第22話 はじめての加護訓練
翌日の朝、国境砦の中庭には薄い霧が降りていた。
黒灰色の石壁は冷気を帯び、見張り塔の上では黒狼の旗が静かに揺れている。王国の庭園のような華やかさはない。けれど、その厳しい景色の中に、リリアーナは少しずつ落ち着きを覚えるようになっていた。
ここは、彼女を断罪するための場所ではない。
監視するための場所でも、役目を押しつけるための場所でもない。
少なくとも今は、彼女が自分の力を知るために用意された場所だった。
中庭の一角には、簡易の訓練場が整えられていた。
魔術師たちが結界を張り、地面には小さな魔石が円形に並べられている。その中央に置かれているのは、手のひらほどの大きさの黒ずんだ結界石だった。
砦の外壁に使われていた古い石で、長年、魔物の瘴気を受けて弱っていたものだという。
今日の訓練は、それに宿ったわずかな穢れを、リリアーナの星霜の加護で鎮められるか確認するものだった。
「無理に完全に浄化する必要はございません」
老魔術師が、穏やかに言った。
「本日は、リリアーナ様がご自身の加護を感じること。そして、どこで疲労を覚えるかを確認することが目的です」
「はい」
「力が揺らいだら、すぐに中止いたします。気分が悪くなった場合も同じです」
「分かりました」
リリアーナは頷いた。
返事は落ち着いている。
けれど、指先にはかすかな緊張があった。
今日は、誰かが傷ついたから助けるのではない。魔物に襲われて、とっさに光が出るのでもない。
自分の意思で、加護に触れようとしている。
それが、思っていた以上に怖かった。
そばにはクララがいる。
少し離れて、オルガが控えている。
カイゼルは訓練場の外側、けれど何かあればすぐ届く距離に立っていた。
彼は朝からずっと、無言でリリアーナを見ている。
その視線に圧はない。だが、心配は隠しきれていなかった。
「陛下」
リリアーナが声をかけると、カイゼルはすぐに反応した。
「何だ」
「そのように見つめられると、少し緊張します」
「……そうか」
カイゼルは一歩下がった。
本当に一歩だけだった。
ラウルが横で肩を震わせている。
「陛下、それではほとんど変わっておりません」
「黙れ」
「はい」
ラウルは即座に黙った。
だが顔は笑っている。
リリアーナは思わず口元を緩めた。
その笑みを見て、カイゼルの眉間の皺が少しだけ薄くなる。
「無理をする必要はない」
「はい」
「少しでも異変があれば言え」
「はい」
「大丈夫と言うな」
「……はい」
先回りされた。
クララが小さく頷き、オルガも当然のように頷いている。
リリアーナは苦笑した。
「皆様に、私の癖を覚えられてしまいましたね」
「覚えなければ、あなた様はすぐ無理をなさいますので」
オルガの返答は容赦がなかった。
「今日は、無理はしません」
リリアーナはそう言ってから、少し考え、言い直した。
「無理をしそうになったら、止めてください」
「もちろんです」
クララが力強く答えた。
その真剣さに、リリアーナの胸が少し温かくなる。
頼る。
止めてもらう。
それは、今までのリリアーナにとって苦手なことだった。
けれど、いまは少しずつ、それを覚えようとしている。
老魔術師が結界石を示した。
「では、リリアーナ様。結界石へ手をかざしてください。ただし、触れなくて構いません」
「分かりました」
リリアーナは、ゆっくりと結界石の前へ進んだ。
黒ずんだ石は、近くで見ると細かな傷がいくつも入っていた。石の奥には、黒い糸のようなものが絡みついている。目に見えているのか、それとも加護が感じ取っているのかは分からない。
ただ、胸の奥が少しざわついた。
これは、よくないものだ。
そう直感する。
「これが、瘴気ですか」
「はい。ごく薄いものですが、長く蓄積しております」
「苦しそうに見えます」
「石が、でございますか」
「ええ」
老魔術師は目を見開いた。
だが、すぐに何かを書き留め始める。
「やはり、リリアーナ様の加護は土地や結界の状態を感覚的に捉えるようです」
「感覚的に……」
リリアーナは結界石を見つめた。
苦しそう。
そう思ったのは、石そのものが生きているように感じたからではない。
もっと近い言葉を探すなら、重荷を背負い続けているものを見た時の感覚に似ていた。
誰にも気づかれず、ただ耐え続けているもの。
その黒い糸を、ほどいてあげたいと思った。
その瞬間、指先に淡い光が灯る。
「お嬢様」
クララが息を呑んだ。
リリアーナは、手をかざしたまま静かに息を吸う。
無理に出そうとしているわけではない。
ただ、黒い糸が絡まっている場所へ、そっと意識を向ける。
ほどく。
断ち切るのではなく。
焼くのでもなく。
ほどいて、元の流れへ戻す。
星の光が、結界石の周りにふわりと広がった。
白く淡い光の粒が、黒い糸に触れる。
糸は抵抗するように揺れたが、やがて少しずつ薄くなっていった。
結界石の表面に走っていた黒ずみが、ほんのわずかに薄れる。
「反応あり。瘴気濃度、低下しています」
若い魔術師が声を上げた。
老魔術師も、驚きと興奮を抑えきれない様子で測定器具を覗き込む。
「すばらしい……力の出力は小さい。それなのに、瘴気の構造そのものが緩んでいる」
「構造?」
「黒炎や通常の浄化魔法は、瘴気を削る、焼く、押し流す形が多いのです。ですがリリアーナ様の光は、瘴気が絡みついている場所をほどいているように見える」
「ほどく……」
自分が感じた言葉と同じだった。
リリアーナは少し驚く。
だが、その直後、胸の奥に小さな疲労が広がった。
息が少し浅くなる。
手の光が揺れた。
「中止だ」
カイゼルの声が飛んだ。
リリアーナははっとする。
「まだ、少しなら」
「中止だ」
「ですが」
「リリアーナ」
名前を呼ばれ、リリアーナは口をつぐんだ。
カイゼルの声は厳しい。
けれど、怒っているわけではない。
心配しているのだと、今は分かる。
リリアーナは手を下ろした。
光が消える。
結界石に残っていた黒ずみは、完全には消えていない。だが最初よりは明らかに薄くなっていた。
「……途中で止めるのは、少し落ち着きませんね」
リリアーナがそう言うと、オルガが静かに答えた。
「途中で止める練習も必要でございます」
「止める練習」
「はい。リリアーナ様は、最後までやりきろうとなさいます。たとえご自身が削れても」
「……」
「ですから今日は、できることを確認する日であると同時に、やめることを覚える日でもございます」
やめることを覚える。
リリアーナは、その言葉を胸の中で繰り返した。
王国では、やめることなど許されなかった。
王太子妃候補として。
公爵令嬢として。
王国を支える者として。
どれほど疲れていても、やめるという選択肢はなかった。
けれど今、ここでは違う。
「分かりました」
リリアーナは、結界石から一歩下がった。
「今日は、ここまでにします」
その瞬間、クララがあからさまにほっとした顔をした。
カイゼルも、わずかに息を吐いたように見える。
ラウルが小声で言った。
「陛下の寿命が少し延びましたね」
「ラウル」
「はい、黙ります」
また即座に黙る。
リリアーナは、今度は少し笑ってしまった。
緊張がほどける。
それと同時に、膝に力が入りにくくなった。
「お嬢様!」
クララが駆け寄る。
カイゼルもすぐに手を伸ばした。
リリアーナは倒れる前に、カイゼルの腕に支えられる。
「申し訳……」
言いかけて、止めた。
カイゼルがじっと見ている。
クララも見ている。
オルガも、見ている。
リリアーナは、ゆっくりと言い直した。
「少し、疲れました」
「よく言えた」
カイゼルが短く言った。
その言葉に、なぜか胸が詰まった。
倒れなかったことでも、加護を使えたことでもなく。
疲れたと言えたことを、褒められた。
それが、ひどく不思議で、少しだけ泣きたくなる。
「座れ」
カイゼルはそう言って、近くに用意されていた椅子へリリアーナを導いた。
クララがすぐに膝掛けをかけ、オルガが温かい飲み物を差し出す。
甘い香草茶だった。
リリアーナは両手でカップを包み、少しずつ飲む。
温かさが喉を通り、胸の奥へ落ちていく。
「おいしいです」
「よかったです」
クララが嬉しそうに笑った。
カイゼルは老魔術師へ視線を向ける。
「結果は」
「非常に良好です。ただ、やはり負担がございます。今日はこれ以上の訓練は避けるべきです」
「当然だ」
「加護の性質としては、瘴気を直接消すというより、絡みついた穢れをほどくものに近いようです。攻撃魔法ではなく、安定化と浄化に特化しています」
「危険は」
「本人の消耗が最も大きな危険です。外部から強制的に力を引き出せば、心身への負担はさらに増えるでしょう」
「神殿の術具で縛ればどうなる」
「最悪の場合、加護は暴走するか、逆に沈黙します。記録にある“星は沈み、地は怒る”とは、その状態かもしれません」
カイゼルの瞳が冷えた。
リリアーナはカップを握る手に力を込める。
神殿が自分を縛ろうとしている。
それは、ただ自分が怖い思いをするだけでは済まないのかもしれない。
土地が乱れる。
穢れが広がる。
魔物が増える。
王国がそれを知らずに加護を管理しようとしているなら、あまりにも危うい。
「陛下」
リリアーナは声を上げた。
「神殿に、この危険を知らせることはできないのでしょうか」
「知らせたところで、聞くと思うか」
「……分かりません」
「上層部は知っていて隠している可能性が高い」
「はい」
リリアーナは目を伏せた。
それでも、心のどこかで考えてしまう。
もし何も伝えなければ、王国の民が巻き込まれるのではないか。
自分を処刑しようとした王国。
それでも、そこに暮らす民すべてが悪いわけではない。
その迷いを、カイゼルは見逃さなかった。
「リリアーナ」
「はい」
「王国へ戻る必要はない」
「分かっています」
「だが、情報を渡すかどうかは別の話だ」
「え?」
リリアーナは顔を上げた。
カイゼルは静かに続ける。
「君が望むなら、皇国から王国の宰相、またはエルフェルト公へ、神殿術具の危険性について通達することはできる」
「よろしいのですか」
「君を差し出す話ではない。情報を渡すだけだ」
「でも、王国を助けることに」
「助けたいのか」
「……」
リリアーナはすぐには答えられなかった。
助けたい。
その言葉は、まだ危うい。
けれど、見捨てたいわけでもない。
彼女はしばらく考え、正直に言った。
「民が苦しむのは、嫌です」
「ああ」
「でも、そのために私が戻るのは嫌です」
「ああ」
「神殿に利用されるのも嫌です」
「当然だ」
「それでも、危険を知らせることだけなら……したいです」
カイゼルは、ほんの少し目を細めた。
「なら、そうしよう」
「よいのですか」
「君の選択だ」
その言葉に、リリアーナは胸が熱くなった。
王国を心配すること。
けれど戻らないこと。
情報だけを渡し、自分自身は守ること。
そんな選択肢があるのだと、今まで考えたこともなかった。
「ありがとうございます」
リリアーナはそう言った。
「私、少し分かった気がします」
「何を」
「優しさと、自己犠牲は違うのですね」
カイゼルは黙った。
クララが目を潤ませる。
オルガは静かに微笑んだ。
「まだ、すぐには間違えそうです」
「その時は止める」
「はい」
リリアーナは頷いた。
その表情は、昨日よりも少しだけ穏やかだった。
同じ頃、王国神殿では、聖女認定式の準備が進められていた。
白い布が祭壇にかけられ、金の燭台が磨かれ、女神像の前には新しい花が飾られる。
その中心で、ミリアは白い聖女候補の衣装をまとって立っていた。
鏡に映る姿は、誰が見ても可憐だった。
淡い金髪。
潤んだ瞳。
細い肩。
清らかな白。
これこそ、人々が望む聖女の姿だ。
そう思うのに、ミリアの心は落ち着かなかった。
「ミリア様、本当にお美しいです」
「まるで女神様の使いのよう」
「明日の認定式では、皆がミリア様の光に感動することでしょう」
侍女たちが口々に褒める。
ミリアは微笑んだ。
「ありがとう。私、皆様のために頑張りますね」
声は、いつも通り儚げに出せた。
けれど心の中では、黒い不安が渦巻いている。
前回の祈り。
北部の土から立ち上った黒い煙。
神官たちは、穢れを浮かび上がらせたのだと言った。
けれど本当にそうなのか。
もし、自分の光が穢れを乱しただけなら。
もし、リリアーナの方が本物だったなら。
ミリアは鏡の中の自分を睨みそうになり、慌てて表情を整えた。
そんなはずはない。
リリアーナは悪役令嬢だ。
冷たくて、偉そうで、可愛げがなくて、みんなに嫌われる役。
自分は聖女。
王太子に選ばれ、守られ、愛される役。
そうでなければならない。
「ミリア様?」
侍女が心配そうに声をかける。
ミリアはすぐに、弱々しく微笑んだ。
「少し、緊張してしまって」
「まあ……なんて健気な」
「大丈夫です。王太子殿下もついておられますわ」
王太子殿下。
アルヴィス。
その名を聞いても、ミリアの不安は消えなかった。
最近のアルヴィスは、どこかおかしい。
以前なら、ミリアが不安そうにすればすぐに慰めてくれた。リリアーナを責め、君は悪くないと言ってくれた。
けれど今は、時折、何かを疑うような目をする。
北部への補助をどう思うかと聞かれた時もそうだった。
なぜ、そんなことを自分に聞くのか。
そんな難しいことは、リリアーナの役目だったはずなのに。
ミリアは、ぎゅっと拳を握った。
リリアーナ。
リリアーナ。
どこへ行っても、その名前ばかり。
いなくなったのに。
処刑されるはずだったのに。
敵国皇帝に救われて、今度は本物の加護持ちだと囁かれ始めている。
「許せない……」
小さく漏れた声に、侍女が首を傾げた。
「ミリア様?」
「いいえ、何でもありません」
ミリアはにこりと笑った。
「明日のために、少しお祈りをしてきます」
侍女たちを下がらせ、ミリアは一人で祭壇の前へ向かった。
女神像が、白い顔で彼女を見下ろしている。
その目が、どこか冷たく見えた。
「私は、聖女です」
ミリアは呟いた。
返事はない。
「私が選ばれたんです。アルヴィス様に。神殿に。皆に」
祭壇の燭火が、かすかに揺れる。
ミリアは両手を組み、目を閉じた。
「だから、力をください。明日、皆の前でちゃんと光れるように」
祈る。
祈る。
どうか、光を。
リリアーナよりも強い光を。
誰も疑えないほどの、聖女の奇跡を。
手のひらに、淡い光が灯った。
ミリアは安堵しかけた。
だが次の瞬間、祭壇の下から黒い筋のようなものが伸びる。
光に触れた黒い筋は、まるで目を覚ました蛇のようにうねった。
「な、に……?」
ミリアは後ずさった。
黒い筋はすぐに消えた。
だが、祭壇の白い布の端に、かすかな黒い染みが残っている。
ミリアの顔から血の気が引いた。
「違う」
彼女は震える声で呟いた。
「これは、私のせいじゃない」
祭壇は沈黙している。
女神像も何も答えない。
ミリアは黒い染みを隠すように布を引き寄せた。
明日の認定式までに、どうにかしなければならない。
誰にも見られてはいけない。
自分は聖女なのだから。
聖女でなければ、何も残らないのだから。
その夜遅く、皇国から王国宰相府とエルフェルト公爵家へ、同じ内容の通達が届いた。
差出人は、ヴァレンティス皇帝カイゼル。
内容は簡潔だった。
王国神殿に残る古い術具は、星霜の加護へ干渉すれば土地の巡りを乱し、瘴気を拡散させる危険がある。
加護の宿り手本人の意思に反した使用、固定、召喚、祭壇への接続を禁ずる。
これを破った場合、皇国はリリアーナ・エルフェルトへの危害とみなし、正式な敵対行為として扱う。
宰相エドガーは、その文書を読んで沈黙した。
ギルベルトは、同じ文書を握りしめて目を閉じた。
そして神殿では。
神官長が、その写しを前にして顔を歪めていた。
「皇国め……」
低い声が、祭具室に落ちる。
だが、その背後の記録書は、また一頁、ひとりでにめくれた。
そこには、古い文字でこう書かれていた。
『星を鎖に繋ぐ者、いずれ鎖に裁かれる』
神官長はまだ知らない。
翌日の聖女認定式が、王国神殿の権威を高める場ではなく、偽りの光が初めて公に揺らぐ場になることを。
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