第12話 閑話 侍女長の日記
ヴァレンティス皇国の皇城侍女長、オルガ・シュヴァルツには、長年続けている習慣があった。
一日の終わりに、短く日記をつけること。
それは華やかな趣味ではない。
誰かに見せるためのものでもない。
皇城で起きたこと、陛下のご様子、侍女たちの失敗、来賓の好み、次に整えるべき部屋の状態。そういったものを、淡々と記録するための習慣だった。
皇城という場所は、常に人が動く。
貴族、官僚、騎士、他国の使者。
忠義を胸に抱く者もいれば、笑顔の裏で毒を隠す者もいる。
表情だけを信じていては足元をすくわれる。
言葉だけを信じても、すぐに裏切られる。
だからオルガは、見たものを記録する。
誰が何を言い、どう動き、誰の前でどんな顔をしたか。
そうして積み重ねた記録が、皇城を守る一助になることもあった。
その日の日記に、オルガは最初にこう書いた。
『本日、リリアーナ・エルフェルト様を国境砦にてお迎えする。』
筆先が、そこで一度止まる。
リリアーナ・エルフェルト。
グランベルク王国の公爵令嬢。
王太子アルヴィスの元婚約者。
聖女候補への毒殺未遂、嫌がらせ、聖堂不敬の罪で処刑されかけた令嬢。
皇国側へ届いていた情報だけを並べれば、彼女は非常に危険な人物に見えた。
高位貴族の娘でありながら、敵国皇帝の庇護を受けた女。
王国を混乱させる火種。
皇国にとって利用価値があると同時に、厄介事を運び込む存在。
そう判断する者がいても不思議ではない。
だが、実際に対面したオルガの印象は違った。
『処刑台から救い出された直後とは思えぬほど礼節を保っておられる。ただし、心身ともに相当な疲弊あり。無意識に謝罪を重ねる癖が見られる。自己の苦痛を軽んじる傾向が強い。』
オルガはそこで、少しだけ眉をひそめた。
リリアーナは、確かに美しい令嬢だった。
長い銀髪。
淡紫の瞳。
品のよい所作。
静かで、控えめで、それでいて姿勢に芯がある。
だが、オルガが最初に感じたのは美しさではない。
危うさだった。
細い硝子細工のように、少しでも乱暴に扱えば砕けてしまいそうなのに、本人だけは自分がまだ十分に立てると思っている。傷ついていることを認めず、休むことすら許されないと考えている。
そういう類の危うさ。
皇城には、さまざまな貴族令嬢が来る。
少しの疲労を大げさに訴える者。
望み通りの部屋でなければ機嫌を損ねる者。
使用人を人と思わぬ態度で扱う者。
オルガはそういう者たちを見慣れていた。
だからこそ、リリアーナの異質さはよく分かった。
彼女は望まない。
求めない。
甘えない。
助けられても、まず迷惑をかけたと考える。
それは美徳ではある。
けれど行き過ぎれば、自分を人として扱わないことと同じになる。
『リリアーナ様は、ご自身を守ることに慣れておられない。』
そう書き記して、オルガは小さく息を吐いた。
王国で、いったいどのように扱われていたのか。
すでに報告は受けている。
王太子による公開断罪。
証拠不十分のまま進められた処刑。
実父であるエルフェルト公爵の沈黙。
王妃の黙認。
すべて、皇国から見ても異常だった。
だが、実際にリリアーナを見れば、その異常さはより明確になる。
あれほど自分を抑えることに慣れた少女が、最後まで罪を認めなかった。
処刑台の上でさえ、無実だと口にした。
それは強情などではない。
彼女に残された最後の尊厳だったのだろう。
オルガは次の行に筆を進める。
『悪女と呼ばれた令嬢は、侍女に礼を言い、兵に返礼し、部屋の使用にまで気を遣われた。皇国の客人として迎えられるより先に、他者の負担を案じる方である。』
王国は、この方の何を見ていたのか。
そう思わずにはいられなかった。
部屋に花を飾った時、リリアーナは心から驚いていた。
白百合と淡紫の花。
それは陛下の指示だった。
白百合は必ず。
淡紫の花を添えろ。
香りは強すぎないものを選べ。
彼女は疲れているだろうから、目にうるさくならぬよう、控えめに整えろ。
陛下がそこまで細かく客室の花を指定するなど、オルガの長い侍女長人生でも初めてのことだった。
しかも、理由を問えばこう答えた。
『彼女が好きだと言っていた』
いつの話かと尋ねれば、七年前だという。
七年前。
オルガは思わず聞き返しそうになった。
七年前に交わしたささやかな会話を、陛下は覚えていたのか。
しかも、その令嬢を迎える部屋に同じ花を用意するために。
カイゼル・ヴァレンティス皇帝は、冷酷な皇帝と呼ばれている。
それは半分、事実だ。
敵には容赦しない。
裏切りを許さない。
戦場ではためらわない。
皇位継承争いの中で、陛下は多くの血を見てきた。
だが、陛下は情を知らない方ではない。
むしろ、一度懐に入れたものを恐ろしく大切にする。
大切にしすぎて、加減を間違えることもある。
問題は、それを表に出すのが非常に下手なことだった。
『陛下、リリアーナ様への配慮過多。ご本人は自覚薄し。』
オルガはそう書き、少しだけ口元を緩めた。
国境砦へ到着してからの陛下は、実に分かりやすかった。
リリアーナ様が寒いと言えば即座に毛布。
顔色を確認。
食事量を確認。
手首の傷を確認。
クララという侍女の扱いにも気を配る。
それ自体はよい。
よいのだが、言葉が足りない。
『休め』
『謝るな』
『寒いなら寒いと言え』
お優しいのは分かる。
だが、もう少し言い方というものがある。
オルガは、明日以降の課題として心の中に書き加えた。
陛下には、もう少し柔らかい言葉を覚えていただく必要がある。
ただ、リリアーナ様には不思議と伝わっているようだった。
怯えてはいない。
緊張はしている。戸惑ってもいる。けれど陛下の言葉の奥にあるものを、少しずつ受け取ろうとしている。
それが救いだった。
オルガは日記帳を閉じかけ、ふと手を止める。
そして、もう一行だけ書き足した。
『リリアーナ様には、泣く場所が必要。』
王国には、それがなかったのだろう。
泣けば冷たいと言われる。
泣かねば悪女と言われる。
正論を口にすれば心がないと言われる。
黙れば罪を認めたと扱われる。
そのような場所で、少女がどうやって傷つけばよかったというのか。
オルガは日記帳を閉じた。
部屋の外には、夜の砦の静けさが広がっている。
窓の外を見れば、黒い城壁の上で兵士たちが見張りに立っていた。夜風に黒狼の旗が揺れる。
ここは厳しい国だ。
王国のような華やかさはない。
春の庭園も、舞踏会のシャンデリアも、甘い社交辞令も少ない。
だが、少なくとも皇国は、働く者の働きを見る。
戦う者の傷を知る。
守られる者だけでなく、守る者の痛みも理解する国だ。
リリアーナ様がここで息をつけるかは、まだ分からない。
けれど、王国で処刑されるよりはずっといい。
オルガは立ち上がり、リリアーナの部屋へ向かった。
廊下には魔石灯の青白い光が落ちている。
扉の前には、陛下の命で配置された騎士が立っていた。
「お変わりは?」
オルガが尋ねると、騎士は姿勢を正す。
「今のところ、何も」
「そう」
オルガは小さく頷き、そっと扉を叩いた。
中から、クララの控えめな声が返る。
「はい」
「オルガです。リリアーナ様のご様子を確認いたします」
扉を開けると、部屋の中には白百合の穏やかな香りが漂っていた。
リリアーナは寝台に横になっている。
銀髪はほどかれ、白い寝衣に着替え、肩まで布団をかけられていた。
眠っている。
だが、その眉はわずかに寄っていた。
クララが寝台のそばで椅子に座っている。
その顔にも疲労はあるが、リリアーナの手を握ったまま離そうとしない。
「眠られたのですね」
オルガが小声で言うと、クララは頷いた。
「はい。でも、時々苦しそうにされます」
「悪夢でしょう」
「やはり……」
クララの顔が曇る。
「私、起こした方がいいのか、迷ってしまって」
「ひどくうなされるようなら起こして構いません。ですが今は、眠りが浅いだけのようです」
オルガは寝台へ近づき、リリアーナの顔色を確認した。
まだ青白い。
手首の傷は熱を持ってはいない。
呼吸は少し浅いが、乱れてはいなかった。
しかし、痛々しいほど力が抜けきっていない。
眠っているのに、どこか身構えている。
オルガは胸の奥が重くなるのを感じた。
眠る時でさえ、安心しきれないのだろう。
「クララ様」
「はい」
「あなたもお休みなさい。このままでは倒れます」
「でも、お嬢様が」
「私が交代します」
クララは迷うようにリリアーナを見る。
オルガはその不安を理解した。
クララにとっても、昨日から今日にかけては悪夢のような時間だったはずだ。主人が処刑されかけ、自分も王国に逆らい、今は敵国の砦にいる。
主人から離れるのが怖いのだろう。
「隣の控えの間で休めるようにしてあります。何かあればすぐ呼びます」
「本当に、すぐですよ?」
「もちろんです」
クララはようやく頷いた。
「では、少しだけ……」
「ええ。少しではなく、きちんと」
オルガの言葉に、クララは少しだけ背筋を伸ばす。
「はい」
彼女がそっとリリアーナの手を離そうとした瞬間、眠っていたリリアーナの指がぴくりと動いた。
「……クララ」
かすれた声。
クララはすぐに身を乗り出した。
「はい、お嬢様。ここにいます」
「行かないで……」
その言葉は、幼い子どものようだった。
普段のリリアーナなら、絶対に口にしないだろう。
眠りの中だからこぼれた本音。
クララの目に、また涙が浮かぶ。
「行きません。どこにも行きません」
リリアーナは目を覚ましていないようだった。
ただ、クララの手を探すように指を動かす。
クララはすぐにその手を握った。
オルガは静かに見守った。
これは、引き離してはいけない。
そう判断する。
「クララ様。今夜は、この部屋の長椅子でお休みなさい」
「よろしいのですか?」
「ええ。ですが椅子に座ったまま眠るのは禁止です。身体を壊します」
「はい」
クララはほっとしたように頷く。
オルガはすぐに控えの侍女へ毛布と枕を用意させた。
クララが寝台のそばの長椅子に横になり、リリアーナの手が届く位置に落ち着くと、リリアーナの眉間の皺がほんの少し緩んだ。
それを見て、オルガは胸の中で小さく息を吐く。
この令嬢には、まず安心が必要だ。
教育でも、役割でも、求婚への返答でもない。
ただ、自分が眠っても世界が壊れないと知る時間が必要なのだ。
部屋を出る前、オルガは窓辺の花を確認した。
白百合は静かに咲いている。
淡紫の花は魔石灯の光を受け、夜の中でかすかに色を帯びていた。
ふと、リリアーナの指先に小さな光が灯った。
星のような淡い光。
ほんの一瞬だった。
オルガは目を細める。
見間違いではない。
けれど光はすぐに消え、リリアーナは静かに眠り続けている。
「……これは」
オルガは声に出しかけて、口を閉じた。
魔術師ではない自分が軽々しく判断すべきではない。
だが、ただの魔力の揺らぎとも思えなかった。
明日、陛下へ報告する必要がある。
そう決め、オルガは部屋を出た。
廊下に出ると、少し離れたところにカイゼルが立っていた。
扉の前ではない。
だが、明らかにこの部屋を気にしていた距離だった。
オルガは深く礼をする。
「陛下」
「眠っているか」
「はい。クララ様も同室で休ませております」
「そうか」
カイゼルの声に、わずかな安堵が混じる。
オルガはそれを聞き逃さなかった。
「リリアーナ様は、まだ眠りが浅いご様子です」
「悪夢か」
「おそらく」
カイゼルの表情が冷える。
その怒りが誰に向けられているのか、オルガには分かった。
王国。
王太子。
彼女を処刑台へ立たせた者たち。
だが、オルガは静かに告げる。
「陛下。今は怒りより、休息を」
「分かっている」
「本当に?」
皇帝に向けるには少々不敬な問いだったが、オルガは昔からこの程度は言う。
カイゼルは短く沈黙した。
「……分かっている」
「ならばよろしいかと」
オルガは頷く。
「リリアーナ様は、何かを返さねば、役に立たねば、とお考えになる方です。陛下が焦れば、それすら自分の責務と受け取られるでしょう」
カイゼルの眉がわずかに動く。
「焦らせるつもりはない」
「ええ。陛下にそのつもりがないことは存じております。ただ、陛下の言葉は時折、命令に聞こえます」
「……皇帝だからな」
「求婚相手にまで常に皇帝でいる必要はございません」
カイゼルが黙った。
オルガはもう一礼する。
「失礼を申し上げました」
「いや」
カイゼルは、閉じられた扉を見た。
「続けろ」
オルガは内心で少しだけ驚いた。
陛下が、この手の忠告を受け入れようとしている。
それだけでも、リリアーナという令嬢が彼にとってどれほど特別なのか分かる。
「リリアーナ様には、選ばせることが必要です」
「選ばせる?」
「はい。何を食べるか。いつ休むか。誰をそばに置くか。どこまで話すか。些細なことからで構いません」
オルガは静かに続けた。
「あの方は、おそらく長く他人の望む答えを選んでこられた。ご自身の望みを問われることに慣れておられません」
カイゼルの瞳が深くなる。
「……そうだな」
「陛下が守ることは必要です。ですが、守るあまりすべてを決めてしまえば、王国での扱いと形だけ似てしまいます」
「それは避ける」
即答だった。
オルガは頷いた。
「でしたら、待つことです」
「待つのは得意ではない」
「存じております」
「だが、待つ」
その声には、静かな決意があった。
オルガは、わずかに表情を和らげる。
「それがよろしいかと」
カイゼルは、しばらく扉を見つめていた。
「オルガ」
「はい」
「明日、宮廷魔術師を呼べ。彼女の指先に光が出ていた」
「私も先ほど確認いたしました」
カイゼルの目が鋭くなる。
「いつ」
「眠っておられる時に一瞬。星のような淡い光でした」
「やはり、加護か」
「可能性はございます。ただ、断定は魔術師の判断を待つべきです」
「ああ」
カイゼルは頷いた。
「彼女に不安を与えない形で調べる」
「そのように手配いたします」
オルガは再び礼をした。
「陛下もお休みくださいませ」
「私は」
「お休みくださいませ」
今度は少し強く言う。
カイゼルは黙った。
そして、渋々といった様子で頷く。
「分かった」
「本当に?」
「オルガ」
「失礼いたしました」
そう言いながらも、オルガは内心で少しだけ満足した。
陛下もまた、休むことが下手な方だ。
もしかすると、あの二人は似ているのかもしれない。
片方は役目のために自分を削り、もう片方は守るために自分を削る。
だからこそ、互いに相手の痛みに気づく。
それがよい方向へ向かえばいい。
オルガはそう思いながら、自室へ戻った。
日記帳をもう一度開く。
そして最後に、こう書き足した。
『王国は、見る目を持たなかった。皇国は、どうか見誤らぬように。』
筆を置き、灯りを落とす。
砦の夜は深い。
白百合の香りが漂う部屋で、リリアーナは眠っている。
その扉の外では、皇国の騎士が静かに見張りに立ち、少し離れた場所では黒狼皇帝がまだ去りきれずに足を止めている。
悪女と呼ばれた令嬢は、今夜初めて、裁かれるためではなく守られるための夜を迎えた。
そしてその眠りの中で、彼女の指先には、また一瞬だけ星の光が灯った。




