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第23話:ケインの異変

「ケイン君、少し休憩にしましょうか」


声をかけると、振り下ろされた木剣の軌道がぴたりと止まる。


「あ、ノアさん……」


振り返ったケインの顔を覆うのは、限界に達した疲労の色。呼吸は乱れ、肩が上下に揺れ、握りしめた手首が微かに震えている。しかし、それ以上に目を引いたのは、瞳の奥底で渦を巻く焦燥の念だった。


「何か、悩みを抱えていますか」


「……分かります?」


「見てれば、伝わってきますよ」


ケインは木剣の切っ先を地面に突き立て、それにすがるようにしてその場に座り込んだ。喉を鳴らして息を整える間、俺は口を挟まずに待つ。


「実は……最近、型の稽古は目に見えて捗っている手応えがあるんです。一つ一つの動きから、無駄が削ぎ落とされていく実感があって」


「それは、喜ぶべきことじゃないですか」


「はい。でも……」


そこで言葉が途切れる。ケインは自分の両手を見つめたまま、口を真一文字に結んだ。


「実戦を想定すると、途端に体がすくむんです。型はうまくいっているのに、相手との間合いが、どうしても掴めなくて」


「間合い、ですか」


「はい。型なら、決まった手順をなぞるだけで完結します。でも、間合いって……相手が次にどう動くか、どこまで足を踏み込めば命を刈り取られずに済むか。そういう情報を、瞬時に判断して動かなきゃいけないじゃないですか」


ケインの声には、泥の底でもがくような苦悩が滲んでいた。


「型は、体で覚えれば覚えるほど、自分の血肉になっている実感が湧くんです。でも間合いは、いくら時間をかけて練習しても……いつまで経っても、ただの勘に頼っているだけで終わる気がして」


ケインの口から出た言葉が、俺の思考の奥底に波紋を広げた。


型と、間合い。


剣を振るうための技術として、同じ枠組みで語られることが多い。しかし、その性質は根本から異なっている。


型は、決められた動作を繰り返すことで完成に近づく。筋肉に動きを覚え込ませ、脳からの指令を介さずに体が反射で動くようになるまで反復すればいい。記憶の蓄積がそのまま実力に直結する。それは自分一人で完結する世界での出来事だ。


だが、間合いは違う。目の前に立つ生きた人間が発する情報を読み取り、その場その場で最適解を導き出す行為だ。相手の肺が膨らむタイミング、筋肉の収縮、重心が左右のどちらに移るか、視線がどこを向いているか。そうした目に見えにくい情報を肌で読み取り、空間の距離と時間を計算し、自分の肉体を連動させる。それは自分と他者との間に引かれた、一歩踏み越えれば命を落とす境界線を見極める作業に他ならない。それらを刹那の間に処理する感覚。


「なるほど……」


俺は自分の中の考えを言葉に変換し、ゆっくりと口を開いた。


「型は、いわば『記憶する』ものです。定まった手順を、体に染み込ませる作業と言えます。でも間合いは、多分もっと『感じ取る』ものなんだと思います」


「感じ取る、ですか」


「相手の呼吸の乱れ、重心の移動、視線の動き。そうした情報を瞬時に拾い上げ、判断を下す感覚。これは、型のように一人で同じ動きを繰り返すだけでは、手に入らない領域の技術なのかもしれません」


俺自身、ケインの育成を進めながら、初めて気づかされることが多い。剣を教えるといっても、一つの方法で全てが解決するわけではない。技術には、頭と体で覚える種類のものと、五感を研ぎ澄まして感じ取る種類のものが存在する。


「じゃあ、俺、どうすればいいんですか……」


すがるような視線を向けるケインに、俺は少し間を置いてから答えた。


「まず、実戦形式の稽古の中で、俺が間合いの感覚をケイン君に付与します。その上で、相手の息遣いというものを体感してもらいます。ただ、それだけでは足りません」


「それだけじゃ、足りない?」


「はい。付与を外した状態でも、地道に、目の前に敵がいると想定しながら、繰り返し剣を振ってもらう必要があります。……多分、こっちの方が、型を覚えるよりもずっと時間を費やすと思います」


俺の言葉を聞き、ケインは奥歯を噛み締めた。


「型を極めるより、間合いを掴む方が、困難なんですね」


「そうかもしれません。俺自身も、こうして育成に携わる中で、初めて事実として実感しているところです」


取り繕うことなく事実を伝えると、ケインは意表を突かれたように目を見張った。


「ノアさんでも、壁にぶつかることがあるんですね」


「それは、ありますよ。俺だって、初めて経験することばかりですから」


俺が肩をすくめてみせると、ケインは息を吐き出し、強張っていた表情を緩めた。


「分かりました。地道にやります」


ケインは地面に突いていた木剣を握り直し、立ち上がる。その瞳には、再び決意の炎が宿っていた。


「一つ、お願いしてもいいですか」


「なんですか」


「今、間合いの感覚を、俺の体に少しだけ付与してもらえませんか。あの時の感覚を、もう一度、頭ではなく体で覚えておきたいんです」


真っ直ぐにこちらを見据えるケインに、俺は無言で頷きを返した。


(間合いの感覚を、ケイン君に――)


意識を集中させ、自分の中にある感覚の束をケインへと繋ぐように念じる。


直後、ケインの周囲を取り巻く空気が変質した。剣の切っ先からブレが消え去る。足の裏が地面に吸い付くように安定し、重心の置き方が最適化される。見えない敵の息遣いを完璧に読み取っているかのような、針の穴を通す集中がそこにあった。


「――今、分かります。相手が、どこにいるか」


ケインの口から、確信に満ちた声が漏れる。


次いで、想定の敵の首を狙い、ケインが前へ一歩踏み込んだ。


その瞬間だった。


「――っ!?」


不意に、ケインの体が後方へ弾け飛んだ。


見えない壁に全身を打ち付けられたかのような、物理法則を無視した反動。空気が破裂するような音が響き、ケインはバランスを崩し、地面に背中から倒れ込む。手から離れた木剣が、木のぶつかる音を立てて地面を転がった。


「ケイン君!?」


俺は慌てて駆け寄った。砂ぼこりが舞い上がる中、ケインは起き上がろうともせず、自分の右手のひらを呆然と見つめている。


「今……何か、違和感が。付与の感覚とは、全く別の何かが……」


震える声で紡がれた言葉に、俺は背筋を氷でなぞられたような錯覚を覚えた。


付与とは、違う何か。


一体、何が起きたのか。ケインの顔面から血の気が引き、瞳孔が開いているのを見る限り、決して気のせいなどではない。俺の能力が暴走したのか、それとも外部から何かが干渉してきたのか。


俺たちの間に、名付けようのない異物が紛れ込んでいた。

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