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婚約破棄された悪役令嬢ですが、処刑台の上で敵国皇帝に求婚されました 〜私を捨てた王国は滅びかけていますが、もう知りません〜  作者: 碓氷さゆ


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第29話 父からの手紙

 エルフェルト公爵家からの書簡は、黒灰色の盆に載せられて運ばれてきた。

 封蝋には、銀百合の紋章。

 リリアーナが幼い頃から何度も見てきた、エルフェルト公爵家の印だった。

 その印を見た瞬間、胸の奥が小さく軋む。

 懐かしい。

 怖い。

 痛い。

 そのすべてが、同時に押し寄せてきた。

 リリアーナは、長椅子に座ったまま、しばらく手を伸ばせなかった。

 庭で加護を使った後、オルガの言いつけ通りに休憩を取った。温かい香草茶を飲み、少しだけ甘い焼き菓子も口にした。身体の疲れはもう強くない。

 それでも、父からの手紙を前にすると、指先が冷える。


「お嬢様」


 クララがそっと声をかけた。


「今でなくても大丈夫です」

「ええ」


 リリアーナは頷いた。

 その隣にはカイゼルがいる。少し離れた位置にオルガも控えていた。

 誰も、早く読めとは言わない。

 それだけで、少し息がしやすかった。


「読まないという選択もある」


 カイゼルが言った。

 リリアーナは、銀百合の封蝋を見つめたまま答える。


「はい。分かっています」

「破棄してもいい」

「それは……まだ、したくありません」

「なら、保管だけでもいい」

「……いいえ」


 リリアーナはゆっくりと息を吸った。

 手紙が怖い。

 けれど、知りたくないわけではない。

 父が何を書いたのか。

 エルフェルト公爵としてなのか。

 父としてなのか。

 それを確かめたい気持ちは確かにあった。


「読みます」


 リリアーナは、静かに言った。


「ただ、一人ではなく、ここで読んでもよろしいですか」

「もちろんです」


 クララがすぐに答える。

 カイゼルも頷いた。


「君が望むなら」

「はい」


 リリアーナは書簡を手に取った。

 封蝋に触れると、昔の記憶がほんの少し蘇る。

 父の執務室。

 銀百合の紋章。

 背筋を伸ばせ、と言われた日々。

 泣くな、と言われた日々。

 誇り高くあれ、と教えられた日々。

 その教えが、処刑台の上で自分を支えたことも事実だった。

 同時に、泣けない自分を作ったことも。

 リリアーナは封を切った。

 中には、数枚の便箋が入っていた。

 父の字だった。

 力強く、整った筆跡。

 けれど、ところどころにわずかな乱れがある。

 リリアーナは、最初の一文に目を落とした。


『リリアーナへ』


 それだけで、胸が詰まった。

 公爵令嬢リリアーナ・エルフェルトへ、ではない。

 王太子妃候補へ、でもない。

 ただ、リリアーナへ。


 リリアーナは、ゆっくりと読み進めた。


『まず、あなたの声明を受け取った。あなたの言葉として、確かに読んだ。王国へ戻らないという意思も、加護を神殿や王家の所有物としないという意思も、父として、そしてエルフェルト公爵家当主として受け止める』


 リリアーナの指が震える。

 受け止める。

 父が、そう書いている。


『私は、神殿からの協力要請を拒否した。あなたの私物、星飾り、白百合のハンカチ、部屋の記録、どれも神殿にも王太子府にも渡さない。あなたが望まぬ限り、エルフェルト公爵家はあなたの持ち物を守る』


 クララが小さく息を呑んだ。

 リリアーナも、同じように息を止める。

 父が守ると言っている。

 かつて、処刑台の前で守ってほしかった人が。

 今になって。

 遅い。

 遅すぎる。

 そう思う。

 それでも、胸の奥に温かいものが滲むのを止められない。


『あなたに戻れとは言わない。言う資格がないことを、ようやく理解した。私はあなたを娘としてではなく、公爵家の役割として見ていた。王太子妃候補として、王国に有用な令嬢として、誇れる娘として見ていた。だが、あなたが傷ついていたことを見ようとしなかった』


 リリアーナの視界が滲んだ。

 カイゼルが何も言わず、そばにいる。

 クララがハンカチを握りしめている。

 リリアーナは、泣くのを我慢しなかった。

 ただ、読み続けた。


『処刑台の前で、生きていてほしいと言えなかった。無実だと訴えるあなたを信じきれなかった。罪を認めろと言った。その事実は消えない。謝罪で許されるとも思っていない』


 便箋の文字が、涙で少しぼやける。

 リリアーナは、瞬きをした。


『それでも、言わせてほしい。生きていてくれてよかった。皇国で守られていることに、安堵している。悔しいが、私よりもカイゼル皇帝陛下の方が、今のあなたを守れるのだろう』


 カイゼルが、わずかに目を伏せた。

 リリアーナはその横顔を見てから、再び手紙へ視線を落とす。


『私は、王家と神殿に再調査を求める。あなたの罪が証明されていないこと、断罪が不当であった可能性、神殿が星霜の加護に関する記録を隠していたことを明らかにするために動く。これは、あなたに戻ってきてもらうためではない。私が、父としても公爵としても、遅すぎる責任を果たすためだ』


 リリアーナは手紙を胸元に寄せた。

 苦しい。

 けれど、少しだけ救われる。

 父は変わろうとしている。

 それを受け取ることと、許すことは違う。

 戻ることとも違う。

 でも、受け取ることはできる。


『もし、いつか話すことを許してもらえる日が来たなら、その時はあなたの言葉を最後まで聞きたい。父として、遮らず、命じず、役割を押しつけずに。だが、それを急かすつもりはない。あなたの未来は、あなたが選びなさい』


 最後の一文を読んだ時、リリアーナは静かに涙をこぼした。


『あなたの父、ギルベルト・エルフェルト』


 読み終えても、しばらく誰も口を開かなかった。

 白百合の香りだけが、静かに部屋に漂っている。

 リリアーナは便箋を丁寧に畳み、膝の上に置いた。


「……遅いです」


 小さな声だった。

 クララが目を伏せる。

 リリアーナは、涙を拭わずに続けた。


「欲しかった言葉ばかりです。ずっと、ずっと前に欲しかった言葉ばかり」

「ああ」


 カイゼルが、低く答えた。


「でも、嬉しくないわけではないのです」


 声が震える。


「そのことが、少し悔しいです」

「悔しくていい」

「はい」

「嬉しくてもいい」

「はい」

「許せなくてもいい」

「……はい」


 リリアーナは、深く息を吸った。

 胸の中に、いくつもの感情がある。

 怒り。

 悲しみ。

 安堵。

 懐かしさ。

 少しの嬉しさ。

 そして、まだ許せないという痛み。

 どれか一つにしなくてもいいのだと、今なら少し分かる。


「返事は、すぐに書かなくてもよいでしょうか」


 リリアーナが尋ねると、カイゼルは当然のように頷いた。


「もちろんだ」

「でも、いつか書きたいです」

「ああ」

「戻らないこと。今は許せないこと。でも、手紙は受け取ったこと。それだけは、いつか伝えたい」

「君の時でいい」


 リリアーナは、便箋をもう一度見つめた。

 父からの手紙。

 それは、鎖ではなかった。

 戻れという命令ではなかった。

 だからこそ、受け取ることができた。


「クララ」

「はい、お嬢様」

「この手紙を、大切にしまっておいてくれる?」

「もちろんです」


 クララは涙声で答えた。

 リリアーナは便箋を差し出す。

 クララは両手で受け取った。

 それを見届けて、リリアーナはようやく少しだけ笑った。


「今日は、疲れました」

「はい。すぐにお休みの準備をします」


 クララが動き、オルガも静かに頷く。

 カイゼルは立ち上がりかけた。

 けれど、リリアーナが小さく声をかける。


「陛下」

「何だ」

「もう少しだけ、ここにいていただけますか」


 言ってから、リリアーナは少しだけ頬を染めた。

 誰かにそばにいてほしいと頼むことは、まだ慣れない。

 だが、言えた。

 カイゼルは一瞬だけ目を見開き、それから静かに腰を下ろした。


「ああ。いる」


 短い返事だった。

 けれど、リリアーナには十分すぎるほど優しかった。


 その頃、王国神殿の地下祭具室では、神官長が「星を呼び戻す鎖」を古い祭壇の上に置いていた。

 そこは、普段は立ち入りが禁じられている部屋だった。

 壁には古代文字が刻まれ、天井からは錆びた銀鎖が垂れている。床の中央には、星形の溝が彫られた祭壇があり、その溝には乾いた黒い染みが残っていた。

 かつて、何に使われたものなのか。

 正確に知る者は、もうほとんどいない。

 ただ、神殿上層部の一部には伝わっていた。

 星霜の加護を持つ者を、王国の土地へ繋ぎ止めるための祭壇具。

 それが「星を呼び戻す鎖」だった。


「猊下、本当に使われるのですか」


 若い神官が震える声で尋ねる。

 神官長は冷たく振り返った。


「他に道があるか」

「しかし、皇国から警告が」

「皇国の脅しなどに屈するわけにはいかぬ」

「ですが、記録書にも、星を縛る者は地を乱すと」

「古い記録の解釈など、いくらでも変わる」


 神官長は、金の鎖を手に取った。

 星形の器具の中央には、空洞がある。

 本来なら、星霜の加護持ちの所有物、あるいは加護の宿った品をそこに置くのだという。

 星飾り。

 白百合のハンカチ。

 それらが手に入らなかった以上、完全な儀式はできない。

 だが、不完全でも呼びかけることはできる。

 リリアーナの加護が王国の地に残した痕跡。

 それを辿れば、星の光を少しでも引き戻せるかもしれない。


「聖女認定式の失敗により、神殿の権威は揺らいでいる。王家も再調査などと言い出した。今、星霜の加護まで完全に皇国へ渡れば、我々は終わりだ」

「しかし、リリアーナ様の意思に反しては」

「彼女は王国の公爵令嬢だ」

「ご本人は戻らないと声明を」

「皇国に言わされているだけだ」


 神官長は、まるで自分に言い聞かせるように言った。


「王国の星は、王国へ戻るべきなのだ」


 若い神官は、それ以上何も言えなかった。

 神官長は祭壇の溝に、王国各地から集めた土を入れさせる。

 王都正面聖堂の土。

 北部農地の乾いた土。

 王宮庭園の土。

 そして、エルフェルト公爵家の門前から密かに持ち込まれた土。

 リリアーナが長く暮らした場所の土だった。


「始める」


 神官長が詠唱を始めた。

 古い言葉が地下祭具室に響く。

 金の鎖が、かすかに震えた。

 星形の器具の中央に、淡い光が集まりかける。

 白い。

 ほんの一瞬、星のような光だった。

 だが次の瞬間、その光の縁が黒く濁った。


「猊下……!」


 若い神官が悲鳴を上げる。

 祭壇の溝に入れられた土から、黒い煙が滲み出した。

 神官長は詠唱を止めない。

 鎖が激しく鳴る。

 遠くの何かに手を伸ばすように、金の鎖が宙へ浮いた。


 同じ時、国境砦で眠りかけていたリリアーナが、はっと目を開けた。

 胸元の星飾りが熱い。

 ただ温かいのではない。

 引かれるような、嫌な熱だった。


「……っ」


 リリアーナは胸を押さえる。

 そばにいたカイゼルが即座に立ち上がった。


「リリアーナ」

「何か、引っ張られて……」


 星飾りが強く光る。

 白い光の中に、黒い筋が混じっていた。

 カイゼルの顔が一瞬で冷える。


「神殿か」


 リリアーナは答えられなかった。

 胸の奥に、遠くから声のようなものが響く。

 戻れ。

 戻れ。

 王国へ。

 祭壇へ。

 役目へ。

 その言葉が、鎖のように絡みつく。


「嫌……」


 リリアーナの声が震えた。


「嫌です。私は、戻らない……!」


 星飾りの光が揺れる。

 カイゼルは彼女の肩を支えた。


「リリアーナ、私を見ろ」

「陛下……」

「君はどこにいる」

「皇国の、国境砦に」

「誰の意思で」

「私の……意思で」

「君は王国のものか」

「違います」


 リリアーナは、震えながらも答えた。


「神殿のものか」

「違います」

「加護は誰のものだ」

「私のものです」


 そう言った瞬間、星飾りの白い光が強くなった。

 黒い筋が弾けるように散る。

 リリアーナの指先にも星の光が灯った。

 カイゼルは、低く言った。


「なら、拒め」


 その言葉に、リリアーナは目を見開く。

 拒む。

 怖い。

 でも、できる。

 もう声明に書いた。

 自分の言葉で。

 自分の意思で。


 リリアーナは星飾りを握りしめた。


「私は、戻りません」


 光が広がる。


「私は、祭壇に縛られません」


 部屋の中に、星屑のような輝きが舞った。


「私は、私の意思に反して使われることを拒みます」


 その瞬間、星飾りから澄んだ白い光が放たれた。

 カイゼルの黒衣を照らし、白百合を揺らし、部屋全体を淡く包む。

 遠く、王国神殿の地下祭壇で、金の鎖に亀裂が走った。


「なっ……!」


 神官長が目を見開く。

 鎖は、遠くの星を引き寄せるどころか、逆に弾かれるように跳ねた。

 祭壇の溝から黒い煙が噴き上がる。

 星形の器具に、ぴしりと細い亀裂が入った。


『星を鎖に繋ぐ者、いずれ鎖に裁かれる』


 封じられていた記録書の文字が、地下祭具室の壁に白く浮かび上がる。

 若い神官たちは恐怖で後ずさった。

 神官長だけが、震えながらも祭壇具に手を伸ばす。


「まだだ……まだ終わっていない……!」


 だが、鎖は彼の指に絡みついた。

 金の鎖が、黒く変色する。

 神官長の顔が苦痛に歪んだ。


「ぐあっ……!」


 祭壇具は、星を呼び戻せなかった。

 代わりに、神殿が隠していた穢れを呼び起こした。


 国境砦の部屋で、リリアーナは大きく息を吐いた。

 星飾りの熱は消えている。

 代わりに、穏やかな光だけが残っていた。

 カイゼルは彼女を支えたまま、表情を厳しくしている。


「大丈夫か」

「……少し、怖かったです」

「ああ」

「でも、拒めました」

「ああ」


 リリアーナは、カイゼルの袖をそっと掴んだ。


「私、拒めました」

「よくやった」


 その一言で、張り詰めていたものがほどける。

 リリアーナは泣きそうになりながら、小さく頷いた。

 もう、処刑台の上で声を消された少女ではない。

 遠く離れた祭壇から伸びた鎖にさえ、彼女は自分の言葉で拒むことができた。


 カイゼルは静かに、しかし冷たい声で言った。


「神殿は、一線を越えた」


 その金色の瞳に、黒炎のような怒りが宿る。


「次は、こちらから行く」

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