第23話 聖女認定式
グランベルク王国大聖堂は、朝から白い花で埋め尽くされていた。
高い天井からは薄絹の飾り布が垂れ、祭壇へ続く赤い絨毯の両脇には、王都中から集められた花が飾られている。色硝子から差し込む朝の光は、床に青や金の模様を落とし、女神像の白い頬を淡く照らしていた。
美しい光景だった。
少なくとも、見た目だけは。
聖女認定式。
それは、本来なら王国中が祝福すべき儀式だった。
聖女候補ミリア・ロゼットが、神殿に正式に認められ、王太子アルヴィスの隣に立つ。民に祈りを捧げ、北部の不安を鎮め、王国にまだ祝福があると示す。
そのはずだった。
だが、聖堂内の空気は妙に硬い。
貴族たちは微笑みを浮かべているが、その目は落ち着きなく周囲を窺っている。神官たちは儀式の準備に追われながらも、時折、祭壇の奥へ不安げな視線を向けていた。
そして、王族席に座るアルヴィスもまた、いつものような余裕を失っていた。
「殿下」
そばに控える側近ルーカスが、小声で呼ぶ。
アルヴィスは視線だけを向けた。
「何だ」
「宰相閣下とエルフェルト公爵閣下が到着されました」
「……そうか」
アルヴィスの声は低かった。
聖堂の入口近くに、宰相エドガーとギルベルト・エルフェルトが並んで立っているのが見えた。
ギルベルトの表情は固い。
昨日までのように、王家の顔色を窺う公爵ではなかった。何かを決めた者の顔をしている。
それが、アルヴィスには気に入らなかった。
あの男は、リリアーナの父だ。
昨日までは娘を守れなかったくせに、今さら何を正義の側のような顔をしている。
そう思うのに、胸の奥に小さな不安が刺さる。
エルフェルト公爵が動いている。
財務局も、宰相も、神殿の一部も、何かを調べ始めている。
すべて、リリアーナの名を中心に。
「殿下、ご安心ください」
ルーカスが言った。
「本日、ミリア様が正式に聖女として認められれば、王宮内の空気も変わるはずです」
「当然だ」
アルヴィスは、自分に言い聞かせるように答えた。
「王国には聖女が必要だ。リリアーナではなく、ミリアこそが民に寄り添える」
そうだ。
リリアーナは冷たかった。
正しいことばかり言う。
数字を示し、証拠を求め、手続きを盾にして、王太子である自分にまで意見した。
ミリアは違う。
彼女は優しい。
涙を流し、祈り、民に心を寄せる。
王国に必要なのは、ああいう娘だ。
アルヴィスはそう信じようとした。
信じなければ、足元から崩れてしまいそうだった。
聖堂の控え室で、ミリアは白い衣装に身を包んでいた。
薄い絹の袖。
金糸で刺繍された聖女候補の外衣。
首元には、神殿から与えられた小さな聖印。
鏡の中の自分は、美しかった。
儚く、清らかで、守られるべき少女。
その姿だけなら、誰もが聖女だと思うだろう。
だが、ミリアの手は震えていた。
「ミリア様、お顔色が」
侍女が心配そうに言う。
ミリアはすぐに微笑んだ。
「少し緊張しているだけよ。大丈夫」
「本日は王族の皆様も、貴族の方々も大勢いらっしゃいますものね」
「ええ。でも、私は皆様のために祈るだけだから」
声は柔らかく出せた。
けれど心臓はうるさいほど鳴っている。
昨夜、祭壇の布に残った黒い染みは、誰にも見つからないように取り替えさせた。
理由を聞かれた時は、祈りの前に清めた布を使いたいと言った。侍女も神官も疑わなかった。
けれど、ミリアだけは知っている。
あの黒い筋。
白い布に残った染み。
自分の光に反応するようにうねった、穢れのようなもの。
違う。
あれは自分のせいではない。
きっと、聖堂に元から穢れが溜まっていたのだ。
自分の祈りがそれを見つけたのだ。
だから、怖がる必要はない。
「ミリア様、神官長猊下がお越しです」
扉が開き、神官長が入ってきた。
白い法衣に金の刺繍。穏やかな老人の顔をしているが、その目は妙に冷たい。
ミリアは立ち上がった。
「神官長様」
「ミリア様。お心は整っておられますか」
「はい。王国の皆様のために、精一杯祈ります」
「よろしい」
神官長は頷いた。
だが、すぐに声を低くする。
「本日の儀式では、余計なことを考えず、ただ光を出すことだけに集中なさい」
「余計なこと……?」
「北部の穢れや、リリアーナ・エルフェルトのことです」
リリアーナの名が出た瞬間、ミリアの肩が跳ねた。
神官長はそれを見逃さない。
「彼女のことを考えれば、光が乱れます。よろしいですね」
「……はい」
「あなたは聖女候補です。王太子殿下に選ばれ、神殿に認められた存在です。民は、あなたの光を望んでいる」
ミリアは、ぎゅっと両手を握った。
そう。
望まれているのは自分。
リリアーナではない。
「私は、聖女です」
「その通りです」
神官長は満足げに頷いた。
「たとえ何が起きても、堂々としていなさい。光が揺らいでも、それは穢れが強いせい。黒いものが現れても、それはあなたが穢れを浮かび上がらせた証。よろしいですね」
「……はい」
ミリアは頷いた。
その言葉は安心させるためのもののはずだった。
けれど、どうしてだろう。
まるで、失敗した時の言い訳を先に渡されたように聞こえた。
鐘が鳴った。
重く、聖堂全体へ響く鐘の音。
式典の始まりを告げる音だった。
ミリアが聖堂に姿を現すと、貴族たちの間に小さなどよめきが広がった。
白い衣装をまとった彼女は、確かに美しかった。
細い肩。
伏せられた瞳。
不安を抱えながらも祈りへ向かう、か弱い聖女候補。
民衆に見せるには十分すぎる姿だった。
アルヴィスは、王族席から彼女を見つめる。
胸に、少しだけ安堵が広がった。
やはりミリアは美しい。
リリアーナとは違う。
彼女は、人に守りたいと思わせる。
そう思った時、アルヴィスの視界の端にギルベルトが映った。
エルフェルト公爵は、ミリアではなく祭壇を見ている。
その目は厳しかった。
まるで、何かが起こることを予期しているかのように。
式典は粛々と進んだ。
神官たちが女神への祈りを唱え、聖堂の中央に北部の土と井戸水が運び込まれる。
透明な器に入った水は、すでにわずかに濁っていた。
土も、乾いて灰色がかっている。
貴族たちの間に不安が広がる。
「北部のものか」
「本当にここまで悪いのか」
「聖女様の祈りで鎮まるのだろう」
囁きが波のように揺れる。
ミリアは祭壇の前に立った。
目の前には、女神像。
そして、北部の土と水。
さらに少し離れたところに、王太子アルヴィス。
神官長。
宰相。
ギルベルト。
多くの貴族たち。
全員が見ている。
ここで光を出せば、すべてうまくいく。
自分は聖女だと示せる。
リリアーナなど必要ないと証明できる。
ミリアは両手を組んだ。
「女神様。どうか、王国に祝福を」
声は美しく響いた。
聖堂の空気が、静かに張り詰める。
ミリアの手のひらに、淡い光が灯った。
貴族たちから感嘆の息が漏れる。
「光だ」
「やはり聖女様だ」
「美しい……」
ミリアの胸に、安堵が広がる。
ほら。
私はできる。
私は選ばれた。
リリアーナではなく、自分が。
だが、その安堵は長く続かなかった。
祭壇に置かれた井戸水が、ぴくりと揺れた。
水面に、小さな黒い点が浮かぶ。
それは一つ、二つと増え、やがて水全体へ染み出すように広がっていった。
ミリアの光が強まるほど、黒い濁りも濃くなる。
「……水が」
「黒くなっていないか?」
「いや、あれは穢れが浮かび上がったのだろう」
神官たちが慌てて囁く。
神官長が険しい目でミリアを見る。
続けろ。
その視線が言っていた。
ミリアは唇を噛み、さらに祈ろうとした。
「女神様、どうか、どうか北部の穢れを――」
その瞬間、器の中の水が泡立った。
黒い煙が細く立ち上る。
貴族席から悲鳴が上がった。
「瘴気だ!」
「なぜ聖堂で瘴気が!」
「下がれ!」
聖堂内がざわめく。
ミリアは青ざめた。
「違う……違います。これは、私が穢れを見つけたから……」
声が震える。
しかし、黒い煙は水だけでは終わらなかった。
北部の土を入れた器からも、黒い筋が滲み出す。
それは祭壇の白い布へ伸び、昨夜見たものと同じように、蛇のようにうねった。
「ミリア様!」
侍女が悲鳴を上げる。
ミリアは後ずさった。
手の光が揺らぐ。
光が揺らぐたびに、黒い筋も暴れるように広がる。
「止めなさい!」
神官長が叫んだ。
ミリアは慌てて祈りを止めようとする。
だが、光はすぐには消えなかった。
彼女の恐怖に反応するように、薄い光が乱れ、祭壇の黒い筋をさらに刺激する。
宰相エドガーが立ち上がった。
「結界を張れ! 民衆席へ瘴気を流すな!」
神官たちが慌てて動く。
だが、聖堂の結界石は反応が鈍かった。
古い結界石の一つに、ぴしりと亀裂が入る。
その音は、小さいのに、妙にはっきりと響いた。
ギルベルトは目を見開いた。
リリアーナの記録が脳裏に浮かぶ。
『王都の正面聖堂は外壁装飾より結界石の点検が先』
娘は、分かっていた。
この結界が弱っていることを。
なのに神殿は、外面の美しさばかりを優先した。
そして今、その綻びが人前で割れようとしている。
「神官長!」
ギルベルトは声を上げた。
「結界石は点検されていたのか!」
「今はそのような話をしている場合では」
「娘は、リリアーナは、結界石の点検を優先せよと記録していた!」
その名が聖堂に響いた瞬間、空気が変わった。
リリアーナ。
処刑されかけた悪役令嬢。
敵国皇帝に連れ去られた公爵令嬢。
その名が、聖女認定式の場で響いた。
アルヴィスが立ち上がる。
「エルフェルト公! この場でその名を出すな!」
「出します」
ギルベルトは、王太子をまっすぐ見た。
「なぜなら、その名を消そうとした結果が今だからです」
アルヴィスの顔が強張った。
聖堂の中央では、黒い煙がさらに広がろうとしている。
神官たちの結界は不安定。
ミリアは祭壇の前で震え、涙を浮かべている。
「私のせいじゃない……私のせいじゃないの……」
その言葉は、か細い。
だが、周囲には聞こえていた。
いつものように涙を見せれば、誰かが守ってくれるはずだった。
アルヴィスが駆け寄り、君は悪くないと言ってくれるはずだった。
けれど、今は誰もすぐに動けなかった。
なぜなら、目の前で起きていることは、涙でごまかせるものではなかったからだ。
年配の神官の一人が、震える声で呟いた。
「偽りの光は、眠る穢れを乱す……」
その声を聞いた神官長の顔色が変わる。
「黙れ!」
「ですが、猊下。これは記録にあった通りでは」
「黙れと言っている!」
神官長の怒号が聖堂に響く。
貴族たちは顔を見合わせた。
何かを隠している。
誰もがそう感じ始めていた。
その時、聖堂の入口から一人の文官が駆け込んできた。
皇国からの通達を持ってきた宰相府の使いだった。
彼は混乱する聖堂内を見て一瞬固まったが、すぐに宰相のもとへ走る。
「宰相閣下! 皇国より追加通達です! 至急、神殿術具への干渉を止めるようにと!」
「今ここで読む!」
宰相は通達を受け取り、封を切った。
その文面に目を走らせ、すぐに顔を上げる。
「神殿上層部へ通告する。星霜の加護に干渉する術具、祭壇、結界を使用すれば、土地の巡りが乱れ、瘴気が拡散する危険がある。皇国はこれをリリアーナ・エルフェルトへの危害とみなし――」
聖堂がざわめいた。
「星霜の加護?」
「リリアーナ様の?」
「では、やはり彼女が本物の……?」
アルヴィスの顔が青ざめる。
「読むな!」
彼は叫んだ。
しかし宰相は止めなかった。
「――加護の宿り手本人の意思に反した使用、固定、召喚、祭壇への接続を禁ずる。これを破った場合、皇国は正式な敵対行為として扱う」
聖堂内が、完全に凍りついた。
神官長の唇が震える。
ギルベルトは静かに目を閉じた。
皇国は、リリアーナを守るために動いている。
そして王国は、守るべきだった娘を処刑台に立たせた。
黒い煙が、祭壇からふわりと漂った。
その時、ギルベルトの懐に入れていた紙片が、淡く光った。
ユリウスが書き写した、星霜の加護の記録だった。
ギルベルトはそれを取り出す。
紙面の文字が、白い光を帯びている。
『星霜の光は、王冠に属さず、祭壇に縛られず。宿りし者の心に従う』
ギルベルトは、その一文を声に出して読んだ。
聖堂内に、静かな声が響く。
「星霜の加護は、王家のものではない。神殿のものでもない。宿り手の心に従うものだ」
神官長が睨む。
「エルフェルト公、それをどこで」
「神殿の記録からです」
ギルベルトは言い切った。
「神殿が隠そうとした記録からです」
貴族たちのざわめきが大きくなる。
ミリアはその場に座り込みそうになっていた。
アルヴィスは、怒りと混乱で言葉を失っている。
宰相はすぐに指示を出した。
「式典は中止する。聖堂内の者を退避させよ。神殿の記録と祭壇具を封鎖する。神官長、あなたには説明していただく」
「宰相閣下、神殿の自治に王宮が口を出すおつもりか」
「国を危険に晒した疑いがある以上、神殿の自治を盾にはできぬ」
宰相の声は厳しかった。
「そして、王太子殿下」
アルヴィスがびくりと肩を震わせる。
宰相は、彼へ向き直った。
「リリアーナ・エルフェルト嬢への断罪について、正式な再調査を開始します」
「私は王太子だぞ」
「だからこそです」
宰相は静かに言った。
「王太子の裁定が誤りであったなら、王国全体がその責任を負うことになります」
アルヴィスは何も言えなかった。
祭壇の前では、ミリアが震えながら涙を流している。
だがその涙に、以前ほど人々の同情は集まらない。
誰もが見てしまった。
聖女の光が、穢れを鎮めるどころか乱した瞬間を。
そして、悪役令嬢と呼ばれたリリアーナの名が、瘴気の中で唯一の答えのように浮かび上がった瞬間を。
聖女認定式は、祝福の儀式にはならなかった。
それは、偽りの光が初めて公に揺らいだ日となった。
同じ頃、ヴァレンティス皇国の国境砦で、リリアーナはふと目を覚ました。
昼寝のつもりで横になっていたはずなのに、胸元の星飾りが淡く光っている。
窓辺の白百合も、かすかに揺れていた。
リリアーナは身体を起こし、星飾りに触れる。
「……何か、起きたの?」
答える声はない。
けれど、胸の奥に小さな波紋が広がっていた。
遠く離れた王国で、何かが乱れた。
同時に、何かがほどけたような感覚もある。
そこへ、扉が叩かれた。
「リリアーナ。私だ」
カイゼルの声。
リリアーナは顔を上げた。
「どうぞ」
扉が開き、カイゼルが入ってくる。
その表情を見た瞬間、リリアーナは悟った。
王国で、何かがあったのだ。
「聖女認定式が中止になった」
カイゼルは隠さず告げた。
「ミリアの祈りで瘴気が乱れた。神殿の記録も一部、表に出た。宰相が再調査を始める」
リリアーナは息を呑んだ。
驚きはある。
けれど、勝ち誇るような感情は湧かなかった。
ただ、静かに胸が痛んだ。
「怪我人は」
「今のところ大きな被害はない。聖堂は封鎖された」
「そうですか」
リリアーナはほっと息を吐いた。
カイゼルは、そんな彼女を見つめる。
「君は、やはり民の心配をするのだな」
「……はい。でも、戻りたいわけではありません」
「ああ」
「ミリア様を笑いたいわけでもありません」
「それも分かっている」
リリアーナは星飾りを握った。
「ただ、真実は明らかになってほしいです。私が悪役令嬢ではなかったということだけではなく、王国が何を見落として、神殿が何を隠していたのか」
「明らかになる」
「はい」
リリアーナは窓の外を見た。
皇国の空は曇っている。
それでも、雲の向こうに星があることを、今は知っていた。
「私は、戻りません」
静かに言う。
「でも、逃げ続けるだけでもいたくありません。私の名を使って誰かが嘘をつくなら、私はそれを否定したい」
「なら、否定すればいい」
カイゼルの答えは早かった。
「皇国は、そのための場を用意できる」
「場、ですか」
「声明だ」
リリアーナは振り返る。
「君自身の言葉で、王国へ伝えればいい。冤罪を認めないこと。神殿の所有物ではないこと。加護は君の意思に従うこと。そして、王国へ戻るつもりはないこと」
「私の、言葉で」
怖い。
そう思った。
けれど同時に、必要だとも思った。
これまでリリアーナの言葉は、王国で何度も消された。
冷たいと言われ、見苦しいと言われ、悪女の言い訳だと切り捨てられた。
だからこそ、今度は自分の言葉で示したい。
「……考えたいです」
「ああ」
「すぐには書けないかもしれません」
「待つ」
「怖くなって、やっぱりやめたいと言うかもしれません」
「その時も待つ」
カイゼルの声は揺るがなかった。
「君が選べ」
リリアーナは目を伏せた。
その言葉は、何度聞いても胸に響く。
選んでいい。
言っていい。
拒んでいい。
その一つ一つを、彼は根気強く渡してくれる。
「陛下」
「何だ」
「私は、少しずつでも、自分の言葉を取り戻したいです」
カイゼルの金色の瞳が、柔らかく細められた。
「取り戻せる」
「はい」
リリアーナは、小さく頷いた。
「次は、私の言葉で伝えます」
胸元の星飾りが、淡く光った。
まるで、その選択を静かに肯定するように。




