第28話 偽りの光の綻び
王太子宮の廊下は、いつになく静まり返っていた。
以前なら、アルヴィスの側近や侍従たちが忙しく行き交い、王太子の一言に応じて素早く動いていた。だが今は違う。廊下に立つ者たちは、足音を抑え、声を潜め、互いの目を避けるようにしている。
王太子の裁定権が一時停止された。
その報せは、王宮中に広がっていた。
誰も公然とは語らない。
だが、沈黙そのものが噂を語っていた。
アルヴィスは執務室で、机の上に置かれた資料を見下ろしていた。
リリアーナの声明。
再調査委員会の中間報告。
ミリアの聞き取り記録。
神殿からの抗議文。
どれも、彼の選択を責めるようにそこにある。
「……違う」
何度目か分からない言葉が、唇から漏れた。
だが、その否定はもう、以前ほど強くない。
違う。
自分は間違っていない。
ミリアを守っただけだ。
リリアーナは冷たく、ミリアは傷ついていた。
だから自分は正しい。
そう思おうとするたび、リリアーナの声が蘇る。
『証拠をお示しください』
『正式な調査を求めます』
『私は、やっておりません』
あの声を、なぜ聞かなかったのか。
なぜ、聞かなくてもよいと思ったのか。
アルヴィスは椅子に沈み込み、額を押さえた。
その時、扉が叩かれる。
「殿下、ルーカスでございます」
「入れ」
側近ルーカスが入ってきた。
以前よりも表情が硬い。忠実な側近として振る舞ってはいるが、その目には明らかな迷いがあった。
「何だ」
「再調査委員会より、追加の聞き取り要請が来ております。舞踏会当日の断罪に至るまでの、殿下ご自身の判断経緯について」
「またか」
「それから、ミリア様付き侍女三名の証言に食い違いが出ました」
「食い違い?」
アルヴィスは顔を上げた。
ルーカスは書類を差し出す。
「階段での件について、最初は三名ともリリアーナ様が現場にいたと証言していました。しかし、一人が昨夜になって『実際には見ていない』と証言を訂正しました」
「……何だと」
「ミリア様から、リリアーナ様に突き落とされたと聞いたため、そう思い込んだ、と」
アルヴィスの指が、書類の端を強く掴む。
紙が歪んだ。
「毒入り菓子についても同様です。菓子がリリアーナ様からの贈り物だと直接確認した者はいません。ミリア様の言葉を、周囲が繰り返すうちに事実のように扱われた可能性が高いと」
「……ミリアは、なぜそんなことを」
「殿下」
ルーカスは、少しだけ声を落とした。
「恐れながら、ミリア様はリリアーナ様を恐れていたというより、強く意識しておられたのではないかと」
「どういう意味だ」
「嫉妬、です」
その言葉に、アルヴィスの顔が強張った。
「ミリアが?」
「はい。聞き取りの中で、ミリア様は何度も『リリアーナ様ばかり』『リリアーナ様に奪われる』と口にしておられます」
「……」
「被害者として怯えていたというより、王太子妃候補であったリリアーナ様への劣等感と対抗心が強かった可能性があります」
アルヴィスは、すぐには答えられなかった。
劣等感。
嫉妬。
ミリアが。
あの儚く、優しく、自分に縋っていた少女が。
だが思い返せば、確かにあった。
リリアーナの名が出るたび、ミリアの顔は曇った。
リリアーナに注意されたと泣いた。
冷たく見られたと怯えた。
アルヴィスはそのたびに、リリアーナを責めた。
ミリアを慰めた。
それが、自分にとって心地よかったからだ。
頼られることが。
守る者でいられることが。
正義の側に立っていると思えることが。
「私は……」
声が出かけて、止まる。
認めたくない。
だが、目の前の書類が逃がしてくれない。
「ルーカス」
「はい」
「お前は、あの時どう思っていた」
「……舞踏会の断罪の時、でございますか」
「ああ」
ルーカスは迷った。
だが、少しして静かに答えた。
「早すぎる、と思いました」
「早すぎる」
「はい。罪状が重い割に、証拠が揃っていない。リリアーナ様は調査を求めておられた。せめて一度、正式に調べるべきではないかと」
「なぜ言わなかった」
「殿下が、すでにお決めになっていたからです」
アルヴィスは息を呑んだ。
「私が」
「はい。殿下は、ミリア様を守るためにリリアーナ様を裁くと決めておられました。あの場で進言しても、聞いていただけなかったと思います」
その言葉は、側近からの静かな断罪だった。
アルヴィスは椅子の背にもたれた。
ルーカスを責めることはできなかった。
なぜなら、自分でも分かっていたからだ。
きっと聞かなかった。
リリアーナの言葉すら聞かなかったのだから、側近の進言など聞くはずがない。
「……下がれ」
「殿下」
「下がってくれ」
ルーカスは深く一礼し、静かに部屋を出ていった。
残されたアルヴィスは、リリアーナの声明を手に取った。
その最後の一文が目に入る。
『私は、私自身の未来を、自分で選びます』
アルヴィスは、初めてその一文を怒りではなく、痛みとして読んだ。
彼女はずっと、選べなかったのだ。
王太子妃候補として。
公爵令嬢として。
王国のために。
そして最後には、罪人として処刑台へ。
その彼女がようやく、自分で選ぶと言っている。
それを、自分はなぜ奪われたように感じたのか。
答えは、あまりにも醜かった。
リリアーナは自分の隣にいて当然だと、思っていたからだ。
神殿の控え室では、ミリアが一人で震えていた。
白い聖女候補の衣装は、もう脱がされている。代わりに身につけている淡い色のドレスは美しいが、彼女の顔色を隠しきれなかった。
昨日から、周囲の目が変わった。
侍女たちは優しい言葉をかけてくれるが、どこか距離がある。
神官たちは、彼女に祈らせようとしない。
神官長だけは「まだ終わっていない」と言ったが、その言葉も慰めにはならなかった。
「ミリア様」
扉が開き、神官長が入ってくる。
ミリアは立ち上がった。
「神官長様、私……」
「泣いている場合ではありません」
「でも、皆が私を疑って」
「だからこそ、あなたには再び光を示していただく必要がある」
ミリアは顔を上げた。
「再び?」
「聖女認定式は中止になりました。ですが、完全に失敗したわけではない。昨日の瘴気は、北部の穢れがあまりに強かったために浮かび上がった。そう説明します」
「でも、皆が」
「皆は見たいものを見るものです」
神官長は冷たく言った。
「民は不安です。貴族も不安です。王家も神殿も揺らいでいる。だからこそ、再び分かりやすい奇跡を見せればよい」
「奇跡……」
「小さなもので構いません。怪我人を癒やす。枯れた花を咲かせる。光を強く放つ。それだけで、まだあなたを信じたい者は信じます」
ミリアの胸がざわめいた。
できるのだろうか。
自分に。
光は出せる。
でも、昨日のように黒いものが出たら。
もし、また失敗したら。
「私は、本当に聖女なのでしょうか」
思わず零れた問いに、神官長の目が鋭くなった。
「あなたが疑ってどうするのです」
「でも」
「あなたが聖女でなければ、リリアーナ・エルフェルトが本物ということになる」
その名に、ミリアの肩が震える。
「それを認めたいのですか」
「……嫌です」
「ならば、聖女であり続けなさい」
神官長は当然のように言った。
その言葉は励ましではなかった。
命令だった。
ミリアは唇を噛む。
聖女でなければならない。
自分は選ばれたのだから。
アルヴィスに。
神殿に。
皆に。
それを失ったら、自分には何が残るのか。
「分かりました」
ミリアは、震える声で言った。
「私、やります」
「よろしい」
神官長は満足げに頷く。
だが、その目はミリアを見ていなかった。
彼が見ているのは、聖女という看板。
神殿の権威を守るための光。
ミリア自身ではない。
そのことに、ミリアはようやく少し気づき始めていた。
それでも、もう引き返せなかった。
国境砦の庭では、リリアーナが白い小花のそばにしゃがんでいた。
カイゼル、オルガ、クララ、そして老魔術師が見守っている。
昨日見つけた、土の小さな疲れ。
今日はそれを、ほんの少しだけ整えることになっていた。
リリアーナ自身が、そうしたいと望んだからだ。
訓練ではない。
命令でもない。
王国のためでも、誰かに役立つためでもない。
この庭を見て、花がもう少し楽に根を張れたら嬉しいと思った。
ただ、それだけだった。
「無理はしないこと」
「はい」
「疲れたら止めること」
「はい」
「大丈夫と言わないこと」
「はい」
カイゼルの確認に、リリアーナは素直に頷く。
クララが横で真剣に見守っている。
「お嬢様、少しでもふらついたらすぐ止めますからね」
「ええ。お願いね」
「はい!」
頼むことにも、少し慣れてきた。
リリアーナは土の上に手をかざす。
昨日感じた黒い染みは、やはりそこにある。瘴気というほど濃くはない。魔物の気配というより、長く冷たい風に耐えて固くなった疲労のようなもの。
リリアーナは、静かに息を吸った。
ほどく。
押し流すのではなく。
無理に変えるのでもなく。
固くなったものが、少しだけ緩むように。
指先に、淡い星の光が灯る。
光は土へ落ち、白い小花の根元に広がった。
ほんのわずかに、土の色が柔らかくなる。
花の葉が、風に揺れた。
劇的な変化ではない。
枯れた花が一瞬で咲き誇るような奇跡でもない。
ただ、土が息をしたように見えた。
「……これで、よいのですね」
リリアーナは小さく呟いた。
老魔術師が、感慨深げに頷く。
「はい。十分でございます。むしろ、この程度で止めることが大切です」
「もっとできそうな気もします」
「では、今日はここまでですね」
クララが即座に言った。
カイゼルも頷く。
「終了だ」
「……皆様、早いですね」
「早く止めるためにいるのです」
オルガの言葉に、リリアーナは少し笑った。
そして、素直に手を下ろした。
疲れはある。
でも、倒れそうなほどではない。
胸の奥が、少し温かい。
自分で選んで、少しだけ力を使って、少しだけ整えて、そこで止めた。
それだけのことが、リリアーナには新鮮だった。
「できました」
思わず口にする。
クララが笑顔になる。
「はい。できましたね」
「最後までやりきらなくても、できたと言ってよいのですね」
「もちろんです」
「そう……」
リリアーナは花を見つめた。
小さな白い花。
その根元の土は、先ほどよりほんの少しだけ柔らかい。
それでいい。
全部を背負わなくてもいい。
できる範囲で、選んだ分だけ。
それもまた、力の使い方なのだ。
カイゼルは、そんなリリアーナを黙って見ていた。
ラウルなら、きっと今の顔をからかっただろう。
だが幸い、ここにはいない。
カイゼルは小さく息を吐き、リリアーナのそばへ歩み寄る。
「疲れは」
「少しだけです」
「なら休む」
「はい」
リリアーナは素直に頷いた。
その素直さに、カイゼルが一瞬だけ目を瞬かせる。
リリアーナは首を傾げた。
「何か?」
「いや」
「以前なら、まだ大丈夫ですと言っていたからですか」
「……ああ」
「学びました」
ほんの少し誇らしげに言うと、カイゼルの目元が柔らかくなった。
「よいことだ」
「はい」
その短いやり取りを見て、クララが口元を押さえている。
オルガは見なかったふりをした。
老魔術師は微笑ましげに記録を取っている。
リリアーナは少し恥ずかしくなり、白い小花へ視線を戻した。
その時、遠くの見張り塔から鐘が鳴った。
一度。
警戒ではなく、来訪を告げる鐘だった。
騎士が駆けてくる。
「陛下。王国より、使者です」
「誰だ」
「エルフェルト公爵家の使者です。ギルベルト公爵閣下から、リリアーナ様宛ての書簡を預かっているとのことです」
リリアーナの身体が、わずかに強張った。
父からの書簡。
カイゼルがすぐに彼女を見る。
「受け取るかどうかは、君が決めろ」
「……はい」
以前なら、父からの手紙なら受け取らなければと思っただろう。
娘として。
公爵令嬢として。
だが今は、違う。
自分が受け取りたいかどうか。
それを考えてよい。
リリアーナは胸に手を当てた。
怖い。
だが、読みたくないわけではない。
父が今、何を言おうとしているのか、知りたい気持ちもある。
許すためではない。
戻るためでもない。
ただ、今の自分がどう感じるのかを知るために。
「受け取ります」
リリアーナは言った。
「ただし、読むのは少し休んでからにします」
「分かった」
カイゼルが頷く。
その返事に、リリアーナは安心した。
受け取る。
けれど、すぐ読まない。
それも選択なのだ。
白い小花が、風に揺れた。
リリアーナは、その花をもう一度見つめる。
王国から届く父の言葉。
王国で崩れ始める偽りの証言。
神殿が守ろうとする偽りの光。
それらはまだ、彼女の心を揺らす。
けれど、もう流されるだけではない。
彼女は少しずつ、選び方を覚えている。
そしてその頃、王国神殿の奥では、神官長が密かに一つの祭壇具を取り出していた。
古い箱に封じられていた、金の鎖が絡む小さな星形の器具。
表面には、薄く擦れた古代文字が刻まれている。
『星を呼び戻す鎖』
神官長は、それを見つめて低く呟いた。
「王国の星は、王国へ戻さねばならぬ」
その声に、信仰はなかった。
ただ、失われゆく権威への執着だけがあった。




