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婚約破棄された悪役令嬢ですが、処刑台の上で敵国皇帝に求婚されました 〜私を捨てた王国は滅びかけていますが、もう知りません〜  作者: 碓氷さゆ


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第18話 王国の綻び

 グランベルク王国の王宮は、その日、朝から異様な空気に包まれていた。


 表向きは、いつもと変わらない。


 白大理石の廊下には朝日が差し込み、使用人たちは無言で床を磨き、王宮庭園では春の終わりの薔薇が美しく咲いている。

 楽師たちは午後の茶会に備えて調律を始め、貴族たちはいつものように噂を交わしながら王宮へ出入りしていた。


 けれど、その整えられた美しさの下で、確実に何かが狂い始めていた。


 最初に悲鳴を上げたのは、財務局だった。


「この書類、数字が合っていません!」


 若い文官の声が、財務局の一室に響く。


 机の上には、山のような書類が積み上がっていた。

 来月の国庫支出案。

 北部農地への補助金配分。

 聖堂修復費の再調整。

 隣国との穀物輸入交渉に関する費用計画。

 王太子主催の慈善式典の予算。


 そのすべてが、中途半端な状態で止まっている。


 財務官マルセル・グリムは、蒼白な顔で一枚の書類を握りしめていた。


「違う……ここは、この数字では駄目だ。北部の収穫見込みが下がっているから、補助金を前倒ししなければならない。だが、その分をどこから削るか……」


「マルセル様、リリアーナ様の修正案は見つかりませんか?」


「ない!」


 マルセルは、ほとんど叫ぶように答えた。


「昨夜、舞踏会の前に持参されるはずだったのだ。だが、その前にあの断罪騒ぎが起きた。リリアーナ様の私室にも、公爵家の控え室にも、最終案はない」


 文官たちの顔が青ざめる。


 リリアーナ・エルフェルトは、正式な財務官ではなかった。


 王太子妃候補として、将来の王妃教育の一環で政務補助に関わっていただけ。

 表向きはそういう扱いだった。


 だが実際には、彼女の手が入らなければ、王太子関連の予算はまともに回らなかった。


 アルヴィスが見栄を張って増やした慈善式典の費用。

 貴族派閥への顔つなぎの贈答費。

 神殿への寄付金。

 地方領主からの陳情。

 そして、ミリア・ロゼットを聖女候補として広く披露するための儀礼費。


 それらは、リリアーナが裏で少しずつ調整していた。


 どこを削れば反発が少ないか。

 どの派閥には先に説明を入れるべきか。

 どの領地は今年本当に危ないのか。

 どの神殿支部の修復費は急ぎで、どこは来期に回せるのか。


 彼女は、それを知っていた。


 いや、調べていた。


 当たり前のように。


 マルセルは、机の上に置かれた未整理の資料を見て、頭を抱えた。


「なぜ我々は、リリアーナ様がいる前提で仕事を組んでいた……」


 誰も答えられなかった。


 当たり前だったからだ。


 リリアーナはいつも静かに処理していた。

 文句を言わず、恩に着せず、期限前に整えた。

 だから誰も、その働きの大きさを正しく数えようとしなかった。


 そこへ、王太子アルヴィスが足早に入ってきた。


「まだ終わらないのか」


 その声に、文官たちは一斉に頭を下げる。


 マルセルも慌てて礼をしたが、顔色は悪いままだった。


「殿下。現状では、来月の支出案を確定できません」


「なぜだ。お前たちは財務局の者だろう」


「はい。ですが、こちらの案件は王太子府、神殿、貴族院、地方補助が複雑に絡み合っており、リリアーナ様が最終調整を担当されていました」


 その名を聞いた瞬間、アルヴィスの眉が跳ねる。


「またリリアーナか」


 室内の空気が凍る。


 アルヴィスは苛立ちを隠さず言った。


「どこへ行っても、誰も彼もリリアーナ、リリアーナ。あの女がいなければ何もできないのか」


 誰も答えなかった。


 答えは、机の上の書類が示していた。


 アルヴィスはそれを認めたくないのだろう。

 彼は一枚の書類を乱暴に手に取った。


「こんなもの、数字を入れ替えれば済む話だろう」


「殿下、お待ちください。その書類は北部農地への補助金案で」


「北部ばかりに金を回す必要があるのか。王都での聖女披露式典を控えているのだぞ」


 マルセルの顔が引きつった。


「しかし、北部の農地は今年、すでに不作の兆候が」


「毎年のことだろう」


「今年は違います。井戸水の濁り、麦の発育不良、魔物被害の増加。複数の報告が上がっております」


「ならば地方領主に対応させろ」


「領主だけでは限界です。リリアーナ様は、昨年から今年にかけて北部の土壌変化を予測されており、補助金の前倒しを」


「リリアーナの名を出すなと言っている!」


 アルヴィスが机を叩いた。


 インク瓶が倒れ、書類に黒い染みが広がる。


 文官の一人が小さく悲鳴を上げた。


 マルセルの顔が完全に青ざめる。


「殿下、その書類は隣国へ送る写しで」


「また作れ」


「それが、原本にリリアーナ様の注釈が」


 アルヴィスは文官たちを睨んだ。


「お前たちは、王太子である私より、あの女の走り書きの方が大事なのか」


 誰も答えなかった。


 けれど、沈黙は雄弁だった。


 アルヴィスは唇を噛む。


 胸の奥に、苛立ちとは別の感情が湧き上がっていた。


 焦り。


 認めたくない。

 だが、リリアーナがいなくなった王宮は、明らかに歪み始めている。


 彼女は冷たい女だった。

 理屈ばかりで、可愛げがなく、いつも正しい顔をしてアルヴィスに口を出した。


 そう思っていた。


 けれど今、その“正しさ”が消えた途端、誰も道筋を示せなくなっている。


 アルヴィスは、それを認めたくなかった。


「ミリアなら」


 ふと、彼は呟いた。


 マルセルが顔を上げる。


「殿下?」


「ミリアなら、民のために祈れる。聖女の祈りがあれば、不作など」


 マルセルの表情が、さらに曇った。


「殿下。農地補助は祈りだけでは」


「黙れ」


 アルヴィスは言い捨てた。


「聖女の力を侮るな」


 そう言って、彼は財務局を出ていった。


 だが、廊下へ出た瞬間、足取りはわずかに乱れた。


 聖女の力。


 ミリアは確かに、儚く優しく、民に寄り添える少女だ。

 アルヴィスを頼り、見上げ、感謝し、涙を浮かべてくれる。


 だが。


 彼女は、あの膨大な書類を前にして、何ができるのだろう。


 その考えが頭をよぎり、アルヴィスは強く打ち消した。


 ミリアはリリアーナとは違う。

 彼女は人の心を癒やす。

 冷たい数字や書類ではなく、民の痛みに寄り添うことができる。


 そうだ。


 王国に必要なのは、リリアーナではない。

 ミリアなのだ。


 アルヴィスは、そう自分に言い聞かせた。


 一方その頃、王宮内の聖堂では、ミリア・ロゼットが神官たちに囲まれていた。


 白い聖女候補の衣装。

 淡い金髪。

 潤んだ瞳。


 彼女はいつものように儚げに立っていたが、内心は穏やかではなかった。


「ミリア様。北部より、祝福の祈りを求める使者が来ております」


 神官の一人が言う。


「井戸水の濁りと、麦の生育不良が深刻化しているとか。聖女候補であるミリア様に、ぜひ祈りを捧げていただきたいとのことです」


「わ、私が……?」


 ミリアは不安げに目を伏せた。


「もちろんでございます。ミリア様は王太子殿下に選ばれた、次代の聖女候補であらせられますから」


 その言葉に、ミリアの胸は甘く震えるはずだった。


 王太子に選ばれた。

 リリアーナではなく、自分が。


 それは彼女がずっと望んできたことだ。


 だが、状況は思っていたものと違っていた。


 リリアーナが処刑されれば、すべて終わるはずだった。

 悪役令嬢は裁かれ、ミリアは可哀想な被害者として王太子に守られ、聖女候補として輝く。


 そうなるはずだった。


 なのに、リリアーナは死ななかった。


 敵国皇帝に救われた。

 皇国へ連れていかれた。

 しかも、王国中でリリアーナが実は重要な政務を支えていたという話が広がり始めている。


 さらに、北部の異変。


 聖堂内では、神官たちが慌てていた。


 以前なら、春の終わりになると土地が静まるような祝福の気配があったという。

 それが今年は弱い。

 いや、リリアーナが王都を離れた日から、急に薄れたようだと囁く者までいる。


 冗談ではなかった。


 そんな力がリリアーナにあったはずがない。


 聖女は自分だ。

 ヒロインは自分のはずだ。


 ミリアは、ぎゅっと拳を握った。


「ミリア様?」


 神官が心配そうに覗き込む。


 ミリアはすぐに儚い笑みを作った。


「ごめんなさい。少し、緊張してしまって」


「まあ、なんとお可愛らしい。ですが、ご安心ください。女神様はミリア様をお選びになったのです」


「……はい」


 女神様は、自分を選んだ。


 そう。


 選ばれたのは、自分。


 リリアーナではない。


「では、祈りを捧げます」


 ミリアは祭壇の前へ進んだ。


 美しい聖堂だった。


 白い石の床。

 高い天井。

 女神像。

 色硝子から差し込む光。


 祭壇の前には、北部の土が入った小さな器と、井戸水の瓶が置かれている。

 それに向けて祈りを捧げれば、聖女の力によって土地が清められる。


 神官たちはそう期待していた。


 ミリアは両手を組み、目を閉じる。


 女神様。

 どうか、私に力を。


 私は選ばれたの。

 王太子殿下に愛される、正しい聖女なの。


 だから、力を。


 祈る。


 祈る。


 けれど、何も起こらなかった。


 色硝子の光が、静かに祭壇を照らしているだけだった。


 ミリアの背中に、冷たい汗が滲む。


 神官たちの空気がわずかに揺れた。


「ミリア様……?」


「ま、まだです」


 ミリアは慌てて言った。


「少し、集中が」


 もう一度目を閉じる。


 今度こそ。

 今度こそ、光を。


 リリアーナには出せない、聖女の光を。


 ミリアは必死に祈った。


 すると、手のひらに淡い光が灯った。


 神官たちが息を呑む。


「おお……!」


 ミリアは内心で安堵した。


 ほら。

 やっぱり私は聖女だ。


 そう思った瞬間、祭壇の上に置かれた井戸水が、かすかに黒く濁った。


 誰もすぐには気づかなかった。


 だが、近くにいた年配の神官だけが眉をひそめる。


「……今、水が」


「え?」


 ミリアの光が揺らぐ。


 次の瞬間、器の中の北部の土から、黒い煙のようなものが細く立ち上った。


 神官たちがざわめく。


「瘴気?」


「なぜ祈りの場で」


「ミリア様の光が、土の穢れに反応したのでは?」


 若い神官がそう言った。


 ミリアはすぐにその言葉に縋った。


「そ、そうです。きっと、穢れが強すぎるのです。私の祈りで、穢れが浮かび上がったのです」


 神官たちは顔を見合わせた。


 そういう解釈もできる。


 だが、年配の神官は黙っていた。


 彼は、かつて神殿の古文書で読んだ一節を思い出していた。


 真の星の加護は穢れを鎮める。

 偽りの光は、眠る穢れを乱す。


 まさか。


 彼はミリアを見る。


 ミリアは青ざめながらも、必死に聖女らしい表情を保っていた。


「私、もっと祈ります。北部の皆様のために」


 その声は震えていた。


 神官たちは、感動したように頷く者と、不安を隠せない者に分かれた。


 聖堂の奥。


 誰もいない古い祭具室で、封じられていた一冊の記録書が、かすかに光を帯びた。


 星霜の加護。


 その文字が刻まれた古い記録書だった。


 王宮の執務室では、アルヴィスがミリアの祈りの報告を受けていた。


「ミリアの祈りによって、北部の穢れが浮かび上がった、だと?」


「はい、殿下。神官たちはそのように」


 報告に来た神官補佐は、やや曖昧な口調だった。


 アルヴィスは満足げに頷く。


「やはりミリアは聖女だ。リリアーナなどいなくとも、王国はミリアの祈りで守られる」


 そう言ったものの、周囲の反応は鈍かった。


 財務官マルセルは疲れ切った顔で書類を抱えている。

 法務官は、リリアーナの処刑裁定に関する手続きの不備を確認し、顔を青くしている。

 神官補佐も、心から安心しているようには見えない。


 アルヴィスは苛立った。


「何だ、その顔は」


 マルセルが恐る恐る口を開く。


「殿下。祈りは大切でございます。しかし、北部への具体的な補助は別途進めねばなりません」


「また金の話か」


「金の話ではなく、民の食糧の話です」


 思わず強い声になったマルセルに、室内が緊張する。


 アルヴィスが睨む。


「私に意見するのか」


 マルセルは、いつもならすぐに頭を下げていただろう。


 だが、この時は違った。


 彼の脳裏には、リリアーナの姿が浮かんでいた。


 いつも静かに書類を読み、必要な箇所を赤で直し、感情を荒げずに言う。


『マルセル様、ここで削るべきは式典費です。北部補助を遅らせれば、来年の税収にも響きます』


『殿下のお顔を立てるなら、慈善式典は規模を小さくし、名目を北部支援に変えましょう』


『数字は民の生活です。見栄で動かせば、必ず誰かが飢えます』


 あの言葉を、マルセルは何度も聞いていた。


 そのたびに、リリアーナは厳しいと思った。

 若い令嬢なのに、随分とはっきり言うと思った。


 だが今、彼女の言葉が正しかったと痛感している。


 マルセルは、震えながらも頭を上げた。


「殿下。北部補助を遅らせれば、民が飢えます」


 アルヴィスの顔が強張る。


「財務官」


「リリアーナ様は、それを防ぐために予算を組み直しておられました。殿下、どうか今だけは、彼女の残した方針を」


「黙れ!」


 アルヴィスが声を荒げる。


「なぜ誰もがあの女の話をする! リリアーナは罪人だ! 王国を捨て、敵国皇帝の手を取った女だぞ!」


 その叫びは、執務室の外まで響いた。


 廊下にいた使用人たちが身をすくめる。


 けれど、室内の者たちはもう以前のように完全には怯えなかった。


 リリアーナは本当に罪人だったのか。


 その疑問が、少しずつ王宮内に広がり始めていたからだ。


 証拠はまだ出ていない。

 毒入り菓子の現物はない。

 医師の診断書も曖昧。

 ミリアの侍女たちは、なぜか全員が口裏を合わせたような同じ証言しかできない。

 聖堂不敬の記録に至っては、リリアーナの寄付と修復計画の記録ばかりが見つかる。


 そして、リリアーナがいなくなった途端に始まった政務の停滞と北部の異変。


 偶然と片づけるには、あまりにも重なりすぎていた。


 アルヴィスだけが、それを認めようとしなかった。


「ミリアを呼べ」


 彼は低く命じた。


「彼女に祈らせる。王国には聖女がいる。それを民に示せばよい」


 マルセルは、疲れ切った顔で目を伏せた。


 その頃、エルフェルト公爵邸では、ギルベルトが帰還していた。


 屋敷の中は重苦しい空気に包まれていた。


 使用人たちはリリアーナの不在を知っている。

 彼女が処刑されかけたことも、敵国皇帝に保護されたことも、父であるギルベルトが戻すことができなかったことも。


 誰も何も言わなかった。


 だが、沈黙が痛かった。


 ギルベルトは執務室へ入ると、机の上に置かれていた一冊の帳面を見つけた。


 リリアーナの字だった。


 几帳面で美しい文字。


 表紙には、こう書かれている。


『北部農地補助および聖堂修復費再配分案』


 ギルベルトは、震える手でページを開いた。


 そこには、細かな計算と注釈がびっしりと書かれていた。


 各領地の収穫見込み。

 井戸水の異変に関する報告。

 聖堂支部ごとの修復優先度。

 王太子府の不要支出。

 削減可能な式典費。


 そして、余白にリリアーナの言葉があった。


『北部補助は遅らせてはならない。土地の力が弱まっている兆候あり。神殿の祈りだけに頼るのは危険。実際の食糧と水の確保を優先。』


 ギルベルトは、息を呑んだ。


 リリアーナは気づいていた。


 星霜の加護という名を知らずとも、土地の異変に。

 王国が見落としていた綻びに。


 彼女は悪女ではなかった。


 王国を害するどころか、誰よりも王国を守ろうとしていた。


 それなのに。


 ギルベルトは帳面を握りしめる。


 その時、執務室の扉が叩かれた。


「旦那様。神殿より使者が」


「神殿?」


「はい。リリアーナ様の私物について確認したいことがあると」


 ギルベルトの目が鋭くなる。


「私物?」


「白百合の刺繍が入ったハンカチ、もしくは黒曜石と金の星飾りをお持ちではないかと」


 ギルベルトは立ち上がった。


 黒曜石と金の星飾り。


 聞き覚えがあった。


 幼い頃のリリアーナが、宝物のように大切にしていた小さな護符。

 誰からもらったのかと尋ねても、森で助けた人から預かったものだとしか答えなかった。


 あれは、皇国のものだったのか。


 そして今、なぜ神殿がそれを探しているのか。


 ギルベルトの中で、警鐘が鳴った。


「使者を待たせろ」


「はい」


「それから、リリアーナの私室には誰も入れるな。神殿の者であってもだ」


 使用人が驚いた顔をする。


「旦那様」


「命令だ」


「承知いたしました」


 使用人が下がると、ギルベルトは机の上の帳面を閉じた。


 神殿が動いている。


 リリアーナの加護。

 七年前の皇国皇子との接触。

 魔術具。

 ミリアの聖女候補としての立場。


 すべてが、どこかで繋がっている。


 ギルベルトはようやく悟り始めていた。


 王太子の暴走だけではない。

 ミリアの嘘だけでもない。


 もっと深いところで、何かが動いている。


 そして、その中心にリリアーナがいる。


 娘を守ると決めたばかりなのに、すでに王国の闇が彼女を追おうとしている。


「今度こそ」


 ギルベルトは低く呟いた。


「今度こそ、間違えない」


 同じ頃、国境砦では、カイゼルのもとへ新たな報告が届いていた。


 ラウルが差し出した書簡には、皇国の密偵からの印がある。


「王国神殿が動いています」


 ラウルの声は低い。


「エルフェルト公爵家へ使者を出しました。探しているのは、白百合のハンカチと、黒曜石と金の星飾り」


 カイゼルの瞳が一瞬で冷えた。


「星飾り」


「陛下が七年前にリリアーナ様へ預けたものですね」


「ああ」


 カイゼルは書簡を受け取る。


 内容を読み終えると、彼の周囲の空気が凍った。


「神殿は、星霜の加護に気づいている可能性がある」


 ラウルの表情が険しくなる。


「リリアーナ様を取り戻すために?」


「あるいは、加護の証を奪うために」


 カイゼルは窓の外を見る。


 国境砦の空は、夕暮れの色に染まり始めていた。

 王国の空とは違う、冷たく澄んだ空。


「警護を二倍にしろ。リリアーナの部屋、クララ、オルガにも護衛をつける」


「承知しました」


「それから、神殿の古文書を急がせろ。星霜の加護について、王国側が何を知っているのか調べる」


「はい」


 ラウルが下がろうとした時、カイゼルが呼び止めた。


「ラウル」


「はい」


「王国神殿の者が国境を越えようとしたら、拘束しろ」


「理由は?」


「皇国の恩人に対する誘拐未遂の疑い」


 ラウルはわずかに笑った。


「承知しました」


 カイゼルは書簡を握りしめる。


 リリアーナは、まだ自分の力を知ったばかりだ。

 父との対話を終え、ようやく少しだけ自分を選び始めたところだ。


 そこへ、王国がまた手を伸ばそうとしている。


 許すつもりはなかった。


 たとえ王国がどんな理屈を並べようとも。

 神殿がどんな聖なる名を持ち出そうとも。


 彼女を、二度と処刑台にも、祭壇にも、政務机にも縛らせない。


 カイゼルは、低く呟いた。


「来るなら来い」


 金色の瞳に、冷たい炎が宿る。


「今度は、こちらが裁く番だ」

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