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婚約破棄された悪役令嬢ですが、処刑台の上で敵国皇帝に求婚されました 〜私を捨てた王国は滅びかけていますが、もう知りません〜  作者: 碓氷さゆ


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第30話 黒狼皇帝の通告

 王国神殿の地下祭具室は、黒い煙に満たされていた。

 古い祭壇の溝から滲み出した瘴気は、床を這うように広がり、壁に刻まれた古代文字を黒く濡らしている。金の鎖が絡んだ星形の祭壇具は、中央に亀裂を走らせたまま鈍い音を立てて震えていた。

 神官長は、その鎖に右手を絡め取られたまま膝をついていた。

 白い法衣の袖口が黒く染まり、指先には瘴気が薄くまとわりついている。

 若い神官たちは、恐怖で動けなかった。


「猊下……!」

「近づくな!」


 神官長は叫んだ。

 だが、その声にはいつもの威厳がなかった。

 痛みと焦りに掠れ、祭具室の石壁に虚しく反響する。

 金色だった鎖は、今や半分以上が黒く変色していた。まるで、星を縛ろうとした鎖そのものが、逆に穢れに呑まれているようだった。


「なぜだ……なぜ、拒む……」


 神官長は歯を食いしばった。


「王国の加護だぞ……王国の地を守る力だぞ……!」


 その言葉に応えるものはない。

 代わりに、祭壇の奥で封じられていた記録書がまた開いた。

 古い紙面に、白い文字が浮かび上がる。


『星は、乞う者に光を与える。奪う者には影を返す』


 若い神官の一人が、震える声で読み上げた。


「星は……奪う者には、影を返す……」

「読むな!」


 神官長が怒鳴る。

 だが、もう遅かった。

 祭壇の亀裂から、黒い煙がさらに噴き上がる。若い神官たちが慌てて結界を張ろうとするが、術式は歪み、床に描かれていた聖印が黒くにじんだ。


「結界が効きません!」

「祭壇具を止めろ!」

「触れられません、瘴気が強すぎます!」


 混乱が広がる。

 神官長は鎖を外そうともがいた。

 しかし、絡みついた鎖は外れない。

 星を呼び戻すための鎖は、今や神官長自身を祭壇へ繋ぐ枷になっていた。


「こんな、はずでは……」


 その声は、地下の黒い煙に呑まれていった。


 同じ頃、王宮にも異変の報せが届いていた。

 夜半にもかかわらず、宰相エドガーの執務室には灯りがついている。

 王太子の裁定権停止。

 断罪裁定の再審。

 神殿記録の保全命令。

 その対応に追われていたところへ、神殿から緊急使者が駆け込んできた。


「宰相閣下! 大聖堂地下にて瘴気発生! 祭具室の一部が封鎖されました!」

「何だと」


 エドガーは立ち上がった。


「原因は」

「現在確認中ですが、神官長猊下が古い祭壇具を使用された直後に異変が起きたとのことです」

「祭壇具……」


 エドガーの顔が険しくなる。

 つい数刻前、皇国から警告が届いていた。

 星霜の加護に干渉する術具、祭壇、結界を使用すれば、土地の巡りが乱れ、瘴気が拡散する危険がある。

 その警告を、神殿は無視したのだ。


「神官長は何をした」

「詳細はまだ。ただ、祭具室に“星を呼び戻す鎖”と呼ばれる祭壇具が持ち込まれていたとの証言が」

「星を、呼び戻す……」


 エドガーは奥歯を噛んだ。

 それが何を意味するか、考えるまでもない。

 リリアーナ・エルフェルト。

 星霜の加護。

 皇国に保護された彼女の力を、神殿が無理に王国へ繋ぎ戻そうとした。

 その結果、祭壇が瘴気を噴いたのだ。


「愚かな……」


 低い呟きが落ちる。

 エドガーはすぐに命じた。


「神殿地下を王宮警備隊で封鎖せよ。祭壇具、記録書、関係者をすべて保全する。神官長の身柄も確保だ」

「神官長猊下を、ですか」

「当然だ。皇国の警告を受けた直後に禁じられた儀式を行ったのだぞ。これは信仰上の問題ではない。国家の安全保障に関わる重大事件だ」


 使者は青ざめながら頭を下げ、部屋を飛び出していった。

 エドガーは机に手をつき、深く息を吐く。


「陛下へ報告を」

「すでに向かわせております」


 控えていた文官が答える。

 エドガーは頷き、机の上に置かれたリリアーナの声明へ視線を落とした。


『私は、私の意思に反して使われることを拒みます』


 その言葉を、神殿は踏みにじった。

 そして、神殿自身がその報いを受けた。


「これで、隠せなくなったな」


 エドガーは静かに言った。

 王国はもう、リリアーナの加護を都合よく取り戻すことなどできない。

 少なくとも、まともな判断力が残っている者なら、そう理解するはずだった。


 だが、まともでない者ほど、権威を失う時に暴れるものだ。


 国境砦では、リリアーナの部屋に緊張が満ちていた。

 星飾りの光は落ち着いたが、リリアーナの顔色はまだ白い。クララが震える手で温かい茶を差し出し、オルガは寝台の脇に薬湯と毛布を用意している。

 カイゼルは、リリアーナの前に膝をつくように身を屈めていた。

 皇帝である彼が、床に片膝をついている。

 そのことに気づいたリリアーナは、慌てて身体を起こそうとした。


「陛下、そのような」

「動くな」

「ですが」

「今は君の体調が最優先だ」


 低い声だった。

 命令口調ではある。

 けれどそこにあるのは、怒りではなく心配だった。

 リリアーナは言葉を飲み込み、少しだけ肩の力を抜く。


「……はい」


 素直に頷くと、クララがほっとした顔をした。


「お嬢様、偉いです」

「今ので偉いの?」

「はい。ちゃんとお休みになる姿勢でした」


 真剣に言われて、リリアーナは少しだけ笑いそうになる。

 だが、胸の奥にはまだ先ほどの感覚が残っていた。

 遠くから伸びる鎖。

 戻れと囁く声。

 祭壇へ、王国へ、役目へ引き戻そうとする力。

 怖かった。

 とても怖かった。

 けれど、拒めた。


「陛下」


 リリアーナは、そっと星飾りに触れた。


「神殿は、本当に私を王国へ戻そうとしたのでしょうか」

「おそらくは」

「私本人ではなく、加護だけでも」

「ああ」


 カイゼルの声は冷えていた。

 その金色の瞳には、はっきりと怒りが宿っている。


「君の意思を無視して、星霜の加護へ干渉しようとした。皇国の警告も、君の声明も無視してだ」

「……そうですか」


 リリアーナは目を伏せる。

 悲しい、と思った。

 怒りよりも先に、悲しみがあった。

 王国神殿には、幼い頃から何度も通った。

 聖堂の静けさは嫌いではなかった。古い本の匂い、石の床の冷たさ、色硝子から落ちる光。神に祈る時間は、王太子妃候補としての義務であっても、心を整える場でもあった。

 その神殿が、自分を道具として繋ごうとした。


「悲しいです」


 リリアーナは、正直に言った。

 カイゼルは何も遮らない。


「怒るべきなのかもしれません。でも、まず悲しい」

「それでいい」

「神殿を信じていたわけではありません。でも……私が見ていた聖堂まで、全部偽物だったように思えて」

「全部ではない」


 カイゼルが言った。

 リリアーナは顔を上げる。


「君がそこで祈った時間まで、神殿のものではない」

「……」

「聖堂の光を美しいと思ったことも、民のために祈ったことも、君のものだ。神殿上層部の愚行で、それまで奪わせる必要はない」


 リリアーナは、目を見開いた。

 そう考えたことはなかった。

 神殿が自分を利用しようとしたなら、神殿にまつわる思い出まで汚れたような気がしていた。

 でも、そうではないのかもしれない。

 自分が祈った時間は、自分のもの。

 自分が美しいと思った光は、自分のもの。

 奪われたくないものを、すべて捨てなくてもいい。


「陛下は、時々とても優しいことをおっしゃいますね」

「時々か」

「……いつも、かもしれません」


 言ってから、リリアーナは頬が熱くなるのを感じた。

 カイゼルがわずかに目を瞬かせる。

 クララが口元を押さえ、オルガは視線をそっと逸らした。

 気まずい沈黙が落ちる。

 リリアーナは慌てて茶を飲もうとしたが、カップを持つ手がまだ少し震えていた。

 カイゼルがそれに気づく。


「今日はもう休め」

「はい」

「だが、その前に伝えておく」


 カイゼルの表情が、皇帝のものに戻った。


「神殿は一線を越えた。明朝、王国へ正式通告を出す」

「正式通告……」

「神殿上層部の拘束、祭壇具の引き渡し、星霜の加護への干渉禁止の再確認。そして、リリアーナ・エルフェルトへの危害に対する謝罪を求める」

「私への……」


 危害。

 そう言われて、リリアーナはようやく理解する。

 これは単なる儀式の失敗ではない。

 遠く離れた自分にまで鎖を伸ばし、意思を無視して引こうとした。

 それは、確かに危害だった。


「私は、被害を受けたのですね」

「ああ」

「……そう言ってよいのですね」

「当然だ」


 カイゼルの声が低くなる。


「君は被害者だ。神殿の都合で、また我慢する必要はない」

「はい」


 リリアーナは頷いた。

 胸の奥に、静かな怒りが生まれる。

 悲しみの底から、ゆっくりと浮かび上がるような怒り。

 自分を道具にしないでほしい。

 勝手に呼び戻そうとしないでほしい。

 私はここにいると、自分で決めたのだ。


「陛下」

「何だ」

「通告に、私の言葉を一文だけ入れていただくことはできますか」


 カイゼルの瞳が、わずかに揺れた。


「何と」

「私は、神殿の祭壇へ戻りません、と」


 言葉にすると、胸の中の怒りが少し形を持った。

 カイゼルは静かに頷く。


「入れよう」

「ありがとうございます」

「それは、君の言葉だ」


 リリアーナは、小さく息を吐いた。

 怖さは残っている。

 けれど、ただ震えているだけではなかった。


 王国神殿の地下祭具室では、ようやく王宮警備隊が到着していた。

 瘴気は完全には収まっていない。

 神官長は鎖から解放されたものの、右手は黒く焼けただれ、意識を失っている。若い神官たちは壁際で震え、祭壇具の亀裂から漏れる黒い煙を見つめていた。

 警備隊長は、顔をしかめながら指示を出す。


「祭壇具に触れるな。魔術師を呼べ。記録書も封鎖する」

「神官長猊下は」

「治療室へ運べ。ただし、身柄は王宮預かりだ」

「神殿が抗議するのでは」

「宰相閣下の命令だ」


 その一言で、誰も逆らえなかった。

 祭壇具のそばに落ちていた小さな金の破片を、王宮魔術師が慎重に拾い上げる。

 破片には、焦げた古代文字が残っていた。


『鎖』


 その文字を見て、魔術師は顔を曇らせる。


「これは、封印具ではありません。拘束具です」

「拘束具?」

「加護や魂の流れを、特定の土地や祭壇へ結びつけるための術式に見えます」

「つまり、神官長は何をしようとした」

「リリアーナ・エルフェルト様の加護を、本人の意思に反して王国へ繋ぎ戻そうとした可能性が高いです」


 警備隊長は、息を呑んだ。

 それは、皇国の警告に真正面から反する行為だった。

 そして、リリアーナ本人の声明への明確な侵害でもある。


「記録しろ」


 警備隊長は、低く命じた。


「これは、神殿の失態では済まない」


 その頃、王宮では国王エルネストが報告を受けていた。

 執務室には、宰相エドガー、ギルベルト、法務官、王宮魔術師の代表が集まっている。

 祭壇具の一部と、神官長が使用した儀式記録の写しが机の上に置かれていた。

 エルネストはそれを見て、深く眉を寄せる。


「神殿は、皇国の通告を受けた後にこれを行ったのか」

「はい」

「リリアーナ本人の声明も受け取った後に」

「その通りです」


 沈黙が落ちた。

 ギルベルトの顔は、怒りで白くなっていた。

 だが、声は静かだった。


「これは娘への攻撃です」

「分かっている」


 エルネストは即座に答えた。


「王国神殿は、王家の統制下に置く。少なくとも調査が終わるまでは、神官長以下上層部の職務を停止する」

「陛下」


 法務官が息を呑む。

 神殿の自治に、王家がここまで踏み込むのは異例だった。

 だが、エルネストの判断は揺らがなかった。


「異論は認めぬ。神殿は王国の土地と民を危険に晒した。皇国との外交問題をさらに悪化させた。そして、処刑未遂の被害者であるリリアーナ・エルフェルトへ、再び危害を加えた」

「……承知いたしました」

「皇国へは、ただちに謝罪と経過説明を送る」

「リリアーナ様本人へも」


 ギルベルトが言った。

 エルネストは彼を見る。


「エルフェルト公」

「娘は、また神殿に傷つけられました。王国が謝罪すべき相手は、皇国だけではありません」

「……その通りだ」


 王は頷いた。

 それは、王として当然の返答だった。

 だが、当然のことを当然に言うまでに、王国はあまりにも多くを失いすぎていた。


 エルネストは、静かに命じる。


「リリアーナ・エルフェルトへ、王国として正式な謝罪文を用意する。ただし、戻れとは一切書くな」

「はい」

「彼女の意思を尊重する、と明記せよ」

「承知いたしました」


 ギルベルトは、深く頭を下げた。

 それは王への礼であると同時に、娘へ届くべき遅すぎる一歩を見届けるためのものだった。


 国境砦の夜は、静かだった。

 騒動の後、リリアーナはようやく眠りについた。

 クララは寝台のそばでうとうとし、オルガがそっと毛布を掛け直す。

 カイゼルは扉の外へ出て、ラウルから王国側の速報を受けていた。


「王国神殿地下で祭壇具が暴走。神官長は負傷、王宮預かり。王が神殿上層部の職務停止を決定したようです」

「遅い」

「ええ。でも動きました」

「謝罪は」

「皇国とリリアーナ様本人へ準備中とのことです」

「文面を見るまでは信用しない」

「でしょうね」


 ラウルは苦笑した。

 カイゼルは窓の外を見る。

 夜空に、星が出ていた。

 王国が呼び戻そうとした星は、ここにいる。

 傷つきながらも、自分の言葉で拒んだ。


「陛下」

「何だ」

「リリアーナ様、強くなられましたね」

「ああ」

「でも、まだ傷ついておられる」

「分かっている」


 カイゼルの声は低かった。


「だから急がせない。王国への反撃も、彼女の回復も」

「はい」

「だが、神殿は別だ」


 金色の瞳が冷たく光る。


「二度と、彼女へ鎖を伸ばせぬようにする」


 その夜、王国神殿の封鎖された祭具室で、亀裂の入った祭壇具は静かに黒い煙を吐いていた。

 その上に、誰も触れていないはずの記録書が開いている。

 ページには、白い文字が浮かんでいた。


『星は戻らず。鎖は断たれた』


 王国の祭壇は、もう星を呼べない。

 失ったものは、戻らない。

 少なくとも、奪おうとする手には。

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