38話 おはよう
はっ。あぶない所だった。
ケット・シーと話しているところを見られてしまったのでは、そうだとしたら、言い訳がとても面倒になる。
どうしようと考えていたら、頭の中がぐるぐると回ってしまい、体が勝手に思考を放棄し、現実逃避を始めてしまった。
さて、アイリスは、俺とケット・シーの会話を聞いていたのか確認しなくてはいけない。
そんなアイリスはと言うと、玄関から出た所で、立ち止まり、こちらの方を見ていた。
ティアから借りた、地味めな色味の、Tシャツと短パンといったラフな服を着ている。
質素な装いにもかかわらず、様になっている。羨ましいものだ。
そんなアイリスはまだ眠いのか、開ききっていない、眠そうに見える目を、片手で目をこすっている。
「おはよう」
「おはよう、アイリス。今起きたの?」
「うん。気配がしたから外の様子を見に来た」
「あ、ごめん。起こしちゃった?」
「大丈夫。ちょうど目が覚めただけだから」
そう言うと、アイリスは玄関前にある段差に、腰を下ろし、くちゅんと小さくクシャミをして、両腕を擦っている。
さっきまで体を動かしていた俺は、からだの芯がぽかぽかと温かいが、まだ冷え切っている明け方の空気は、起き抜けのアイリスは寒く感じるだろう。
「うるさかった? 僕の独り言とかで――」
アイリスは、不思議そうな顔をして、小首をかしげてこちらを見ている。
「独り言って……変な人って思われるから、気をつけたほうが良いよ」
可哀想な子供を見るような目をしながら、そう言われてしまった。
アイリスに憐れまれてしまった。ショックである。
俺はこの先、どう生きていこうかと考えてしまうほど、落ち込んでしまいそうだ。
しかしだ、整った外見のアイリスに蔑まれるような目で見られると、どこか背筋がゾクッとするような気が……
いやいや、気の所為だろう。
俺は、そんな事を快楽と感じる種類の人間ではないはずだ。
そう考えながら、どこか遠くへ目をやる。
そんな事を考えている中、アイリスが静かになったような気がして、玄関の前に座っていたアイリスへ目線を戻と、アイリスはこっちを見ているような、どこか俺の横あたりを見ていた。
確実に、俺の顔を見ているような視線ではない。
「おーい、アイリス?」
俺はアイリスへ呼びかける。
やはり俺を見ているのではなく、どこか別な場所を見ていたようで、ゆっくりと俺へ視線を戻した。
しかし、それでもなお、少しばかりこちらを見たかと思ったら、ゆっくりと視線を先程見ていた場所へと戻した。
アイリスが見ているである場所には、さきほど会話していた猫型の聖獣がいたはずだ。まさか、アイリスには見えるのだろうか。
しかし、昨日はそんな素振りを見せなかったから、そんな訳はないと思う。
俺は、アイリスが視線をたどって、見ているはずであろう場所を確認する。
やはりだ、アイリスは確実にケット・シーの方を見ており、その視線は固定されている。
「ど、どうしたの? なんか、珍しいものでもあった?」
不安ながらも、アイリスの考えていることを確認するために、軽くジャブを打つ。
これで、ケット・シーが見えていると言ったら、どうするべきだろう。
ケット・シーの存在は、人間には見えないし、見えて良いものではないはずだ。
以前、父さんにそう教えられたので、間違っていないと思う。
俺はどきどきしながら、アイリスの反応を伺っていると、しばらくして、アイリスは少し困ったような、やや難しい表情をしながらも、こちらへ再度目線を戻し、そして、ゆっくりと口を開いた。
「それ、魔力の塊だよね。でも不思議、そんなの見たこと無いし、とても綺麗」
「え、あ……う、うん」
アイリスは、魂の魔力だけが見えているようで、ケット・シーは見えていない様に感じる。
そう考えたい、そうであって欲しい。
厄介な面倒事はご遠慮願いたい。
「綺麗って……アイリスには、コレが見えてるの?」
「うん、うっすらとだけど、輝いているように見える」
「そ、そうだね。これ、ふわふわと浮かんでるのって不思議だよね。一見ぬいぐるみに見えるけど、暴力的で変な動物が持っていそうな気がするよね」
「ぬいぐ……え? 何?」
「いやいや、何でもないよ。僕の想像のはな――」
アイリスは怪訝な表情になったと分かった同時に、横に居た何かから殴られたかのような鈍い痛みを顎に感じた。
的確に、かつ脳を揺さぶるのに必要な適度の衝撃が顎に入った。
その鈍い痛みは、俺の脳を軽く揺らし、膝をぐらつかせる。
俺はその衝撃を必死に堪え、膝が折れきってしまわないよう耐え抜くことに成功した。
このクソ猫、全く躊躇せず殴ってきやがった。
しかも、顎にだ。その間、実に2秒。
人間の急所だぞ。
ふざけるな、慢性外傷性脳症になってしまったどうするんだ。
ちらっとケット・シーの方へ視線を向けると、頭の上に魂の魔力を乗せたケットシーが、しゅっしゅっとシャドーボクシングをしている。
猫パンチと表現するのを戸惑うくらい、するどいワン・ツーストレートが空を切っている。
この猫、体術の腕前の良いのか。
油断をしていた。
たかが猫と侮るなかれ。
怖いどころでは済まないその恐怖は、俺の脳にしっかりと刻み込まれた。
それは取り敢えず忘れるとして、アイリスの言動を見るに、ケット・シーは見えていない様に感じる。
あくまでも、ケット・シーがもっている魂の魔力、その魔力の塊が見えているのだろう。
「それ、セリニスが出したの?」
「いや、そうではないよ。最近拾ったと言うか、貰ったと言うか」
俺は頬をかきながら、視線を斜め上に向け、どうにか有耶無耶にして誤魔化せないかと、そのまま何も言わない事にした。
魂の魔力は、エルダーコックを倒したからこそ手に入れたので、表現としてはそこまで間違っていないと思う。
アイリスは魔力を原動力で動いている話は聞いている。アイリスからしたら、魂の魔力もそこらの魔力と一緒で、餌のような物になるんだろう。
アイリスがこちらをじっとみて待っている様子は、どこか欲しいものをお預けされた犬っころみたいだ。
「それ、どうするの?」
「うーん、どうしようかな。このまま僕が吸い取っても良いんだけど、いらないと言えばいらないし」
俺がそう言うと、アイリスの表情がぱっと明るくなった。
俺は要らないし、アイリスに上げることもやぶさかではない。
何しろ、俺が吸い取った所で、ビッグラビットより多少大きいくらいの魔力の塊らしいから、どうしても欲しい訳でもない。
俺は魂の魔力を、じっと見つめた。
「じゃあそれ、頂戴!」
普段のアイリスからは出ないようなとても元気な声で言われ、ビックリしてしまい、目を見開いてアイリスを見つめた。
ですよね。
やっぱりか、そうかぁ……どうしたものだろうかと考える。
しかし、途中からとても面倒になってしまい、考えることを辞め、思考を停止し間抜けな顔をしていたら、再度ケット・シーに頭を叩かれた。




