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婚約破棄された悪役令嬢ですが、処刑台の上で敵国皇帝に求婚されました 〜私を捨てた王国は滅びかけていますが、もう知りません〜  作者: 碓氷さゆ


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第14話 星の光が灯る時

 リリアーナが目を覚ました時、窓の外は薄い朝靄に包まれていた。


 国境砦の朝は、王都よりもずっと静かだった。

 白大理石の床を使用人が磨く音も、貴族たちの馬車が行き交う音もない。代わりに聞こえるのは、遠くの見張り塔から鳴る鐘と、兵士たちが訓練場へ向かう足音、そして風に揺れる黒狼の旗の音だった。


 リリアーナは、寝台の上でゆっくりと瞬きをする。


 一瞬、自分がどこにいるのか分からなかった。


 王宮の寝室ではない。

 地下牢でもない。

 処刑台でもない。


 ヴァレンティス皇国の国境砦。

 白百合と淡紫の花で満たされた、カイゼルが用意してくれた部屋。


 そこまで思い出して、リリアーナは小さく息を吐いた。


 隣の長椅子では、クララが毛布にくるまって眠っている。昨夜、眠る前に「そばにいます」と言ってくれた通り、本当にすぐ近くにいてくれたらしい。


 その姿を見て、胸が温かくなる。


 誰かがそばにいる朝。


 それだけで、こんなにも安心するものだったのだ。


 リリアーナはそっと身体を起こした。


 手首の痛みは、昨日よりも少し引いている。布の下の赤い痕はまだ残っているだろうが、じんじんとした熱はかなり落ち着いていた。


 枕元には水差しと小さな菓子、そして鈴が置かれている。


 何かあれば鳴らすようにと言われていた。


 リリアーナは、その鈴を見つめる。


 呼べば、誰かが来る。


 今の自分には、そんな権利があるのだろうか。

 ただ保護されているだけの身で、客人と呼ばれることに甘えてよいのだろうか。


 そう考えた瞬間、自分で少し呆れた。


 また、役に立てるかどうかを考えている。


 カイゼルにも、クララにも、オルガにも、今は休めと言われたばかりなのに。


「……難しいわね」


 小さく呟く。


 何もしなくていい。


 その言葉は、リリアーナにとって慰めであると同時に、ひどく落ち着かないものでもあった。


 その時、窓の外で鋭い鐘の音が鳴った。


 一度。

 二度。

 三度。


 短く、切迫した音。


 クララがはっと目を覚ます。


「お嬢様?」


「クララ、今の鐘は?」


「分かりません。ですが、普通の朝の鐘ではないような……」


 部屋の外が騒がしくなった。


 兵士たちの足音。

 低く交わされる指示。

 遠くから聞こえる馬のいななき。


 リリアーナは寝台から降りようとした。


 クララが慌てて立ち上がる。


「お嬢様、まだお休みください!」


「でも、何かあったのかもしれません」


「だからといって、お嬢様が出ていく必要は」


 クララの言葉を遮るように、扉が叩かれた。


「リリアーナ様。オルガでございます」


「どうぞ」


 オルガが入ってくる。


 いつもの落ち着いた表情ではあるが、その目には緊張があった。


「お目覚めでしたか」


「今の鐘は、何かあったのですか?」


 オルガは一瞬迷ったようだった。


 だが、リリアーナの目を見て、隠しても意味がないと判断したのだろう。


「砦の北側、森の境界付近に魔物の群れが確認されました」


 クララが息を呑む。


「魔物の群れ……」


「小規模ではありますが、昨日のものより数が多いようです。陛下とラウル卿がすでに防衛に向かわれています」


 カイゼルが。


 リリアーナの胸が強く鳴った。


 昨日、彼が黒炎で魔物を斬り伏せた光景を思い出す。

 圧倒的な力だった。恐ろしくも美しい、闇を燃やすような炎。


 彼なら大丈夫。


 そう思いたい。


 けれど、心配だった。


「私に、何かできることは」


 口にした瞬間、オルガとクララが同時にリリアーナを見た。


 ああ、まただ。


 自分でも分かっている。

 休めと言われているのに、何か役に立つことを探している。


 けれど今の問いは、ただの癖だけではなかった。


 砦の外で誰かが戦っている。

 この部屋で自分だけ守られていることが、どうしても落ち着かなかった。


 オルガは厳しい声で言う。


「リリアーナ様は、お休みになることが今のお役目です」


「分かっています。ですが、砦の中で怪我人が出る可能性はありますか?」


「……出るかもしれません」


「なら、布や水、簡単な手当ての準備ならできます。邪魔にならない場所で構いません。何もしないでいるよりは」


「お嬢様」


 クララが不安げに名を呼ぶ。


 リリアーナはクララを見る。


「無理はしません。約束します。でも、何もしないまま誰かが傷つくのを待つのは、もっと苦しいの」


 その言葉に、クララは口を閉ざした。


 オルガもまた、しばらく黙っていた。


 やがて彼女は小さく息を吐く。


「分かりました。ただし条件がございます」


「はい」


「決して外には出ないこと。医療室の隣にある控え室まで。立ちっぱなしで作業をしないこと。気分が悪くなったら、すぐに休むこと。クララ様と私の指示に従うこと」


「分かりました」


「それから、陛下に叱られる時は私も一緒に叱られます」


 リリアーナは思わず瞬きをした。


「叱られる前提なのですか?」


「陛下はリリアーナ様を休ませるよう命じておられましたので」


「それは……申し訳」


 そこまで言って、リリアーナは口をつぐむ。


 オルガが静かに眉を上げた。


 リリアーナは言い直す。


「……ありがとうございます」


「はい。それでよろしいです」


 クララが小さく笑った。


 リリアーナは手早く身支度を整えた。


 とはいえ、ドレスではなく、オルガが用意してくれた柔らかな室内着に厚手のショールを羽織るだけだ。銀髪も簡単に結び、手首には新しい布を巻いてもらう。


 鏡に映る自分は、王国の公爵令嬢として完璧に整えられた姿とは違っていた。


 けれど、それでもいいと思えた。


 控え室へ向かう途中、廊下の窓から砦の外が見えた。


 北の森の方角に、黒い煙のようなものが上がっている。

 魔物の瘴気だろうか。


 見張り塔の上では兵士たちが弓を構え、城壁の門付近では騎士たちが慌ただしく動いている。


 けれど混乱はない。


 皇国の兵たちは、緊急時でも落ち着いていた。

 指示は短く、動きに無駄がない。誰も叫び散らさず、それぞれの役割を理解している。


 リリアーナはその光景に、皇国という国の強さを垣間見た気がした。


 医療室の隣の控え室には、すでに包帯や清潔な布、水差し、薬草の入った小瓶が運び込まれていた。


 リリアーナはすぐに手を伸ばそうとしたが、オルガに椅子を示される。


「座って作業を」


「……はい」


 クララが布を広げ、リリアーナがそれを扱いやすい幅に畳む。

 オルガは薬草の種類を確認し、必要なものを分けていく。


 作業は単純だった。


 けれど、手を動かしていると少しだけ落ち着いた。


 誰かのために何かをしている。

 その感覚は、リリアーナにとって慣れたものだった。


 ただ、以前とは少し違う。


 王国では、役に立たなければ居場所がないと思っていた。

 今は、居場所がある中で、できることを選んでいる。


 その違いを、まだうまく言葉にできない。


 しばらくすると、廊下の向こうから足音が近づいてきた。


「負傷者です!」


 兵士の声。


 リリアーナの手が止まる。


 医療室へ、腕を負傷した若い兵士が運び込まれてきた。深い傷ではないが、魔物の爪が掠めたのだろう。袖が裂け、血がにじんでいる。


 砦付きの医師が素早く対応を始めた。


「布を!」


 オルガが即座にリリアーナたちが用意した布を渡す。


 若い兵士は痛みに顔を歪めながらも、ふとリリアーナに気づいた。


「リリアーナ様……?」


「動かないでください。今は治療が先です」


 思わずそう言うと、兵士は目を丸くした。


 敵国の令嬢が、兵士にそう声をかけるとは思わなかったのだろう。


 リリアーナは立ち上がりかけ、すぐにオルガに視線で止められる。


 座ったまま、できることをする。


 布を渡し、水差しを近くへ寄せ、医師の指示に従って薬草を選ぶ。


 傷を見ると、七年前の森を思い出した。


 血を流していた少年。

 警戒する金色の瞳。

 白百合のハンカチで押さえた傷。


 あの時も、手は震えていた。


 けれど、止めなかった。


 医師が傷口を押さえ、兵士が歯を食いしばる。


 リリアーナは静かに声をかけた。


「痛むと思います。でも、血は止まります。少しだけ耐えてください」


 兵士の目が揺れた。


 それは、昨日自分がカイゼルに言った言葉に似ていた。


 急に痛いより、少しはましだと思って。


 あの頃の幼い自分が、今もどこかに残っているのかもしれない。


 治療が終わると、兵士は深く頭を下げようとした。


 リリアーナは慌てる。


「頭を下げないでください。傷に障ります」


「ですが、リリアーナ様に」


「私は布を畳んでいただけです。礼なら医師の方へ」


 医師が少し驚いたようにリリアーナを見た。


 オルガはその様子を静かに見守っている。


 兵士は戸惑いながらも、素直に頷いた。


「ありがとうございます。医師殿。リリアーナ様も」


「どうかお大事に」


 その言葉に、兵士の表情が少し和らいだ。


 負傷者は次々に運び込まれた。


 重傷者はいない。

 だが、擦り傷、打撲、軽い裂傷が続く。


 魔物の群れは小型とはいえ、数が多いらしい。城壁付近に近づいたものを騎士たちが押し返しているのだろう。


 リリアーナは約束通り、外へは出なかった。


 座ったまま布を畳み、薬草を分け、必要なものを手元に置く。

 クララも懸命に手伝う。

 オルガは全体を見ながら、時折リリアーナが無理をしすぎないよう目を配っていた。


 どれほど時間が経っただろう。


 外から一際大きな咆哮が響いた。


 砦の窓が震えるほどの声。


 クララが短く悲鳴を上げ、リリアーナの肩もびくりと跳ねた。


「今のは……」


 医師が顔を上げる。


「大型か?」


 廊下の向こうで兵士が叫ぶ。


「北門前に大型魔物! 陛下が対応中!」


 カイゼルが。


 リリアーナは思わず立ち上がった。


 オルガが止めるより早く、窓辺へ向かう。


「リリアーナ様!」


「見るだけです」


 窓から北門の方角が見えた。


 城壁の向こう、森の境界近く。


 黒い巨体が暴れている。


 狼に似た姿。

 だが大きさは馬車ほどもあり、背中から黒い瘴気を噴き上げている。目は赤く、爪が地面を抉るたびに土煙が上がった。


 その前に、カイゼルが立っていた。


 黒い軍装。

 抜かれた剣。

 その刀身を包む黒炎。


 ラウルと騎士たちが周囲を固めているが、魔物の動きは速い。

 咆哮と共に振るわれた前脚を、カイゼルが剣で受け流す。


 黒炎が弾け、瘴気とぶつかって火花のように散った。


 リリアーナの心臓が強く鳴る。


 怖い。


 けれど目を逸らせなかった。


 カイゼルは強い。

 それは分かっている。


 それでも、あの巨大な魔物の前に立つ彼を見て、何も感じずにはいられなかった。


「陛下……」


 呟いた瞬間、魔物が大きく跳躍した。


 騎士たちが叫ぶ。


 カイゼルは避けた。

 だが魔物の爪が彼の左肩を掠める。


 黒い軍服に、赤が走った。


 リリアーナの中で、何かが冷たく弾けた。


「カイゼル様!」


 気づけば、そう呼んでいた。


 陛下ではなく。

 カイゼル様、と。


 その声が届く距離ではないはずだった。


 それでも、カイゼルが一瞬だけこちらを見た気がした。


 次の瞬間、リリアーナの指先に熱が灯った。


 星のような淡い光。


 昨夜見た、あの光。


 だが今回は、一瞬では消えなかった。


 白く、淡く、けれど確かに輝きながら、リリアーナの手のひらに集まっていく。


「お嬢様……?」


 クララの声が震える。


 オルガが息を呑んだ。


「これは」


 リリアーナ自身にも分からなかった。


 けれど、胸の奥から何かが溢れてくる。


 怖い。

 助けたい。

 どうか無事でいてほしい。


 その願いが、形を持ったようだった。


 リリアーナは両手を胸の前で握る。


 七年前、傷ついた少年を助けたいと思った時と同じ。

 処刑台で、クララに手を出さないでほしいと叫んだ時と同じ。


 誰かを見捨てたくない。


 ただ、それだけ。


 手の中の光が、強くなる。


 窓の外へ、白い星の粒が舞った。


 小さな光は風に乗るように飛び、北門の方角へ流れていく。


 次の瞬間、戦場の空気が変わった。


 黒い瘴気をまとっていた魔物が、苦しげに咆哮する。

 リリアーナの光が触れた部分から、瘴気が薄れていく。


 騎士たちが驚きの声を上げる。


「瘴気が弱まったぞ!」


「今だ!」


 ラウルが叫ぶ。


 カイゼルは一瞬だけ空に舞う星の光を見た。


 そして、剣を握り直す。


 黒炎がさらに強く燃え上がった。


 だが今度の炎は、先ほどよりも澄んで見えた。

 リリアーナの星の光に導かれるように、黒炎が瘴気を裂く。


 カイゼルが踏み込む。


 魔物が咆哮する。


 黒炎の剣が、星の光を纏って振り下ろされた。


 一閃。


 巨大な魔物の身体が、黒い霧となって崩れた。


 砦の外に、一瞬だけ静寂が落ちる。


 そして次の瞬間、兵士たちの歓声が上がった。


「陛下!」


「大型を討ち取った!」


「瘴気が消えたぞ!」


 リリアーナは窓辺に立ち尽くしていた。


 手のひらの光は、ゆっくりと弱まっていく。

 力が抜ける。


 足元がふらついた。


「お嬢様!」


 クララが駆け寄る。


 オルガもすぐに支えた。


 リリアーナは椅子に座らされる。


 息が少し上がっていた。

 痛みはない。

 だが、身体の内側から何かが抜けていったような疲労があった。


「私は、何を……」


 震える声で呟く。


 オルガは、リリアーナの手を見つめていた。


 そこにはもう光はない。


 けれど、確かに見た。


 リリアーナの手から星の光が生まれ、魔物の瘴気を払ったのを。


「リリアーナ様」


 オルガの声は、いつもより少し硬かった。


「今の力について、陛下と魔術師に確認していただく必要がございます」


「私は、何か危険なことを?」


「いいえ」


 オルガは即座に否定した。


「少なくとも、今の光は砦を救いました」


 砦を救った。


 その言葉は、あまりに重かった。


 リリアーナは信じられない気持ちで自分の手を見る。


 自分にそんな力があるなど、考えたこともなかった。


 王国では、ミリアが聖女候補だった。

 祈りで人々を癒す、王国に祝福をもたらす存在だと称えられていた。


 一方のリリアーナは、冷たい公爵令嬢。

 悪役令嬢。

 聖女を害した罪人。


 その自分の手から、瘴気を払う光が生まれた。


「どうして……」


 その時、廊下の向こうが騒がしくなった。


 足音。


 いつもより少し速い、重い足音。


 扉が開く。


 カイゼルが入ってきた。


 肩に傷がある。

 軍服の左肩が裂け、血が滲んでいた。


 リリアーナは反射的に立ち上がろうとする。


「カイゼル様、お怪我が」


「君こそ」


 カイゼルの声が、いつもより強かった。


 彼はリリアーナの前まで歩み寄る。


 金色の瞳が、リリアーナの顔色を確かめ、手を見て、呼吸を確認する。


「痛みはあるか」


「ありません」


「気分は」


「少し、力が抜けただけです。それより陛下の肩を」


「私の傷は浅い」


「血が出ています」


「君の方が先だ」


「いいえ、陛下が先です」


 その場が一瞬、静まり返った。


 クララが目を丸くしている。

 オルガがわずかに眉を上げる。

 駆けつけたラウルが入口でにやりと笑った。


「陛下。リリアーナ様のおっしゃる通りです。血を流したまま女性の心配をすると、余計に心配されます」


「ラウル、黙れ」


「はい。ですが治療は受けてください」


 カイゼルは不満げに眉を寄せた。


 リリアーナは、思わずカイゼルの袖を軽く掴んだ。


「お願いです。手当てを受けてください」


 カイゼルの動きが止まる。


 リリアーナ自身も、自分が何をしたかに気づいて手を離そうとする。


 だがカイゼルは、その手を見つめた後、静かに言った。


「分かった」


 ラウルが小さく口笛を吹きそうになり、オルガに睨まれて黙った。


 医師が慌ててカイゼルの肩を確認する。


 傷は確かに深くはなかった。

 だが魔物の爪が掠めたため、周囲に黒い瘴気のようなものがわずかに残っている。


 医師が顔を曇らせる。


「陛下、瘴気が少し入り込んでおります。すぐに処置を」


 その言葉を聞いた瞬間、リリアーナの手がまた熱を帯びた。


 小さな星の光。


 リリアーナは息を呑む。


「また……」


 カイゼルがその光を見る。


 オルガも、ラウルも、医師も、全員の視線が集まった。


 リリアーナは戸惑いながらも、カイゼルの傷へ目を向ける。


 助けたい。


 そう思った。


 その瞬間、手の中の光がふわりと浮かび、カイゼルの肩へ向かう。


 光は傷口に触れた。


 黒い瘴気が、淡い星の光に溶けるように消えていく。


 医師が目を見開いた。


「瘴気が……消えた」


 リリアーナは呆然とする。


 カイゼルは、自分の肩を見るよりも先に、リリアーナを見ていた。


「無理をしていないか」


「……分かりません」


 正直に答えた。


「ただ、陛下の傷を見たら、光が」


 言い終える前に、身体がぐらりと傾く。


 今度はカイゼルがすぐに支えた。


「リリアーナ!」


 低く呼ばれる声。


 その声に、不安と焦りが滲んでいる。


 リリアーナは彼の腕の中で、どうにか目を開けていた。


「大丈夫、です」


 言ってから、カイゼルの眉が寄るのを見て、慌てて言い直す。


「……少し、疲れました」


「そうだろうな」


 カイゼルは短く言い、彼女を抱き上げた。


「陛下、自分で歩けます」


「歩かせない」


 完全な命令だった。


 だが、今は言い返す力もない。


 クララが慌ててついてくる。


「お嬢様!」


「クララ、部屋へ」


 カイゼルが命じる。


 オルガもすぐに頷いた。


「寝台を整えます。医師も同行を」


「はい!」


 医師が慌てて薬箱を持つ。


 ラウルは扉のそばで、先ほどまでの軽さを消していた。


「陛下、外の魔物は片づきました。残りは騎士団で確認します」


「任せる」


「それと、今の光を見た兵たちが騒ぎ始めています」


 カイゼルの目が鋭くなる。


「口を固めろ。リリアーナに余計な視線を向けさせるな」


「承知しました」


 リリアーナはカイゼルの腕の中で、その言葉を聞いていた。


 自分は何をしたのだろう。


 砦を救った。

 カイゼルの瘴気を消した。

 星のような光を出した。


 それは本当に、自分の力なのだろうか。


 怖い。


 けれど、完全な恐怖ではなかった。


 あの光は、誰かを傷つけるものではなかった。

 魔物の瘴気を払い、傷から黒い影を消した。


 助けたいと願った時に生まれた光。


 それなら。


 それなら、自分はまだ、誰かを助けられるのだろうか。


 部屋へ戻され、リリアーナは寝台に下ろされた。


 カイゼルはすぐに離れようとしなかった。

 金色の瞳で、彼女の顔を見つめている。


「リリアーナ」


「はい」


「怖いか」


 その問いに、リリアーナは少しだけ考えた。


 そして、正直に答えた。


「怖いです」


 カイゼルの表情がわずかに曇る。


「でも」


 リリアーナは続けた。


「あの光が、陛下の傷を助けたのなら……少しだけ、よかったとも思います」


 カイゼルは何も言わなかった。


 ただ、リリアーナの手に視線を落とす。


 そこにはもう光はない。


 けれど、カイゼルはその手をひどく大切なものを見るように見つめていた。


「君は、また人を助けようとしたのだな」


 その声は、静かだった。


 リリアーナは目を伏せる。


「ただ、そうしたかっただけです」


 七年前と同じ言葉。


 カイゼルの瞳が揺れた。


 彼は、そっとリリアーナの手に触れた。

 掴むのではない。確かめるように、守るように。


「ならば今度は、君自身も助けろ」


「私自身を?」


「ああ」


 カイゼルは低く言った。


「誰かを助けたいなら、君が倒れては意味がない」


 その言葉は厳しかった。

 けれど、優しかった。


 リリアーナは小さく頷く。


「……はい」


 カイゼルはようやく少しだけ表情を緩めた。


 その時、扉の外からラウルの声がした。


「陛下。砦付きの魔術師が参りました」


 カイゼルの顔が皇帝のものに戻る。


「入れ」


 扉が開き、年老いた魔術師が入ってきた。


 白髪混じりの髪を後ろで結び、深い皺の刻まれた顔をした男だった。

 彼はリリアーナを見るなり、息を呑んだ。


 そして、震える声で呟いた。


「まさか……」


 カイゼルの視線が鋭くなる。


「何か分かるのか」


 老魔術師はゆっくりと膝をついた。


 その場にいた全員が息を呑む。


「陛下」


 老魔術師は、リリアーナの手元を見つめたまま言った。


「この方の光は、ただの治癒魔法ではございません」


 リリアーナの心臓が強く鳴る。


「瘴気を払い、土地の魔を鎮め、命を繋ぐ星の光。古い記録にのみ残る、王国と皇国の境界を守っていた加護」


 カイゼルが低く問う。


「名は」


 老魔術師は、畏れるように答えた。


「星霜の加護でございます」


 部屋の中が、完全に静まり返った。


 星霜の加護。


 その名を聞いた瞬間、リリアーナの手の奥で、また小さな光が灯った。


 まるで、自分の名を呼ばれた星が応えるように。

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