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婚約破棄された悪役令嬢ですが、処刑台の上で敵国皇帝に求婚されました 〜私を捨てた王国は滅びかけていますが、もう知りません〜  作者: 碓氷さゆ


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19/60

第19話 戻らぬ令嬢の書類

 グランベルク王国の財務局は、朝から重苦しい沈黙に包まれていた。

 普段なら、文官たちが羽根ペンを走らせる音、書類をめくる音、使いの者が出入りする足音が規則正しく響いている。だが今日は違った。

 誰もが机の上の書類を前に、顔色を悪くしている。

 来月の国庫支出案。

 北部農地への緊急補助。

 聖堂修復費の再配分。

 隣国との穀物輸入交渉に関する費用計画。

 王太子主催の慈善式典の予算。

 それらは、すべて繋がっていた。

 どこか一つを動かせば、別の場所が崩れる。聖堂への寄付を減らせば神殿が反発し、式典費を削れば王太子府が顔をしかめる。北部補助を遅らせれば農地が死に、穀物輸入費を削れば来冬の備蓄が足りなくなる。

 その均衡を、これまで誰が保っていたのか。

 財務官マルセル・グリムは、机の前で蒼白な顔をしていた。


「……ない」


 小さな呟きが、書類の山に落ちる。

 そばにいた若い文官が、恐る恐る顔を上げた。


「マルセル様」

「ないのだ。リリアーナ様の最終調整案が、どこにもない」


 財務局の空気がさらに重くなる。

 リリアーナ・エルフェルト。

 ほんの数日前まで、王太子妃候補として王宮に出入りしていた公爵令嬢。冷静で、隙がなく、少し近寄りがたいと言われていた令嬢。

 そして今は、冤罪で処刑されかけ、敵国皇帝に保護された令嬢。

 彼女がいなくなった途端、財務局は自分たちがどれほど彼女に頼っていたのかを思い知らされていた。


「ですが、マルセル様。下書きや途中案なら、こちらにいくつか」


 若い文官が、震える手で束ねられた書類を差し出す。

 マルセルはそれを受け取り、素早く目を通した。

 リリアーナの文字だった。

 几帳面で美しい筆跡。

 余白には、細かな注釈がびっしりと書き込まれている。


『王太子府主催の慈善式典費は二割削減可能。ただし、名目を北部支援へ変更すれば体面を損なわずに済む』

『神殿修復費は第三聖堂より北部支部を優先。王都の正面聖堂は外壁装飾より結界石の点検が先』

『北部農地の井戸水に濁りあり。祈祷だけでは不十分。水路補修費を前倒しすること』

『隣国からの穀物輸入は、今期中に仮契約を結ぶべき。来冬に入ってからでは価格が跳ね上がる』


 マルセルは、読み進めるほどに呼吸が浅くなった。

 リリアーナは、分かっていたのだ。

 北部の異変を。

 神殿の修復費の優先順位を。

 王太子府の見栄のために削られようとしていた予算を。

 来冬の食糧不足の可能性まで。

 すべて、見ていた。

 見ていた上で、黙って調整していた。


「……なぜ」


 マルセルは、紙面を見つめたまま呟いた。


「なぜ、これを正式に取り上げなかった」


 若い文官は答えられなかった。

 マルセル自身にも、答えは分かっていた。

 リリアーナが王太子妃候補だったからだ。

 正式な財務官ではなかったからだ。

 そして何より、彼女がいつも静かに整えてしまうからだ。

 彼女がどれほどの労力をかけていたのか、誰も見ようとしなかった。

 リリアーナ様なら、きっと直してくださる。

 リリアーナ様なら、殿下のお顔を立てながら調整してくださる。

 リリアーナ様なら、神殿にも貴族院にも角が立たない形にしてくださる。

 そう思っていた。

 それがどれほど無責任な依存だったのか、今になって突きつけられている。


「マルセル様、こちらを」


 別の文官が、古い革表紙の帳面を持ってきた。


「リリアーナ様が財務局へ預けていた補助計画の控えです。正式文書ではありませんが、参考資料として保管されていました」

「すぐに見せろ」


 マルセルは帳面を開いた。

 そこには、北部農地の収穫量、井戸水の状態、近年の魔物出没数、神殿支部の祈祷記録まで、細かくまとめられていた。

 彼は途中で手を止める。

 ある一文に目が留まった。


『土地の力が弱まっている可能性あり。神殿の報告のみを信じず、実地調査が必要。穢れの蓄積があるなら、補助金だけでは足りない』


 マルセルの背筋に、冷たいものが走った。

 土地の力。

 穢れの蓄積。

 リリアーナは、星霜の加護という名を知らずとも、何かを感じ取っていたのではないか。


「……王国は、何をした」


 マルセルの口から、掠れた声が漏れた。

 文官たちが彼を見る。

 彼は帳面を閉じ、深く息を吸った。


「この資料を写せ。すべてだ。王太子府へ出すもの、宰相府へ回すもの、エルフェルト公爵へ渡すものに分ける」

「エルフェルト公爵へ、ですか?」

「ああ」


 マルセルの声は固かった。


「リリアーナ様が何をしていたのか、あの方も知らねばならない」


 若い文官は頷きかけ、すぐに不安げな顔になる。


「ですが、王太子殿下は、リリアーナ様の名前を出すことをお嫌がりです」

「ならば、名前を出されて困るほどのことをなさらなければよかったのだ」


 普段のマルセルなら、絶対に口にしない言葉だった。

 文官たちが息を呑む。

 マルセル自身も、自分が言ったことに少し驚いた。だが、取り消す気にはならなかった。

 リリアーナは処刑されかけた。

 証拠もなく。

 正式な調査もなく。

 王国に尽くしてきた働きさえ無視されて。

 それを見て見ぬふりをしたまま、王国の財務など守れるはずがない。


「急げ」


 マルセルは言った。


「北部補助は、リリアーナ様の案をもとに再構成する。式典費は削る。神殿修復費も見直す」

「王太子府が反発します」

「するだろうな」

「神殿も黙っていないかと」

「黙っていないだろう」


 マルセルは、疲れたように笑った。


「だが、民が飢えてからでは遅い」


 その言葉に、文官たちの顔が引き締まる。

 ようやく、財務局が動き出した。

 だが、それは王国がリリアーナを失って初めて始まった、遅すぎる動きだった。


 同じ頃、王太子宮では、アルヴィスが苛立たしげに歩き回っていた。

 机の上には、財務局から戻された書類が積まれている。

 どれもこれも、修正が必要だという報告ばかりだった。

 北部補助を優先すべき。

 慈善式典費を削減すべき。

 神殿修復費の一部を見直すべき。

 隣国との穀物交渉を急ぐべき。

 そのどれもが、まるでリリアーナの声で語られているようだった。


『殿下、その支出は見栄に過ぎます』

『北部補助を遅らせれば、来年の税収にも影響します』

『民の生活を数字で軽く扱ってはなりません』


 アルヴィスは、苛立ちを込めて書類を払いのけた。


「なぜ、まだあの女の影が残っている」


 誰もいない部屋で呟く。

 リリアーナはもういない。

 婚約は破棄した。

 罪人として裁いた。

 敵国皇帝に連れていかれた。

 それなのに、王宮のどこを見ても彼女の痕跡が残っている。

 財務局の書類。

 神殿の修復計画。

 地方補助。

 王太子府の公務予定。

 まるで、王宮そのものがリリアーナに支えられていたかのようだった。

 そんなはずはない。

 アルヴィスは奥歯を噛みしめる。

 あの女は冷たかった。

 いつも正しい顔をして、アルヴィスを責めるようなことばかり言った。

 ミリアのように笑いかけてはくれなかった。

 感謝も、称賛も、愛らしい涙もなかった。

 ミリアは違う。

 彼女は自分を信じ、頼り、見上げてくれる。

 守ってあげなければと思わせてくれる。

 王太子である自分が選んだのは、間違いではない。

 そう思おうとした時、扉が控えめに叩かれた。


「殿下、ミリア様がお越しです」

「通せ」


 ほどなくして、ミリアが入ってきた。

 白いドレスに淡い金髪。

 儚げな表情。

 いつもなら、彼女を見るだけでアルヴィスの胸は和らいだ。

 だが今日は、どこか違った。

 ミリアの目元には、疲れと焦りが滲んでいる。それでも彼女は、いつものように可憐に微笑んだ。


「アルヴィス様……お忙しいのに、お呼び立てしてごめんなさい」

「いや、構わない」


 アルヴィスは彼女へ歩み寄る。


「神殿での祈りはどうだった」


 ミリアの肩が、わずかに跳ねた。


「ええと……神官様たちは、私の祈りで北部の穢れが浮かび上がったと」

「そうか。やはり君は聖女だ」


 アルヴィスは即座に言った。

 ミリアは一瞬だけほっとしたように笑う。


「はい。私、もっと頑張ります。王国の皆様のために」


 その言葉は、聖女候補らしく美しかった。

 だが、アルヴィスはふと机の上の書類を見る。

 北部補助。

 井戸水の濁り。

 穀物輸入。

 水路修復。

 祈りだけでは足りないと、財務官は言っていた。

 アルヴィスは、無意識に尋ねていた。


「ミリア。北部への補助について、君はどう思う」

「え?」


 ミリアの瞳が揺れる。


「北部、ですか?」

「ああ。財務局は、式典費を削ってでも北部補助を急ぐべきだと言っている」

「まあ……」


 ミリアは困ったように眉を下げた。


「難しいことは、私には分かりません。でも、民の皆様が苦しんでいるなら、祈ることが一番大切なのではないでしょうか」

「祈り」

「はい。お金のことは、財務官様や文官様が考えてくださるでしょう? 私は、皆様の心に寄り添いたいです」


 いつものアルヴィスなら、その言葉に感動したかもしれない。

 リリアーナは数字ばかりだった。

 ミリアは心を見ている。

 そう思ったかもしれない。

 だが今、アルヴィスの胸には別の感情が生まれた。

 では、具体的に何をするのか。

 祈りで井戸水は澄むのか。

 祈りで水路は直るのか。

 祈りで穀物の輸入契約は結べるのか。

 そう考えた瞬間、彼は自分に苛立った。

 なぜリリアーナのような考え方をしている。

 ミリアは聖女なのだ。

 数字や契約に縛られる必要はない。


「そうだな」


 アルヴィスは、無理に微笑んだ。


「君は祈ればいい。難しいことは、こちらで処理する」

「はい」


 ミリアは安心したように微笑む。

 その笑顔を見ても、アルヴィスの苛立ちは完全には消えなかった。

 ミリアは悪くない。

 そう思う。

 悪いのは、リリアーナだ。

 いなくなってもなお、王宮に影を落としているあの女が悪い。

 そう思わなければ、アルヴィスは自分の選択が間違っていたかもしれないという恐ろしい考えに飲み込まれそうだった。


 エルフェルト公爵邸では、ギルベルトがリリアーナの書斎に入っていた。

 主のいない部屋は、静かだった。

 机の上は整えられている。

 本棚には、政務資料、神殿関係の古文書、地方報告、王妃教育で使った礼法書が並んでいる。

 華やかな令嬢の部屋というより、若い文官の執務室に近い。

 ギルベルトは、かつてこの部屋を何度も見ていたはずだった。

 だが、きちんと見たことはなかったのだと、今になって気づく。

 娘はここで、何を抱えていたのか。

 机の引き出しを開けると、数冊の帳面が出てきた。

 一冊目には、王太子府の公務予定と、その裏に必要な根回しが書かれていた。

 二冊目には、ミリア・ロゼットに関する記録があった。

 ギルベルトは、手を止める。

 リリアーナは、ミリアを一方的に嫌っていたわけではなかった。

 帳面には、ミリアの発言、行動、周囲の証言、矛盾点が冷静に記されている。


『ミリア様は階段から落ちたと主張。ただし当日、私は第三会議室にて神官長補佐と面談。出席者三名。時刻確認可能』

『毒入り菓子の件。菓子は王太子府を経由。ミリア様付き侍女が受け取り。私が直接触れた記録なし』

『聖堂不敬の件。実際には修復費の不明瞭な流れについて質問。神官長補佐が不快感を示す』

『殿下はミリア様の涙を重視。証拠提示を求めると、冷たいと評される』


 ギルベルトは、ページをめくる手が震えるのを感じた。

 リリアーナは、ずっと分かっていた。

 自分が陥れられていることを。

 しかし、感情的に訴えるのではなく、証拠を集めようとしていた。

 それを誰も聞かなかった。

 父である自分さえ。


「……リリアーナ」


 ギルベルトは、娘の名を呟いた。

 その時、執事が扉の外から声をかける。


「旦那様。財務官マルセル様より、至急の文書が届いております」

「入れ」


 執事が差し出した封書には、財務局の印があった。

 開くと、中にはリリアーナの残した北部補助計画の写しと、マルセルの手紙が入っていた。


『エルフェルト公爵閣下。リリアーナ様が残された資料を確認し、王国財務において極めて重要な示唆が含まれていると判断いたしました。王太子府の判断のみでは危険と考え、閣下にも共有いたします』


 ギルベルトは読み進める。

 北部農地の異変。

 神殿修復費の不自然な流れ。

 王太子府の過剰支出。

 リリアーナが提出予定だった最終調整案の不在。

 そして最後に、マルセルの筆跡でこう書かれていた。


『我々は、リリアーナ様をただの王太子妃候補として扱いすぎました。実際には、彼女は王国の歪みを誰より早く見つけ、静かに補修していたのだと思われます』


 ギルベルトは、目を閉じた。

 補修していた。

 王国の歪みを。

 静かに。

 それは、星霜の加護そのもののようだった。

 娘は、力を知らずとも、同じことをしていたのだ。

 国の綻びを見つけ、誰にも気づかれないように直していた。

 そして王国は、その娘を悪役令嬢と呼んだ。

 ギルベルトは手紙を握りしめる。


「王宮へ行く」


 執事が驚いた顔をする。


「今からでございますか」

「ああ」

「旦那様、王太子殿下との関係が」

「構わん」


 ギルベルトの声は低かった。


「私は昨日まで、そればかり気にしていた。その結果、娘を失った」


 執事は何も言えなかった。

 ギルベルトは、リリアーナの帳面を丁寧に閉じる。


「今度は、あの子が残したものを無駄にしない」


 王宮へ向かう支度が始まった。


 その頃、王国神殿の奥では、神官長が一冊の古い記録書を前にしていた。

 羊皮紙の端は黒ずみ、文字はところどころ擦れている。

 だが、そこに書かれた一節は、はっきりと読めた。


『星霜の加護を宿す者、王国の地を離れる時、巡りは乱れ、隠されし穢れは露わとなる』


 神官長は、眉間に深い皺を刻んだ。

 その横には、ミリアを聖女候補として推していた若い神官が立っている。


「神官長猊下、これは」

「見なかったことにしなさい」


 神官長は低く言った。

 若い神官の顔が強張る。


「しかし、リリアーナ様が本当に星霜の加護を」

「黙りなさい」


 神官長の声が冷える。


「今さらそのようなことが公になれば、王国神殿はどうなる。ミリア様を聖女候補として認定した我々の判断が疑われる。王太子殿下の断罪も揺らぐ。神殿の権威は地に落ちる」

「ですが、北部の穢れは実際に」

「だからこそ、ミリア様を正式な聖女として立てる必要がある」


 神官長は記録書を閉じた。


「民には分かりやすい光が必要だ。星霜の加護などという古い力ではなく、聖女という象徴が必要なのだ」

「では、リリアーナ様は」

「戻す」


 若い神官が息を呑む。

 神官長の目は冷たかった。


「戻らぬなら、加護の証だけでも回収する。星飾り、白百合のハンカチ、彼女が触れていた古い聖堂記録。何でもよい。星霜の加護を確認できるものを手に入れなければならない」

「何のために」

「管理するためだ」


 神官長は当然のように言った。


「加護は個人のものではない。王国のものだ」


 その言葉は、静かな祭具室に重く響いた。

 だが、その会話を扉の外で聞いていた者がいた。

 年配の下級神官だった。

 彼は顔を青ざめさせ、音を立てないようにその場を離れる。

 向かう先は、王宮ではない。

 エルフェルト公爵邸だった。


 夜が近づく頃、ヴァレンティス皇国の国境砦にも、新たな報告が届いていた。

 ラウルが、カイゼルの執務室へ入る。


「陛下。王国神殿内で動きがありました」


 カイゼルは書類から顔を上げる。


「言え」

「神殿上層部が、星霜の加護に関する記録を隠蔽しようとしています。それから、リリアーナ様の星飾りや白百合のハンカチを回収しようとしているようです」


 カイゼルの瞳が、一瞬で冷えた。


「予想通りだな」

「ええ。あと、王国内の下級神官の一人がエルフェルト公爵家へ向かったとの情報も」

「ギルベルトへ?」

「おそらく、神殿の動きを知らせるつもりでしょう」


 カイゼルは少しだけ考えた。


「放っておけ。ギルベルトがどう動くか見る」

「よろしいので?」

「あの男は、今度こそ娘を守ると言った。ならば、その言葉が本物か確かめる機会だ」


 ラウルは小さく頷く。


「承知しました」

「リリアーナには」


 カイゼルは一瞬、言葉を切った。

 リリアーナはようやく少し眠れるようになったばかりだ。

 父との対話を終え、星霜の加護を知り、自分の力への不安も抱えている。

 王国神殿が彼女を狙っている。

 その事実を知らせるべきか。

 隠すべきか。

 少し前のカイゼルなら、守るためにすべて伏せたかもしれない。

 だが、オルガに言われた。

 選ばせることが必要だと。

 カイゼルは目を伏せ、短く息を吐く。


「……知らせる」


 ラウルは、少しだけ笑った。


「リリアーナ様なら、隠されるよりその方がいいかと」

「分かっている」

「陛下も成長されましたね」

「ラウル」

「はい、黙ります」


 ラウルは軽く頭を下げた。

 カイゼルは立ち上がる。

 リリアーナの部屋へ向かうために。

 守るだけでは足りない。

 彼女を閉じ込めて守るのでは、王国と同じだ。

 彼女に知らせる。

 そして、選ばせる。

 カイゼルは、そう決めた。


 その頃、リリアーナは窓辺で星を見ていた。

 皇国の空は、王国よりも澄んでいる。

 夜の色が深く、星の光が近い。

 指先に、淡い光が灯る。

 怖くはなかった。

 まだ不安はある。

 けれど、この光が自分の中にあるものなら、向き合わなければならない。

 リリアーナは、そっと手を胸に当てた。


「私は、王国のものではない」


 小さく呟く。

 それは誰に聞かせるためでもない、自分自身への言葉だった。


「この力も、私のもの」


 星の光が、ほんの少しだけ強くなる。

 その時、扉が叩かれた。


「リリアーナ。私だ」


 カイゼルの声だった。

 リリアーナは振り返る。


「どうぞ」


 扉が開き、黒衣の皇帝が入ってくる。

 その表情を見た瞬間、リリアーナは何かが起きたのだと分かった。


「陛下」

「神殿が動いた」


 カイゼルは隠さなかった。

 リリアーナの胸が、静かに冷える。


「私を、ですか」

「ああ。星飾りと白百合のハンカチを狙っている。星霜の加護の証を押さえるつもりだろう」


 リリアーナは、自分の手を見つめた。

 星飾り。

 七年前、カイゼルがくれた約束の証。

 白百合のハンカチ。

 七年前、自分がカイゼルを助けた記憶。

 それすら、王国神殿は利用しようとしている。

 胸の奥に、静かな怒りが生まれた。


「……嫌です」


 リリアーナは呟いた。

 カイゼルが彼女を見る。


「星飾りも、ハンカチも、神殿に渡したくありません」


 声は震えていなかった。


「それは、私と陛下の記憶です。王国や神殿が、勝手に意味を決めてよいものではありません」


 カイゼルの金色の瞳が、わずかに揺れた。


「そうだ」


 低く、けれど確かな声だった。


「渡さない」


 リリアーナは顔を上げる。

 まだ怖い。

 神殿が何をするのか分からない。

 王国が何を求めてくるのかも分からない。

 けれど、自分の大切なものを大切だと言うことはできた。

 それは、昨日までの自分より少しだけ前に進めた証のように思えた。

 カイゼルは、静かに手を差し出した。

 リリアーナはその手を見つめる。

 処刑台で差し出された手。

 馬車で支えてくれた手。

 皇国へ導いてくれた手。

 今度は、自分からその手を取った。

 カイゼルの手が、そっと彼女の指を包む。

 力強いが、決して逃がさないための力ではない。

 支えるための手だった。


「君のものは、君が守る」


 カイゼルは言った。


「私も共に守る」


 リリアーナは、小さく頷いた。


「はい」


 窓の外で、星が静かに瞬いていた。

 王国が失った星は、もう処刑台の上にはいない。

 黒狼皇帝の隣で、自分自身の光として、少しずつ灯り始めていた。

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