第15話 星霜の加護
星霜の加護。
その言葉が、部屋の中に静かに落ちた。
誰もすぐには口を開かなかった。
リリアーナは寝台の上で、自分の手を見つめていた。
手のひらには、先ほどまで確かに星のような光が灯っていた。瘴気を払い、カイゼルの傷に残っていた黒い影を消した、不思議な光。
けれど、今はもう何も見えない。
白い布で巻かれた手首。
少し震える指先。
処刑台の拘束具の痕が残る、ただの自分の手。
それなのに、老魔術師はその手を見て膝をついた。
星霜の加護。
聞いたことのない名ではなかった。
王国の古い建国神話や、神殿の記録にわずかに出てくる言葉だ。
星の巡りと季節の流れを整え、土地を鎮め、瘴気を遠ざける古い祝福。かつては王国と皇国の境界地帯を守っていたとされる、失われた加護。
ただ、それは物語の中のものだと思っていた。
リリアーナはゆっくりと顔を上げる。
「星霜の加護、ですか」
自分の声が、少し遠く聞こえた。
老魔術師は膝をついたまま、深く頭を下げている。
「はい。古文書ではそう記されております。星の光を宿し、年月を越えて土地と命を守る加護。治癒魔法とは異なり、傷そのものを塞ぐというより、命を蝕むものを退け、あるべき巡りへ戻す力とされています」
「あるべき巡りへ戻す……」
「瘴気を払う力は、その代表的なものです。魔物が発する穢れ、土地に溜まった澱み、病の根に絡む黒い魔力。それらを静かに鎮める」
老魔術師の声は震えていた。
恐怖ではない。
畏れに近かった。
リリアーナは、その重さに戸惑う。
「ですが、私はそのような力を使った覚えはありません。魔力測定でも、高い魔力があるとは言われましたが、加護については何も」
「王国では、星霜の加護を測る術が失われていた可能性がございます」
老魔術師は慎重に言った。
「あるいは、現れる条件が揃っていなかったのかもしれません」
「条件?」
「強い祈り、あるいは願いです」
リリアーナの胸が小さく跳ねる。
願い。
助けたいと思った。
魔物と戦うカイゼルを見た時。
彼の傷に瘴気が残っていると知った時。
ただ、助けたいと。
七年前の森でも同じだった。
傷ついた少年を見捨てたくないと思った。
「星霜の加護は、古くは聖女の加護とは別物とされています」
老魔術師は続けた。
「聖女の加護が人々の祈りを受けて輝く陽の力なら、星霜の加護は夜に道を示す星の力。派手な奇跡ではなく、静かに土地を守り、命の綻びを整えるもの」
リリアーナは、言葉を失った。
派手な奇跡ではない。
静かに守る力。
それは、自分が王国でしてきたことと少し似ている気がした。
アルヴィスの失言を裏で補い、財務の破綻を未然に防ぎ、聖堂の修復費を整え、北部農地への補助を組み直し、誰にも知られない場所で王国の綻びを繕ってきた。
誰にも称えられなかった。
誰も気づかなかった。
けれど、確かにやってきた。
リリアーナは自分の手を握る。
「では、私は……王国にいた時から、その加護を持っていたのでしょうか」
老魔術師はすぐには答えなかった。
その沈黙で、リリアーナは察した。
おそらく、そうなのだ。
カイゼルが低く問う。
「王国の土地に出ていた異変は、この加護が失われた影響か」
老魔術師は顔を上げる。
「断定には調査が必要です。ですが、古い記録が正しければ、星霜の加護を宿す者が土地を離れた場合、守られていた土地には少しずつ影響が出ます」
「具体的には」
「作物の生育不良、井戸水の濁り、魔物の活性化、神殿の結界の弱体化。いずれも急激ではなく、最初は小さな違和感として現れます」
リリアーナの脳裏に、王国北部の農地が浮かんだ。
自分が何度も補助計画を組み直した場所。
不作の兆しがあると報告され、財務官と相談し、灌漑費用の調整をした地域。
あれは、単なる気候不順ではなかったのだろうか。
「私は、王国を守っていたのですか」
問いは、小さくこぼれた。
老魔術師は慎重に頷いた。
「無意識に、でございますが。その可能性は高いかと」
王国を守っていた。
その言葉に、リリアーナの胸が苦しくなる。
王国は、彼女を守らなかった。
信じなかった。
罪人として処刑台に立たせた。
悪役令嬢と呼び、嘲笑し、捨てた。
けれどリリアーナの加護は、その王国を守っていたのかもしれない。
なんて皮肉なのだろう。
リリアーナは、笑うことも泣くこともできなかった。
「お嬢様……」
クララが震える声で呟く。
その瞳には、怒りと悲しみが浮かんでいた。
「王国は、お嬢様に守られていたのに……それなのに、お嬢様を」
「クララ」
リリアーナは静かに名を呼んだ。
クララは唇を噛む。
「すみません。でも、あんまりです。あんまりです……!」
クララの涙がこぼれる。
今度の涙は、悔しさの涙だった。
リリアーナは何も言えなかった。
自分のために怒ってくれる人がいる。
そのことが苦しくて、温かくて、胸が詰まる。
カイゼルは老魔術師へ視線を向けた。
「この加護について、詳しい記録は皇国に残っているか」
「皇城の禁書庫にいくつか。砦には写しがわずかにございます」
「すぐに集めろ」
「はっ」
「それと、この件は不用意に広めるな」
カイゼルの声が低くなる。
「リリアーナを神殿の道具にも、政治の道具にもさせない」
老魔術師が深く頭を下げる。
「承知いたしました」
リリアーナはカイゼルを見た。
「陛下」
「何だ」
「私は、この力について知る必要があります」
「ああ」
「もし本当に王国の土地を守っていたのだとしたら、私が離れたことで、王国に影響が出るかもしれません」
「出るだろうな」
カイゼルは隠さなかった。
「では」
「だが、それは君の責任ではない」
リリアーナの言葉を遮るように、カイゼルは言った。
その声は強かった。
「君は王国を見捨てたのではない。王国が君を処刑しようとした。君が生きるために離れた結果、加護が王国から離れた。ただそれだけだ」
「ですが、民は」
「王国の民を守る責任は、王国の王と王太子にある」
リリアーナは息を呑む。
王国の民。
その言葉は、リリアーナにとって重かった。
未来の王妃候補として、民を思えと教えられてきた。
民の生活を守ること、税の配分を考えること、地方の声に耳を傾けること。それはリリアーナがずっと学び、実際に手を動かしてきたことだった。
だからこそ、王国に影響が出ると聞いて、すぐに自分が何かしなければと思ってしまう。
カイゼルは、その思考を見抜いたようだった。
「リリアーナ」
名を呼ばれる。
リリアーナは顔を上げた。
「君は昨日まで、その民を守るために尽くしてきた。その結果が処刑台だった」
「……はい」
「今すぐ王国の心配をするなとは言わない。だが、自分を殺そうとした国を救うために、また自分を削るな」
その言葉は、厳しかった。
けれど、リリアーナの胸をまっすぐ突いた。
自分を削る。
確かに、そうだったのかもしれない。
王国のため。
公爵家のため。
アルヴィスのため。
民のため。
そう言いながら、リリアーナは少しずつ自分を削ってきた。
自分が疲れていることにも、傷ついていることにも気づかないふりをして。
そして最後には、処刑台に立たされた。
「私は……」
リリアーナは言葉を探す。
「民を苦しめたいわけではありません」
「分かっている」
「王国に戻りたいわけでもありません」
「ああ」
「でも、私が離れたことで誰かが飢えるのなら、それは……」
「それを防ぐために王がいる。王太子がいる。財務官がいる。神殿がある」
カイゼルは淡々と言う。
「君一人がいなければ回らぬ国なら、その国が歪んでいたのだ」
部屋が静まり返った。
リリアーナは、その言葉を胸の中で繰り返す。
自分一人がいなければ回らない国。
そんなはずはないと思いたかった。
王国には王がいて、王太子がいて、重臣がいて、神殿がある。財務官も文官も、貴族院もある。
だが、昨夜の財務官マルセルの慌てぶりを思い出す。
リリアーナ様がいなければ、予算が組めません。
彼はそう叫んでいた。
王国は、リリアーナの働きを当然のものとして組み込んでいた。
彼女が支えていることを認めもしないまま、その存在を前提にしていた。
それがなくなれば、崩れる。
その事実が、少しずつ形になって迫ってくる。
「お嬢様」
クララが涙を拭い、強い声で言った。
「今は、お嬢様ご自身を大切にしてください」
リリアーナはクララを見る。
「王国の人たちは、お嬢様を信じてくれませんでした。でも、ここにはお嬢様を信じてくれる方がいます。陛下も、オルガ様も、ラウル様も、騎士の皆様も」
クララは少しだけ声を震わせる。
「私もいます」
リリアーナの胸が大きく揺れた。
「だから、今だけでも、王国よりご自分を選んでください」
クララの言葉に、オルガも静かに頷いた。
「クララ様のおっしゃる通りです。リリアーナ様、加護は力であると同時に、あなた様ご自身の一部です。それをどこへ向けるかは、あなた様が選ぶべきことです」
「私が、選ぶ……」
「はい」
オルガは真っ直ぐにリリアーナを見た。
「王国に捧げるために生まれた力ではございません」
その言葉に、リリアーナの指先がまた小さく光った。
淡い星の光。
今度は、誰かを癒すためではない。
ただ、リリアーナの心の揺れに応えるように、静かに灯っている。
老魔術師が、目を見開く。
「加護が……」
リリアーナは光る指先を見つめた。
怖い。
でも、先ほどよりは怖くない。
これは、自分の中にあるものなのだ。
悪女の証ではない。
罪の証でもない。
誰かを助けたいと願った時に生まれる、星の光。
リリアーナはゆっくりと息を吸った。
「私は、この力を知りたいです」
部屋の中にいた全員が、彼女を見る。
「王国のために戻るかどうかを決めるためではありません。誰かに使われるためでもありません。私自身が、自分のことを知らなければならないと思うからです」
カイゼルの瞳がわずかに柔らかくなる。
「それでいい」
「はい」
「君が知りたいなら、皇国は記録をすべて開く。魔術師もつける。だが、誰にも強制はさせない」
「ありがとうございます」
リリアーナは静かに頭を下げた。
今度は、申し訳なさからではない。
自分の意思を尊重してくれたことへの、感謝だった。
その時、部屋の外から慌ただしい足音が近づいてきた。
ラウルの声がする。
「陛下、失礼します!」
扉が開き、ラウルが入ってきた。
いつもの軽さはなく、表情は険しい。
「北門周辺の魔物は掃討しました。ただ、妙なものが見つかりました」
カイゼルの顔が皇帝のものに変わる。
「何だ」
「魔物の群れが自然発生したものではない可能性があります」
部屋の空気が一変した。
リリアーナは息を呑む。
「自然発生ではない?」
ラウルは頷く。
「森の境界に、瘴気を誘導する魔術具の破片がありました。砦へ魔物を寄せるために置かれたものと思われます」
カイゼルの金色の瞳が冷える。
「誰が置いた」
「現在調査中です。ただ、破片の刻印が王国式に似ています」
クララが小さく悲鳴を呑んだ。
オルガの表情も硬くなる。
王国式。
つまり、グランベルク王国側の誰かが関わっている可能性がある。
リリアーナの胸がざわついた。
王国が、皇国の砦へ魔物を?
なぜ。
カイゼルが低く問う。
「王国の正規軍か」
「断定はできません。むしろ、粗さがあります。正規の軍用魔術具ではなく、神殿系の古い術式を無理に改造したような痕跡が」
「神殿系」
その言葉に、リリアーナの脳裏にミリアの姿が浮かんだ。
聖女候補。
神殿。
祈り。
涙。
そして、偽りの罪。
「まさか……」
思わず呟いたリリアーナを、カイゼルが見た。
「心当たりがあるか」
「いえ、確証はありません。ただ、王国で私にかけられた罪の一つに、聖堂への不敬がありました。私は聖堂の修復費や聖具の配置について神官長補佐とやり取りをしていましたが、それが歪められて罪にされたのです」
カイゼルの目が鋭くなる。
「神殿が関わっている可能性があるな」
老魔術師が口を開いた。
「星霜の加護と神殿系術式は、古い時代には対になる研究がされていたと記録にございます。もし王国神殿の誰かが、リリアーナ様の加護に気づかぬまま、加護に干渉する術式を扱ったのであれば……」
「魔物を誘導しただけでは済まないかもしれない、ということか」
「はい」
リリアーナは、自分の手を見た。
星霜の加護。
王国神殿。
ミリアへの冤罪。
魔物を誘導する魔術具。
点と点が、まだ繋がりきらないまま、薄暗い線を描き始める。
カイゼルはラウルに命じた。
「破片を保管しろ。王国側に漏らすな。調査班を出す」
「はっ」
「それと、リリアーナの周辺警護を増やせ」
リリアーナは顔を上げる。
「私の?」
「ああ」
カイゼルの声は冷静だったが、その奥には明確な怒りがあった。
「今回の魔物が君の加護に反応して現れたのか、君を狙ったものなのか、まだ分からない。だが偶然とは考えにくい」
「私を狙う理由が」
「ある」
カイゼルは断言した。
「王国は君を失った。だが、君に価値があると気づいた者がいれば、取り戻そうとするか、消そうとする」
リリアーナの背筋が冷えた。
取り戻す。
あるいは、消す。
王国で処刑されかけた時とは違う種類の恐怖が胸に広がる。
自分の力が明らかになれば、また誰かに利用されるのではないか。
また、望まない場所へ引き戻されるのではないか。
カイゼルは、その不安を見抜いたように言った。
「リリアーナ」
「はい」
「君を渡さない」
低く、はっきりとした声だった。
部屋の空気が震える。
「王国にも、神殿にも、誰にも。君が自分で望まない限り、誰にも君を奪わせない」
リリアーナの胸が熱くなる。
守られることに、まだ慣れていない。
けれど、今はその言葉に縋りたいと思った。
「……信じても、よいですか」
小さな声で尋ねる。
カイゼルは迷わなかった。
「ああ」
金色の瞳が、まっすぐ彼女を映している。
「何度でも言う。私は君を守る」
リリアーナの指先の光が、また淡く灯った。
今度は、怯えではなく、どこか応えるように。
その光を見て、老魔術師が深く頭を下げる。
「星が、応えておられる……」
部屋の中に、静かな畏れが広がった。
だが次の瞬間、砦の外から再び鐘が鳴る。
一度。
今度は警戒ではなく、知らせの鐘。
ラウルが窓の外を見て、眉を寄せた。
「王国側から使者です」
カイゼルの瞳が鋭くなる。
「早いな」
「白旗を掲げています。エルフェルト公爵家の紋章ではありません。王太子の紋章です」
リリアーナの身体が強張った。
アルヴィス。
昨日まで彼女を断罪し、処刑しようとした人。
カイゼルがリリアーナを見る。
「会う必要はない」
リリアーナはすぐには答えられなかった。
怖い。
会いたくない。
けれど、王太子の使者が来た理由は気になる。
魔物の件と関係があるのか。
それとも、王国がリリアーナの価値に気づき始めたのか。
リリアーナは、手の中の光を見つめた。
もう処刑台の上の自分ではない。
守られるだけの自分でもない。
自分の力を知り、自分で選ぶと決めたばかりだ。
「……直接は会いません」
リリアーナは言った。
「でも、使者の用件は聞きたいです」
カイゼルは頷いた。
「分かった。私が聞く」
「陛下」
「君は休め」
また命令のような言葉。
けれど今は、その奥にあるものが分かる。
リリアーナは小さく頷いた。
「はい。ですが、内容は教えてください」
「ああ」
カイゼルは立ち上がる。
黒い軍装の裾が揺れた。
ラウルが続き、オルガも控える。
部屋を出る直前、カイゼルは振り返った。
「リリアーナ」
「はい」
「君が王国に戻る理由は、もうない」
その言葉に、リリアーナは静かに息を吸った。
胸の奥で、星の光が小さく揺れる。
「はい」
今度は、はっきりと答えた。
「私は、戻りません」
カイゼルの瞳がわずかに和らぐ。
そして彼は、王国の使者が待つ広間へ向かって歩き出した。
その背を見送りながら、リリアーナは自分の手を胸に当てる。
星霜の加護。
王国が失ったもの。
皇国で灯り始めたもの。
そして、リリアーナ自身がこれから向き合うべき力。
怖さはまだ消えない。
けれど、もう自分を悪役令嬢だと決めつける声だけに支配されるつもりはなかった。
窓の外で、黒狼の旗が風を受けて大きく翻る。
その先、砦の門の向こうでは、王国の使者が白旗を掲げて待っていた。




