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婚約破棄された悪役令嬢ですが、処刑台の上で敵国皇帝に求婚されました 〜私を捨てた王国は滅びかけていますが、もう知りません〜  作者: 碓氷さゆ


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第13話 幼い日の約束

 カイゼル・ヴァレンティスが初めてリリアーナ・エルフェルトに出会ったのは、七年前の春だった。


 当時のカイゼルは、まだ皇帝ではなかった。

 ヴァレンティス皇国の第三皇子。母の身分は高くなく、皇位継承権こそ持っていたが、周囲からは決して有力な後継者とは見なされていなかった。


 それでも、彼の周囲には常に刃があった。


 兄皇子たちの派閥。

 皇位をめぐる貴族たちの思惑。

 和平を望む者と、戦を望む者。

 笑顔で差し出される杯の中に毒がないと、誰が言い切れるのか。


 幼いカイゼルは、早い段階で理解していた。


 皇族として生きるということは、誰かに命を狙われるということだ。


 だから彼は、他人を信じなかった。


 優しい言葉も、忠誠の誓いも、同情の目も、すべて疑った。

 差し伸べられた手の中に短剣が隠されていないか、笑顔の裏にどんな命令があるのか、それを見抜くことだけが生き延びる術だった。


 そんなカイゼルが、和平交渉の一員としてグランベルク王国を訪れたのは、十二歳の時だった。


 表向きは、王国と皇国の関係改善を目的とした使節団。

 実際には、互いの力を測るための政治的な駆け引きだった。


 王国側は、白く美しい宮殿を誇り、花の香りと音楽でもてなした。

 皇国側は、黒い軍装を崩さず、笑顔の下で警戒を解かなかった。


 カイゼルは使節団の末席に座りながら、王国の貴族たちを観察していた。


 よく笑う。

 よく飾る。

 よく隠す。


 そういう国だと思った。


 皇国では、敵意はもう少し分かりやすい。

 寒さも、魔物も、飢えも、国境の小競り合いも、人を取り繕わせる余裕を奪う。


 だが王国は違った。


 薔薇の香りの中で、人々は美しい言葉を交わす。

 その裏で、相手の失点を数え、誰が誰につくかを計算している。


 カイゼルは、その白く美しい国が好きではなかった。


 息苦しい国だと思った。


 そして三日目の午後、彼は王宮の外れで襲撃を受けた。


 公式には、王宮庭園の見学中だった。


 王国側の案内役が少し離れ、皇国の護衛が不自然な形で分断された。

 その直後、庭園の奥にある林の中から、覆面の男たちが現れた。


 狙いは明らかにカイゼルだった。


 和平を望まぬ王国側の過激派か。

 それとも、皇国内の政敵が王国での死を狙ったのか。


 どちらでもよかった。


 剣が抜かれた瞬間、カイゼルは考えるより先に走っていた。


 護衛の一人が彼を庇い、血を流して倒れる。

 もう一人が敵を引きつける。

 カイゼルは短剣だけを手に、林の奥へ逃げ込んだ。


 春の森は、湿った土の匂いがした。


 前夜に雨が降ったのだろう。足元はぬかるみ、枝葉から落ちる雫が頬を打った。

 背後からは、男たちの足音が追ってくる。


 十二歳の身体には、森は広すぎた。


 息が切れる。

 右腕に痛みが走る。

 見ると、袖が裂け、血が滲んでいた。


 いつ斬られたのかも分からない。


 それでも足を止めれば死ぬ。


 カイゼルは歯を食いしばり、さらに森の奥へ走った。


 やがて足を滑らせ、斜面を転げ落ちた。


 背中を打ち、息が詰まる。

 短剣が手から離れ、湿った落ち葉の上に落ちた。


 しばらく動けなかった。


 遠くで追手の声がする。


「こちらだ!」


「血の跡がある!」


 カイゼルは、どうにか身体を起こす。


 だが、視界が揺れた。


 右腕の傷は思ったより深い。

 額にも痛みがある。

 足首も捻ったらしく、立ち上がろうとすると鋭い痛みが走った。


 このままでは逃げ切れない。


 カイゼルは落ちていた短剣を拾い、近くの大樹の陰へ身を寄せた。


 死ぬかもしれない。


 そう思った。


 だが不思議と、恐怖よりも怒りが先にあった。


 こんな場所で死ぬのか。

 誰が差し向けたのかも分からない刺客に。

 王国の森で。

 和平交渉の道具として連れてこられただけの自分が。


 ふざけるな。


 カイゼルは短剣を握り直した。


 せめて一人は道連れにする。


 そう思った時、草を踏む音がした。


 カイゼルは息を殺す。


 追手か。


 短剣を構え、木陰から気配を窺う。


 だが現れたのは、覆面の男ではなかった。


 白い帽子を被った少女だった。


 年は十歳ほどだろうか。

 淡い藤色の外套をまとい、手には小さな籠を持っている。長い銀髪は緩く結ばれ、雨上がりの森の中で、白い花のように目を引いた。


 貴族の令嬢だ。


 カイゼルはすぐにそう判断した。


 なぜ、こんな場所に一人でいるのか。


 少女は周囲を見回し、足元の赤い跡に気づいたらしい。

 血だ。


 彼女の表情が強張る。


 そのまま逃げるかと思った。


 普通なら、そうする。


 森で血の跡を見つけ、傷ついた見知らぬ少年を見つければ、貴族令嬢なら悲鳴を上げて逃げる。あるいは使用人を呼ぶ。


 だが少女は逃げなかった。


 血の跡を辿り、まっすぐカイゼルの隠れる木へ近づいてくる。


 カイゼルは短剣を握りしめた。


「来るな」


 掠れた声で言った。


 少女の足が止まる。


 彼女は大樹の陰にいるカイゼルを見つけ、目を見開いた。

 淡紫の瞳だった。


 雨上がりの空を映した花のような、静かな色。


「怪我をしているのですか」


 少女が言った。


 怖がっている声ではなかった。


 心配している声だった。


 カイゼルは苛立った。


「来るなと言った」


「でも、血が」


「近づけば斬る」


 カイゼルは短剣を見せる。


 少女は少しだけ目を伏せた。

 だが、逃げなかった。


「斬る力があるなら、もう少し声に力があるはずです」


 カイゼルは一瞬、言葉を失った。


 何を言っているのか、この少女は。


 少女は籠を地面に置き、両手をゆっくり上げて見せた。


「何もしません。手当てだけです」


「信用できるか」


「そうですね。私も、あなたが私を斬らないと完全には信用できません」


 そう言いながらも、彼女は少しずつ近づいてくる。


 カイゼルは短剣を構えたまま、その動きを睨んだ。


 少女は、一定の距離で止まった。


 無理に近づかない。

 けれど立ち去りもしない。


「右腕の傷、深いです。血が止まっていません」


「分かっている」


「止血しないと、動けなくなります」


「お前には関係ない」


「関係はありません」


 少女は、すぐに認めた。


 それから静かに続ける。


「でも、見つけてしまいました」


 カイゼルは眉をひそめる。


「何だ、それは」


「見つけてしまったら、知らなかったことにはできません」


 少女はそう言って、首元から白いハンカチを取り出した。


 端には白百合の刺繍があった。


「それ以上近づくな」


「では、これを投げます。ご自分で巻けますか?」


 カイゼルは右腕を見る。


 血で濡れた袖。

 痺れた指先。


 片手で巻くのは難しい。


 だが、目の前の少女を信用する理由はない。


 迷った一瞬を、彼女は見逃さなかった。


「巻けないのですね」


「黙れ」


「怒る力があるのは良いことです。でも、血は止まりません」


 妙に冷静な少女だった。


 カイゼルは苛立ったが、同時に少しだけ力が抜けた。


 この少女は、何を考えているのか分からない。


 普通の令嬢なら泣く。

 逃げる。

 人を呼ぶ。

 あるいは、皇国の者だと分かれば敵意を向ける。


 だが彼女は、ただ傷を見ている。


 敵か味方かではなく、治療すべき怪我として。


「……お前は誰だ」


 カイゼルが問うと、少女は少し迷ったようだった。


「名乗る前に、あなたも名乗ってくださいますか」


「名乗ると思うか」


「思いません」


「なら聞くな」


「ですが、怪我人の名前が分からないと、呼びかける時に不便です」


 カイゼルは呆れた。


 この状況で、それを気にするのか。


「カイ」


 短く偽名を告げる。


 少女は頷いた。


「カイ様ですね」


「様はいらない」


「怪我人に失礼な呼び方はできません」


「敵かもしれないぞ」


「そうなのですか?」


 少女は首を傾げる。


 カイゼルは少しだけ迷った。

 だが、隠してもすぐに分かるだろうと思った。


「私は皇国の者だ」


 少女の表情が、わずかに強張る。


 やはりか、とカイゼルは思った。


 王国貴族の令嬢なら、皇国の者を恐れる。

 敵国の皇子だとまでは知らずとも、皇国人というだけで警戒するだろう。


 だが少女は、少し沈黙した後、ハンカチを握り直した。


「それでも、血は止めなければなりません」


 カイゼルは目を細める。


「私はお前の国の敵だぞ」


 少女は、まっすぐ彼を見た。


「傷ついた人を見捨てる理由にはなりません」


 その言葉は、雨上がりの森の中で、不思議なほど澄んで響いた。


 カイゼルは何も言えなかった。


 そんな言葉を、信じたことはなかった。


 皇国でなら、傷ついた敵は殺す。

 政敵なら、とどめを刺す。

 弱った者は利用される。

 それが当然だった。


 だが目の前の少女は、そんな当然を知らない顔で、まっすぐに手を伸ばしている。


 愚かだと思った。


 危ういと思った。


 そして、なぜか目が離せなかった。


 カイゼルは短剣を少しだけ下ろした。


「近づけば、本当に斬るかもしれない」


「その時は、私の見る目がなかったということです」


 少女はそう言って、ゆっくりと近づいてきた。


 カイゼルの目の前に膝をつく。

 貴族令嬢の綺麗な外套が、湿った落ち葉に触れた。


 彼女はそれを気にしなかった。


「袖を切っても?」


「勝手にしろ」


「では、失礼します」


 少女は籠から小さな鋏を取り出し、血で濡れた袖を切った。

 手つきは慣れていない。だが丁寧だった。


 傷を見た瞬間、彼女の顔が少し青ざめる。


 それでも手は止めなかった。


「痛みます」


「分かっている」


「いえ、今からもっと痛むという意味です」


「なぜ予告する」


「急に痛いより、少しはましかと」


 その発想に、カイゼルは一瞬だけ笑いそうになった。


 笑わなかったが。


 少女はハンカチを細く折り、傷口の上を強く押さえた。


 鋭い痛みが走る。


「っ」


「すみません。でも押さえます」


「謝るならやめろ」


「やめたら血が止まりません」


「なら謝るな」


「……では、謝りません」


 少女は真剣な顔でそう言った。


 カイゼルは、なぜかその言葉を覚えた。


 謝らない。

 必要なことをする。


 その姿が、小さな令嬢にしてはあまりにもまっすぐだったからかもしれない。


 遠くで追手の声がした。


 少女も気づいたのだろう。

 顔を上げる。


「追われているのですね」


「見れば分かるだろう」


「このままでは見つかります」


「だから何だ」


「隠れ場所があります」


 少女はそう言って、森の奥を指した。


「この先に古い礼拝堂の跡があります。今はほとんど使われていません。壁が崩れているので、裏手から入れます」


「なぜそんな場所を知っている」


「白百合が咲くので、時々見に来ます」


 こんな時に花の話か。


 カイゼルはそう思ったが、今は選択肢がなかった。


「歩けるか分かりません」


 少女が言う。


「歩く」


 カイゼルは短く答えた。


 立ち上がろうとして、足首に痛みが走る。


 身体が傾いた。


 少女が反射的に支えようと手を伸ばす。


「触るな」


「では倒れます」


「倒れない」


「倒れかけています」


 少女は意外と容赦がなかった。


 結局、カイゼルは彼女の肩を借りることになった。


 十二歳の少年と十歳ほどの少女。

 体格はそれほど変わらないとはいえ、負傷したカイゼルを支えるのは大変だったはずだ。


 それでも少女は、文句を言わなかった。


 ただ、ゆっくり歩く。


「お前の名は」


 歩きながら、カイゼルは尋ねた。


 少女は少しだけ迷ったあと、答えた。


「リリアーナです。リリアーナ・エルフェルト」


 エルフェルト。


 王国の名門公爵家。


 カイゼルはその名を知っていた。


「公爵家の娘か」


「はい」


「なら、なおさら私を助けるべきではない」


「そうかもしれません」


 リリアーナは正直に認めた。


「でも、もう助けています」


 カイゼルは今度こそ、かすかに笑った。


 変な令嬢だ。


 礼拝堂跡は、森の奥にひっそりとあった。


 石壁はところどころ崩れ、屋根にも穴が空いている。けれど外からは木々に隠れ、すぐには見つからない場所だった。


 リリアーナは裏手の崩れた壁からカイゼルを中へ入れ、小さな祭壇の陰へ座らせた。


「ここなら、しばらく見つからないと思います」


「お前は」


「私は、追手を別の方向へ誘導します」


「馬鹿か」


 思わず言った。


 リリアーナは目を瞬かせる。


「馬鹿、ですか」


「そうだ。お前が疑われる」


「花を見に来ただけだと言います」


「血のついた外套でか」


 リリアーナは自分の外套を見下ろした。


 確かに、カイゼルの血が少し付いている。


「……転びました」


「無理がある」


「では、薔薇の枝で」


「ここは白百合が咲く場所ではないのか」


「そうでした」


 真剣に考えているのが分かり、カイゼルは頭が痛くなった。


「お前は嘘が下手だな」


「よく言われます」


「ならやめろ」


「でも、このままだとカイ様が見つかります」


 リリアーナは当たり前のように言った。


 カイゼルは彼女を睨む。


「なぜそこまでする」


 リリアーナは答えに困ったようだった。


「なぜ、と言われましても」


「私は敵国の者だ。お前に恩を返せる保証もない。助けたせいでお前が罰を受けるかもしれない」


「そうですね」


「なら、なぜ」


 リリアーナは少し考えた。


 そして、静かに答えた。


「私がそうしたいからです」


 カイゼルは、また言葉を失った。


 そうしたいから。


 義務ではなく。

 命令でもなく。

 利益でもなく。


 ただ、自分がそうしたいから。


 カイゼルには、あまりに遠い言葉だった。


 リリアーナは籠の中から小さな水筒と包みを取り出した。


「これを置いていきます。水と、焼き菓子です。甘いものはお嫌いですか?」


「……嫌いではない」


「よかった」


 リリアーナは少しだけ微笑んだ。


 その微笑は、王国の宮殿で見た大人たちの笑顔とは違った。


 取り繕っていない。

 計算していない。

 ただ、相手が少しでも楽になればいいと願うような笑み。


 カイゼルは目を逸らした。


「お前は、怖くないのか」


「怖いです」


 リリアーナは正直に答えた。


「でも、怖いからといって、今さら見捨てる方がもっと嫌です」


「変な女だ」


「よく分かりませんが、変なのかもしれません」


 怒るでもなく、リリアーナは受け入れた。


 そして、白百合の刺繍が入ったハンカチの端をもう一度結び直す。


「血が止まるまで、できるだけ動かないでください。あと、もし熱が出たら」


「どうしろと」


「……困りますね」


「考えてから言え」


「すみません」


「謝るな」


「あ」


 リリアーナは小さく口を押さえる。


 その仕草があまりに年相応で、カイゼルはなぜか胸の奥が少し緩んだ。


 遠くで声が近づいてくる。


「いたか?」


「こっちにはいない!」


 リリアーナははっと顔を上げた。


「行きます」


「リリアーナ」


 名前を呼ぶと、彼女は振り返った。


 淡紫の瞳が、崩れた礼拝堂の薄暗がりの中でこちらを見る。


 カイゼルは、自分でもなぜそうしたのか分からないまま、腰に下げていた小さな飾りを外した。


 星をかたどった、黒曜石と金の小さな飾り。


 皇国の皇族が持つ護符の一つだった。


「これを持っていろ」


 リリアーナは驚いたように受け取る。


「これは?」


「礼だ」


「いただけません。こんな高価そうなもの」


「持っていろ」


「でも」


「また会った時に返せばいい」


 リリアーナは困ったように護符を見つめた。


「また、会えるでしょうか」


「会う」


 カイゼルは言った。


 それは願いではなく、決定だった。


 リリアーナは少しだけ目を丸くし、それから小さく笑った。


「では、それまでお預かりします」


「ああ」


「カイ様も、どうか生きてください」


 その言葉に、胸の奥が不意に強く鳴った。


 生きろ。


 命令ではなく、祈りのような声だった。


 カイゼルは短く答える。


「当然だ」


 リリアーナは頷き、礼拝堂の外へ駆けていった。


 しばらくして、少女の声が聞こえた。


「あの、こちらに誰か来ませんでしたか?」


「何だ、子どもか」


「白百合を見に来たのです。ですが、森の奥で物音がして……怖くなって」


「物音? どちらだ」


「あちらの方です」


 追手たちの足音が遠ざかっていく。


 カイゼルは祭壇の陰で息を殺しながら、少女の声が遠くなるのを聞いていた。


 嘘が下手だと言ったが、意外とやり遂げたらしい。


 しばらくして、皇国の護衛が彼を発見した。


 リリアーナがそっと王国側の兵に情報を流し、皇国使節団へ伝わるようにしたのだと後で知った。


 カイゼルは無事に皇国へ戻った。


 だが、それからの日々は穏やかではなかった。


 襲撃の真相は曖昧に処理された。

 王国との関係は一時的に悪化し、皇国内でも皇位継承争いが激化した。


 リリアーナへ礼を言いに行く機会など、なかった。


 だが、彼は白百合のハンカチを手放さなかった。


 血で汚れたそれを、誰にも見せずにしまい込んだ。

 星の護符を彼女に預けたまま、必ず取り戻しに行くと決めていた。


 彼女に会うために。


 礼を言うために。


 そしていつしか、それだけではなくなった。


 カイゼルは戦い続けた。


 兄皇子たちが次々と争い、貴族派閥が剣を抜き、皇都の夜に火が上がった。

 毒を盛られ、裏切られ、信じた者を失い、それでも生き残った。


 皇帝となった時、彼は二十歳だった。


 黒狼皇帝。

 氷血皇帝。

 冷酷な支配者。


 そう呼ばれても構わなかった。


 守るためには力がいる。

 大切なものを奪われないためには、誰よりも強くなければならない。


 そしてようやく皇国を安定させた時、彼は王国へ正式な使節を送る準備を始めた。


 リリアーナ・エルフェルトに会うために。


 だが、届いた情報は予想外だった。


 王太子アルヴィスと聖女候補ミリア・ロゼットの接近。

 リリアーナへの悪評。

 王宮内での孤立。

 そして、卒業記念舞踏会で断罪される可能性。


 その報告を受けた時、カイゼルは即座に出立を決めた。


 間に合わなければならない。


 七年前、自分の命を救った少女が、今度は見捨てられようとしている。


 あの時、彼女は言った。


 傷ついた人を見捨てる理由にはなりません、と。


 ならば今度は、自分が行く番だった。


 そしてカイゼルは、処刑台の上でリリアーナを見つけた。


 白と淡紫のドレスは乱れ、手首には拘束の痕があり、銀髪は朝の風に揺れていた。

 それでも彼女は、最後まで顔を上げていた。


 泣かずに。

 折れずに。

 やっていない罪を認めずに。


 ああ、リリアーナだと思った。


 七年前の森で、自分を敵国の皇子ではなく傷ついた人として見た少女。

 そのまっすぐさを、王国は悪女と呼んだのだ。


 許せなかった。


 だが、怒りよりも先に安堵があった。


 間に合った。


 今度は、手を伸ばせた。


 カイゼルは、砦の一室で目を開いた。


 どうやら椅子に座ったまま、短く眠っていたらしい。


 窓の外はまだ暗い。

 砦の夜は静かで、遠くから見張りの足音だけが聞こえる。


 夢を見ていた。


 七年前の森の夢。


 カイゼルは机の上に置かれた小箱を開ける。


 中には、古い白いハンカチが入っていた。

 丁寧に洗われ、保存されているが、端にはわずかに薄い染みが残っている。


 白百合の刺繍。


 リリアーナが巻いてくれたもの。


 カイゼルはそれをしばらく見つめ、それから箱を閉じた。


 星の護符は、まだ彼女の手元にあるのだろうか。


 そう思って、すぐに首を振る。


 今すぐ確かめる必要はない。

 彼女に何かを求める時ではない。


 今はただ、休ませる。


 彼女が自分の意思で歩けるようになるまで、待つ。


 そう決めたばかりだ。


 扉の外で控えめな音がした。


「陛下。オルガでございます」


「入れ」


 オルガが静かに部屋へ入ってくる。


 手には小さな報告書を持っていた。


「リリアーナ様のご様子ですが、夜半に少しうなされました。クララ様がそばにいたため、すぐに落ち着かれています」


「そうか」


「それと、指先の光を再度確認しました」


 カイゼルの表情が鋭くなる。


「状態は」


「眠っている間に一瞬。痛みや発熱は確認されておりません。ただ、魔力反応は通常のものではないと思われます」


「魔術師は」


「砦付きの魔術師を夜明けに呼びます。ただし、リリアーナ様へは不安を与えぬよう説明が必要です」


「ああ」


 カイゼルは頷いた。


「それから、陛下」


「何だ」


 オルガは一瞬だけ迷ったようだった。


 だが、すぐにいつもの侍女長の顔で言う。


「リリアーナ様の部屋の白百合ですが、明日には新しいものと替えます」


「そうか」


「皇都の部屋にも同じ花を用意するよう手配済みです」


「ああ」


「淡紫の花は、季節的に確保が少し難しいですが、温室に確認を」


「必要なだけ用意しろ」


 即答だった。


 オルガは何とも言えない顔をした。


「陛下」


「何だ」


「過不足なく、でございます」


 カイゼルは沈黙した。


「……分かっている」


「本当に?」


「オルガ」


「失礼いたしました」


 オルガは一礼しながらも、どこか満足げだった。


 カイゼルは窓の外へ視線を向ける。


 夜空には星があった。


 皇国の空は王国よりも澄んでいる。

 寒さのせいか、星の光が近く見える。


 その星を見ながら、カイゼルは小さく呟いた。


「リリアーナ」


 七年前、森の奥で聞いた名。


 処刑台の上で、もう一度呼んだ名。


 今度こそ、守る。


 ただし、閉じ込めるためではない。

 彼女が自分で選べるように。


 カイゼルは拳を緩めた。


 皇国の夜は長い。


 だが、朝は必ず来る。


 リリアーナが目を覚ました時、少しでもこの国の空気が息苦しくないものであればいい。


 冷酷皇帝と恐れられる男は、その夜、そんなことを考えながら、再び白百合のハンカチが入った小箱へ視線を落とした。

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