第4話:責任転嫁
「ノア、お前ちょっとこっち来い」
声に感情の起伏がなく、石の表面をなでるような響きがあった。俺は薪をくべる手を止め、パチパチと爆ぜる炎のそばから腰を上げた。
「はい、なんでしょう」
「さっきの狼、統率とれすぎてたって話、キリクとしてたんだが」
レオンは声をひそめながら、光の届かない木々の奥を睨みつけていた。たき火の明かりが彼の横顔を照らしているが、その目には警戒の色が浮かんでいる。
「この森、もしかしたらもっと格上のなにかが縄張りにしているかもしれん。……お前は下がってろ。荷物番だけしてくれりゃいい」
「わかりました」
俺は素直にうなずく。戦力として数えられていないことに、いまさら心がえぐられることはない。それが自分の役目だと、七年という月日をかけて骨の髄まで馴染んでいた。
次の日、森の奥へ足を進めるにつれ、肌にまとわりつく空気がはっきりと変わっていった。
木々の隙間から差し込む光すら、どこかかげを帯びた色に落ちくぼんで見える。葉の擦れる音も消え、ただ自分たちの踏みしめる足音だけが耳につく。土はぬかるみ、一歩進むごとに足をとられそうになる。
「――いたぞ」
先頭を歩いていたキリクの声が、かすれていた。それに呼応するように、前方で太い木の幹がへし折れる音が響く。
枝葉をかき分けて姿を現したのは、体長三十メートルはあろうかという、筋肉が岩肌のように盛り上がった獣だった。一歩足を踏み出すたびに、地面がうねり、土埃が舞い上がる。額にはねじれた角が天を突くように生えている。
図鑑の絵で見たことがある――ベヒーモス。
本来なら、最上級の冒険者たちが束になって挑む相手だ。
「マジかよ……こんなとこに出るのかよ、こいつ」
キリクの声が、いつもとは違い、ひどく上ずっている。彼の手が剣の柄を握りしめ、小刻みに震えているのが見えた。
「退くか、レオン」
「いや……ここまで来て、手ぶらで帰れるかよ」
レオンの瞳の奥に、野心が炎のように揺らめいていた。息を呑み、彼は一歩前に出る。
「ソレイユ、とどめ頼む。俺が前に出る」
「わかってる」
まさかベヒーモスを相手にするとは思っていなかったソレイユは、動揺しつつ唇を動かし、魔力を編み始める。
俺は言われた通り、少し離れた岩の影に身を潜め、荷物を抱えたまま息を殺して見守った。
戦いは、先手必勝、短い時間で終わらせる必要があった。
レオンが地を蹴り、空を切るような速度で剣を振る。刃がベヒーモスの足に深く食い込み、血の飛沫があがる。獣が顔をしかめた隙を突き、ソレイユの魔法が獣の頭を狙って放たれる。
息の合った連携――のはずだった。
「――っ、今の詠唱、狙いが!」
ソレイユの放った炎の槍が、獣の目元からわずかにそれて空を切った。熱波だけが周囲の木々を焦がす。
ベヒーモスの太い尻尾がその隙を見逃さず、うねりを上げてレオンの脇腹を打ち据える。
「がッ――!」
「レオン!」
悲鳴に似たミリアの声が響く。
ベヒーモスが天に向かって咆哮を上げ、地面と木々をひき割るように突進してくる。
「退けェ!全員退避!」
レオンの怒号に、パーティの面々は弾かれたように背を向けて走り出した。
俺も荷物を抱えたまま、必死に皆の背中を追う。伸びた木の根につまずきそうになり、枝が頬をかすめて血がにじむのも構わず、ただ前に向かって地面を蹴り続けた。背後から迫る足音が、心臓の鼓動と重なって耳を叩く。
命からがら、ベヒーモスの縄張りから逃げ切ったのは、それから数分後のことだった。
獣の気配が届かない距離まで下がり、皆が肩を上下させて息を吐き出していた。額から汗が滴り落ち、地面に染みを作っていく。
しばらく誰も口を開かない時間が過ぎたあと、ソレイユが眉間を寄せながら口を開いた。
「さっきの、ミス……」
「ああ」
レオンが低くうめくように返す。
誰も、自分の名前を口にしたがらない。
天才と呼ばれる魔法使い。
そのプライドが、たった一つのミスを認めることを、頑なに拒んでいた。
沈黙が、じわじわと鉛のように圧力を増していく。誰も互いの目を見ようとせず、地面や遠くの木々に視線をそらしている。
「そういえば」
ふと、キリクが視線を宙にさまよわせながら口を開いた。
「ノア、あの時、荷物の受け渡し、ちょっと遅れてなかったか」
その言葉に、俺は思わず瞬きをした。
「え……そう、でしたか」
自分では、いつも通りにしていたつもりだった。だが、こう改めて聞かれると、頭の中に靄がかかったように確信が持てなくなる。手元の荷物を見下ろしても、過去の記憶はすり抜けていくばかりだ。
「……そういえば、あの瞬間、陣形が一瞬乱れた気がする」
ソレイユが、何かにすがるように呟いた。
その声には、どこかほっと息をついたような、安堵の響きが混じっていた。
「まさか、それが原因で……」
「ノアが荷物を渡すのがワンテンポ遅れて、ソレイユの魔法が狂った――ってことか?」
レオンの声のトーンが、急速に変わっていく。
先ほどまでの焦りは消え、まるでパズルの最後のピースを見つけたかのように響いていた。彼の顔に生気が戻り、背筋がすっと伸びる。
「……すみません」
反射的に、俺は頭を下げていた。
本当に俺の動きが遅れたのか、確証はない。
だが、皆がそれぞれの中で都合の良い一つの「答え」を見つけて、張り詰めていた顔の筋肉をゆるませているのを見てしまうと、なにも言い返すことができなかった。
彼らが自分たちの名誉を守るために、俺というはけ口を必要としていることが、手に取るように伝わってきたからだ。
レオンにしたってそうだろう。俺とソレイユ、どちらを選ぶかなら答えは明白だ。
しかし、ミリアだけは様子が違った。
彼女は俺とレオンの顔を交互に見比べ、なにかを言いかけたように唇をわななかせていた。その瞳には戸惑いが浮かんでいる。
しかし、その場を支配する空気に呑まれたのか、結局そのまま目を伏せ、唇を噛むだけにとどまった。
「まあ、次から気をつけろよ」
レオンはそう言って、抜き身のままだった剣を鞘に収めた。
その口調からは、さっきまでの動揺はすっかり消え去り、いつもの調子を取り戻している。
ただ、俺の胸の奥にだけ、針の先が刺さったような違和感が残った。
(……本当に、俺のせいだったのかな)
考えても、なぜか極めて簡単で肝心な所で答えは出ない。
いつものように、俺はその飲み込みきれない思いを、胸の奥底へ静かに沈めた。これまでもずっと、そうやって生きてきたのだから。
だが、その夜。
炎の向こう側、テントの影から、微かに聞こえてきたレオンの言葉を、俺の耳は拾い上げてしまった。
「なあ。あいつ、そろそろ潮時かもな」
薪がパチンと爆ぜる音が、やけに耳の奥へ響き、俺はそこから動くことができなくなった。




