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婚約破棄された悪役令嬢ですが、処刑台の上で敵国皇帝に求婚されました 〜私を捨てた王国は滅びかけていますが、もう知りません〜  作者: 碓氷さゆ


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第20話 加護は誰のものか

 エルフェルト公爵邸に、年配の下級神官が訪れたのは、夜の帳が王都を包み始めた頃だった。

 王宮へ向かう支度をしていたギルベルトは、その報せを聞いて眉をひそめた。

 神殿からの使者なら、すでに昼間に来ている。リリアーナの私物を確認したいなどという、あまりにも不自然な名目で。

 今度は何だ。

 そう思いながら応接室へ入ると、そこにいたのは、上層部の使者らしい華やかな神官ではなかった。古びた法衣をまとい、白髪の混じった髪を後ろで束ねた、地味な男だった。

 男はギルベルトを見るなり、深く頭を下げた。


「エルフェルト公爵閣下。突然の訪問、誠に申し訳ございません」

「名は」

「ユリウスと申します。王都大聖堂の記録管理補佐を務めております」


 記録管理。

 その言葉に、ギルベルトの目が鋭くなる。


「神殿がリリアーナの私物を探している件か」

「……はい」


 ユリウスの顔が強張った。

 ギルベルトは向かいの椅子を示す。


「座れ。話を聞く」

「ありがとうございます」


 ユリウスは腰を下ろしたが、落ち着かない様子だった。膝の上で両手を固く握りしめ、何度も唇を湿らせる。

 それだけで、この男が神殿上層部の正式な命を受けて来たのではないことは分かった。

 ギルベルトは低く問う。


「お前は、神殿の何を見た」

「……星霜の加護に関する古い記録です」


 その名が出た瞬間、室内の空気が変わった。

 ギルベルトは目を細める。


「続けろ」

「王都大聖堂の奥に、封印された記録書がございます。長らく閲覧が制限されていたものです。今日、神官長猊下がそれを開かれました」

「内容は」

「星霜の加護を宿す者が王国の地を離れた時、土地の巡りが乱れ、隠されていた穢れが露わになる、と」


 ギルベルトの拳が、膝の上で固く握られる。

 リリアーナが残した記録。

 北部農地の異変。

 井戸水の濁り。

 神殿修復費の不自然な流れ。

 すべてが一本の線になり始めていた。


「神殿は、それを知っていたのか」

「少なくとも、上層部は存在を知っていた可能性があります。ただ、詳細は長く封じられていたようです。私のような下級の記録係には閲覧が許されませんでした」

「では、なぜ今になって」

「リリアーナ様が皇国へ渡られ、北部の異変が一気に表面化したからです。それに……」


 ユリウスは、声を落とした。


「ミリア様の祈りが、穢れを鎮められなかった」

「神殿はどう判断した」

「表向きは、ミリア様が穢れを浮かび上がらせたと説明するつもりのようです。しかし記録書には、別の記述がありました」

「何と」

「偽りの光は、眠る穢れを乱す、と」


 ギルベルトは息を止めた。

 偽りの光。

 それがミリアの力を指すのかどうかは、まだ断定できない。

 だが、神殿がそれを知った上でミリアを聖女として立てようとしているなら、話はまるで変わる。


「神官長は、それを隠すつもりか」

「はい」


 ユリウスの声が震えた。


「星霜の加護の存在が公になれば、ミリア様を聖女候補に推した神殿の判断が疑われる。王太子殿下の断罪も揺らぐ。神殿の権威が落ちると」

「それで、リリアーナの私物を求めたのか」

「はい。黒曜石と金の星飾り、白百合のハンカチ、古い聖堂記録。星霜の加護を確認できるものを、先に押さえるつもりです」

「何のために」

「神官長猊下は、管理するためだと」


 管理。

 その言葉に、ギルベルトの奥歯が軋んだ。

 リリアーナを悪役令嬢として断罪し、処刑台へ立たせ、今度は加護を管理すると言う。

 人ではなく、力として。

 娘ではなく、王国の資源として。


「……ふざけるな」


 低い声が、応接室に落ちた。

 ユリウスがびくりと肩を震わせる。

 ギルベルトは、ゆっくりと立ち上がった。


「王家は娘を信じなかった。神殿は娘の力を隠し、偽りの聖女を立てた。そして今度は、娘の思い出まで奪おうというのか」

「公爵閣下……」

「ユリウス。お前はなぜ私に知らせた」

「私は、リリアーナ様を直接よく存じ上げているわけではありません。ただ、記録室で何度かお見かけしました。聖堂修復費の資料を確認され、古い結界石の記録を調べておられました。若い令嬢がそこまで調べるのかと、不思議に思っておりました」


 ユリウスは、深く息を吸った。


「その方が、悪女として処刑されかけた。最初は、私も神殿の発表を信じようとしました。ですが記録を見れば見るほど、罪とされたものは、むしろリリアーナ様が神殿の不正や歪みに気づいた証拠ばかりです」


 彼は震える手で、小さな紙片を差し出した。


「これは、記録書の一部を書き写したものです。原本は神官長猊下が封じ直しました」

「危険を冒したな」

「はい。ですが、黙っていれば、神殿はまた同じことをします」


 ギルベルトは紙片を受け取った。

 古い文体で、そこには星霜の加護について書かれていた。


『星霜の光は、王冠に属さず、祭壇に縛られず。宿りし者の心に従う。これを鎖にて繋がんとする時、星は沈み、地は怒る』


 ギルベルトは、その一文を何度も読んだ。

 王冠に属さず。

 祭壇に縛られず。

 宿りし者の心に従う。

 つまり、星霜の加護は王家のものでも神殿のものでもない。

 リリアーナ自身のものだ。


「神殿は、この一文を見たのか」

「神官長猊下は読んでおられました。ですが、民には知らせぬ方針です」

「都合が悪いからか」

「……はい」


 ギルベルトは紙片を丁寧に畳んだ。


「よく知らせてくれた」

「私は、神殿を裏切ったことになるのでしょうか」

「違う」


 ギルベルトは即答した。


「お前は記録を守った。真実を守った。それは神殿が本来すべきことだ」

「……ありがとうございます」


 ユリウスの目がわずかに潤む。

 ギルベルトは執事を呼び、低く命じた。


「ユリウス殿を客室へ。外には漏らすな。神殿の者が来ても会わせるな」

「承知いたしました」

「旦那様は」

「王宮へ行く」


 ギルベルトは、リリアーナの帳面とユリウスの写しを手に取った。


「今夜のうちに、宰相へ会う」


 王宮の灯りは、夜になっても消えなかった。

 財務局ではまだ文官たちが書類を写し、王太子府ではアルヴィスが苛立ちを募らせ、神殿では神官長が新たな指示を出している。

 そのすべてが、リリアーナの不在によって動いていた。

 いや、正確には。

 リリアーナの不在によって、隠されていたものが動かざるを得なくなっていた。


 ギルベルトが王宮へ到着すると、宰相エドガー・ヴァレン卿はすでに執務室にいた。

 年老いた宰相は、深い疲労を刻んだ顔で書類を読んでいたが、ギルベルトの来訪を聞くと、すぐに通した。


「エルフェルト公。こんな時間に何事だ」

「リリアーナの件です」

「……だろうな」


 宰相は、椅子の背にもたれた。

 その表情には、苦渋があった。


「正直に言おう。王宮は今、ひどい状態だ。財務局からも、法務局からも、神殿からも、矛盾した報告が上がっている。王太子殿下は苛立っておられ、王妃陛下は沈黙を保っている。国王陛下も、皇国との関係悪化を重く見ている」

「リリアーナの冤罪については」

「再調査が必要だ」


 宰相は、短く答えた。

 ギルベルトは目を細める。


「必要、では遅い。すでに処刑台に立たされた」

「分かっている」


 宰相の声にも、かすかな怒りがあった。


「私はあの場にいなかった。だが、報告を読んだ限り、あれは裁きではない。王太子殿下の感情による断罪だ」

「ならば、正式にそう認めるべきです」

「簡単に言う」

「簡単ではありません。だが、しなければ王国は終わる」


 ギルベルトは、リリアーナの帳面を机に置いた。


「これは娘が残した資料です。北部農地、神殿修復費、王太子府予算、ミリア・ロゼットに関する矛盾。すべて、リリアーナは記録していた」

「……見せてもらおう」


 宰相は帳面を開いた。

 読み進めるにつれ、その顔色が変わっていく。


「これは」

「王国が捨てた娘の仕事です」


 ギルベルトの声は低かった。


「私は父として娘を守れなかった。その罪は消えません。ですが、公爵として、これ以上この国が娘の働きまで踏みにじることは許せない」

「エルフェルト公」

「さらに、神殿が星霜の加護に関する記録を隠そうとしています」


 宰相の手が止まった。


「星霜の加護?」

「リリアーナに宿る加護です。皇国側ではすでに確認されたと聞いております。そして王国神殿にも、その記録が残っていた」


 ギルベルトは、ユリウスの写しを差し出した。

 宰相は無言で読み、やがて深く息を吐いた。


「王冠に属さず、祭壇に縛られず……」

「星霜の加護は王家のものでも神殿のものでもない。リリアーナ自身のものです。にもかかわらず神殿は、星飾りや白百合のハンカチを回収し、加護の証を管理しようとしている」

「神殿がそこまで」

「神殿だけではありません。王太子殿下も、王宮も、私も、リリアーナを一人の人間として見ていなかった」


 自分で言って、ギルベルトは胸を抉られるようだった。

 だが、言わなければならなかった。


「王太子妃候補として。公爵令嬢として。政務を支える駒として。加護を持つ存在として。私たちは、あの子に役割ばかり与えた」

「……」

「そして、あの子が無実だと訴えた時、誰も娘として、人として、彼女を見なかった」


 宰相は目を閉じた。

 しばらくして、重く口を開く。


「再調査委員会を設置する」

「王太子殿下の関与も対象に」

「当然だ」

「神殿も」

「当然だ。だが抵抗は大きい」

「構いません。エルフェルト公爵家は証拠を提出します。必要なら、王家と対立することになっても」


 宰相はギルベルトをじっと見た。


「覚悟はあるのか」

「昨日までは、ありませんでした」


 ギルベルトは、はっきりと言った。


「だから娘を失った。二度目はありません」


 宰相は長い沈黙の後、頷いた。


「分かった。私も動く」


 王国の奥で、ようやく歯車が別の方向へ動き始めた。

 しかしそれは、あまりにも遅い始まりだった。


 一方、王太子宮では、アルヴィスが宰相からの呼び出しを受けていた。

 夜も深い時間に、正式な呼び出し。

 それだけで不快だった。


「宰相が私を呼びつけるだと?」


 アルヴィスは低く言った。

 使者の文官は、顔を青ざめさせながら頭を下げる。


「はい。至急、断罪事件に関する確認を行いたいとのことです」

「断罪事件ではない。裁定だ」

「……はい」

「リリアーナの件なら、もう終わった話だ。あの女は敵国へ逃げた」

「ですが、殿下。皇国より正式に証拠開示を求められております。また、エルフェルト公爵家からも」

「父親まで、今さら何を」


 アルヴィスは吐き捨てた。

 だが、胸の奥に不安が生まれている。

 財務局。

 神殿。

 エルフェルト公爵。

 皇国。

 すべてが、リリアーナの名を中心に動き始めている。

 なぜだ。

 なぜ、いなくなった女がこれほど王国を揺らす。


「ミリアは」


 アルヴィスは尋ねた。


「ミリアは今どこにいる」

「神殿でございます。聖女認定式の準備のためと」

「そうか」


 ミリアを正式に聖女にする。

 そうすれば、民は安心する。

 王国には聖女がいる。

 リリアーナなど不要だったと示せる。

 アルヴィスはそう思おうとした。

 だが、昼間のミリアの言葉が耳に残る。


『難しいことは、私には分かりません』


 なぜ、あの言葉がこんなにも引っかかるのか。

 分からなくていいはずだ。

 ミリアは聖女なのだから。

 けれど。

 リリアーナなら、分からないとは言わなかった。

 必要な資料を集め、調べ、答えを出した。

 その答えが耳に痛かったから、自分は彼女を冷たいと言った。

 アルヴィスは拳を握った。


「……黙れ」


 それは誰に向けた言葉でもなかった。

 自分の中で聞こえ始めたリリアーナの声を、黙らせるための言葉だった。


 同じ頃、ヴァレンティス皇国の国境砦では、リリアーナがカイゼルと向き合っていた。

 部屋には、白百合の香りが静かに漂っている。窓の外には星が見え、黒狼の旗が夜風に揺れていた。

 神殿が星飾りと白百合のハンカチを狙っている。

 その報告を聞いたリリアーナは、しばらく黙っていた。

 怒りはあった。

 怖さもあった。

 けれど、それ以上に胸の奥で静かに固まっていくものがあった。


「陛下」

「何だ」

「星飾りは、今も私の荷の中にあります」


 カイゼルの目がわずかに動いた。


「持っていたのか」

「はい。ずっと」


 リリアーナは小さく微笑んだ。


「幼い頃に森で出会った方から預かった、大切なものですから。誰にも渡せませんでした」

「……そうか」


 カイゼルの声が、ほんの少し低くなる。

 リリアーナはクララに頼み、小さな箱を持ってきてもらった。

 箱を開けると、中には黒曜石と金で作られた星飾りが入っていた。

 七年前から、大切にしまっていたもの。

 それを見たカイゼルの表情が、ほんのわずかに揺れた。


「返した方が、よいのでしょうか」


 リリアーナが尋ねると、カイゼルは彼女を見た。


「君はどうしたい」

「……私が?」

「ああ。七年前、私はまた会った時に返せばいいと言った。だが、今それをどうするかは君が選べ」


 選べ。

 その言葉が、胸に深く届く。

 リリアーナは星飾りを見つめた。

 これは、約束の証だった。

 でも今は、それだけではない。

 処刑台で差し伸べられた手。

 皇国で守られた日々。

 自分の力を自分のものだと言えた夜。

 そのすべてに繋がるものになっている。


「では」


 リリアーナは、星飾りを両手で包んだ。


「もう少しだけ、私が持っていてもよろしいですか」

「ああ」

「神殿に奪われないためではなく、私自身の意思で」


 カイゼルの金色の瞳が、柔らかくなる。


「もちろんだ」


 リリアーナは、ほっと息を吐いた。

 その瞬間、星飾りの黒曜石の奥で、小さな光が灯った。

 淡い白い星の光。

 リリアーナの指先から生まれるものと同じ光が、飾りの中で静かに瞬いている。


「これは……」


 クララが息を呑む。

 カイゼルも星飾りを見つめた。

 リリアーナの胸の奥に、不思議な温かさが広がる。

 怖くはなかった。

 まるで、七年前の約束が、今ようやく本当の意味で目を覚ましたようだった。


「星が、応えているのかもしれません」


 リリアーナは小さく呟いた。

 カイゼルが静かに言う。


「ならば、なおさら誰にも渡さない」

「はい」


 リリアーナは星飾りを胸元に抱いた。

 王国が欲しがっているもの。

 神殿が管理しようとしているもの。

 けれど、それは彼女の記憶であり、彼女の選択であり、彼女自身の光だった。


「私は、王国のものではありません」


 リリアーナは、もう一度言った。

 今度は、さっきよりもはっきりと。


「星霜の加護も、神殿のものではありません」

「ああ」

「この星飾りも、白百合のハンカチも、私たちの記憶です」


 カイゼルは、静かに頷いた。


「君がそう言うなら、それが真実だ」


 その言葉に、リリアーナの指先の光が穏やかに灯る。

 星飾りの光と重なり、部屋の中に淡い星屑のような輝きが広がった。

 クララが涙ぐみ、オルガが静かに目を細める。

 カイゼルは、その光の中でリリアーナを見つめていた。

 守るべき命の恩人としてだけではない。

 王国が失った星としてだけでもない。

 彼女自身の意思で光り始めた、一人の女性として。


 そして同じ夜。

 王国神殿の奥で、封じられた記録書の表紙に、細い亀裂が走った。

 神官長はまだ、それに気づいていなかった。

 星霜の加護は、もう祭壇の中には戻らない。

 王冠にも、神殿にも、誰の手にも縛られない。

 失われた星は今、黒狼皇帝の国で、自分の名を取り戻そうとしていた。

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