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婚約破棄された悪役令嬢ですが、処刑台の上で敵国皇帝に求婚されました 〜私を捨てた王国は滅びかけていますが、もう知りません〜  作者: 碓氷さゆ


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第31話 謝罪は、鎖ではない

 グランベルク王国の朝は、重い霧に包まれていた。

 王都の大聖堂周辺には、夜明け前から王宮警備隊が配置されている。普段なら祈りに訪れる民たちで賑わう石畳の広場も、今日は人の流れが制限され、門の前には固い表情の騎士たちが立っていた。

 大聖堂は封鎖された。

 その報せは、すでに王都中へ広がり始めている。

 聖女認定式の失敗。

 地下祭具室での瘴気発生。

 神官長の負傷。

 星霜の加護に干渉する祭壇具。

 そして、リリアーナ・エルフェルトへの再度の危害。

 人々はまだ真相を知らない。

 だが、何かが起きていることだけは分かっていた。


「神殿が封鎖されたって本当か」

「昨日の聖女様の儀式も中止になったんだろう」

「聖女様の祈りで瘴気が出たって聞いたぞ」

「じゃあ、本当にリリアーナ様が……」


 その先を口にする者は少ない。

 悪役令嬢。

 処刑台。

 敵国皇帝。

 星霜の加護。

 それらの言葉が、王都のあちこちで囁かれていた。

 王国が隠そうとしていたものは、もう隠しきれなくなっている。

 見えない亀裂が、王宮から神殿へ、そして民の噂の中へ広がっていた。


 王宮の執務室では、国王エルネストが皇国へ送る文書を前にしていた。

 宰相エドガー、法務官、外交官、そしてエルフェルト公爵ギルベルトが同席している。

 机の上には二通の文書があった。

 一つは、ヴァレンティス皇国宛ての正式な説明と謝罪。

 もう一つは、リリアーナ・エルフェルト本人宛ての謝罪文だった。

 エルネストは、リリアーナ宛ての文書へ視線を落とす。


「この文面では足りぬ」


 王の一言に、外交官が緊張した顔を上げた。


「陛下、どの部分でございましょうか」

「全体だ」


 室内が静まる。

 エルネストは文書を机へ置いた。


「これは、王国の失態についての説明文だ。謝罪文ではない」

「しかし、王国としては不用意に責任を認めすぎますと、皇国側からさらなる要求を」

「責任を認めずに済む段階ではない」


 エルネストの声は低かった。


「リリアーナ・エルフェルトは冤罪の疑いが濃い断罪によって処刑台に立たされた。その後、本人の意思に反して神殿が星霜の加護へ干渉しようとした。これは、王国が二度、彼女を傷つけたということだ」

「……はい」

「ならば、言い訳から始めるな」


 外交官は顔を青ざめさせ、深く頭を下げた。

 ギルベルトは無言でそのやり取りを聞いていた。

 かつての自分なら、王国の体面を守る文面を選んだだろう。

 リリアーナを刺激しないように。

 皇国を怒らせすぎないように。

 王家の責任が重くなりすぎないように。

 そうやって、誰かの体面を守るための文を整えた。

 だが、それでは娘に届かない。

 リリアーナはもう、役割のために自分の痛みを飲み込む少女ではない。


「陛下」


 ギルベルトは静かに口を開いた。


「リリアーナ宛ての文書には、戻ってほしいという言葉を一切入れないでいただきたい」

「そのつもりだ」

「王国のため、民のため、神殿のためという言葉も、使い方を慎重に願います」

「分かっている」


 エルネストは深く頷いた。


「彼女の優しさにつけ込む文にはしない」

「ありがとうございます」


 ギルベルトは頭を下げた。

 その姿を見て、宰相エドガーが静かに目を細める。

 かつてのエルフェルト公なら、王国のために娘を説得しようとしたはずだ。

 だが今の彼は、戻らない娘の境界線を守ろうとしている。

 それが遅すぎる変化であることを、本人が一番分かっているのだろう。


 エルネストは新しい紙を取った。


「私が口述する。記録せよ」

「はい」


 記録官が羽根ペンを構える。

 王はしばらく沈黙した後、ゆっくりと言葉を紡いだ。


「リリアーナ・エルフェルト嬢へ。グランベルク王国国王エルネスト・フォン・グランベルクの名において、まず、あなたへ謝罪する」


 最初の一文で、部屋の空気が変わった。

 外交官がわずかに息を呑む。

 王が、個人名で、元王太子妃候補へ謝罪する。

 それは異例だった。

 だが、誰も止めなかった。


「王国は、あなたの言葉を聞かなかった。あなたが求めた証拠の確認、正式な調査、事実に基づく判断を怠った。その結果、あなたを罪人として処刑台へ立たせた」


 ギルベルトの手が強く握られる。


「さらに、あなたが明確に拒んだにもかかわらず、王国神殿は星霜の加護へ干渉する祭壇具を使用した。これは、あなたの意思を踏みにじる行為であり、王国として看過できぬ危害である」


 エルネストは一度言葉を切った。

 そして、さらに低い声で続ける。


「王国は、あなたへ戻ることを求めない。あなたの加護を王国の所有物と主張しない。あなたの意思に反する神殿儀式、術具、祭壇への接続を禁じる。あなたが皇国に留まる意思を示していることを、王国は正式に受け止める」


 ギルベルトは目を閉じた。

 その文は、リリアーナのためのものだった。

 王国のためでも、王家の体面のためでもない。

 ようやく、彼女の境界線を認める文だった。


「再調査は継続する。断罪裁定、処刑命令、神殿の関与、ミリア・ロゼット嬢の証言、王太子アルヴィスの判断について、王国は事実を明らかにする。あなたにかけられた罪が証明されぬ限り、あなたを罪人として扱わない」


 記録官のペンが走る音だけが響く。


「最後に」


 エルネストは、少しだけ目を伏せた。


「この謝罪は、あなたに許しを求めるための鎖ではない。あなたに帰還を求めるための口実でもない。ただ、王国があなたに対して犯した過ちを、王国自身が認めるためのものである」


 その言葉に、ギルベルトは静かに息を吐いた。

 謝罪は、鎖ではない。

 リリアーナへ届くなら、その一文だけでも意味があるかもしれない。


「以上だ。整えよ。ただし、意味は変えるな」

「承知いたしました」


 記録官が深く頭を下げた。

 エルネストは、椅子に深く身を沈める。

 その顔には、王としての疲労だけではない、一人の大人としての後悔が刻まれていた。


 同じ頃、神殿の一室では、ミリアが窓の外を見つめていた。

 昨日まで彼女の周囲にあった白い花も、聖女候補の衣装も、いまは遠ざけられている。

 扉の外には王宮警備隊が立っていた。

 表向きは保護。

 だが、実質的には監視だった。

 ミリアは唇を噛む。

 神官長は負傷し、祭具室は封鎖された。

 聖女認定式は凍結。

 アルヴィスは裁定権を停止され、最近は自分を見る目も変わってしまった。

 何もかも、崩れている。


「どうして……」


 声が震える。

 何度考えても、答えはリリアーナの名に行き着く。

 リリアーナが処刑されていれば。

 リリアーナが皇国へ行かなければ。

 リリアーナが星霜の加護など持っていなければ。

 そうすれば、自分は聖女になれた。

 アルヴィスに守られ、王国中から可哀想で清らかな少女として愛されるはずだった。


「私の方が、選ばれたのに……」


 呟いた声は、誰にも届かない。

 ミリアは、自分の手を見る。

 祈れば、光は出る。

 確かに光った。

 人々は感嘆した。

 だが、その光は穢れを鎮めなかった。

 黒い煙を呼んだ。

 聖堂の布を染めた。

 神官たちは、それでも自分を聖女にしようとした。

 なぜか。

 自分が本物だからではない。

 彼らにとって都合がよかったからだ。


 その事実に、ミリアは今さら気づき始めていた。

 アルヴィスも神殿も、自分を見ていたようで、見ていなかったのかもしれない。

 聖女という役。

 可哀想な少女という役。

 リリアーナを断罪するための被害者という役。

 その役が欲しかったのは、自分自身でもあった。


「違う……」


 ミリアは、首を振る。


「私は悪くない。私は、悪くない……」


 だが、声は部屋の中で弱く消えた。

 涙は出る。

 けれど、その涙で誰かがすぐに駆け寄ってくれることは、もうなかった。


 国境砦では、リリアーナが少し遅い朝食を取っていた。

 昨夜の神殿からの干渉の影響で、起床は遅くなった。クララは何度も謝るリリアーナを止め、オルガは朝食を昼食に近い時間へずらす手配をし、カイゼルは「寝ていろ」と短く命じた。

 結果として、リリアーナはいつもより長く眠った。

 目覚めた時、身体はまだ少し重かったが、心は昨日より落ち着いていた。

 食卓には、温かいスープ、柔らかなパン、蜂蜜を添えた果物、香草茶が並んでいる。

 クララが嬉しそうに言った。


「今日は半分以上召し上がれましたね」

「食事量を数えられているのね」

「もちろんです」

「もちろん……」


 リリアーナは少し困ったように笑う。

 だが、嫌ではなかった。

 誰かが自分の食事量を見ている。

 疲れていないか、無理をしていないか、気にしてくれている。

 王国では、それを監視のように感じることもあった。

 ここでは違う。

 心配されているのだと、少しずつ分かってきた。


 そこへ、扉が叩かれた。

 入ってきたのはラウルだった。

 いつもの軽い笑みはあるが、手に持つ文書のせいか、表情は少し引き締まっている。


「リリアーナ様、陛下からです」

「陛下から?」

「王国より、昨夜の件に関する第一報と、正式謝罪文の草案が届きました。陛下が先に確認されましたが、リリアーナ様にも読むかどうか選んでいただくようにと」


 読むかどうか、選ぶ。

 その言葉に、リリアーナはゆっくりとカップを置いた。

 昨夜、神殿に鎖を伸ばされた。

 怖かった。

 でも、拒めた。

 そして今、王国から謝罪文が来ている。

 謝罪。

 その言葉は、まだリリアーナの胸に複雑な響きを持っていた。

 謝られたら、許さなければならないのではないか。

 謝罪を受け取ったら、王国へ歩み寄らなければならないのではないか。

 そんな古い癖が、少しだけ顔を出す。


「リリアーナ様」


 オルガが静かに言った。


「謝罪は、受け取っても、受け取らなくても構いません」

「はい」

「受け取ったからといって、許す必要もございません」

「……はい」

「読むだけで返事をしない、という選択もございます」

「はい」


 リリアーナは深く息を吸った。

 自分で選ぶ。

 昨日も、父からの手紙をそうやって受け取った。

 今度も同じだ。


「読みます」


 リリアーナは言った。


「ただし、途中でつらくなったら止めます」

「はい。それがよろしいかと」


 オルガが頷く。

 クララはすぐ隣に座り、いつでも支えられるようにしている。

 ラウルは文書を盆に載せ、リリアーナの前へ置いた。


「陛下は、隣室にいらっしゃいます」

「陛下が?」

「はい。呼ばれればすぐ来るとのことです」

「……そうですか」


 リリアーナは少しだけ頬を緩めた。

 隣室にいる。

 入ってくるのではなく。

 読む邪魔をするのでもなく。

 ただ、呼べば来る距離にいてくれる。

 それが、カイゼルらしいと思った。


 リリアーナは文書を開いた。

 王国の正式な書式で整えられている。

 それでも、最初の一文は、飾り立てたものではなかった。


『リリアーナ・エルフェルト嬢へ。グランベルク王国国王エルネスト・フォン・グランベルクの名において、まず、あなたへ謝罪する』


 リリアーナの指が止まった。

 王国国王からの謝罪。

 かつて、自分が仕えるべき未来の舅であり、王国そのものの象徴だった人からの言葉。

 不思議な感覚だった。

 嬉しい、とは少し違う。

 重い。

 痛い。

 けれど、無視されなかったのだという確かな響きがある。


 読み進める。


『王国は、あなたの言葉を聞かなかった。あなたが求めた証拠の確認、正式な調査、事実に基づく判断を怠った。その結果、あなたを罪人として処刑台へ立たせた』


 胸が痛む。

 だが、リリアーナは目を逸らさなかった。

 王国が、初めてその事実を書いた。

 自分が何をされたのかを、王国の言葉で認め始めた。


『さらに、あなたが明確に拒んだにもかかわらず、王国神殿は星霜の加護へ干渉する祭壇具を使用した。これは、あなたの意思を踏みにじる行為であり、王国として看過できぬ危害である』


「危害……」


 リリアーナは小さく呟いた。

 昨日、カイゼルに言われた言葉だ。

 王国も、それを危害と書いている。

 自分が傷つけられたことを、ようやく言葉にしている。


『王国は、あなたへ戻ることを求めない。あなたの加護を王国の所有物と主張しない。あなたの意思に反する神殿儀式、術具、祭壇への接続を禁じる。あなたが皇国に留まる意思を示していることを、王国は正式に受け止める』


 そこで、リリアーナは長く息を吐いた。

 戻ることを求めない。

 その一文が、思っていた以上に胸へ響いた。

 王国に認められなければ戻らないでいられない、というわけではない。

 けれど、戻れと迫られないことは、確かに少しだけ怖さを軽くした。


 最後の部分へ目を落とす。


『この謝罪は、あなたに許しを求めるための鎖ではない。あなたに帰還を求めるための口実でもない。ただ、王国があなたに対して犯した過ちを、王国自身が認めるためのものである』


 リリアーナの視界が滲んだ。

 謝罪は、鎖ではない。

 その一文が、胸の奥に静かに落ちる。

 許さなくていい。

 戻らなくていい。

 受け取るだけでもいい。

 そう言われたようだった。


「……最後まで読めました」


 リリアーナは、文書を閉じた。

 クララが涙ぐみながら頷く。


「はい」

「つらかったです。でも、読んでよかったと思います」

「はい」

「まだ、許せません」

「はい」

「でも、王国が私にしたことを、王国自身が認め始めたことは……よかったと、思います」


 言葉にしながら、リリアーナは自分の胸の中を確かめる。

 怒りは消えていない。

 悲しみもある。

 でも、少しだけ何かがほどけた。

 謝罪が、彼女を縛る鎖ではないのなら。

 それは、受け取ってもいいのかもしれない。


「返事は」


 ラウルが控えめに尋ねる。

 リリアーナは首を横に振った。


「今日は書きません」

「承知しました」

「でも、いつか書きます。謝罪は受け取ったこと。けれど、まだ許せないこと。戻る意思はないこと。それから……」


 リリアーナは少し考えた。


「王国が、今度こそ民を見てほしいということ」

「民を」

「はい。私を戻すことではなく、私を失った後の王国をどう立て直すかを考えてほしい」


 ラウルは一瞬目を見開き、それから静かに頭を下げた。


「リリアーナ様らしいお言葉です」

「そうでしょうか」

「ええ。ただし、ご自身を差し出さないところも含めて」

「……はい」


 リリアーナは、少しだけ笑った。

 その笑みは弱い。

 けれど、確かなものだった。


 隣室では、カイゼルがその報告を静かに聞いていた。

 ラウルが戻ってくると、彼は短く尋ねる。


「読んだか」

「はい。最後まで」

「体調は」

「少し涙はありましたが、崩れてはいません。返事は今日は書かないそうです」

「それでいい」

「謝罪は受け取った。でもまだ許せない。戻らない。王国は民を見ろ、と」

「……彼女らしい」


 カイゼルの声が、ほんの少し柔らかくなる。

 ラウルは笑いをこらえた。


「ええ。本当に」

「何だ」

「いえ。陛下、誇らしそうだなと」

「黙れ」

「はい、黙ります」


 ラウルは口を閉じた。

 カイゼルは窓の外を見る。

 王国の謝罪文は、まだ始まりに過ぎない。

 神殿の責任。

 アルヴィスの責任。

 ミリアの証言。

 冤罪の撤回。

 正式な賠償。

 やるべきことは山ほどある。

 だが、それとは別に。

 リリアーナが謝罪を鎖ではないと受け取れたこと。

 それは、彼女自身にとって大きな一歩だった。


「明日、正式通告を出す」


 カイゼルは低く言った。


「神殿へ」

「はい」

「王国が動こうと、皇国は皇国として追及する。リリアーナへの危害は消えない」

「承知しました」

「だが、文面に彼女の言葉を入れる」


 ラウルは頷いた。


「私は、神殿の祭壇へ戻りません、ですね」

「ああ」


 カイゼルの瞳が冷たく光る。


「二度と、鎖を伸ばさせない」


 その日の夜、王国神殿の封鎖された祭具室では、亀裂の入った星形の祭壇具が沈黙していた。

 黒い煙は収まりつつある。

 だが、祭壇の溝には深いひびが残り、金の鎖は黒く変色したままだった。

 王宮魔術師が記録を取り、警備隊が出入口を固めている。

 かつて神殿上層部だけが知っていた秘密の祭壇は、いまや王宮の監視下に置かれていた。


 壁に浮かんでいた白い文字は、まだ消えていない。


『星は戻らず。鎖は断たれた』


 それは、神殿への宣告のようだった。

 王国が悪役令嬢と呼んだ少女は、もう祭壇には戻らない。

 彼女は皇国の空の下で、自分の星を選び始めている。

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