第27話 王はようやく目を開く
グランベルク王国国王エルネストは、執務机の上に置かれた中間報告書を、しばらく無言で見つめていた。
夜は深い。
王宮の廊下からは人の気配が遠のき、燭台の火だけが静かに揺れている。だが、王の執務室に眠りの気配はなかった。
机の上には、再調査委員会から届いた報告書。
皇国から届いたリリアーナ・エルフェルトの声明。
財務局から提出された、彼女の政務記録。
神殿に関する不正疑惑の予備資料。
そして、王太子アルヴィスが下した断罪裁定の写しが並べられている。
どれも、王国にとって重すぎる書類だった。
エルネストは、報告書の一文に視線を落とす。
『階段からの突き落としについて、リリアーナ・エルフェルト嬢には当該時刻の不在証明あり』
『毒入り菓子について、リリアーナ・エルフェルト嬢が菓子を用意、または毒物に接触した証拠は現時点で確認されず』
『聖堂不敬について、実際には聖堂修復費および結界石点検に関する正当な指摘であった可能性あり』
王はゆっくりと目を閉じた。
報告の文字は冷たい。
だが、その向こうにいる少女の姿は、あまりにも生々しかった。
リリアーナ・エルフェルト。
幼い頃から王太子妃候補として育てられた公爵令嬢。
礼儀正しく、冷静で、常に隙がなかった。
可愛げはないと評する者もいた。
だが、王妃教育の教師たちは口を揃えて言っていた。
彼女は優秀だ、と。
王国を背負う器がある、と。
エルネスト自身も、そう評価していたはずだった。
だが、それは本当に彼女を見ていたと言えるのか。
「陛下」
宰相エドガーが、静かに声をかけた。
彼は先ほどから、王の机の前に立っている。
長年王国を支えてきた老宰相の顔には、深い疲労と、隠しきれない怒りがあった。
「再調査委員会は、断罪裁定の再審を正式に進めます。処刑命令の停止はすでに法務局へ命じました」
「停止では足りぬ」
エルネストは低く言った。
宰相がわずかに目を上げる。
「陛下」
「まだ有罪と確定していない者を、処刑台へ立たせたのだ。停止などという言葉で済む話ではない」
「では」
「リリアーナ・エルフェルトの罪人扱いを、暫定的に撤回する」
宰相の目が細くなる。
その判断は、重い。
王太子が下した断罪を、国王自身が一時的に否定するに等しい。
「王太子殿下の面子は、完全に潰れます」
「面子で人を殺そうとしたのなら、潰れて当然だ」
エルネストの声は、静かだった。
だからこそ重かった。
「私は、あの場にいなかった。だが、それは言い訳にならぬ。王太子の裁定を止められなかった責任は、王にもある」
「……はい」
「アルヴィスを呼べ」
宰相は一礼した。
「すでに控え室に待機させております」
「そうか。入れよ」
扉が開き、アルヴィスが入ってきた。
顔色は悪い。
それでも王太子としての誇りをかき集めるように、背筋を伸ばしている。
だが、その姿に以前のような輝きはなかった。
どこか追い詰められた獣のように、視線だけが鋭く揺れている。
「父上」
アルヴィスは膝を折る。
「お呼びと伺いました」
「ああ。立て」
アルヴィスは立ち上がった。
エルネストは、机の上の報告書を一枚手に取る。
「アルヴィス。お前は、リリアーナ・エルフェルトを断罪した」
「はい」
「罪状は、ミリア・ロゼットへの暴行、毒殺未遂、聖堂不敬、反逆的態度」
「その通りです」
「証拠は」
短い問いだった。
アルヴィスの喉が詰まる。
「証拠は、ミリアの証言と、侍女たちの」
「階段からの突き落としについて、リリアーナには不在証明がある」
「それは、何かの間違いです」
「署名付きの会議記録だ。王太子府の記録官の印もある」
「……」
「毒入り菓子について、菓子は王太子府の厨房で用意されたものだ。リリアーナ個人の贈り物ではない」
「しかし、ミリアは」
「聖堂不敬について、リリアーナは神殿支出の不透明さと結界石の劣化を指摘していた。そして昨日、大聖堂の結界石は実際に亀裂を生じた」
アルヴィスの顔が青ざめる。
エルネストは、息子から視線を逸らさなかった。
「お前は、何を根拠に処刑を命じた」
「私は……」
アルヴィスの声が揺れた。
「ミリアを守ろうと」
「私は根拠を聞いている」
王の声が、初めて鋭さを帯びた。
アルヴィスは唇を噛む。
「彼女は傷ついていました」
「リリアーナは傷ついていなかったのか」
「それは」
「処刑台に立たされた娘が、傷ついていなかったと本気で言うのか」
沈黙が落ちる。
アルヴィスは答えられなかった。
エルネストは、リリアーナの声明を手に取った。
「彼女は声明でこう書いている。『私は、やっていない罪を認めません。私は、私の意思に反して使われることを拒みます。そして私は、私自身の未来を、自分で選びます』」
読み上げられた言葉に、アルヴィスの表情が歪む。
悔しさか。
怒りか。
それとも、失ったものの大きさに気づき始めた痛みか。
本人にも、まだ分からないのだろう。
「父上、あの声明は皇国の圧力で書かされた可能性があります」
「そう思いたいのか」
「皇国が、彼女を利用しているのかもしれません」
「利用していたのは、我々ではないのか」
エルネストの言葉に、アルヴィスは目を見開いた。
「王太子妃候補として、政務を任せた。財務の調整を任せた。神殿との折衝も、地方補助の下調べも、王太子府の面子を保つための根回しも、彼女に任せた。だが、彼女が無実を訴えた時、誰も聞かなかった」
エルネストは、静かに続けた。
「それを利用と言わず、何と言う」
アルヴィスの手が震えた。
「私は……リリアーナに、そのようなつもりで」
「つもりがなければ許されるのか」
「……」
「お前は王太子だ。つもりではなく、結果で責任を負わねばならぬ」
その言葉は、王太子であるアルヴィスへ向けられたものだった。
同時に、王であるエルネスト自身へ向けた言葉でもあった。
「アルヴィス。再調査が終わるまで、お前の王太子としての裁定権を一時停止する」
「父上!」
アルヴィスが声を上げる。
「それでは、私が誤ったと認めるようなものではありませんか!」
「まだ分からぬのか」
エルネストは、深く息を吐いた。
「お前が誤ったかどうかを調べるために止めるのだ」
「私は王太子です!」
「だからこそ、誤りを許されぬ」
アルヴィスは言葉を失った。
王太子としての裁定権停止。
それは処分としてはまだ軽い。
だが、王宮内での立場は大きく揺らぐ。
貴族たちは見るだろう。
王は、王太子を信じきっていないのだと。
神殿も動揺するだろう。
ミリアの立場も揺らぐだろう。
「ミリアは……ミリアはどうなるのですか」
「ミリア・ロゼットも再調査の対象だ」
「彼女は被害者です」
「それを証明するためにも調査が必要だ」
「父上まで、彼女を疑うのですか」
「私は、誰の涙も証拠にはしない」
その一言に、アルヴィスは凍りついた。
誰の涙も証拠にはしない。
リリアーナが求めていたことだ。
あの日、自分が退けたものだ。
「下がれ、アルヴィス」
「父上」
「次に呼ぶ時は、王太子としてではなく、再調査対象者として証言を求める」
アルヴィスの顔が、紙のように白くなった。
彼は何かを言おうとした。
だが言葉にならなかった。
やがて、深く頭を下げることもできないまま、ぎこちなく礼をして部屋を出ていった。
扉が閉まる。
エルネストは、長く息を吐いた。
「……遅すぎたな」
宰相は何も言わなかった。
王の自責に、慰めは不要だった。
「エドガー」
「はい」
「神殿にも通達を出せ。星霜の加護に関する古文書、祭壇具、術具、結界記録をすべて王宮管理下で保全する。拒めば、神殿上層部の職務停止も検討する」
「承知いたしました」
「ミリア・ロゼットの聖女認定は」
「中止扱いのまま凍結でよろしいかと」
「そうせよ」
王は、リリアーナの声明へ視線を落とした。
「王国は、失ったものをまだ理解していない」
「はい」
「ならば、理解させねばならぬ。王にも、王太子にも、神殿にも」
そして何より、自分自身にも。
エルネストは、そう心の中で付け加えた。
その頃、王太子宮へ戻ったアルヴィスは、廊下の途中で足を止めていた。
壁に手をつき、荒い息を吐く。
王太子としての裁定権停止。
父王にそう告げられた瞬間の衝撃が、まだ身体に残っている。
自分は王太子だ。
いずれ王になる者だ。
その自分の判断が、疑われている。
ミリアを守った正義が、裁かれようとしている。
「違う……」
呟いた声は、弱かった。
違う。
自分は間違っていない。
リリアーナが悪い。
彼女がもっと分かりやすく、可愛げがあり、ミリアのように涙を見せていれば。
いや。
彼女は、無実を訴えていた。
調査を求めていた。
証拠を求めていた。
それを、自分は聞かなかった。
頭の中で、父王の言葉が響く。
『私は、誰の涙も証拠にはしない』
アルヴィスは、ぎゅっと目を閉じた。
ミリアの涙。
リリアーナの沈黙。
自分は涙を信じ、沈黙を悪と見た。
だが、もし逆だったら。
もし、泣けないほど追い詰められていたのがリリアーナで、泣くことで守られていたのがミリアだったら。
「殿下」
廊下の先から声がした。
ミリアだった。
彼女は白い衣装ではなく、淡い水色のドレスを着ている。目元は赤く、いかにも泣き疲れた姿だった。
以前なら、胸が痛んだ。
今も痛まないわけではない。
だが、その痛みは以前とは違う。
守りたい衝動より先に、疑問が浮かんでしまう。
「ミリア」
「お話を聞きました。陛下が、殿下の裁定権を……」
ミリアは涙を浮かべて駆け寄る。
「ひどいです。アルヴィス様は私を守ってくださっただけなのに」
「……本当に、そうか」
「え?」
「私は、本当に君を守っただけだったのか」
ミリアの表情が強張った。
「アルヴィス様?」
「私は、君の涙を見て、リリアーナを裁いた」
「だって、私は本当に怖くて」
「君は、リリアーナに突き落とされたのか」
ミリアが息を呑む。
アルヴィスは、彼女を見つめた。
「直接、彼女に突き落とされたのか」
「……私は、階段で足を滑らせて」
「リリアーナがいたのか」
「その、見た気がして」
「気がした?」
「だって、あの方はいつも私を冷たく見ていたから!」
ミリアの声が鋭くなる。
すぐに彼女は自分の口を押さえた。
だが、遅かった。
アルヴィスは、その言葉を聞いてしまった。
冷たく見ていたから。
だから、やったと思った。
それだけだったのか。
「毒入り菓子は」
「それは、本当に苦しくなって」
「リリアーナからの贈り物だと、誰に聞いた」
「……皆が、そう言って」
「皆とは誰だ」
ミリアの涙がこぼれる。
「どうしてそんなことを聞くのですか。アルヴィス様まで、私を責めるの?」
「答えてくれ」
「分かりません! 怖かったんです! リリアーナ様が私を嫌っていたから、きっとそうだって……!」
廊下に沈黙が落ちた。
アルヴィスは、ミリアを見ていた。
ずっと守りたいと思っていた少女。
可憐で、儚くて、自分を頼ってくれる少女。
だが、その言葉は、証拠ではなかった。
感情だった。
恐怖と、思い込みと、リリアーナへの敵意。
「ミリア」
アルヴィスの声は掠れていた。
「君は……私に、嘘をついたのか」
「違います!」
ミリアは悲鳴のように叫んだ。
「嘘じゃありません! 私は本当に怖かったんです! リリアーナ様が悪いって思ったんです! 皆もそう思っていたし、アルヴィス様も信じてくださったじゃないですか!」
その瞬間、アルヴィスの胸に冷たいものが落ちた。
自分も信じた。
そうだ。
ミリア一人のせいではない。
自分が信じたのだ。
調べもせず。
確かめもせず。
ただ、信じたいものを信じた。
ミリアは泣きながら続ける。
「私、聖女になりたかっただけなのに……アルヴィス様の隣にいたかっただけなのに……どうして全部、リリアーナ様に奪われるの……!」
それは、被害者の言葉ではなかった。
嫉妬の言葉だった。
アルヴィスは、ようやく一歩、後ろへ下がった。
「今日は、もう休め」
「アルヴィス様」
「休め」
ミリアは手を伸ばしかけたが、アルヴィスがそれを取らないと分かると、顔を歪めた。
涙を流したまま、彼女は逃げるように廊下を去っていく。
残されたアルヴィスは、壁に背を預けた。
足元が崩れるようだった。
「私は……何を見ていた」
答えは、まだ出ない。
だが、今まで見ようとしなかったものが、目の前に押し寄せていた。
国境砦では、その日の午後、リリアーナが小さな庭へ案内されていた。
砦の内側にある、風除けの壁に囲まれた庭だ。
王国の庭園のように華やかな薔薇はない。代わりに、寒さに強い白い花や、淡紫の小花が低く咲いている。
オルガが、少しだけ誇らしげに言った。
「砦付きの庭師が、リリアーナ様のために整えました」
「私のために?」
「はい。白百合はまだ根づきにくい季節ですので、まずは似た色の花から、と」
リリアーナは、花壇の前で足を止めた。
小さな白い花が、冷たい風の中で揺れている。
誰かが、自分のために庭を整えてくれた。
それは王国での、豪華な贈り物とは違う。
もっと静かで、温かいものだった。
「……嬉しいです」
リリアーナは素直に言った。
オルガの表情が柔らかくなる。
「庭師に伝えておきます」
「はい。ぜひ」
少し離れたところで、カイゼルがその様子を見ていた。
ラウルが隣で小声を出す。
「陛下、顔が少し柔らかいですよ」
「気のせいだ」
「リリアーナ様が嬉しいと言ったからですよね」
「ラウル」
「はい、黙ります」
ラウルは楽しそうに口を閉じた。
リリアーナは花に触れようとして、ふと手を止める。
花の根元に、小さな黒い染みのようなものが見えた。
瘴気ではない。
だが、土地に残るわずかな疲れのようなもの。
国境砦は魔物に近い場所だ。
庭の土にも、少し影響があるのかもしれない。
「リリアーナ?」
カイゼルがすぐに気づく。
リリアーナは振り返った。
「大きなものではありません。けれど、この土にも少し疲れがあるように感じます」
「無理に触るな」
「はい」
以前なら、すぐに何とかしようとしただろう。
だが今は、違う。
リリアーナは一度目を閉じ、自分の体調を確かめた。
疲れは少ない。
怖さもない。
けれど、無理をしてまで今すぐ浄化する必要はない。
「今日は、見ておくだけにします」
「そうか」
カイゼルの声に、かすかな安堵が混じった。
リリアーナは少し笑う。
「少しは、止まることを覚えました」
「ああ」
「でも、いつかこの庭の土を少し整えたいです。私が、そうしたいから」
「その時は、私もいる」
「はい」
白い小花が風に揺れる。
リリアーナの胸元で、星飾りが淡く光った。
王国では、彼女の力は当然のように使われていた。
けれどここでは違う。
使うかどうか。
いつ使うか。
誰のために使うか。
それを、彼女自身が選べる。
リリアーナは、花を見つめながら静かに息を吸った。
遠く王国では、再調査が始まっている。
父が動き、宰相が動き、王もようやく目を開き始めた。
だが、それはリリアーナが戻る理由にはならない。
彼女はもう、王国の罪を背負うために生きるのではない。
「私は、ここで私の星を育てたい」
小さな呟きだった。
カイゼルが聞き取ったのか、こちらを見る。
リリアーナは少し恥ずかしくなったが、言い直さなかった。
言葉にしたかった。
自分のために。
カイゼルは静かに頷いた。
「なら、そうすればいい」
その答えが、あまりにも彼らしくて。
リリアーナは、そっと微笑んだ。
その笑顔は、処刑台の上で凍りついていた令嬢のものではなかった。
まだ傷は残っている。
まだ怖さもある。
それでも、自分の足で未来へ向かおうとする少女のものだった。




