第11話 冷酷皇帝の不器用な優しさ
ヴァレンティス皇国の国境砦は、王国の城とは何もかもが違っていた。
グランベルク王国の王宮が白大理石と金の装飾で美しさを誇る場所だとすれば、皇国の砦は黒灰色の石と鉄で築かれた、守るための場所だった。余分な飾りはほとんどない。壁は厚く、門は重く、見張り塔には弓兵が配置され、城壁の上では黒狼の旗が冷たい風にはためいている。
けれど、その厳しさは不思議と不快ではなかった。
ここは美しく見せるための場所ではない。
生き延びるための場所なのだ。
リリアーナは馬車の窓から外を見つめながら、そんなことを思った。
砦の中庭には、皇国の兵士たちが整列していた。カイゼルの帰還を迎えるためだろう。全員が黒を基調とした軍装に身を包み、背筋を伸ばしている。
馬車が止まると、外からラウルの声がした。
「到着です。リリアーナ様、足元にお気をつけください」
扉が開く。
先にカイゼルが降り、当然のようにリリアーナへ手を差し出した。
リリアーナは一瞬だけその手を見つめる。
まだ、慣れない。
王国では、エスコートは形式だった。
王太子の婚約者として、公の場で手を取ることはあっても、それは儀礼の一部にすぎなかった。
けれどカイゼルの手は違う。
差し出されるたびに、彼が本当に支えようとしてくれていることが分かる。だからこそ、戸惑ってしまう。
「リリアーナ」
低い声で名を呼ばれ、リリアーナは我に返った。
「はい」
カイゼルの手を取り、馬車を降りる。
石畳に足をつけた瞬間、思っていたよりも冷たい空気が頬を撫でた。王都よりも明らかに気温が低い。リリアーナは無意識に肩をすくめる。
その動きを見たカイゼルが、すぐに眉をひそめた。
「寒いか」
「少しだけです」
「ラウル」
「はいはい、毛布ですね」
「まだ言っていない」
「お顔に書いてありました」
ラウルは慣れた様子で近くの兵に指示を出す。
リリアーナは慌てた。
「いえ、本当に大丈夫です。外套もお借りしていますし」
「君の大丈夫は信用できない」
カイゼルは即答した。
あまりにはっきり言われ、リリアーナは言葉を失う。
クララが馬車から降りながら、深く頷いた。
「陛下のおっしゃる通りです」
「クララまで」
「お嬢様は、具合が悪くても大丈夫と仰います。倒れそうでも大丈夫と仰います。処刑台へ連れていかれる時でさえ、大丈夫と仰る方です」
「それは……」
反論しようとして、できなかった。
事実だった。
リリアーナが黙ると、カイゼルは短く言った。
「だから、寒いなら寒いと言え」
命令のような口調。
けれど、その奥にあるのは心配だ。
リリアーナは少しだけ迷い、それから小さく頷いた。
「……寒いです」
言ってから、胸の奥が妙にそわそわした。
こんな些細なことを口にするだけで、なぜこんなにも勇気がいるのだろう。
カイゼルは満足したように頷く。
「分かった」
すぐに兵士が厚手の毛布を持ってきた。カイゼルはそれを受け取り、リリアーナの肩にかける。
兵士たちの視線が一斉にこちらへ集まった。
リリアーナは頬が熱くなる。
「陛下、自分でできます」
「遅い」
「遅い……?」
「私がかけた方が早い」
確かに早かった。
けれど、それでよいのだろうか。
皇帝が、敵国出身の令嬢に毛布をかける。
その光景に、皇国の兵士たちは困惑しているのではないか。
そう思って周囲を見れば、兵士たちは驚きこそ浮かべていたが、嘲りや不快感は見せていなかった。むしろ何人かは、何かを理解したように静かに視線を伏せる。
ラウルが楽しそうに咳払いした。
「陛下、砦の者たちが固まっております」
「放っておけ」
「承知しました。では皆、見なかったことに」
ラウルが冗談めかして言うと、兵士たちは一斉に姿勢を正した。
「はっ!」
声が揃う。
リリアーナは思わず瞬きをした。
クララが小声で囁く。
「皇国の方々、少し面白いですね」
「ええ……そうね」
もっと怖い場所だと思っていた。
けれど、少なくとも今目の前にいる者たちは、厳しくとも温かい。
リリアーナは毛布の端を握りしめ、小さく息を吐いた。
その時、砦の建物の入口から、一人の女性が現れた。
年齢は四十代半ばほど。黒に近い濃茶の髪をきっちりとまとめ、深緑の瞳をした、凛とした女性だった。黒を基調にした侍女服は質素ながらも上品で、胸元には銀のブローチが光っている。
彼女はカイゼルの前まで来ると、深く一礼した。
「陛下。ご無事のご帰還、何よりでございます」
「ああ。オルガ、部屋は」
「整えてございます」
オルガと呼ばれた女性は、次にリリアーナへ向き直った。
その視線は鋭い。
だが、不思議と冷たくはなかった。
「リリアーナ・エルフェルト様でございますね。私はオルガ・シュヴァルツ。皇城侍女長を務めております。現在は陛下の命により、国境砦にてお迎えの準備をしておりました」
皇城侍女長。
リリアーナは驚いた。
皇都の城にいるべき侍女長が、わざわざ国境砦まで来ている。
それが何を意味するのか、分からないほどリリアーナは鈍くなかった。
「はじめまして。リリアーナ・エルフェルトです。このたびは、ご迷惑をおかけいたします」
リリアーナは丁寧に礼をした。
その瞬間、カイゼルの視線が少し鋭くなる。
しまった、とリリアーナは思った。
また謝ってしまった。
けれどオルガは、ほんのわずかに目を細めただけで、落ち着いた声で言った。
「迷惑ではございません。陛下より、リリアーナ様を丁重にお迎えするよう仰せつかっております」
「ですが、私は敵国の」
「陛下のお客様でございます」
オルガの声は静かだったが、有無を言わせない強さがあった。
リリアーナは言葉を止める。
「そして、ひどくお疲れのご様子です。詳しいご挨拶は後ほど。まずはお部屋へご案内いたします」
「いえ、私は」
「リリアーナ」
カイゼルが名を呼ぶ。
低く、短い。
リリアーナは反射的に背筋を伸ばした。
「はい」
「休め」
命令だった。
間違いなく命令だった。
クララが隣で小さく頷いている。
オルガも当然のように待っている。
リリアーナは少しだけ困ってから、小さく頷いた。
「……分かりました」
カイゼルの眉間の皺が、わずかに薄くなった。
オルガに案内され、リリアーナは砦の中へ入った。
内部は外観と同じく、無駄のない造りだった。廊下は広く、石壁には魔石灯が一定の間隔で灯っている。王宮のような華美な装飾はないが、清潔でよく手入れされていた。
兵士や使用人たちはリリアーナを見るたびに礼をする。
そのたびにリリアーナも返礼しようとして、オルガにやんわり止められた。
「リリアーナ様。今は返礼よりも、足を止めずにお進みくださいませ」
「ですが、礼をいただいて何も返さないのは」
「皆、陛下の客人であるあなた様をお迎えしているだけでございます。お気持ちは伝わっております」
「……はい」
オルガの言い方は厳しいが、責めているわけではない。
むしろ、リリアーナが無理をしようとするたび、先回りして止めてくれているようだった。
クララが小声で言う。
「お嬢様、オルガ様はすごい方ですね」
「ええ」
リリアーナも同意する。
王宮の侍女長たちは、礼儀作法に厳しい者が多かった。だがオルガの厳しさは、誰かを萎縮させるためのものではない。守るための線を引いているのだ。
やがて案内されたのは、砦の奥にある客室だった。
扉が開かれた瞬間、リリアーナは息を呑んだ。
部屋の中は、花で満ちていた。
砦の無骨な石造りの部屋だというのに、窓辺には白百合が飾られ、机には淡紫の小花が生けられている。寝台のそばには薄い香りのする花束が置かれ、壁際の棚にも控えめな花瓶が並んでいた。
白と淡紫。
リリアーナが幼い頃から好きだった色。
胸の奥が、静かに震えた。
「これは……」
リリアーナは言葉を失う。
オルガが穏やかに告げた。
「陛下より、白百合と淡紫の花を用意するよう命じられておりました」
「陛下が?」
「はい。可能な限り、香りの強すぎないものを。花粉が衣服につきにくいものを。白百合は必ず、と」
リリアーナは、カイゼルを振り返った。
彼は少し離れたところに立っている。
表情はいつも通り読みにくい。
「……覚えていらしたのですか」
「何を」
「私が、白百合が好きだと言ったこと」
七年前の記憶。
森の中で、傷ついた少年を匿った時。リリアーナは確か、持っていたハンカチに刺繍された白百合を見られて、好きな花なのかと尋ねられた。
そんな小さな会話だった。
自分でさえ、今の今まで忘れていたほどの。
カイゼルは短く答える。
「覚えている」
たったそれだけ。
けれど、リリアーナの胸には十分すぎた。
誰かが、自分の好きなものを覚えていてくれた。
利用価値でもなく、役目でもなく、成績でもなく。
ただ、好きだと言った花を。
それが、こんなにも心を揺らすものだとは思わなかった。
「ありがとうございます」
リリアーナの声は、少し震えていた。
カイゼルは一瞬だけ視線を逸らす。
「ああ」
ラウルなら何か言いそうな場面だったが、幸いこの場にはいない。
代わりに、クララが完全に涙ぐんでいた。
「お嬢様、よかったですね」
「クララ、また泣いているわ」
「これは嬉し涙です」
クララの涙には種類が多い。
リリアーナは少しだけ笑いそうになった。
オルガは部屋の中へ進み、淡々と説明を始める。
「こちらの寝台は暖を取りやすいよう、壁から少し離してございます。湯浴みの準備も整えておりますが、体力が落ちていると思われますので、まずは温めた布でお身体を拭く程度がよろしいかと。お食事は消化のよいものを厨房に命じております」
「そこまでしていただいて、本当に」
申し訳ありません、と言いかけて、リリアーナは口をつぐんだ。
カイゼルの視線を感じたからだ。
オルガも、すぐに察したように言う。
「礼は受け取りますが、謝罪は不要でございます」
リリアーナは困ったように微笑んだ。
「……皆様に先回りされてしまいますね」
「リリアーナ様が謝り癖をお持ちだと、陛下より伺っております」
リリアーナは思わずカイゼルを見た。
「陛下」
「事実だ」
「そうですが」
「直すには周囲の協力が必要だ」
彼は真顔で言った。
クララが深く頷く。
「私も協力いたします」
「クララまで」
「お嬢様のためですので」
リリアーナは、もう反論する気力を失った。
けれど、不思議と嫌ではなかった。
謝らないように気をつけなければならない。
それは慣れないことだが、同時に、自分が必要以上に小さくならないよう周囲が守ってくれているようにも感じる。
オルガはリリアーナの様子を見て、少しだけ表情を和らげた。
「リリアーナ様。まずはお掛けくださいませ」
「はい」
リリアーナは勧められるまま椅子に座った。
椅子の背には柔らかな布がかけられている。
冷えないようにとの配慮だろう。
クララがすぐそばに控えようとすると、オルガが声をかけた。
「クララ様」
「は、はい!」
突然名前を呼ばれ、クララが背筋を伸ばす。
「あなた様のお部屋も隣に用意しております」
「私の部屋、ですか?」
「リリアーナ様付きの侍女として、こちらで休めるよう整えてございます。衣服も仮のものになりますが、用意いたしました」
クララは目を見開いた。
「私まで……」
「陛下のご命令です」
クララがカイゼルを見る。
カイゼルは当然のように言った。
「君も疲れている」
クララの顔がくしゃりと歪んだ。
「ありがとうございます、陛下」
「ああ」
「でも、私はお嬢様のお世話を」
「休め」
カイゼルの短い命令が飛ぶ。
クララがぴたりと固まる。
リリアーナは思わず口元を押さえた。
自分だけでなくクララにも同じ調子なのだ。
オルガが静かに補足する。
「リリアーナ様のお世話は、クララ様と私どもで分担いたします。侍女が倒れては、主も心を痛めます」
それを聞いたクララは、はっとしたようにリリアーナを見る。
リリアーナは頷いた。
「クララ。あなたも休んで。私が気にしてしまうわ」
「……分かりました。でも、お嬢様のそばにはいます」
「もちろん」
クララはようやく納得したようだった。
その時、リリアーナはふと思い出す。
「陛下」
「何だ」
「私は、この部屋を使わせていただいて本当によろしいのでしょうか」
カイゼルの眉がわずかに寄る。
「なぜだ」
「ここは砦なのでしょう。兵の方々や、怪我をされた方が優先されるべきでは」
その場の空気が、少しだけ止まった。
オルガがゆっくりと瞬きをする。
クララは慣れているのか、どこか誇らしげな顔をした。
カイゼルは、リリアーナをじっと見た。
「この部屋は客室だ」
「ですが、緊急時には医療室などに使えるのではないかと」
「現在、その必要はない」
「そうですか」
リリアーナはほっと息を吐いた。
「なら、ありがたく使わせていただきます」
カイゼルはしばらく何も言わなかった。
リリアーナが不思議に思って見上げると、彼は低く呟いた。
「王国は、本当に何を見ていたのだ」
「え?」
「いや」
カイゼルは目を伏せた。
「何でもない」
何でもない声ではなかった。
リリアーナは、何か言おうとして口を開く。
けれどその前に、オルガが手際よく場を動かした。
「陛下。リリアーナ様にはお休みが必要です。ご用件がなければ、ここからは女性の支度となります」
カイゼルはわずかに眉を動かす。
「分かっている」
「陛下がいらっしゃると、リリアーナ様が休めません」
「なぜだ」
カイゼルは真顔で尋ねた。
オルガは全く動じなかった。
「緊張なさるからでございます」
あまりにもはっきり言われ、リリアーナの頬に熱が集まる。
カイゼルがリリアーナを見る。
「緊張するのか」
「……少し」
正直に答えると、カイゼルは何かを考えるように黙った。
そして一歩下がる。
「分かった。休め」
短い。
けれど、彼なりの配慮だと分かった。
「ありがとうございます、陛下」
「ああ」
カイゼルは扉へ向かいかけ、途中で足を止める。
「リリアーナ」
「はい」
「何かあれば呼べ。オルガでも、クララでも、私でもいい」
リリアーナは小さく頷いた。
「はい」
「一人で抱えるな」
その言葉に、胸がまた温かくなる。
「……はい」
今度は、先ほどより少しだけ素直に頷けた。
カイゼルが部屋を出る。
扉が閉まると、部屋の空気が少しだけ柔らかくなった。
オルガはすぐにクララへ指示を出す。
「クララ様。まずはリリアーナ様の髪を解きましょう。その後、湯で温めた布を。着替えは負担の少ないものを選びます」
「はい!」
クララは慌てて動き始める。
リリアーナは椅子に座ったまま、部屋の花々を見渡した。
白百合。
淡紫の小花。
香りの穏やかな花束。
どれも、自分を休ませるために用意されたもの。
役に立つための部屋ではない。
責務を果たすための部屋でもない。
ただ、リリアーナが休むための部屋。
その事実が、まだ少し信じられなかった。
「リリアーナ様」
オルガが静かに声をかける。
「はい」
「ここでは、泣いてもよろしいのです」
リリアーナは息を止めた。
オルガは、手元の布を整えながら続ける。
「怒っても、眠っても、食べられなくても、誰もあなた様を責めません。もちろん、無理に泣く必要もございません。ただ、泣いてはいけない場所ではありません」
リリアーナの喉が震えた。
昨日から、何度も涙はこぼれた。
けれどまだ、どこかで自分を抑えていた。
泣いたら壊れてしまいそうだった。
泣いたら、二度と立ち上がれなくなりそうだった。
「私は……」
声が掠れる。
「私は、まだよく分からないのです。悲しいのか、悔しいのか、ほっとしているのか。父に会っても、怒りたいのか、縋りたいのか、自分でも分かりませんでした」
「はい」
オルガは静かに相槌を打つ。
「王国へ戻りたいとは思いません。けれど、あの国で過ごした時間がすべてなくなるわけでもありません。私は、どうすれば……」
「どうもしなくてよろしいかと」
オルガの答えは、落ち着いていた。
リリアーナは顔を上げる。
「どうもしなくて、よいのですか」
「傷は、受けた直後に形が分からぬものです。痛みが強すぎると、どこが痛いのかさえ分かりません。今は答えを急ぐ時ではございません」
その言葉は、侍女長というより、長く人を見てきた大人の女性の言葉だった。
リリアーナは、ゆっくり息を吐く。
「私は、答えを急ぎすぎていたのでしょうか」
「おそらく。リリアーナ様は、ご自分が傷ついている最中にも、次に何をすべきか考えておられます」
「それは、考えなければ」
「考えなくても、夜は明けます」
リリアーナは目を瞬かせた。
オルガは少しだけ微笑む。
「少なくとも、今夜くらいは」
その言葉に、リリアーナの中で何かが少しだけほどけた。
クララが背後で小さく鼻をすすっている。
「クララ」
「すみません……オルガ様のお言葉が優しくて」
「泣いてばかりね」
「これは、感動の涙です」
また種類が増えた。
リリアーナは、今度こそ小さく笑った。
髪飾りが外され、編み込まれていた銀髪がほどかれていく。
肩に落ちる髪が、少し軽く感じた。
クララが丁寧に櫛を通し、オルガが温めた布で手首を包んでくれる。
その温かさに、リリアーナは目を閉じた。
誰かに世話をされることが、こんなに心細くなく、こんなに安心できるものだったなんて。
王国にいた頃のリリアーナは、世話を受ける時でさえ完璧な令嬢であろうとしていた。
侍女が困らないように。
誰にも隙を見せないように。
いつでも整っているように。
今は、少しだけ違う。
疲れたまま座っている。
髪も乱れている。
手首には傷がある。
目元もきっと赤い。
それでも、誰も彼女を責めない。
「……温かい」
小さく呟くと、クララが微笑んだ。
「はい」
オルガも穏やかに頷く。
「今夜は、ゆっくりお休みくださいませ」
リリアーナは目を閉じたまま、小さく頷いた。
その頃、部屋の外では、カイゼルが扉の前にしばらく立っていた。
ラウルが少し離れたところから声をかける。
「陛下。そんなに気になるなら、中に残ればよかったのでは?」
「オルガに追い出された」
「でしょうね」
ラウルは笑いをこらえながら頷く。
「リリアーナ様は、少し落ち着かれたようですね」
「ああ」
カイゼルの声は低い。
彼は閉じられた扉を見つめたまま言った。
「だが、傷は深い」
「でしょうね。処刑台に立たされた上に、家族にも王家にも見捨てられたわけですから」
ラウルの声から軽さが消える。
「王国は、相当まずいことをしましたね」
「まずいで済ませる気はない」
カイゼルの金色の瞳が冷える。
「彼女にかけられた罪の証拠をすべて洗う。ミリア・ロゼット、その背後にいる者、王太子、法務官、神殿関係者。関わった者を調べろ」
「すでに部下を動かしています」
「早いな」
「陛下がそう命じる顔をしていましたので」
カイゼルはラウルを一瞥した。
「顔で命令していたか」
「かなり」
ラウルは真面目な顔で答える。
カイゼルは否定しなかった。
「それと、皇都へ先触れを出せ。リリアーナの部屋を整えさせろ」
「承知しました。白百合と淡紫の花ですね」
「ああ。香りは強すぎないものを」
「花粉が衣服につきにくいもの」
「そうだ」
「寝具は柔らかく、部屋は冷えすぎず、茶葉は刺激の少ないもの」
「……お前はなぜ知っている」
「昨夜、陛下が全部おっしゃっていました」
カイゼルは黙った。
ラウルはにやりと笑う。
「陛下」
「何だ」
「それ、溺愛というやつでは?」
次の瞬間、カイゼルの視線が鋭くなった。
ラウルはすぐに姿勢を正す。
「失礼いたしました。職務に戻ります」
「戻れ」
「はいはい」
ラウルは笑いながら去っていく。
カイゼルは再び、リリアーナの部屋の扉を見た。
処刑台の上で、彼女は最後まで泣かなかった。
父に捨てられ、王太子に断罪され、民衆に悪女と罵られても、それでも背筋を伸ばしていた。
その強さが痛ましかった。
七年前、森で出会った少女は、傷ついた敵国の少年を見捨てなかった。
その優しさは、七年経っても変わっていない。
だが王国は、その優しさを利用し、彼女の矜持を冷たさだと断じた。
カイゼルは拳を握る。
怒りはある。
だが今、最優先すべきは復讐ではない。
リリアーナを休ませることだ。
彼女が、自分の意思で立てるようになるまで。
カイゼルは静かに息を吐き、部屋の前から離れた。
その夜、リリアーナは白百合の香りに包まれて眠りについた。
完全に安心できたわけではない。
眠りに落ちる直前、処刑台の光景が一瞬だけ脳裏をよぎり、身体がこわばった。
けれど、そばにはクララがいた。
隣室にはオルガが控えている。
扉の外には皇国の騎士が立ち、さらにその向こうにはカイゼルがいる。
一人ではない。
その事実を何度も胸の中で繰り返すうちに、リリアーナの意識はゆっくりと沈んでいった。
窓辺の白百合が、夜風にかすかに揺れる。
淡紫の花びらに、魔石灯の光が星のように落ちた。
その光に呼応するように、眠るリリアーナの指先で、小さな星の光が一瞬だけ灯る。
けれど、それに気づく者はまだいなかった。




