第21話 皇国の禁書庫
翌朝、国境砦の空は薄い雲に覆われていた。
窓の外では、黒狼の旗が冷たい風を受けて揺れている。王国の王都で見る空よりも低く、色も淡い。けれどその奥には、夜になれば星がよく見える澄んだ気配があった。
リリアーナは窓辺に立ち、胸元に下げた星飾りへそっと触れた。
昨夜、黒曜石の奥に灯った淡い星の光。
それは今は静かに眠っている。
けれど、確かに何かが変わったような気がしていた。
七年前、森で傷ついた少年から預かった小さな飾り。
それがただの思い出ではなく、星霜の加護と呼応するものかもしれない。
そう思うと、少し怖い。
大切なものまで、知らない力の一部に変わってしまいそうで。
「お嬢様、きつくありませんか?」
背後からクララの声がした。
リリアーナは振り返る。
クララは、淡い灰色の室内着に厚手のショールを合わせたリリアーナを、心配そうに見ていた。今日は国境砦の魔術師と、皇都から急ぎ届けられた禁書庫の写しを確認する予定になっている。
つまり、星霜の加護について、本格的に知る日だった。
「大丈夫……と言いたいところだけれど」
「はい」
「少し、怖いわ」
正直に言うと、クララは一瞬だけ目を丸くした。
それから、ほっとしたように微笑む。
「言ってくださって、ありがとうございます」
「怖いと言うだけで、こんなに感謝されるのね」
「今までのお嬢様は、怖くても大丈夫ですと仰っていましたから」
返す言葉がなかった。
クララはそっと近づき、リリアーナの髪を整える。
「怖くても、今日はお一人ではありません。陛下も、オルガ様も、私もおります」
「ええ」
リリアーナは小さく頷いた。
胸元の星飾りが、指先にひんやりと触れる。
この力を知ることは、きっと避けられない。
王国が欲しがり、神殿が管理しようとし、皇国が記録を探してくれている力。
それが本当に自分の中にあるのなら、知らないまま怯えているわけにはいかなかった。
扉が叩かれた。
「リリアーナ。私だ」
カイゼルの声だった。
クララが扉を開ける。
黒い軍装姿のカイゼルが立っていた。肩の傷はすでに塞がっているが、まだ完全ではないはずだ。それでも彼はいつも通り、痛みなどないような顔をしている。
リリアーナは思わずその肩を見た。
「傷は痛みませんか」
「問題ない」
「本当に?」
「ああ」
即答だった。
リリアーナはじっと彼を見る。
カイゼルは少しだけ沈黙した後、言い直した。
「……少し引きつる程度だ」
「では、問題なくはありません」
クララが後ろで小さく頷いた。
カイゼルは気まずそうに目を逸らす。
「処置は受けた」
「無理はなさらないでください」
「それは私の台詞だ」
そう返され、リリアーナは少しだけ笑ってしまった。
カイゼルの目元が、ほんのわずかに和らぐ。
その変化が分かるようになってきたことに、リリアーナは胸の奥がくすぐったくなった。
「行けるか」
「はい」
「無理なら、今日は中止にする」
「いいえ。知りたいのです」
リリアーナは胸元の星飾りを握った。
「怖いですが、知らないままではもっと怖いと思います」
「分かった」
カイゼルは短く答え、手を差し出した。
リリアーナは、その手を見つめる。
以前なら、皇帝陛下の手を借りるなど恐れ多いと遠慮していた。
だが今は違う。
リリアーナは自分から手を重ねた。
カイゼルの手は温かく、しっかりしていた。
案内されたのは、国境砦の地下にある資料室だった。
皇都の禁書庫そのものではない。だが、皇帝の命令によって、星霜の加護に関する写しや目録が急ぎ運び込まれていた。
部屋は厚い石壁に囲まれ、魔石灯の青白い光が静かに灯っている。中央の大机には、古い写本、封蝋付きの報告書、魔術師たちの測定器具が並べられていた。
老魔術師が一礼する。
「リリアーナ様。お身体の具合は」
「少し緊張していますが、痛みなどはありません」
「では、まずは記録の確認から始めましょう。力を使う必要はございません」
力を使わなくていい。
その一言に、リリアーナは少しだけ安心した。
オルガも部屋に控えている。クララはリリアーナの椅子のすぐ後ろに立ち、心配そうに見守っていた。
カイゼルはリリアーナの隣に座らず、少し斜め後ろに立った。
守る位置。
けれど、彼女の視界を塞がない位置だった。
老魔術師は、最初の写本を開いた。
「星霜の加護について、皇国の記録に残る最も古い記述です。およそ三百年前、王国と皇国の境界地帯で大規模な瘴気災害が起きた際、一人の加護持ちが土地を鎮めたとあります」
「王国と皇国の境界で」
「はい。当時は今ほど国境が明確ではなく、両国の人々が暮らす地域も多くございました。その地を守った者を、記録では“星霜の乙女”と呼んでおります」
星霜の乙女。
その響きに、リリアーナは指先をわずかに強張らせる。
乙女。
加護持ち。
土地を守る者。
どれも、綺麗な言葉に聞こえる。
けれど同時に、人を役割へ閉じ込める言葉にも思えた。
老魔術師は慎重に続けた。
「ただし、重要なのは次です。星霜の加護は、王でも神官でもなく、宿り手の意思に従うと記されています」
「宿り手の意思……」
「はい。こちらをご覧ください」
老魔術師が示した一文は、昨夜ユリウスがギルベルトへ渡した写しと似ていた。
『星霜の光は、王冠に属さず、祭壇に縛られず。宿りし者の心に従う』
リリアーナは、その文字から目を離せなかった。
王冠に属さない。
祭壇に縛られない。
自分の心に従う。
王国でずっと、王家のため、公爵家のため、神殿のために動いてきたリリアーナにとって、それは信じられないほど遠い言葉だった。
「では、この力は本当に……王国のものではないのですね」
「記録上は、そのように」
「神殿が管理すべきものでも」
「ございません」
老魔術師は、はっきりと言った。
「少なくとも皇国の記録では、星霜の加護を無理に縛った国は、土地の巡りを乱したとされています」
「縛る、とは」
「本人の意思に反して加護を使わせること。祭壇や術具で力を固定しようとすること。加護持ちを土地に閉じ込めることなどです」
リリアーナの胸が冷える。
王国神殿が星飾りや白百合のハンカチを狙っている理由。
もしそれが、加護を確認するだけではなく、固定するためだったら。
リリアーナ自身を王国へ戻せなくても、力だけでも繋ぎ止めようとしているのだとしたら。
カイゼルの声が低く落ちた。
「その術具は現存するのか」
「完全なものは確認されておりません。ただ、王国神殿には古い祭壇具が残っている可能性がございます」
「砦に魔物を誘導した魔術具と同じ系統か」
「おそらく、根は同じかと。本来は土地の穢れを集め、浄化しやすくするための術式だったのでしょう。それを歪めれば、瘴気を集め、魔物を誘導することもできる」
カイゼルの周囲の空気が冷たくなる。
リリアーナは、そっと彼を見た。
怒っている。
自分のために。
それが分かるから、怖さの中でも少しだけ心が支えられた。
「陛下」
「何だ」
「怒ってくださって、ありがとうございます」
「礼を言うことではない」
カイゼルは短く答えた。
けれど、その声は少し柔らかかった。
「君を縛ろうとする者に怒るのは当然だ」
当然。
その言葉が、リリアーナの中に静かに染み込む。
王国では、自分が縛られていることに気づくことすら許されなかった。
役目。
義務。
王太子妃候補。
公爵令嬢。
そう呼ばれるたびに、自分の意思は後回しになっていた。
だが今、カイゼルはそれを当然ではないと言ってくれる。
老魔術師は、次の資料を開いた。
「星霜の加護には、いくつか段階があるようです」
「段階ですか」
「はい。まず、無自覚の守護。宿り手が土地にいるだけで、周囲の穢れが弱まる状態です。次に、願いによる発現。誰かを助けたい、守りたいという強い思いに反応し、星の光が現れる状態。リリアーナ様は、現在ここに近いと思われます」
「では、その先は」
「意識的な制御。そして、広域への安定化です」
老魔術師の声が、少し慎重になる。
「ただし、広域への安定化は非常に負担が大きい。過去の記録でも、長く土地を守った加護持ちは、心身を削ったとあります」
「心身を削る……」
リリアーナは、思わず手を握った。
王国にいた頃の自分と重なる。
誰にも気づかれず、誰にも感謝されず、それでも支え続けていた日々。
もし無意識のうちに加護も使っていたのだとしたら、自分は政務だけでなく、力までも削っていたのかもしれない。
カイゼルが言った。
「広域への使用は禁止する」
「陛下」
「少なくとも、君が自分の意思で制御できるようになるまではだ」
「ですが、王国の北部では」
「王国の北部を救う責任は、今の君にはない」
強い声だった。
だが、リリアーナは反射的に言い返さなかった。
その代わり、少し考える。
「責任は、ないのですね」
「ああ」
「でも、心配してはいけないわけではありませんか」
「……それは、違う」
カイゼルは、わずかに間を置いて答えた。
「君が民を心配することまで止めるつもりはない」
「はい」
「だが、その心配を利用されるな」
「……はい」
リリアーナは頷いた。
この違いを、覚えなければならない。
誰かを心配すること。
誰かのために祈ること。
それ自体は、きっと悪くない。
けれど、自分を差し出すこととは違う。
オルガが静かに口を開いた。
「リリアーナ様。民を思うお気持ちは、あなた様の優しさです。ですが、あなた様を処刑台へ送った国が、その優しさを当然の権利のように求めることは許されません」
「……はい」
リリアーナは胸元の星飾りに触れた。
「私はまだ、その境目がうまく分かりません」
「ならば、今は周囲に確認なさればよろしいのです」
オルガは当然のように言った。
「これは優しさか、自己犠牲か。迷った時は、聞けばよろしい」
「そんなことで聞いてもよいのですか」
「もちろんです」
「私にも聞いてください」
クララがすぐに言った。
「お嬢様が無理をなさろうとしたら、私は全力で止めます」
「頼もしいわね」
「はい。今度は遠慮しません」
クララの真剣な顔に、リリアーナは小さく笑った。
その笑みを見て、カイゼルがほんの少し目を細める。
老魔術師も、どこかほっとしたように表情を緩めた。
「では、今日は最後に、加護との共鳴だけ確認いたしましょう。力を外へ放つ必要はありません。星飾りに触れたまま、深く息をしていただくだけで結構です」
「それだけで分かるのですか」
「はい。星飾りが本当に星霜の加護と関係しているなら、何らかの反応があるはずです。ただし、少しでも気分が悪くなれば即座に中止します」
「分かりました」
リリアーナは椅子に座り直した。
カイゼルが近くへ来る。
手を出すわけではない。
ただ、何かあればすぐ支えられる距離に立つ。
リリアーナは星飾りを両手で包んだ。
黒曜石の冷たさ。
金の縁取り。
七年前から変わらない形。
けれど今は、その奥に眠る何かを感じる。
「目を閉じてください。無理に光を出そうとしなくて構いません。ただ、ご自身の呼吸を感じてください」
老魔術師の声に従い、リリアーナは目を閉じた。
息を吸う。
吐く。
怖さがある。
でも、一人ではない。
クララがいる。
オルガがいる。
老魔術師がいる。
カイゼルがいる。
星飾りの奥が、ほんのり温かくなった。
ふと、森の匂いがした気がした。
雨上がりの土。
濡れた落ち葉。
血の匂い。
そして、幼い日の自分の声。
『傷ついた人を見捨てる理由にはなりません』
リリアーナの指先に、光が灯る。
それは強くない。
淡く、静かで、星屑のような光だった。
星飾りの黒曜石の奥にも、同じ光が宿る。
二つの光が重なった瞬間、リリアーナの胸の奥に、ある情景が浮かんだ。
広い夜空。
王国と皇国の境界に広がる古い草原。
そこに立つ、名前も知らない一人の女性。
白い髪に、星のような光をまとっている。
彼女は振り返らない。
ただ、遠くから声だけが届く。
『縛られないで』
リリアーナは息を呑んだ。
光が揺れる。
カイゼルがすぐに声をかける。
「リリアーナ」
「……大丈夫です」
言いかけて、リリアーナは目を開けた。
「いいえ、少し驚きました。でも、痛みはありません」
カイゼルの眉間の皺が、わずかに薄くなる。
老魔術師が慎重に尋ねた。
「何か見えましたか」
「女の人が……いたように思います」
「女の人」
「顔は見えませんでした。ただ、縛られないで、と」
老魔術師の顔色が変わった。
「星霜の記憶かもしれません」
「記憶?」
「加護に残る、過去の宿り手の意志です。断片的なものですが、強い思いが記録のように残ることがあると」
「過去の宿り手……」
リリアーナは星飾りを見つめた。
星霜の加護は、自分だけのものではない。
過去にも、それを宿した人がいた。
その人もまた、王冠や祭壇に縛られそうになったのだろうか。
そして、逃れたかったのだろうか。
「縛られないで」
リリアーナは、そっと繰り返した。
その言葉は、怖いほど自分の胸に馴染んだ。
王国へ戻れ。
神殿へ出頭しろ。
加護を王国のために使え。
きっと、これから何度もそう言われる。
けれど。
「私は、縛られたくありません」
リリアーナは小さく言った。
声は静かだった。
けれど、確かだった。
「王国にも、神殿にも。加護にも」
カイゼルが彼女を見る。
リリアーナは星飾りを握ったまま、顔を上げた。
「この力を知らないままでいるのは怖いです。でも、知った上で、どう使うかは私が選びたい」
「ああ」
カイゼルは短く頷いた。
「それでいい」
「陛下は、それを許してくださいますか」
「許すのではない」
カイゼルは、まっすぐに言った。
「それは、君の権利だ」
権利。
リリアーナの胸が、静かに震えた。
自分にそんなものがあるのだと、王国では考えたこともなかった。
役目ならあった。
義務ならあった。
責任なら、いくらでもあった。
けれど権利は。
選ぶ権利は。
「……ありがとうございます」
リリアーナは、今度は謝らずにそう言えた。
カイゼルの表情がほんの少しだけ和らぐ。
「今日はここまでだ」
彼は老魔術師へ視線を向けた。
「異論は」
「ございません。これ以上は負担になります」
「では終了する」
あまりにも即座に決められ、リリアーナは少しだけ瞬きをした。
「まだ、少しなら」
「終了だ」
「でも」
「終了だ」
二度言われた。
クララがすぐに頷く。
「お嬢様、今日はもう十分です」
「オルガ様もそう思いますか」
「もちろんでございます」
味方がいない。
リリアーナは困ったように笑った。
「分かりました。今日は休みます」
「よろしい」
オルガの声は満足げだった。
カイゼルも、どこか安堵したように見える。
リリアーナは立ち上がろうとして、少しだけ足元が揺れた。
次の瞬間、カイゼルの手が支える。
「やはり疲れている」
「少しだけです」
「少しでも疲れているなら休む」
「……はい」
反論は諦めた。
けれど、不思議と嫌ではなかった。
休めと言われることが、少しずつ怖くなくなっている。
それは、リリアーナにとって大きな変化だった。
その日の夕方、王国神殿の祭具室では、神官長が封じたはずの記録書を前に立ち尽くしていた。
表紙に走った細い亀裂は、朝よりも広がっている。
封印の金具は歪み、ページの隙間から淡い白い光が漏れていた。
「なぜだ……」
神官長は震える声で呟いた。
「封印は完全だったはずだ」
そばにいた若い神官が青ざめる。
「猊下、これは星霜の加護が」
「黙れ」
神官長は記録書へ手を伸ばした。
その瞬間、白い光が強く瞬いた。
神官長の指先が弾かれる。
「っ!」
記録書が、ひとりでに開いた。
古い紙面に、文字が浮かび上がる。
『祭壇に縛る者、星を失う』
神官長の顔から血の気が引いた。
若い神官が震えながら後ずさる。
「猊下……」
「閉じろ」
「ですが」
「閉じろと言っている!」
神官長の怒号が祭具室に響いた。
だが記録書は閉じなかった。
白い光は静かに、しかし確かに強くなっていく。
王国の祭壇に封じられていた星霜の記録が、遠い皇国で目覚めたリリアーナの意思に呼応し始めていた。
その頃、リリアーナは国境砦の部屋で眠っていた。
白百合の香りに包まれ、クララがそばに座り、オルガが静かに見守っている。
胸元の星飾りは、淡い光を宿したまま、彼女の呼吸に合わせるように微かに瞬いていた。
夢の中で、リリアーナはまたあの声を聞いた。
『選びなさい』
それは命令ではなかった。
祈りでもなかった。
ただ、遠い昔から届いた、同じ力を宿した誰かの願いだった。
『あなたの星は、あなたのもの』
リリアーナの指先に、小さな光が灯る。
その光は窓辺の白百合を淡く照らし、やがて静かに消えていった。
王国が管理しようとした星は、もう王国の祭壇には戻らない。
そしてリリアーナ自身もまた、誰かの役目としてではなく、自分の意思で歩き始めようとしていた。
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