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婚約破棄された悪役令嬢ですが、処刑台の上で敵国皇帝に求婚されました 〜私を捨てた王国は滅びかけていますが、もう知りません〜  作者: 碓氷さゆ


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第33話 可哀想な聖女候補

 王都の広場に掲げられた告示の前には、日が暮れても人が絶えなかった。

 王宮からの正式発表。

 聖女認定式の凍結。

 王国神殿上層部の職務停止。

 大聖堂地下祭具室における危険な祭壇具使用の調査。

 リリアーナ・エルフェルトに対する断罪裁定の再審。

 そして、現時点で彼女を罪人として扱わないこと。

 その一文一文が、王都の民にとってはあまりにも重かった。

 つい先日まで、リリアーナは悪役令嬢だった。

 聖女候補ミリアを害した冷たい公爵令嬢。

 王太子殿下に婚約破棄され、処刑台に立たされた罪人。

 民衆の多くは、そう聞かされていた。

 だが今、王宮自身がその断罪を再調査すると告げている。

 神殿は封鎖され、聖女認定式は凍結され、ミリアの祈りは瘴気を鎮めなかった。

 では、あの日、処刑台に立たされた令嬢は何だったのか。


「俺、あの日広場にいたんだ」


 若い商人が、告示の前でぽつりと言った。

 隣にいた友人が顔を向ける。


「処刑の日か」

「ああ。悪役令嬢だって聞いてたから、ひどい女なんだと思ってた。でも……思い返すと、あの人、最後まで自分はやってないって言ってた」

「罪人なら、命乞いするもんじゃないのか」

「分からない。でも、泣き叫んではいなかった。ずっと背筋を伸ばしてた」


 別の女が、小さく呟く。


「それを、冷たいって言ってたわね。私たち」

「……」


 沈黙が落ちた。

 誰かが投げた石ではない。

 誰かが直接手を下したわけでもない。

 けれど、あの日、広場にいた者たちは、処刑台の上の令嬢を見ていた。

 噂を信じ、罵声を聞き流し、正義の裁きだと思おうとした。

 もし、その裁きが間違いだったなら。

 民衆の胸にも、小さな棘が刺さる。


「じゃあ、聖女様は?」

「ミリア様?」

「本当に、リリアーナ様に害されたのかね」


 誰もはっきりとは答えられなかった。

 けれど、疑いはもう生まれてしまった。

 疑いは、一度生まれれば、祈りや涙だけでは消せない。


 神殿内の保護室で、ミリアは窓の外を見ていた。

 窓は高く、外の広場までは見えない。だが、神殿内を行き交う人々の声は時折聞こえてくる。

 王宮の告示。

 神殿上層部の職務停止。

 聖女認定式の凍結。

 自分の名は、もう祝福と共に語られていない。

 疑惑と共に囁かれている。


「ミリア様」


 扉の外から侍女の声がした。

 ミリアは振り返る。


「何」

「王宮法務官の方が、追加の確認をしたいと」

「また?」


 声が思ったより鋭くなった。

 侍女がびくりとする。

 ミリアはすぐに表情を整えようとしたが、うまく笑えなかった。


「私、昨日も答えたわ」

「ですが、証言の確認が必要とのことで」

「何を確認するの? 私は被害者なのに」

「ミリア様……」


 侍女の目に、以前のような無条件の同情はなかった。

 困惑。

 気まずさ。

 そして、少しの警戒。

 それを見た瞬間、ミリアの胸に黒い感情が広がる。

 みんな、変わった。

 昨日まで私を可哀想だと言っていたのに。

 聖女様だと持ち上げていたのに。

 リリアーナの名前が出た途端、みんな手のひらを返す。


「分かったわ」


 ミリアは立ち上がった。


「答えればいいのでしょう」


 声は震えていた。

 だが、それは怯えだけではない。

 苛立ちと、焦りと、崩れていく足場への恐怖だった。


 法務官が待つ小部屋は、以前ミリアが祈りの準備をしていた部屋だった。

 今は机と椅子が置かれ、記録官が羽根ペンを構えている。

 法務官は淡々と礼をした。


「ミリア・ロゼット嬢。昨日に続き、確認を行います」

「はい」


 ミリアは椅子に座った。

 背筋を伸ばし、手を膝の上で重ねる。

 儚く、傷ついた少女に見えるように。

 そう振る舞おうとする癖は、もう身体に染みついていた。


「まず、階段からの転落についてです。あなたは当初、リリアーナ・エルフェルト嬢に突き落とされたと証言しました」

「……はい」

「しかし昨日の聞き取りでは、足を滑らせた、とも述べています」

「それは、怖くて混乱していたからです」

「では、改めて伺います。あなたは、リリアーナ嬢の手があなたを押した瞬間を見ましたか」

「……」


 ミリアの唇が震える。


「見た、ような気がします」

「気がする、では記録できません。見ましたか」

「私は……階段の上にリリアーナ様がいたと思いました」

「思った、ですね」

「だって、あの方はいつも私を冷たく見ていました!」


 法務官は表情を変えない。


「質問にお答えください。押された瞬間を見ましたか」

「……見ていません」


 その言葉が部屋に落ちた。

 記録官のペンが走る音がする。

 ミリアは膝の上の手を強く握りしめた。

 爪が食い込む。


「次に、毒入り菓子についてです。あなたは、その菓子がリリアーナ嬢からの贈り物だと証言しました」

「そう聞きました」

「誰から」

「……分かりません」

「あなたの侍女は、あなたから聞いたと証言しています」

「そんなの、覚えていません」

「では、リリアーナ嬢本人がその菓子を贈ったと確認したわけではない」

「でも、あの方しか」

「確認したわけではないのですね」


 ミリアは唇を噛んだ。

 涙が浮かぶ。

 けれど、法務官は止まらない。

 以前なら、涙が出れば誰かが守ってくれた。

 だが今は、涙は記録を止めない。


「……はい」


 絞り出すように答える。

 胸が苦しい。

 悔しい。

 なぜ自分が責められなければならないのか。

 悪いのはリリアーナのはずなのに。

 あの人が完璧で、冷たくて、みんなに評価されていたから。

 自分は、ただ選ばれたかっただけなのに。


「ミリア嬢」


 法務官の声が、少しだけ低くなる。


「あなたは、リリアーナ嬢が自分を害したと、本当に確信していたのですか」

「……していました」

「何を根拠に」

「嫌われていたから」

「具体的な行為ではなく、そう感じていたからですか」

「だって!」


 ミリアは顔を上げた。

 涙が頬を伝う。


「あの方は、いつも正しかったんです! 私が少し間違えると、礼法が違うとか、殿下の公務に支障が出るとか、神殿の記録が曖昧だとか、そんなことばかり! 私はただ、アルヴィス様のそばにいたかっただけなのに!」


 法務官も、記録官も黙っていた。

 ミリアは止まれなかった。


「リリアーナ様がいる限り、私はいつも比べられるんです。あの方は公爵令嬢で、王太子妃候補で、何でもできて、皆に必要とされて……私は、守ってもらうしかなかった。可哀想だと思ってもらうしかなかったのに」


 言ってから、ミリアははっと口を押さえた。

 法務官の目が、静かに細められる。


「可哀想だと思ってもらうしかなかった、とは」

「違います」

「記録してください」

「違うんです!」


 ミリアは立ち上がりかけた。

 だが、扉のそばにいた王宮警備隊が一歩動く。

 その瞬間、彼女は椅子に戻るしかなかった。

 逃げられない。

 涙でも、声でも、儚い笑みでも。

 もう、逃げられない。


 王太子宮では、アルヴィスがその聞き取り記録の一部を読んでいた。

 宰相府から送られてきた写しだ。

 再調査対象者である彼にすべてが開示されているわけではないが、関係部分の確認として一部が届けられた。

 そこには、ミリアの言葉が記されている。


『私は、守ってもらうしかなかった。可哀想だと思ってもらうしかなかった』


 アルヴィスはその一文から目を離せなかった。

 可哀想だと思ってもらうしかなかった。

 彼女は、自分に守られることで居場所を得ようとしていた。

 そして自分は、その役を喜んで引き受けた。

 守る王太子。

 傷ついた聖女候補。

 冷たい悪役令嬢。

 その構図は、あまりにも分かりやすく、心地よかった。

 だから疑わなかった。


「……私は、利用されたのか」


 呟いてから、すぐに胸が痛んだ。

 違う。

 ミリアだけが利用したわけではない。

 自分も、ミリアを利用したのだ。

 正義の王太子でいるために。

 リリアーナの正しさから目を逸らすために。

 自分を頼ってくれる少女を守ることで、自分が優れた男だと感じるために。


 アルヴィスは、リリアーナの声明を机の上に広げた。

 何度も読んだ一文が、また目に入る。


『私は、私自身の未来を、自分で選びます』


 リリアーナは、自分で選ぶと言った。

 ミリアは、守ってもらうしかなかったと言った。

 そして自分は、そのどちらの言葉も正しく聞いていなかった。


「私は、誰も見ていなかったのか」


 声は、誰にも届かない。

 王太子宮の部屋は広い。

 だが今のアルヴィスには、処刑台よりも狭く感じられた。


 国境砦の庭では、リリアーナの刺繍が小さな木枠に入れられていた。

 白い布に、淡い銀糸の星と、小さな白い花。

 星の形は、少しだけ歪んでいる。

 花びらも均等ではない。

 王国の王妃教育で提出すれば、やり直しを命じられたかもしれない。

 けれどリリアーナは、その刺繍を見て小さく笑った。


「本当に、少し歪んでいますね」

「可愛いです」


 クララが即答する。

 オルガも頷いた。


「温かみがございます」

「温かみ」

「はい。完璧な見本より、今のリリアーナ様らしいかと」


 リリアーナは木枠を両手で持ち、庭の白い小花のそばへ向かった。

 カイゼルも少し離れてついてくる。

 ラウルはなぜか楽しそうにしていた。


「陛下、飾る場所はどうしましょう」

「風の当たりにくい場所がいい」

「陛下が真面目に刺繍の飾り場所を考えておられる」

「ラウル」

「はい、黙ります」


 リリアーナは思わず笑ってしまった。

 カイゼルが少しだけ気まずそうに視線を逸らす。

 その様子が、なんだか穏やかで。

 昨日まで神殿の鎖に怯えていた心が、ゆっくりとほどけていくようだった。


 庭の一角に、小さな木製の支柱が立てられている。

 そこへ刺繍枠を掛けると、白い小花と銀の星が並んだ。

 完璧ではない。

 けれど、そこにあるだけで不思議と温かい。


「できました」


 リリアーナは、静かに言った。

 クララが拍手し、ラウルも軽く手を叩く。

 オルガは微笑み、カイゼルは黙ってその刺繍を見ていた。


「変でしょうか」


 リリアーナが尋ねる。

 カイゼルはすぐに答えた。


「いいや」

「少し歪んでいます」

「それも君の星だと言っただろう」


 リリアーナは、目を伏せた。

 胸の奥が温かくなる。

 それも君の星。

 その言葉が、昨日からずっと心に残っている。

 完璧でなくても。

 王太子妃候補として正しくなくても。

 誰かに評価されるための形でなくても。

 自分の手で縫った星は、自分のもの。


「はい」


 リリアーナは小さく頷いた。


「私の星です」


 胸元の星飾りが、淡く光った。

 それは、庭の白い花と刺繍の星を照らすほどの、ほんの小さな光だった。

 けれど今のリリアーナには、それで十分だった。

 大きな奇跡ではなくていい。

 誰かに見せるための光でなくていい。

 自分がここにいると、静かに確かめられる光であれば。


 その日の夕方、皇国の魔術師からカイゼルへ報告が上がった。

 神殿の祭壇具に使われていた術式の解析結果である。

 老魔術師は、険しい顔で書類を差し出した。


「陛下。星を呼び戻す鎖について、判明したことがございます」

「言え」

「あれは、加護を呼び戻すためだけの祭壇具ではありません」

「何だと」

「本来の機能は、加護持ち本人の意思を弱め、土地へ結びつけること。つまり、リリアーナ様本人が王国へ戻らずとも、精神的な抵抗を削り、王国を気にかけずにはいられない状態へ誘導する危険性がありました」


 部屋の空気が凍った。

 カイゼルの瞳が、冷たく細められる。


「つまり、彼女の優しさを鎖に変える術具か」

「端的に言えば、その通りです」


 老魔術師の声は苦い。


「王国の民を心配する心。神殿で祈った記憶。父君への情。そうしたものを媒介に、王国へ意識を引き戻す術式です」

「……」


 カイゼルは無言だった。

 その沈黙が、かえって恐ろしい。

 ラウルが珍しく軽口を挟まなかった。


「術式は破損していますが、完全に無効化されたわけではありません。王国側が保全に失敗すれば、残留術式が暴走する可能性があります」

「皇国から魔術師を派遣する」

「王国が受け入れるでしょうか」

「受け入れさせる」


 カイゼルの声は低かった。


「これは、リリアーナへの攻撃の証拠だ。皇国も直接確認する権利がある」

「承知いたしました」


 老魔術師が頭を下げる。

 カイゼルは窓の外を見た。

 庭では、リリアーナがクララと共に刺繍の位置を少し直している。

 小さな星。

 白い花。

 穏やかな笑み。

 あの笑顔を、神殿は鎖で引き戻そうとした。

 彼女の優しさを利用し、心を削り、王国へ縛ろうとした。


「許さん」


 短い言葉だった。

 だが、その声には黒炎のような怒りが宿っていた。


 そして王国神殿の封鎖された祭具室では、ひび割れた祭壇具の奥で、まだ黒い鎖の残滓が蠢いていた。

 星は拒んだ。

 鎖は断たれた。

 だが、歪んだ術式はまだ完全には死んでいなかった。

 次に暴れる時、それは王国自身の足元を絡め取ることになる。

お読みいただきありがとうございます。

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毎日19時半ごろ更新予定です。

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