第32話 私は祭壇へ戻らない
ヴァレンティス皇国の正式通告は、翌朝、黒狼の封蝋を押されて王国へ送られた。
厚手の羊皮紙に記された文面は、簡潔で、冷たく、容赦がなかった。
宛先はグランベルク王国国王エルネスト。
写しは王国宰相府、エルフェルト公爵家、王国神殿、法務局へ同時送付。
内容は三つ。
一つ、王国神殿が星霜の加護へ干渉する祭壇具を使用した事実について、皇国はリリアーナ・エルフェルト本人への危害とみなす。
二つ、当該祭壇具、関連記録、儀式に関与した神官の身柄および証言を保全し、調査結果を皇国へ開示すること。
三つ、今後いかなる名目においても、リリアーナ・エルフェルト本人の意思に反し、星霜の加護へ接続、召喚、拘束、干渉する儀式を禁じること。
そして最後に、一文が加えられていた。
皇国の外交文ではなく、リリアーナ本人の言葉として。
『私は、神殿の祭壇へ戻りません』
その一文は短い。
だが、王国神殿が伸ばした鎖を断つには十分だった。
王宮の執務室で通告を受け取ったエルネストは、その文面を読み終えると、深く息を吐いた。
窓の外には、朝の王宮庭園が見える。
白い石柱も、整えられた庭も、いつも通り美しい。だが、その美しさの下で王国は確実に揺らいでいた。
神殿の封鎖。
王太子の裁定権停止。
聖女認定式の凍結。
リリアーナの冤罪再調査。
そして今、皇国からの正式通告。
「当然の要求だな」
エルネストは静かに言った。
宰相エドガーが頷く。
「はい。むしろ、現時点では抑えた文面です」
「黒狼皇帝が抑えた、か」
「リリアーナ嬢の状態を考慮したのでしょう。今すぐ戦に発展させるより、神殿の責任を王国に取らせる形を選んだのだと思われます」
「彼女を守るために、か」
王は、羊皮紙の最後の一文へ目を落とす。
『私は、神殿の祭壇へ戻りません』
簡潔な拒絶。
王国にいた頃のリリアーナなら、このような一文を書いただろうか。
おそらく、書かなかった。
神殿への敬意、王家への配慮、公爵家の立場、民への影響。
あらゆるものを考え、もっと遠回しな言葉にしたはずだ。
だが今の彼女は、戻らないと書いた。
その意思を、皇国が守っている。
「この一文を、消してはならぬ」
エルネストは言った。
同席していた外交官が、少しだけ目を伏せる。
「陛下」
「神殿側は、必ず皇国の圧力だと言うだろう。だが、この言葉が彼女自身のものだと王国が認めなければ、また同じ過ちを繰り返す」
「承知いたしました」
「通告を受諾する。神殿上層部の職務停止は継続。祭壇具は王宮魔術師団と法務局の共同管理。神官長の聴取は、医師の許可が下り次第開始せよ」
「はい」
「そして、民への発表文を用意しろ」
宰相が、わずかに眉を上げる。
「どこまで公表されますか」
「隠しても無駄だ。聖女認定式の失敗も、大聖堂封鎖も、すでに広がっている。中途半端に伏せれば、さらに噂が膨らむ」
「では、星霜の加護についても」
「慎重に扱う。リリアーナの力を王国が求めているような書き方はするな。彼女が王国に戻らない意思を示していることも、民に伝える必要がある」
外交官が息を呑んだ。
「それを公表すれば、王国民の動揺は」
「もう動揺している」
エルネストの声は厳しかった。
「嘘で落ち着かせる段階ではない。王国は、彼女を失った。その事実を認めるところから始める」
誰も反論できなかった。
王国は、失った。
悪役令嬢と呼び、処刑台へ立たせ、敵国皇帝に救われた令嬢を。
そして、その令嬢はもう戻らない。
その現実が、王国の中心へ突きつけられていた。
王国神殿では、通告の写しが神殿上層部へ読み上げられていた。
神官長は負傷により治療室に隔離され、職務停止を命じられている。
代わりに集められた上位神官たちは、青ざめた顔で長机を囲んでいた。
王宮警備隊が扉の外に立っている。
これまで神殿の奥は、王宮でさえ簡単に踏み込めない聖域だった。
だが今は違う。
王宮の監視下に置かれていた。
「……皇国は、我々を罪人扱いするつもりか」
年配の神官が低く呟いた。
別の神官が苛立たしげに言う。
「そもそも星霜の加護は王国の土地を守る力だ。王国神殿が扱って何が悪い」
「本人が拒否している」
静かな声が、その場を切った。
発言したのは、記録管理補佐のユリウスだった。
ギルベルトへ古文書の写しを渡した下級神官である。
今は王宮側の聴取協力者として、この場に呼ばれていた。
上位神官たちが一斉に彼を見る。
「ユリウス。お前がそれを言うのか」
「はい」
「神殿を裏切った者が」
「私は、神殿を裏切ったのではありません」
ユリウスは、震えながらも言った。
「記録を曲げることを拒んだだけです」
「黙れ」
「黙りません」
その言葉に、部屋の空気が凍る。
下級神官が上位神官に逆らうなど、以前なら考えられなかった。
だが、王宮警備隊が外にいる今、上位神官たちも迂闊には声を荒らげられない。
ユリウスは、机の上に置かれた皇国の通告へ視線を落とした。
「リリアーナ様は、神殿の祭壇へ戻らないとおっしゃっています。星霜の記録にも、加護は王冠に属さず、祭壇に縛られず、宿り手の心に従うとあります」
「古文書の一文だけで」
「一文だけではありません」
ユリウスは、持参した写しを広げた。
「星を縛る者は地を乱す。星は奪う者に影を返す。星を鎖に繋ぐ者、いずれ鎖に裁かれる。すべて、今回の祭壇具暴走と一致しています」
「偶然だ」
「偶然で、地下祭具室に瘴気が溢れますか」
誰も答えられなかった。
上位神官たちは苦々しげに沈黙する。
王宮から派遣された法務官が、淡々と記録を取っていた。
「王宮の命により、星霜の加護関連の古文書、祭壇具、術具、儀式記録をすべて提出していただきます」
「神殿の機密だ」
「王国と皇国の外交問題に発展しております。神殿の自治を理由に拒否することは認められません」
「我々は王国の信仰を守ってきた」
「ならば、まず王国民を危険に晒した祭壇具の説明を」
法務官の声は冷静だった。
だが、その冷静さこそが逃げ道を塞いでいる。
上位神官たちは、何も言えなくなった。
その時、治療室から使いの神官が駆け込んできた。
「神官長猊下が意識を取り戻されました」
「何と仰っている」
「……リリアーナ・エルフェルトを戻せ、と」
部屋に、重い沈黙が落ちた。
ユリウスは目を伏せる。
法務官は、静かにその言葉を書き留めた。
神官長は、まだ分かっていない。
星は戻らない。
少なくとも、鎖を伸ばす者のもとへは。
王太子宮では、アルヴィスが皇国通告の写しを読んでいた。
机の上には、リリアーナの声明、父王からの処分通知、再調査委員会からの聞き取り要請が積まれている。
そこへまた一枚、通告が加わった。
リリアーナ本人の言葉が、目に飛び込んでくる。
『私は、神殿の祭壇へ戻りません』
アルヴィスは、しばらくその一文を見つめた。
祭壇へ戻らない。
王国へ戻らない。
自分の未来を自分で選ぶ。
リリアーナは、一つずつ、王国との結び目をほどいていく。
それを見ているだけで、胸の奥がざわついた。
「殿下」
ルーカスが入ってきた。
「ミリア様への追加聴取が終わりました」
「……どうだった」
「侍女たちの証言と、さらに食い違いが出ています。ミリア様は、リリアーナ様から直接害されたと断言できる出来事について、具体的な証拠を示せておりません」
「そうか」
アルヴィスの声は、思ったよりも静かだった。
ルーカスは少し驚いたように彼を見る。
以前なら、アルヴィスは即座にミリアを庇っただろう。
だが今は、そうできなかった。
「ミリアは、今どこに」
「神殿内の保護室に。王宮警備隊が見張りについております」
「会えるか」
「殿下は、再調査対象者です。無断で接触されるのは避けた方が」
「……そうだな」
アルヴィスは、目を伏せた。
会って、何を言うつもりだったのか。
責めるのか。
慰めるのか。
それとも、どうして嘘をついたと問い詰めるのか。
だが、ミリアを責めきることはできない。
彼女の涙を信じたのは、自分だ。
彼女の曖昧な言葉を、真実として扱ったのは、自分だ。
リリアーナの反論を切り捨てたのも、自分だ。
「ルーカス」
「はい」
「私は、リリアーナに謝るべきなのか」
「……殿下がそう思われるなら」
「謝れば、何か変わるのか」
ルーカスは、すぐには答えなかった。
やがて、慎重に口を開く。
「リリアーナ様が許すかどうかは、別の問題かと」
「そうだな」
アルヴィスは、乾いた笑いを漏らした。
「彼女は戻らないと言った。祭壇へも、王国へも。おそらく、私の隣にも」
その言葉に、自分で胸が痛んだ。
今さら何を思っているのか。
自分はミリアを選んだ。
リリアーナを捨てた。
処刑台へ立たせた。
それなのに、リリアーナが自分の隣に戻らないことを、失ったように感じている。
あまりにも身勝手だった。
「私は、最低だな」
アルヴィスは呟いた。
ルーカスは答えなかった。
沈黙こそが答えだった。
国境砦では、リリアーナが白百合の部屋で静かに刺繍枠を持っていた。
クララが勧めたものだ。
何か手を動かしていると気持ちが落ち着くから、と。
布には、小さな星と白い花の模様が下描きされている。
リリアーナは針を持ちながら、少し苦笑した。
「久しぶりだわ」
「お嬢様、昔はお上手でした」
「王妃教育の一つだったもの」
「今は、お役目ではなく楽しみとして刺してくださいね」
クララの言葉に、リリアーナは目を瞬かせた。
楽しみとして。
そう言われると、針の重さが少し変わる。
王国での刺繍は、令嬢としての技量を示すものだった。
仕上がりを評価され、礼儀や品位と結びつけられた。
でも今は、ただ自分のために布へ糸を通してもいい。
「では、少し歪んでもよいのね」
「もちろんです」
「それは、少し難しいわ」
「完璧でなくていい練習です」
クララが真面目な顔で言う。
リリアーナは笑ってしまった。
完璧でなくていい練習。
最近、そのような練習ばかりしている気がする。
疲れたと言う練習。
途中で止める練習。
怖いと言う練習。
拒む練習。
そして今は、楽しむ練習。
扉が叩かれた。
「リリアーナ。私だ」
カイゼルの声だった。
クララが扉を開けると、カイゼルが入ってくる。
彼はリリアーナの手元を見て、少しだけ目を細めた。
「刺繍か」
「はい。クララが勧めてくれました」
「そうか」
「陛下は、刺繍をご覧になりますか」
「詳しくはない」
「私も、上手かどうかはもう気にしない練習中です」
「よいことだ」
真顔で言われ、リリアーナはまた少し笑った。
カイゼルはその笑みを見てから、手に持っていた文書を示す。
「王国へ通告を送った」
「はい」
「君の一文も入れた」
「……ありがとうございます」
「王国は受諾した。神殿上層部の職務停止、祭壇具の保全、調査継続を進めている」
「そうですか」
リリアーナは針を置いた。
胸は少し痛む。
けれど、昨夜ほどの恐怖はなかった。
「私は、神殿を憎むべきでしょうか」
「そうしたいのか」
「分かりません」
「なら、今は決めなくていい」
「……決めなくていいことが、増えましたね」
リリアーナは小さく言った。
カイゼルが彼女を見る。
「すぐに許さなくていい。すぐに憎まなくてもいい。すぐに答えを出さなくてもいい」
「はい」
「だが、拒むことはできる」
「はい」
リリアーナは胸元の星飾りに触れた。
もう熱はない。
穏やかな温もりだけがある。
「私は、祭壇へ戻りません」
「ああ」
「でも、祈った時間までは捨てません」
「ああ」
「聖堂の光を美しいと思ったことも、私のものです」
「そうだ」
カイゼルの声は静かだった。
リリアーナは、刺繍枠の中の白い花を見つめる。
「なら、私は私の祈りを、神殿に返さなくてもいいのですね」
「ああ。君の祈りは、君のものだ」
その言葉に、胸の奥が少しだけ温かくなる。
王国に奪われたと思っていたものが、一つずつ戻ってくるようだった。
自分の言葉。
自分の力。
自分の祈り。
そして、自分の未来。
「陛下」
「何だ」
「この刺繍ができたら、庭の白い花のそばに飾ってもよろしいでしょうか」
「もちろんだ」
「完璧でなくても?」
「完璧である必要はない」
即答だった。
リリアーナは、少しだけ嬉しくなった。
「では、少し歪んだ星になるかもしれません」
「それも君の星だ」
何気ない一言だった。
けれど、リリアーナの胸には深く届いた。
それも君の星。
完璧でなくても。
少し歪んでいても。
傷ついていても。
自分のもの。
リリアーナは、針を持ち直した。
今度は少しだけ気楽に、白い布へ淡い星の糸を通す。
窓の外では、国境砦の庭に小さな白い花が揺れていた。
同じ日の夕暮れ。
王都の広場には、王宮からの告示が掲げられた。
聖女認定式の凍結。
王国神殿上層部の職務停止。
大聖堂地下祭具室における危険な祭壇具使用の調査。
リリアーナ・エルフェルトに対する断罪裁定の再審。
そして、彼女を現時点で罪人として扱わないこと。
人々は告示の前に集まり、何度も読み返した。
「じゃあ、リリアーナ様は罪人じゃないのか」
「まだ調査中ってことだろう」
「でも、処刑台に立たせたんだぞ」
「神殿が危ない祭壇具を使ったって……聖女様はどうなるんだ」
「本物の加護は、リリアーナ様だったんじゃないのか」
ざわめきが広がる。
その中で、一人の老女が小さく呟いた。
「悪役令嬢なんて、誰が決めたんだろうねえ」
誰もすぐには答えられなかった。
王国の空には、夕星が一つ瞬いていた。
その星は、王都のどこからも見えた。
けれどもう、王国の祭壇が呼び戻せる光ではなかった。
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