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第22話:小さな依頼所の日常

「ノアさん! 大変です、緊急の依頼が!」


裏庭で魔法の検証をしていた俺は顔色を変え、対峙していたフィンは、動揺していた。

何が起きている?魔物か、あるいは盗賊たちが町を襲撃しにきたのか。


「な、何かあったのか」


フィンが問うと、ケインは一度たっぷりと息を吸い込んだ。


「バーサさんの、飼い猫が……! 逃げちゃったらしくて!」


「……猫、ですか」


肺に溜まっていた空気が、口から一人でに出ていった。フィンと顔を見合わせる。フィンの口元も、笑みの形を作り損ねて引きつっていた。


「はい! バーサさん、いても立ってもいられない様子で、すぐ来てほしいって!」


「分かりました、すぐ行きましょう」


町の危機を知らせる足音と、探し猫の内容。その落差に、いささか緊張が抜けたが、いつも良くしてくれてるバーサさんにとっては大事だ。急ごう。


石畳の敷かれた通りには、荷馬車を引く商人や、日用品の買い出しに出歩く人々の姿が行き交う。活気づく町の喧騒を背に、俺たちは裏手に水路が流れる区画へと足を踏み入れた。


バーサ婆さんの住まいである庭先に着くと、本人が音を立てて土の上を歩き回っていた。指先でエプロンの端を力を込めて握りしめ、顔の皺をさらに刻み込んでいる。


「ノアさん! うちのトラ子が、いなくなっちまって!」


俺たちの姿を認めるなり、バーサ婆さんはすがりつく声で俺の名を呼んだ。目尻には水滴が光っている。


「落ち着いてください、バーサさん。いつ頃、いなくなったんですか」


「今朝方だよ! 空気の入れ替えに窓を開けっぱなしにしてたら、いつの間にか……」


俺は庭の中央に立ち、周囲に視線を這わせた。


手入れの行き届いた生垣、その奥に並ぶ広葉樹の幹、そして敷地の境界を流れる水路のせせらぎ。視覚から得た情報が頭の中で整理されると同時に、猫という生き物の習性が、どこからともなく脳裏に滑り込んでくる。自分が過去に学んだ記憶から、一つの推論が口をついて出た。


「多分、あの水路沿いの茂みだと思います。人の目を避け、太陽の光が落ちる場所を探す習性があるので」


「ほ、本当かい?」


すがる視線を向けるバーサ婆さんを先導し、俺たちは水路沿いの小道を歩き始めた。足元の草を踏む音と、水の流れる音だけが耳に届く。時折、風が木々の葉を揺らし、水面に影を落としていく。


しばらく進み、陽の当たる雑木林の縁に差し掛かった時だった。


草の葉が揺れ、奥から息を絞って喉を鳴らす音が聞こえた。


「トラ子!」


バーサ婆さんが声を上げ、茂みに手を伸ばす。泥にまみれた茶の毛玉が、バーサ婆さんの腕の中に収まった。喉をゴロゴロと鳴らす音を聞き、俺は胸の奥でつかえていた息を吐き出した。


「よかったです」


バーサ婆さんはエプロンで目元を拭い、腕の中の毛玉を抱きしめ直した。


「まったく、あんたって人は……。言葉を話せない猫の腹の内まで、分かるのかい」


「そういうものらしいです」


自分は王都の図書館という先人たちの知識の泉のおかげだと笑いを向けると、バーサ婆さんは呆れた態で息をついた。


通りを行き交う人々の影が足元に収まる頃。今度は町の診療所から使いが走ってきた。怪我人の治療ではなく、薬草の調合に関する相談だった。


診療所の扉をくぐると、薬研の擦れる音と、鼻を突く草の匂いが充満していた。


「こちらの症状には、この薬草とこの薬草を、この比率で……」


卓上に並べられた乾燥した葉や根を目にした途端、またしても俺の口は自ずと動いていた。成分の抽出方法、煮沸の温度、混ぜ合わせる順番。長年すり鉢を握り続けてきた職人と違わぬ手順が、次々と頭の中に浮かび上がる。


指示通りに乳鉢を動かしていた医師の手が止まり、顔を上げてこちらを見つめた。


「ノアさん、本職の薬師も顔を覆うほどの知識ですな」


「いえ、人に教わったわけではないので、あまり自信は……」


事実、王都の図書館の知識を土台に自分なりの答えを口にしているだけだ。首を横に振る俺をよそに、医師は完成した粉薬を小瓶に移しながら、何度もうなずいていた。


太陽が西の稜線に沈みかけ、空が朱に染まる頃。相談所に戻ると、裏庭から木を打ち据える音が響いてきた。


顔を出すと、ケイン、リナ、フィンの三人が、それぞれの武器を手に汗を流していた。リナは無駄を削ぎ落とした動作で小太刀を振るい、空気を切り裂く風切り音だけが等間隔で庭に響いていた。フィンは呪文の詠唱とともに的の中心へ火球を命中させ、魔力の制御を繰り返している


そしてケインは、木剣を両手で握り、何度も空を切っていた。


「ノアさん、お疲れ様です!」


俺の姿に気づいたケインが、額の汗を手の甲で拭いながら声をかけてくる。


「皆さんも、お疲れ様です」


労いの言葉を返しながら、俺の視線はケインの足元に向いていた。踏み込みの際、重心が数寸ほどブレている。いや、それだけではない。木剣を振るう腕の軌道にも、普段の彼には見られぬ淀みがあった。


胸の奥に生じた違和感を呑み込んだ。依頼人の問題を解決し、同時にこの三人の実力を引き上げる。二つの車輪を回し続ける日々は、息をつく暇を持たぬが、自分のペースで血の通った手応えがあった。


火鉢の炭を熾し直し、やかんを火にかけ、茶の準備をしていると、勝手口のほうから人の気配がした。見れば、バーサ婆さんが籠を片手に立っていた。


「相変わらず、人を集めてるみたいだね」


軽口を叩きながら、バーサ婆さんは俺の隣に来て、籠を渡す、中にはお礼なのだろう、泥のついた野菜が転がっている。


「おかげさまで」

「ま、せいぜい頑張りな。……ああ、そういえば」


湯呑みを置き、ふと何かを思い出した用で、バーサ婆さんが顔をこちらに向けた。夕暮れの風が、バーサ婆さんの白髪を揺らしている。


「ケインって子、最近、剣の稽古でずっと唸り声を上げてるらしいじゃないか。通りを歩くご近所の連中でも、その話で持ちきりだよ」


その言葉が耳に届いた瞬間、俺は首を回して裏庭へ視線を向けた。


バーサさんの視線の先でも、ケインが木剣を振り下ろしている。


歯を食いしばり、呼吸を乱しながら剣を振るう彼の顔つき。そこには、俺たちに向けるいつもの笑みはなかった。眉間に皺を寄せ、奥歯を噛み締める癖が顔に出ている。目には映らぬ壁を斬りつける、焦燥の影が張り付いていた。

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