リリアーナは、庭の白い小花に水をやっていた。
水差しは小さく、クララが「重すぎないものを」と選んだものだ。王国で令嬢が庭に水をやるなど、使用人に任せるべきこととされただろう。
だが、ここでは誰も咎めない。
むしろクララは嬉しそうに見守っているし、オルガも「手を冷やしすぎないように」とだけ言った。
リリアーナは水差しを傾け、花の根元へ少しずつ水を注ぐ。
土が柔らかく湿っていく。
昨日、星の光でほんの少し整えた場所だ。
劇的に花が増えたわけではない。
それでも葉の色は、少しだけ明るくなったように見えた。
「元気になってくれるといいのだけれど」
「もう少しで新しい蕾がつきそうですね」
クララが言う。
リリアーナは顔を上げた。
「分かるの?」
「なんとなくです」
「なら、きっとそうね」
そう答えてから、自分で少し驚いた。
以前なら、確証のないことは口にしなかった。
間違えれば恥になる。
期待して違えば失望する。
だから、曖昧な願いを言葉にするのが苦手だった。
でも今は、きっとそうね、と言えた。
それは小さな変化だった。
そこへ、ラウルが庭の入口に姿を見せた。
いつもの軽い笑みはあるが、目元が少しだけ真剣だ。
「リリアーナ様、陛下がお呼びです」
「陛下が」
「はい。オルガ殿、クララ嬢もご一緒にとのことです」
リリアーナは水差しを下ろした。
胸の奥が、わずかにざわつく。
カイゼルが、クララとオルガも一緒にと指定する時は、リリアーナに関わる大事な話であることが多い。
「王国から、何かありましたか」
「神殿の祭壇具について、解析が進みました」
ラウルは隠さなかった。
リリアーナは小さく息を吸う。
逃げたい気持ちはある。
けれど、知りたい気持ちもある。
リリアーナは頷いた。
「分かりました。行きます」
執務室に入ると、カイゼルがすでに待っていた。
机の上の書類は整えられているが、空気は重い。
老魔術師も控えている。
リリアーナは、椅子を勧められて腰を下ろした。
すぐ横にクララが立ち、少し後ろにオルガが控える。
カイゼルは、リリアーナの正面に座らず、少し斜めの位置に腰を下ろした。
真正面から追い詰めないための位置だと、今のリリアーナには分かった。
「神殿の祭壇具について、分かったことがある」
「はい」
「聞くのがつらければ、途中で止める」
「……はい。でも、聞きます」
リリアーナは胸元の星飾りに触れた。
カイゼルは頷き、老魔術師へ視線を向ける。
老魔術師は慎重に言葉を選びながら説明した。
「リリアーナ様。星を呼び戻す鎖は、加護そのものを引き寄せるだけの術具ではありませんでした」
「違うのですか」
「はい。あれは、加護の宿り手の感情や記憶を媒介に、意識を王国へ引き戻すものです」
「感情や、記憶……」
リリアーナの手が、膝の上で強張る。
「どのような感情ですか」
「責任感、罪悪感、血縁への情、祈りの記憶、そして民を思う心です」
その瞬間、リリアーナは息が詰まった。
民を思う心。
父への情。
神殿で祈った記憶。
王国を完全には憎めない自分。
それらが、鎖の入口になる。
「つまり」
リリアーナの声は、思ったより小さかった。
「私が王国を心配する気持ちを、神殿は利用しようとしたのですか」
「その可能性が高いです」
老魔術師が、苦しげに答えた。
クララが両手を握りしめる。
「ひどい……」
「クララ」
リリアーナは小さく呼ぶ。
クララは泣きそうな顔で言った。
「だって、お嬢様の優しさまで、そんなふうに使おうとするなんて」
「……ええ」
リリアーナは目を伏せた。
胸の奥が冷える。
悲しい。
腹立たしい。
そして、少し怖い。
自分の優しさが、弱点にされる。
誰かを心配する気持ちが、鎖に変えられる。
それなら、いっそ何も心配しない方がいいのだろうか。
王国の民のことも。
父のことも。
神殿で祈った日のことも。
全部、切り捨ててしまえば楽なのだろうか。
「リリアーナ」
カイゼルの声がした。
リリアーナは顔を上げる。
「今、何を考えた」
「……心配しなければ、利用されないのかもしれないと」
「それは違う」
即座に否定された。
声は強い。
だが、責めるものではなかった。
「君の優しさが悪いのではない。利用する者が悪い」
「でも」
「心を捨てて身を守れとは言わない」
カイゼルは、まっすぐにリリアーナを見た。
「君が王国民を心配することも、父への情を捨てきれないことも、神殿で祈った記憶を大切に思うことも、すべて君のものだ。神殿に奪わせるな」
「私のもの……」
「ああ。鎖に変える権利は、誰にもない」
その言葉に、胸の奥で固まりかけていたものが少しほどけた。
優しさを捨てなくていい。
でも、利用させなくていい。
その二つは、同時に成り立つのだろうか。
まだうまく分からない。
けれど、カイゼルは当然のようにそう言う。
オルガが静かに口を開いた。
「リリアーナ様。優しさを持つことと、自分を差し出すことは違います」
「はい」
「心配することと、責任を背負うことも違います」
「……はい」
「神殿は、その違いを踏みにじりました。だから責められるべきはリリアーナ様ではございません」
クララも強く頷く。
「お嬢様は、何も悪くありません」
「クララ」
「心配してもいいです。でも、戻らなくていいんです。誰かを思っても、自分を渡さなくていいんです」
その言葉は、真っすぐだった。
リリアーナは視界が滲むのを感じた。
また泣きそうだ。
最近、涙をこらえないことが増えた。
まだ少し恥ずかしい。
でも、悪いことではないと思えるようになってきた。
「……私は、王国の民を心配しています」
「ああ」
カイゼルが頷く。
「父上の手紙を読んで、少しほっとしました」
「ああ」
「神殿で祈った時間まで、嫌いになりたくありません」
「ああ」
「でも、戻りません」
リリアーナは、はっきりと言った。
「その気持ちを、鎖に変えさせません」
胸元の星飾りが、淡く光った。
強くはない。
けれど、澄んだ光だった。
老魔術師が目を見開く。
カイゼルは、静かにその光を見ていた。
「それでいい」
短い言葉。
だが、その声には深い安堵があった。
「皇国から魔術師を王国へ派遣する」
「祭壇具のためですか」
「ああ。王国任せにはしない。残留術式が暴走すれば、また君へ影響が出る可能性がある」
「危険なのですね」
「だから潰す」
「……陛下らしいです」
リリアーナが小さく言うと、ラウルが口元を押さえた。
カイゼルは彼を一瞥する。
「何だ」
「いえ、リリアーナ様に陛下らしいと言われてよかったですね」
「ラウル」
「はい、黙ります」
少しだけ空気が緩む。
リリアーナは、ようやく呼吸が楽になった。
「私にも、何かできることはありますか」
そう尋ねると、カイゼルの眉がわずかに動いた。
「無理をすることなら不要だ」
「分かっています」
「本当にか」
「……たぶん」
「たぶんでは困る」
少しだけ厳しい声に、リリアーナは小さく笑った。
「では、無理をしない範囲で。私の感覚で分かることがあれば、お伝えします。祭壇から引かれた時の感覚や、星飾りの反応など」
「それは助かる」
「はい。私自身を守るためにも、知っておきたいです」
「ああ」
カイゼルは頷いた。
リリアーナは、ようやく自分からその調査に関わると言えた。
王国のためではない。
神殿のためでもない。
自分が二度と鎖に繋がれないために。
王国では、皇国魔術師団受け入れの通告を巡って、王宮と神殿の間に緊張が走っていた。
大聖堂地下祭具室は王宮警備隊により封鎖され、王宮魔術師たちが交代で監視している。
神殿上層部の一部は強く反発した。
だが、神官長が負傷し、祭壇具が暴走し、皇国から正式抗議が届いた以上、拒否する力はもう弱まっていた。
宰相エドガーは、王宮会議室で神殿側の代表と向き合っていた。
相手は年配の上位神官で、顔には不満が滲んでいる。
「皇国魔術師を大聖堂地下へ入れるなど、神殿の尊厳に関わります」
「神殿の尊厳は、神官長が禁じられた祭壇具を使用した時点で大きく損なわれている」
「しかし、異国の者に祭壇具を触れさせるのは」
「その祭壇具で、皇国に保護されているリリアーナ・エルフェルト嬢へ干渉したのだ。皇国が確認を求めるのは当然だ」
「星霜の加護は王国の」
「その主張は撤回せよ」
エドガーの声が鋭くなる。
「リリアーナ嬢本人が拒否し、王国も彼女の意思を受け止めると文書にした。これ以上、加護を王国の所有物のように扱えば、王国側が皇国への敵対行為を継続しているとみなされる」
「……」
「神殿は、信仰を守りたいのか。それとも、権威を守りたいのか」
上位神官は口をつぐんだ。
答えられないのではない。
答えが分かっているから、言えないのだ。
会議室の隅で、ユリウスが記録を取っていた。
その手は少し震えている。
だが、文字は乱れていない。
彼はもう、神殿上層部の顔色だけを見て記録を曲げるつもりはなかった。
数刻後、王国は皇国魔術師団の限定的な受け入れを正式に認めた。
大聖堂地下祭具室の調査。
祭壇具の残留術式の解析。
星霜の加護への干渉経路の特定。
リリアーナ本人への再接続の完全遮断。
それらを目的とする、皇国と王国の共同調査である。
ただし、実質的には皇国が主導することになるだろう。
王国は、もう単独で神殿を信用させられる立場にはなかった。
その報せが国境砦へ届いた時、リリアーナは庭の白い花のそばにいた。
夕方の光が、黒灰色の石壁を淡く照らしている。
刺繍枠の中の歪んだ星は、風に揺れる小さな影を落としていた。
リリアーナはそれを見つめながら、カイゼルから報告を聞いた。
「王国が、皇国魔術師団を受け入れるのですね」
「ああ」
「祭壇具は、完全に止められるでしょうか」
「止める」
「……陛下が言うと、本当に止まりそうです」
「止めるからな」
あまりにも当然のように返され、リリアーナは少し笑った。
その笑いは、以前より自然だった。
「私、怖いです」
「ああ」
「でも、知ることをやめたくありません」
「ああ」
「自分の優しさを、鎖にされたくありません」
「させない」
「はい」
リリアーナは、自分の刺繍の星を見つめる。
少し歪んだ星。
完璧ではない星。
けれど、自分で縫った星。
神殿の祭壇に戻る星ではない。
王国のために当然のように使われる星でもない。
「陛下」
「何だ」
「私、優しいままでいたいです」
カイゼルが彼女を見る。
リリアーナは、少しだけ不安そうに微笑んだ。
「でも、もう利用されたくありません」
「ああ」
「それは、欲張りでしょうか」
「いいや」
カイゼルは、迷わず答えた。
「それが普通だ」
「普通……」
リリアーナはその言葉を噛みしめる。
普通。
誰かに優しくしても、自分を差し出さなくていい。
誰かを心配しても、鎖にされなくていい。
それが普通。
まだ遠い。
けれど、目指してもいい場所のように思えた。
「では、私は普通を練習します」
「そうしろ」
「陛下も、少しは休む練習をしてください」
「私は」
「カイゼル陛下」
リリアーナがじっと見上げる。
カイゼルは一瞬、言葉を止めた。
その様子を見て、ラウルが遠くで肩を震わせている。
クララも少し笑っていた。
リリアーナは、真面目な顔で続ける。
「私だけ休む練習をするのは、不公平です」
「……分かった」
カイゼルが折れた。
ラウルが小さく拍手しそうになり、カイゼルに睨まれて手を下ろす。
リリアーナは、思わず笑った。
庭の白い花が風に揺れる。
夕星が一つ、空に浮かび始めていた。
胸元の星飾りは穏やかに光っている。
優しさを鎖にはしない。
その光は、そんな小さな誓いのように、リリアーナの胸元で静かに瞬いていた。
そして数日後。
皇国魔術師団の一行が、黒狼の旗を掲げて王国へ向けて出発した。
彼らが向かう先は、封鎖された王国大聖堂の地下。
星を縛ろうとした鎖の残骸が眠る場所だった。
王国神殿が隠してきた秘密は、もう皇国の目から逃れられない。
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