第17話 父上、私はもう戻りません
ラウルがリリアーナの部屋を訪れた時、彼女は窓辺に立っていた。
肩には薄いショール。
手首には白い布。
銀髪はゆるく結ばれ、淡紫の瞳は砦の門の方角を見つめている。
その横にはクララが控え、少し離れてオルガも立っていた。
ラウルは扉の前で一礼する。
「リリアーナ様。エルフェルト公爵が、面会を求めております」
リリアーナは、すぐには答えなかった。
窓の外では、黒狼の旗が風に揺れている。
その向こう、砦の中庭のさらに奥。応接広間へ続く建物の入口付近に、エルフェルト公爵家の馬車が見えた。
銀百合の紋章。
幼い頃から、誇りだと教えられてきた家の紋章。
その下で育ち、その名に恥じぬよう生きろと言われ続けてきた。
リリアーナは、自分の胸元をそっと押さえる。
父に会う。
その言葉だけで、胸の奥にまだ痛みが走った。
処刑台の上で浴びた罵声より、アルヴィスに悪女と呼ばれたことより、父に信じてもらえなかったことの方が、ずっと深く刺さっている。
それでも。
「父上は、何と?」
リリアーナは静かに尋ねた。
ラウルは、普段の軽さを抑えた声で答える。
「娘に謝りたい、と。父として来た、と仰っていました」
「父として……」
リリアーナは小さく繰り返した。
昨日は、公爵家当主としてこの場にいる、と言った人が。
今になって、父として。
胸が冷たくなる。
同時に、奥の方がきしむように痛んだ。
「リリアーナ様」
オルガが静かに声をかける。
「お会いにならなくても構いません」
「はい」
「会うとしても、お一人で向き合う必要はございません。陛下も、私も、クララ様もおります」
クララが力強く頷く。
「私も絶対にそばにいます」
リリアーナは二人を見て、少しだけ微笑んだ。
「ありがとう」
そして、しばらく考えた。
会わないこともできる。
カイゼルはきっと、それを許してくれる。
オルガもクララも、無理に会えとは言わない。
父がどれほど望んでも、リリアーナが拒めば、扉は開かれない。
それは今までの彼女にはなかった自由だった。
拒む自由。
選ぶ自由。
だからこそ、リリアーナは自分の心に問いかける。
本当に、会いたくないのか。
怖い。
傷つきたくない。
また家のため、王国のためと言われたら、心が揺れるかもしれない。
けれど、このまま逃げるように会わずにいれば、いつまでも胸の奥に父の影が残る気がした。
幼い頃から求め続けた言葉。
信じてほしかったという願い。
それを、父本人に伝えないままでは、リリアーナは前に進めない。
「会います」
リリアーナは言った。
クララの手が一瞬、ぎゅっと握られる。
「お嬢様」
「大丈夫、とは言いません」
リリアーナは、先にそう言った。
「怖いです。会いたくない気持ちもあります。でも、会わなければ、私はきっとずっと昨日のままです」
オルガが静かに頷く。
「承知いたしました」
「ただ、一人では会えません。クララにそばにいてほしいです」
「もちろんです!」
クララは即答した。
ラウルが穏やかに言う。
「陛下にもお伝えします。おそらく、応接広間で陛下同席の形になるかと」
「はい」
リリアーナは頷いた。
「それでお願いいたします」
応接広間へ向かう道のりは、長く感じた。
実際には、部屋から広間までそれほど距離があるわけではない。
けれど一歩進むごとに、昨日の記憶が蘇る。
王宮の小広間。
父の沈黙。
罪を認めろという言葉。
処刑を命じられた時、何も言わなかった横顔。
リリアーナは、手を握りしめた。
クララがそっと寄り添う。
「お嬢様」
「大丈夫ではないけれど、歩けます」
「はい」
クララはそれ以上、何も言わなかった。
応接広間の扉の前には、皇国の騎士が立っていた。
扉の向こうには、カイゼルがいる。
父がいる。
リリアーナは深く息を吸った。
そして、頷く。
扉が開かれた。
中に入ると、まずカイゼルの金色の瞳がリリアーナを捉えた。
彼は上座のそばに立っている。
黒い軍装。
冷静な表情。
けれどリリアーナを見る目だけは、わずかに柔らかい。
その視線に、少しだけ支えられる。
続いて、父の姿が目に入った。
ギルベルト・エルフェルト。
昨日よりも顔色が悪く、疲れが濃い。
それでも、背筋は伸びている。公爵としての姿勢を崩さないようにしているのが分かった。
だがリリアーナを見た瞬間、その表情が揺れた。
「リリアーナ……」
父の声。
その声を聞いただけで、胸が痛む。
リリアーナは、ゆっくりと礼をした。
「お久しぶりです、父上」
「昨日会ったばかりだ」
ギルベルトは思わずそう言いかけ、すぐに口をつぐんだ。
昨日会った。
けれど、あの時そこにいたのは父ではなかった。
公爵家当主として、娘に罪を認めろと言った人だった。
リリアーナの言葉の意味に、ギルベルトも気づいたのだろう。
顔を歪める。
カイゼルが静かに言った。
「リリアーナが望んだため、面会を許した。だが、彼女が望まぬことを強要するなら即座に終わらせる」
ギルベルトはカイゼルへ頭を下げた。
「承知しております」
リリアーナは椅子を勧められた。
カイゼルが当然のようにリリアーナの近くの席を示す。
クララはその後ろに控える。
ギルベルトは対面に座った。
父と娘。
けれど、その間には大きな距離があった。
最初に口を開いたのは、ギルベルトだった。
「リリアーナ。まず、謝らせてほしい」
リリアーナは何も言わず、父を見た。
ギルベルトは、深く頭を下げた。
「すまなかった」
その言葉は、確かに父の口から出た。
リリアーナは息を止めた。
幼い頃から、父に謝られた記憶はほとんどない。
父はいつも正しかった。
公爵家当主として、リリアーナを導く立場だった。
その父が、頭を下げている。
見たかった姿ではあった。
だが、胸の痛みは消えなかった。
ギルベルトは頭を下げたまま続ける。
「私は、お前を信じなかった。王家の怒りを恐れ、公爵家を守ることばかり考えた。お前が無実を訴えていたのに、耳を貸さなかった」
室内は静かだった。
リリアーナは、膝の上で手を重ねる。
「父上は、私が本当にミリア様を害したと思っていらしたのですか」
ギルベルトの肩がわずかに震えた。
ゆっくりと顔を上げる。
「……いや」
その答えに、リリアーナの胸が冷えた。
「では、信じていなかったわけではないのですね」
ギルベルトは言葉を失う。
リリアーナは静かに続けた。
「私がやっていないかもしれないと、思っていらした。けれど、それでも罪を認めろとおっしゃったのですね」
「それは」
「公爵家のために」
ギルベルトの唇が震える。
「王家に逆らえば、エルフェルト家が危うくなる。お前だけでなく、家臣も領民も巻き込むことになると思った」
「はい。分かります」
リリアーナは頷いた。
その冷静さに、ギルベルトの顔がさらに歪む。
「分かります。父上は公爵家当主です。家を守る責任があり、領民を守る責任がある。王家との対立を避けようとなさったことも、理解できます」
「リリアーナ」
「でも」
リリアーナは、父をまっすぐ見た。
「理解できることと、傷つかなかったことは違います」
ギルベルトが息を呑む。
「私は、父上に信じてほしかったのです。王家に逆らってほしかったのではありません。剣を取ってほしかったわけでも、公爵家を捨ててほしかったわけでもありません」
声が、少しだけ震える。
それでも、リリアーナは言葉を止めなかった。
「ただ、一度だけ聞いてほしかった。『リリアーナ、お前はやったのか』と。私が『やっていません』と答えたなら、せめて調べようとしてほしかった」
ギルベルトは何も言えなかった。
「父上は私に、いつも誇り高くあれとおっしゃいました。泣くな、取り乱すな、王太子妃候補として恥じぬようにあれと。私は、それを守ってきました」
リリアーナの胸に、幼い頃の記憶が浮かぶ。
転んで膝を擦りむいた日。
痛くて泣きそうになったのに、公爵令嬢は人前で泣くものではないと言われた。
王妃教育で倒れそうになった日。
弱音を吐くな、未来の王妃になるのだと告げられた。
アルヴィスに冷たいと言われた日。
それでも感情を荒げず、役目を果たした。
「だから、処刑台の上でも泣きませんでした。悪女と呼ばれても、罪人と呼ばれても、私は背筋を伸ばしました。父上が教えてくださった通りに」
リリアーナは、そこで一度言葉を切った。
そして、静かに告げる。
「けれど父上は、その私を見て、なお罪を認めろとおっしゃった」
ギルベルトの顔が苦しげに歪む。
「リリアーナ、私は」
「父上」
リリアーナは、穏やかに遮った。
「謝罪をしてくださったことは、受け取ります」
ギルベルトの目に、わずかな希望が浮かぶ。
しかしリリアーナは続けた。
「ですが、許せるかどうかは、今すぐには分かりません」
希望が、静かに揺らぐ。
「私はまだ、父上を見ると、昨日のことを思い出します。罪を認めろと言われたこと。処刑を止めてくださらなかったこと。最後まで、私を娘として呼び止めてくださらなかったこと」
ギルベルトの手が震えた。
「だから、今すぐ元通りにはなれません」
「……そう、だな」
ギルベルトは掠れた声で言った。
「当然だ」
リリアーナは驚いた。
父が認めた。
自分の痛みを。
それでも胸の傷は消えない。
ただ、ほんの少しだけ、息がしやすくなった。
ギルベルトはゆっくりと顔を上げる。
「リリアーナ。私は、お前に戻ってきてほしい」
クララの手が、背後でぎゅっと握られる気配がした。
カイゼルの瞳が冷える。
リリアーナは、静かに父を見た。
「公爵家のために、ですか」
「違う」
ギルベルトは即座に否定した。
だが、その後が続かなかった。
リリアーナは待つ。
父が、自分の言葉を探すのを。
やがてギルベルトは、苦しげに言った。
「……私が、父として、お前を失いたくない」
その言葉は、リリアーナの胸を強く揺らした。
ずっと聞きたかった言葉だったのかもしれない。
家のためではなく。
王国のためでもなく。
公爵家当主としてでもなく。
父として、失いたくない。
けれど、遅かった。
あまりにも、遅かった。
「父上」
リリアーナは、声が震えないようにゆっくり言った。
「その言葉を、処刑台の前で聞きたかったです」
ギルベルトの顔から血の気が引いた。
「私が拘束された時に。罪を認めろと言われた時に。正午に処刑すると告げられた時に。せめて、あの処刑台の前で」
リリアーナは、膝の上の手を握りしめる。
「今ではなく」
室内に沈黙が落ちた。
ギルベルトは、何かを言おうとして、何も言えなかった。
カイゼルも、クララも、オルガも、誰も口を挟まない。
これは父と娘の話だった。
リリアーナは続ける。
「私は、王国には戻りません」
ギルベルトの瞳が揺れる。
「エルフェルト家にも、今は戻れません」
「今は、ということは」
「将来どう思うかは分かりません。でも少なくとも今は、戻りたくありません」
リリアーナははっきりと言った。
「戻れば、私はまた公爵令嬢としての役目を求められるでしょう。王国の混乱を収めるために、政務を手伝えと言われるかもしれません。星霜の加護が本物なら、王国のために力を使えと言われるかもしれません」
ギルベルトの目が大きく見開かれた。
「星霜の加護……?」
知らなかったのだろう。
カイゼルが低く言った。
「リリアーナの力だ。王国が見抜けず、守れず、処刑しようとした力でもある」
ギルベルトは愕然とした。
「まさか、リリアーナが……」
「父上も、ご存じなかったのですね」
リリアーナは静かに言った。
「私も知りませんでした」
「星霜の加護は、古い記録では王国の土地を守るとされる力だ。もし本当にお前が」
ギルベルトはそこで言葉を止めた。
リリアーナが、彼を見ていたからだ。
その視線に、彼は自分が何を言いかけたのか気づいたのだろう。
王国の土地を守る力。
ならば戻れ。
王国のために。
そう言いかけたのだ。
ギルベルトは青ざめる。
「違う。今のは」
「父上」
リリアーナの声は静かだった。
「私は、もう王国のために自分を削ることはしたくありません」
ギルベルトは、何も言えなかった。
「民を苦しめたいわけではありません。王国を憎みたいわけでもありません。けれど、私は昨日、その王国に殺されかけました」
言葉にすると、改めて胸が痛んだ。
それでも逃げない。
「私はまず、自分が生きることを考えたいのです」
カイゼルの瞳が、わずかに柔らかくなる。
クララが涙ぐむ。
ギルベルトは、今度こそ完全に項垂れた。
「……そうか」
その声は、ひどく疲れていた。
「そうだな。お前は、そう言っていい」
リリアーナは父を見る。
ギルベルトは両手を膝の上で握りしめていた。
「私は、今この場でも、お前を王国へ連れ戻すことを考えていた。王国のため、公爵家のため、そして私自身のために」
彼は苦い声で言う。
「何も変わっていない。謝りに来たと言いながら、結局また、お前に戻れと言おうとしていた」
リリアーナは黙って聞いた。
「最低の父親だな」
その言葉に、胸が痛む。
それでも、慰めることはしなかった。
今ここで慰めれば、きっとまた自分が父の痛みを背負ってしまう。
だから、リリアーナは静かに言った。
「父上がそう思うなら、これから変わってください」
ギルベルトが顔を上げる。
「私のためではなく、ご自身のために。エルフェルト家のために。領民のために」
リリアーナは少しだけ息を吸う。
「そして、もし本当に私を娘として思ってくださるなら、今は私を戻そうとしないでください」
ギルベルトの目が揺れる。
「……それがお前の望みか」
「はい」
はっきりと答えた。
「私の望みです」
自分の望み。
それを口にできたことに、リリアーナ自身が少し驚いた。
ギルベルトは、長い沈黙の後、深く頭を下げた。
「分かった」
リリアーナの息が止まる。
「今は、戻れとは言わない」
その声は震えていた。
「だが、許されるなら、いつかまた話をする機会がほしい」
リリアーナはすぐには答えなかった。
許すことはできない。
けれど、永遠に拒絶したいのかどうかも、今は分からない。
だから、正直に答えた。
「いつか、話せる日が来るかもしれません」
ギルベルトの顔に、かすかな光が戻る。
「だが、それは今ではありません」
その光は、静かに落ち着いた。
ギルベルトは頷く。
「ああ。分かっている」
今度は、本当に分かっているように見えた。
リリアーナは小さく息を吐いた。
胸の傷は消えない。
けれど、少しだけ膿を出したような痛みがあった。
痛いけれど、必要な痛み。
ギルベルトは立ち上がった。
「リリアーナ」
「はい」
「生きていてくれて、よかった」
その言葉に、リリアーナは目を見開いた。
父の目が赤くなっている。
「私は、それを昨日言うべきだった」
リリアーナの喉が震えた。
今さら。
本当に今さらだ。
けれど、それでも。
その言葉を、聞きたかった。
リリアーナは、涙をこぼさないように目を伏せた。
「……ありがとうございます」
許したわけではない。
戻るわけでもない。
それでも、その言葉だけは受け取った。
ギルベルトはもう一度、深く頭を下げた。
「陛下。娘を……リリアーナを、よろしくお願いいたします」
カイゼルは、すぐには答えなかった。
金色の瞳でギルベルトを見据える。
「頼まれずとも守る」
低い声だった。
「だが、貴公に言われて守るのではない。彼女が望む限り、私が守る」
ギルベルトは、その言葉に何かを噛みしめるように頷いた。
「はい」
そして、彼は広間を出ていった。
扉が閉まる。
リリアーナは、しばらく動けなかった。
クララがそっと近づく。
「お嬢様」
「……言えたわ」
リリアーナは小さく呟いた。
「父上に、戻らないと言えた」
「はい」
「怖かった」
「はい」
「でも、言えた」
クララの目から涙がこぼれる。
「お嬢様は、すごいです」
リリアーナは首を振る。
「すごくはないわ。まだ、胸が痛いもの」
「痛くても言えたから、すごいんです」
その言葉に、リリアーナの視界が滲んだ。
カイゼルが静かに歩み寄る。
「リリアーナ」
彼の声は、低く穏やかだった。
「よく言った」
その一言で、張り詰めていたものがほどけそうになる。
リリアーナは、唇を噛んだ。
「泣いてもよいですか」
自分でそう尋ねたことに、少し驚いた。
カイゼルの目が柔らかくなる。
「ああ」
クララも涙声で頷く。
「もちろんです」
リリアーナは、そこで初めて、静かに泣いた。
声を上げるわけではない。
崩れ落ちるわけでもない。
ただ、ぽろぽろと涙が頬を伝う。
父に信じてもらえなかった痛み。
ようやく謝ってもらえた痛み。
戻らないと言えた痛み。
生きていてよかったと言われた痛み。
全部が混ざって、涙になった。
カイゼルは何も言わず、ただそばにいた。
クララがそっとハンカチを差し出す。
オルガが静かに扉の外の気配を遠ざける。
その中でリリアーナは、初めて父との間にあった鎖を、自分の手で少しだけほどいた気がした。
一方その頃、広間を出たギルベルトは、廊下の途中で足を止めていた。
王国の使者ルーカスが、彼へ駆け寄る。
「公爵閣下。リリアーナ様は何と? 王国へお戻りになると?」
ギルベルトは、ゆっくりとルーカスを見た。
その目には、先ほどまでとは違う冷たさがあった。
「リリアーナは戻らない」
「なっ……しかし、王太子殿下は」
「王太子殿下へ伝えろ」
ギルベルトの声は低く、重かった。
「我が娘を冤罪で処刑しようとした件について、エルフェルト公爵家として正式な説明を求める、と」
ルーカスの顔色が変わる。
「公爵閣下、それは王家に」
「そうだ」
ギルベルトは言った。
「私は昨日、王家を恐れて娘を失いかけた。二度と同じ間違いはしない」
ルーカスは言葉を失う。
ギルベルトは、王都の方角を見た。
王国は今、混乱している。
王太子は自分の過ちを認めず、ミリアは聖女としての立場にしがみつき、神殿は何かを隠している。
そしてリリアーナは、もう戻らない。
ならば今度こそ、自分が動かなければならない。
娘を取り戻すためではない。
娘に戻ってきてもらうためでもない。
娘を罪人にした王国の過ちを、明らかにするために。
ギルベルト・エルフェルトは、ようやく父としてではなく、公爵として顔を上げた。
今度は、娘を守るために。




