第16話 王国からの使者
国境砦の応接広間は、王国の宮殿とは似ても似つかない場所だった。
白大理石の柱も、金の装飾も、甘い花の香りもない。
壁は黒灰色の石でできており、窓は小さく、室内には戦場地図と武具が整然と置かれている。華やかさよりも、実用と警戒を優先した部屋だった。
その中央で、カイゼル・ヴァレンティスは上座に立っていた。
座らない。
それだけで、彼がこの場を長引かせる気がないことは明らかだった。
隣には騎士団長ラウル。少し離れてオルガが控え、壁際には皇国騎士たちが無言で立っている。
やがて扉が開き、王国の使者が入ってきた。
使者は三人。
先頭に立つのは、王太子アルヴィスの側近であるルーカス・ヴェイン伯爵令息だった。年は二十代前半。淡い金茶の髪を丁寧に撫でつけ、王宮仕込みの礼儀正しい微笑を浮かべている。
その後ろには文官が一人。
さらに護衛騎士が一人。
ルーカスは広間に入ると、恭しく一礼した。
「ヴァレンティス皇帝陛下。急な訪問にもかかわらず、お目通りをお許しいただき感謝申し上げます」
カイゼルは返礼しなかった。
「用件を言え」
短い一言に、ルーカスの微笑がわずかに引きつる。
王国の宮廷であれば、まずは時候の挨拶、互いの体面を守る言葉、遠回しな探り合いが続く。
だが、ここは皇国の砦だった。
カイゼルに、王国式の長い前置きに付き合う気はない。
ルーカスは一瞬だけ目を伏せ、それから顔を上げた。
「では、失礼ながら単刀直入に申し上げます。王太子アルヴィス殿下より、リリアーナ・エルフェルト様の身柄について正式な協議を求めるよう命じられて参りました」
ラウルの眉がわずかに動いた。
オルガは無表情のまま、視線だけを鋭くする。
カイゼルは、冷たい声で返した。
「身柄」
「はい。リリアーナ様はグランベルク王国の公爵令嬢であり、現在も王国貴族籍にある方です。皇国へ連れて行かれるには、王国側との正式な協議が必要かと」
昨日、処刑台に立たせた相手を、今さら王国貴族として扱う。
その厚顔さに、ラウルが小さく息を吐いた。
カイゼルの表情は変わらない。
「王国はその公爵令嬢を罪人として処刑しようとした」
「その件につきましては、殿下も大変心を痛めておいでです」
「心を痛めているなら、なぜ処刑台を用意した」
ルーカスの言葉が止まる。
カイゼルは一歩も譲らない。
「証拠もなく、正式な手続きもなく、王国の民衆の前で彼女を処刑しようとした。それを見た上で、私は彼女を保護した」
「ですが、あれは緊急の裁定であり」
「緊急なら無実の者を殺してよいのか」
広間の空気が冷えた。
王国側の護衛騎士がわずかに身じろぐ。
皇国騎士たちは動かない。
ルーカスは額にうっすら汗を浮かべた。
「陛下。王国としても、状況を整理する必要があると判断しております。殿下は、リリアーナ様と直接お話をされたいと」
「会わせない」
即答だった。
ルーカスが目を見開く。
「陛下」
「彼女は処刑台から救われたばかりだ。心身ともに傷ついている。昨日まで彼女を殺そうとしていた男に会わせる理由はない」
「殿下は、リリアーナ様の元婚約者であらせられます」
「元、だろう」
その一言に、ルーカスはまた言葉を詰まらせた。
カイゼルは続ける。
「王太子は民衆の前で婚約破棄を宣言した。彼女を罪人と呼び、処刑を命じた。今さら婚約者であったことを理由に接触を求めるな」
「……殿下は、誤解を解きたいと」
「誤解?」
カイゼルの金色の瞳が鋭くなる。
「誰の誤解だ」
ルーカスは沈黙した。
王国側の文官が震える手で書類を握りしめる。
カイゼルは低く言った。
「リリアーナは無実を訴えた。王太子は聞かなかった。証拠を求めた。王太子は退けた。正式な調査を求めた。王太子は黙れと言った」
一つずつ、事実が突きつけられる。
「それを誤解と呼ぶなら、王国の言葉はずいぶん軽い」
ルーカスの微笑は、もう完全に消えていた。
彼は深く息を吸い、声を落とす。
「陛下。こちらも、穏便に済ませたいのです」
「穏便」
「王国と皇国の関係悪化は、双方にとって望ましくありません。リリアーナ様を一時的にでも王国へ戻していただければ、正式な調査と名誉回復の手続きを」
「断る」
「まだ最後まで申し上げておりません」
「聞く必要がない」
カイゼルは冷たく切り捨てた。
「王国へ戻せば、彼女はまた王国の都合で使われる。名誉回復という名で口を封じられるか、再び罪を着せられるか、王太子の体面を守るために謝罪させられるか。いずれにせよ、彼女の意思は無視される」
「そのようなことは」
「すでにしただろう」
沈黙。
ルーカスは、反論できなかった。
カイゼルはラウルへ目を向ける。
「王国へ求めた証拠の提出は」
ラウルが一歩前に出る。
「まだ届いておりません。毒入り菓子の現物、毒の種類、医師の診断書、配送経路、証人の氏名、聖堂不敬の記録、いずれも未提出です」
「だそうだ」
カイゼルはルーカスを見る。
「身柄の協議より先に、証拠を出せ」
ルーカスは唇を引き結んだ。
「それは、現在王宮で確認中です」
「では確認が終わってから来い」
「陛下、王太子殿下は」
「王太子の都合は知らない」
カイゼルの声に、広間の空気がさらに重くなる。
「私が知りたいのは、リリアーナにかけられた罪が真実かどうかだ。王国が彼女を処刑しようとした根拠があるのかどうかだ」
彼は、低く告げた。
「それが出せないなら、王国は皇国の恩人を冤罪で殺そうとした。それだけの話だ」
王国の使者たちの顔が青ざめた。
それは外交問題どころではない。
皇国皇帝の命の恩人を、王国が冤罪で処刑しようとした。
その事実が確定すれば、王国は皇国に対して大きな負い目を背負うことになる。
ルーカスは少しだけ声を低くした。
「……陛下。殿下は、リリアーナ様を案じてもおられます」
その言葉を聞いた瞬間、ラウルの目が細くなった。
オルガの表情も冷えた。
カイゼルは、しばらく何も言わなかった。
沈黙が長くなる。
やがて彼は、静かに口を開いた。
「案じる?」
「はい」
「案じる者は、相手を処刑台に立たせない」
それだけだった。
けれど、それ以上の返答は必要なかった。
ルーカスは何も言えなくなる。
その頃、リリアーナは自室で待っていた。
窓際の椅子に座り、膝の上で両手を重ねている。
手首にはまだ布が巻かれていた。
隣にはクララ。
少し離れたところに、オルガが残してくれた侍女が一人控えている。
部屋は静かだった。
白百合の香り。
淡紫の花。
窓の外で揺れる黒狼の旗。
けれど、リリアーナの心は落ち着かなかった。
王国の使者。
アルヴィスの紋章。
直接は会わないと決めた。
それでも、胸の奥はざわついている。
怖い。
何を言われるのかが怖い。
王国が今度はどんな理屈で自分を連れ戻そうとするのか。
父はどうしているのか。
アルヴィスは何を考えているのか。
そして、ミリアは。
リリアーナは、自分の指先を見る。
先ほど灯った星の光は、もう消えている。
星霜の加護。
もしこの力が本当に王国の土地を守っていたのなら、王国は今、焦っているはずだ。
政務だけでなく、土地そのものに異変が起きているのなら。
戻れと言われるだろうか。
王国のために。
民のために。
公爵家のために。
そう言われれば、自分は揺らがずにいられるだろうか。
「お嬢様」
クララが声をかける。
「大丈夫では、ありませんよね」
先に言われ、リリアーナは少しだけ目を丸くした。
そして、小さく笑う。
「ええ。大丈夫ではないわ」
「はい」
「でも、戻りたいわけではないの」
「はい」
「ただ……王国のことを考えると、胸が痛むのです」
クララは黙って聞いていた。
リリアーナは、ゆっくり言葉を続ける。
「王国には、私を嘲った人も、信じなかった人も、断罪した人もいます。でも、それだけではありません。何も知らない民もいる。北部の農民たちも、王都の職人も、子どもたちも」
「お嬢様……」
「彼らまで苦しむかもしれないと思うと、どうしても」
言葉が詰まる。
クララはリリアーナの手をそっと握った。
「お嬢様がお優しいのは、悪いことではありません」
「でも、その優しさでまた利用されるかもしれないわ」
「それは、周りが止めます」
クララは真剣に言った。
「陛下も、オルガ様も、ラウル様も。もちろん私も止めます。お嬢様がまたご自分を削ろうとしたら、全力で止めます」
その言葉に、リリアーナの胸が少し軽くなる。
「頼もしいわね、クララ」
「はい。私はお嬢様の侍女ですから」
「王国から離れても?」
「どこへ行ってもです」
クララは迷わず答えた。
「私は、お嬢様についてきました。お嬢様が皇国に残るなら皇国にいます。旅に出るなら荷造りします。畑を耕すなら鍬を持ちます」
「畑?」
「念のためです」
真剣な顔で言われ、リリアーナは思わず笑ってしまった。
久しぶりに、胸の奥から自然に笑えた気がした。
その時、部屋の外から足音が聞こえた。
扉が叩かれる。
「リリアーナ様。オルガでございます」
「どうぞ」
扉が開き、オルガが入ってきた。
表情は落ち着いているが、その目には明らかな緊張があった。
「使者との会談は、まだ続いております。ただ、途中報告をと陛下より」
「ありがとうございます。王国は何と?」
「リリアーナ様の身柄について、正式な協議を求めております。王国貴族であること、元王太子妃候補であることを理由に」
リリアーナは小さく息を吐いた。
やはり。
「陛下は?」
「拒否なさいました」
即答だった。
クララがほっと肩を下ろす。
オルガは続ける。
「陛下は、リリアーナ様にかけられた罪の証拠提出を求めておられます。王国側は、まだ何も提出できておりません」
「……何も」
「はい」
リリアーナは目を伏せた。
何もない。
それなのに自分は処刑されかけた。
分かっていたことのはずなのに、改めて突きつけられると胸が重くなる。
「それと」
オルガは少しだけ声を低くした。
「王国側は、王太子殿下がリリアーナ様を案じているとも述べたそうです」
クララが露骨に顔をしかめた。
「どの口で……」
「クララ」
「すみません。でも、どの口で、です」
今度はオルガも否定しなかった。
リリアーナは、静かに窓の外を見る。
アルヴィスが自分を案じている。
その言葉に、胸は動かなかった。
以前なら、少しは揺れただろうか。
彼が心配してくれているのなら、まだ自分にも価値があるのではないかと思っただろうか。
けれど今は違う。
自分を処刑台に立たせた人の心配を、どう受け取ればよいのか分からない。
「殿下は、私を案じているのではなく、ご自分の立場を案じておられるのではないでしょうか」
口にしてから、リリアーナは少し驚いた。
ずいぶん冷静に言えた。
オルガが静かに頷く。
「おそらく」
「リリアーナ様」
入口にいた侍女が、少し戸惑ったように声を上げた。
全員の視線が向く。
「失礼いたします。今、廊下の窓から見えたのですが、王国の使者がもう一人、砦の門へ近づいているようです」
「もう一人?」
オルガの眉が動く。
「紋章は?」
「エルフェルト公爵家のものです」
リリアーナの胸が強く鳴った。
エルフェルト公爵家。
父。
クララがリリアーナの手を握る力を強める。
「お嬢様」
「……大丈夫では、ないわ」
リリアーナは正直に言った。
「でも、倒れたりはしません」
オルガは静かに言う。
「お会いになる必要はございません」
「分かっています」
リリアーナはゆっくりと立ち上がった。
クララが支えようとする。
リリアーナはその手を借りた。
「直接会うかどうかは、陛下のお話を聞いてから決めます。ただ、父が何を言いに来たのかは知りたいのです」
「承知いたしました。陛下へお伝えします」
オルガが部屋を出ていく。
残されたリリアーナは、窓辺へ歩いた。
砦の門の方角は、ここから少しだけ見える。
黒灰色の城壁。
その向こうに、小さく王国の馬車が見えた。
エルフェルト公爵家の紋章。
幼い頃から何度も見た、銀百合の紋章。
リリアーナは胸元を押さえる。
父に会えば、また傷つくかもしれない。
戻れと言われるかもしれない。
家のために我慢しろと言われるかもしれない。
王国のために加護を使えと言われるかもしれない。
それでも、今度は以前の自分とは違う。
隣にはクララがいる。
この砦にはカイゼルがいる。
自分の中には、星霜の加護がある。
そして何より。
リリアーナは、もう自分を悪役令嬢だと決めつける声だけを信じない。
応接広間では、ルーカスが新たな到着者の報告を受け、明らかに顔を強張らせていた。
「エルフェルト公爵が……?」
彼も知らなかったらしい。
カイゼルは冷ややかに言う。
「王国は、使者同士の調整もできないのか」
「いえ、これは」
「入れろ」
カイゼルが命じる。
ラウルが確認のために部下を走らせた。
ほどなくして、扉の外から重い足音が近づいてくる。
入ってきたのは、ギルベルト・エルフェルトだった。
昨日よりもさらに顔色が悪い。
だが服装は整えられ、公爵としての威厳だけは保とうとしていた。
彼は広間に入ると、カイゼルへ深く一礼した。
「ヴァレンティス皇帝陛下。急な訪問、無礼をお許しください」
カイゼルは答えない。
ギルベルトは顔を上げた。
その目には、疲労と焦燥が濃く浮かんでいた。
「娘に、リリアーナに会わせていただきたい」
ルーカスが慌てて口を挟む。
「公爵閣下、こちらは王太子殿下の使者として」
「黙っていろ」
ギルベルトの声は低かった。
その一言に、ルーカスが息を呑む。
ギルベルトはカイゼルを見据えた。
「私は、父として参りました」
カイゼルの瞳が冷たく細められる。
「昨日は父ではなく公爵家当主としていたと聞いている」
ギルベルトの顔が歪む。
「その通りです」
「今さら何をしに来た」
「娘を取り戻しに」
空気が凍った。
ラウルの手が剣の柄へ近づく。
カイゼルは静かに問う。
「取り戻す?」
「リリアーナは、私の娘です」
「その娘を守らなかった」
「……分かっております」
ギルベルトの声は苦かった。
「私は間違えました」
その言葉に、ルーカスが目を見開く。
王国側の文官も動揺する。
ギルベルトは続けた。
「王家に逆らえず、公爵家を守ることばかり考えた。娘の言葉を聞かなかった。無実だと訴えるリリアーナに、罪を認めろと言った」
広間が静まり返る。
「父として、最悪のことをしました」
カイゼルは何も言わない。
ギルベルトは拳を握りしめた。
「だから、謝りたい。どうか一目だけでも」
「謝ってどうする」
カイゼルの声は低かった。
「謝れば、彼女が王国へ戻るとでも?」
「それは」
「謝罪は、彼女の傷を消すためではなく、貴公が楽になるためか」
ギルベルトの顔が青ざめる。
その言葉は容赦がなかった。
だが、間違ってはいなかった。
「リリアーナに会わせるかどうかは、彼女が決める」
カイゼルは言った。
「私が許可するのではない。貴公が求めるのでもない。彼女が選ぶ」
ギルベルトは、初めて完全に言葉を失った。
娘が選ぶ。
おそらく彼は、そう考えたことがなかったのだろう。
リリアーナは公爵家の娘であり、王太子妃候補であり、家のために動く者。
選ぶ側ではなく、選ばされる側。
そう扱ってきた。
カイゼルはラウルに命じる。
「リリアーナへ伝えろ。エルフェルト公爵が面会を求めている。会うかどうかは彼女の意思に任せる、と」
「はっ」
ラウルが広間を出ていく。
ギルベルトは、扉の方を見たまま動かなかった。
その顔には、初めて怯えが浮かんでいた。
娘に拒まれるかもしれない。
その可能性を、ようやく実感したのだろう。
カイゼルは、冷たく告げた。
「覚悟して待て」
その声に、ギルベルトの肩がわずかに震えた。




