第7話:辺境への旅立ち
司書長の問いかけが、石造りの壁に反響して消えた。俺は口を閉ざしたまま、すぐには言葉を紡げなかった。床に落ちた視線の先で、すり減った靴のつま先がわずかに動く。紙とインクの匂いが漂う空間に、息をのむ音だけが落ちていく。
「……ただの、元荷物持ちです。それ以上でも、それ以下でもありません」
口をついて出たのは、事実だけだった。事実を並べただけなのに、喉の奥に何かがひっかかる感覚がある。司書長は眉間にしわを寄せ、得心がいかない顔つきをみせたが、それ以上追及してはこなかった。
「そう、ですか……。いえ、失礼しました。ページをめくる音が、まるで突風が吹き抜けるようでした。あまりに読解の速度が、常軌を逸していたもので、つい」
探るような視線を向けられたが、俺はそれをかわすように目をふせた。
「すみません、お騒がせして」
腰を折って頭を下げ、俺は足音を殺して建物の扉を開けた。外の空気を肺の奥まで吸い込む。石畳から立ちのぼる冷気が鼻腔を抜け、肩にのしかかっていた重みがいくらか滑り落ちた気がした。
王都の宿にもどり、数日を過ごしながら、俺はこれからの身の振り方を思考の波にのせていた。
雨漏りの染みがひろがる天井を見上げながら、寝台に背中を預ける。
辺境の町にでもいこう。
王都には人があふれすぎている。路地を歩けば誰かと肩がぶつかり、広場に出れば怒声や笑い声が耳を打つ。先ほどの一幕を頭の中で再生しても、人目をひく振る舞いは俺の性に合わないと改めて思う。それに、王都は銅貨が羽が生えたように消えていく。荷物持ちの端くれとして蓄えた路銀では、長くは命を繋げない。
木の机に羊皮紙の地図を広げ、指の腹で街道をなぞる。王都から離れるように、森を抜け、山を越え、指を滑らせた先に、ウィルダという名が記されていた。
地図の上では、山脈のふもとに位置し、近くを川が流れている。
「ここなら、波風をたてずに息ができそうだ」
これといった根拠はどこにもない。ただ、胸の奥で何かがそう告げていた。
出発の朝を迎えた。布の袋に水筒と干し肉を詰め込み、宿の木戸を押し開ける。朝霧が立ちこめる路地に足を踏み出そうとした俺の前に、予想もしていなかった影が立ちふさがった。
「ノア」
「……ミリアさん」
振り返った先には、僧侶のローブを身にまとったミリアがいた。肩を上下に揺らし、息を吐き出している。走ってきたのだろう、額には汗がにじみ、息づかいが乱れていた。
「よかった、間に合った……」
「わざわざ、足を運んでくれたんですか」
金色の刃から追放されて、もう十日以上の月日が流れている。交わる道は二度とないと思い込んでいた。迷宮の奥深くで、魔物の血の匂いに鼻を曲げながら、ただ荷物を守っていた日々。手柄は全て戦う者たちのものとなり、俺に与えられるのは小銅貨数枚と、あざけりの言葉だけだった。そんな七年の間、彼女だけは、かすり傷ひとつでも治癒の魔法をかけてくれた。
「あなたがまだ王都にとどまっているっていう噂を耳にして……。どうしても、一言だけ伝えたくて」
ミリアは、困惑をにじませたような、それでいて春の陽だまりを思わせる笑みを目元に浮かべた。
「体に、気をつけてね」
口からこぼれたのは、たったそれだけ。
だが、仲間から切り捨てられてからずっと、誰の口からも聞くことのなかった、裏表のない心遣いだった。俺は不覚にも一瞬、喉が引きつり、言葉を失ってしまった。
「……あっ、はい」
絞り出した声は、それだけが限界だった。
これ以上、心の揺れを外にさらけ出すのは、自分らしくない。そうやって七年間、感情に蓋をして生きてきたのだ。
「あなた、変わらないね。そういうところ」
ミリアは吐息を漏らすように笑うと、足元へ視線を落とし、また俺の顔を見上げた。
「これから、どうするの」
「辺境の町に足を向けようかと思っています」
「辺境の町……」
「剣を振るえないなら、剣を握らない生き方を探そうかと」
自らをさげすむわけでもなく、ただ事実を口にする俺に、ミリアは何かを言いかけて、結局は唇を結んだ。
「……そう。あなたなら、きっとうまくいくわ」
その言葉の裏に隠された意味を、俺はその時、掘り下げることはしなかった。
「それじゃ、お元気で」
わずかな言葉を交わし、俺は王都の門へ向けて歩き出した。背中越しに視線を感じたが、振り返ることはしなかった。
ウィルダへ続く街道を歩きながら、布袋一つを背負う俺は、ふと天を仰いだ。雲が風に流されていく。
すれ違う馬車も徐々に数を減らしていった。周囲の木々は背たけを増し、風が葉を揺らす音だけが耳に届くようになる。
七年もの間、息をするのと同じくらい当たり前に、誰かの指示に従って動いてきた。荷物持ちとして、役立たずの烙印を押されながら。
夜を明かす時も、誰かのために火をおこし、誰かのために番をしていた。けれど昨夜は、自分一人のためだけに薪をくべた。炎のゆらめきを見つめながら、背中にのしかかっていた見えない重りが、すっかり消え去っていることに気づいた。
これからは、誰の影も踏まない。誰かに価値を値踏みされることも、他人と天秤にかけられることもない。
胸に穴があくような喪失感よりも、足枷が外れたような解放感のほうが、心の大部分を占めていた。
「何でも相談してください、か」
頭の中に描いた看板の文句を、舌の上で転がしてみる。耳になじむ言葉だと思った。
土を踏みしめる音が幾多と重なり、山をいくつも越え、ようやく辺境の町ウィルダの入り口が視界の端に映る頃には、太陽はすっかり山の稜線の裏へ姿を隠そうとしていた。
空は茜色に染まり、地面には影がどこまでも伸びている。
木組みの柵の向こうからは、夕餉の支度をする煙が立ちのぼり、風にのって汁物の匂いが鼻をかすめた。王都の喧騒とは違う、人の暮らしの息づかいがそこにはあった。
町の入り口に立つ木の看板には、刃物でえぐり取られたような文字が並んでいる。苔がむし、年月を感じさせるその板きれには、こう記されていた。
「歓迎、旅の者よ――ただし、夜の森には近づくな」




