第15話:瞬殺劇と真実
木々の奥から響く足音は、明らかに討伐の目的とした牙猪の歩みではなかった。地面を踏み砕き、腹の底を震わせる振動が一定の間隔で近づいてくる。
「まさか、上位種……」
フィンの唇が震え、顔から急速に血の気が抜け落ちていく。
直後、太い木の枝がへし折れる音と共に茂みが割れた。姿を現した獣は、牙猪の二倍はあろうかという巨体を誇っていた。全身の毛並みは血を塗りたくったかのような色に染まり、額の中心からは天を貫くように一本の角が突き出している。鼻息が周囲の落ち葉を巻き上げ、獣特有の泥と血の匂いが風に乗って鼻腔を突いた。
(牙猪の変異種……)
俺は頭の中で魔物図鑑の頁をめくる。縄張り争いを勝ち抜き、同族の血を啜ることで骨格そのものを歪ませて成長した個体。通常の個体とは別次元の殺意を纏うとされる。
「ど、どうしよう……俺たちだけじゃ、とても……」
剣を構えるケインの手が止まらない。刃先がカタカタと音を立てて空気を震わせている。
「下がっていてください」
俺は三人の前に歩み出た。
「え、でも……」
「検証はここまでです。今は身の安全を第一に考えましょう」
そう告げると同時に、俺は意識の奥底で繋がっていた糸を断ち切った。
(感覚付与、解除)
俺から発せられ、彼らに伸びていた見えない管が消え去る。
俺は自分の腰から剣を引き抜いた。
誰かの身体を通して世界を見るのではない。自分の足で立ち、自分の腕で剣を振るう。本来の俺の力。
変異種が空気を震わせる咆哮を放ち、地面を抉って突進してきた。圧倒的な質量が迫る。
俺は呼吸を整え、間合いを測る。蹄が土を蹴る音、筋肉が伸縮する音、風を切る角の軌道。全てが手に取るようにわかる。
激突の直前、俺は半歩だけ体を横に滑らせた。鼻先を通り過ぎる巨体の側面に向け、剣を振り抜く。
刃が肉を裂き、骨の隙間を滑り抜け、急所を的確に切断する手応えがあった。
「――ッ」
血飛沫が舞うよりも早く、変異種の巨体が崩れ落ちた。勢いそのままに地面を滑り、やがて太い木の幹に激突してようやく動きを止める。
静寂が森を包んだ。
「……え」
ケインが呆然と口を開く。
「た、倒し……た?」
「一撃、で……?」
リナが瞬きを忘れたように、俺と変異種の死骸を交互に見比べる。フィンに至っては口を半開きにしたまま、声帯から音を紡ぐことすら忘れていた。
「危ないところでしたね」
俺は剣についた血を払い、鞘に収めながら息を吐いた。口に出した言葉とは裏腹に、俺自身の手のひらには、先ほどの斬撃の余韻が色濃く残っていた。自分の中に眠っていた力だけで、これほどまでの威力を生み出せるのか。自分自身の手に一番驚いていたのは、他でもない俺自身だった。
森を抜け、町への帰路につく頃には、空はすでに夕暮れの茜色に染まり始めていた。
「ノアさん、次元が違います……」
ケインが興奮の冷めない様子で俺の横を歩きながら言った。
「俺たちだけじゃ、確実に全滅していました」
俺の行いが誰かの命を繋ぎ、助けになっている。その事実は胸の奥に温かいものを広げた。
「――そういえば」
それまで手帳に何かを書き込みながら黙々と歩いていたフィンが、ふと足を止めた。
「先ほどの検証、もう少し続けても構いませんか。町に帰ってからでいいので」
「検証の続き、ですか」
「はい。ケインに付与したまま、今度はさらに時間をかけて……たとえば、素振りを限界まで続けてもらったら、どういう変化が起きるのかを知りたいんです」
事象の理を徹底して追求しようとする、フィンらしい提案だった。俺の頭にはなかった視点だ。
「なるほど。それは俺も気になります」
町の外れにある人気のない広場に到着すると、俺は再びケインに感覚を繋いだ。
「よし、いきます!」
ケインが剣を上段に構え、振り下ろす。空気を裂く音が広場に響いた。最初の数十回は、俺の感覚を正確になぞり、無駄のない軌道で刃が風を切る。
だが、百回を超えたあたりから、変化が訪れた。
「はぁ、はぁ……っ」
ケインの喉から絞り出すような呼吸音が漏れ始める。額から流れた汗が顎を伝って地面に落ちる。それに呼応するように、剣を振る速度が落ち、刃の軌道にブレが生じ始めた。
「……太刀筋が変わってきています」
腕を組んで見守っていたリナが指摘した。
俺は自分自身の意識を探る。俺からケインに流し込んでいる感覚付与の質は、開始時点から何一つ変わっていない。寸分違わぬ剣の軌道、筋肉の動かし方、呼吸の合わせ方を送り続けている。
それなのに、ケインの身体は俺の感覚を再現できなくなりつつあった。
「フィン君、これは……」
「もしかして」
フィンが手帳から顔を上げ、確信を持ったように言った。
「感覚は際限なく与えることができるのかもしれません。ですが、それを受け取る側の体力は、感覚ではなく、底なしではないということです」
その言葉が、俺の脳天を貫いた。
与える感覚がどれほど完璧であろうと、受け止める肉体の限界を超えれば、それはただの空回りに終わる。水桶から溢れ出す水のように、体の外へと零れ落ちていく。
「最高峰の技術を頭で理解し、体がその通りに動こうとしても、筋肉が悲鳴を上げれば意味を成さない……」
俺は呟き、膝に手をついて肩で息をしているケインへ声をかけた。
「ケイン君。今日一日の最後として、渾身の一振りを放つことはできますか?」
「はぁ、はぁ……やって、みます」
ケインは震える腕に力を込め、剣を頭上に掲げた。彼自身としては、残る力の全てを込めたつもりだったのだろう。
だが、振り下ろされた刃は風を斬る音すら鳴らさず、ただ重力に従って地面に向かって落ちただけだった。木刀の素振りよりも頼りない、枯れ木が倒れるかのような一振り。
「やはり」
俺の言葉に、リナも頷いた。
「私も、集中が途切れると、周りの気配を拾い上げる感覚が鈍るような気がします。どれだけ優れた感覚を与えられても、私自身の精神が疲弊すれば、それを持て余してしまう……」
肉体の疲弊。精神の疲弊。動揺、恐怖、焦燥。それらは全て、受け取った感覚を曇らせる原因となる。
三人の反応を前にして、俺の胸の中に一つの疑念が頭をもたげた。
もし、この仮説が真理なのだとしたら。
七年間。俺があのパーティに所属し、彼らの背中を守り続けていた七年間。
「……ノアさん? どうしました、急に黙り込んで」
ケインの声に、俺は顔を上げた。
「いえ……少し、考えることがあって」
言葉を濁しながらも、脳裏に浮かぶのはかつての仲間たちの姿だった。
彼らは俺の感覚を常時受け取りながら戦っていた。だが、魔物との連戦で彼らの肉体が疲労し、精神がすり減った状態に陥った時、俺が送り続けていた感覚は、彼らの中でどう作用していたのだろうか。
休むことを知らない疲労困憊の彼らに、俺の感覚は本当に十全の力を発揮させていたのか。それとも、彼らの器の限界に合わせて、その出力は無意識のうちに制限されていたのか。
もし前者だとしたら、以前ベヒーモスとの戦いでソレイユはかつてないほど動揺していただろう。それがミスにつながったのではないかと説明できてしまう。今更だが荷物の受け渡しなどしていない。レオンにそう言われていたからだ。
だとすれば、彼らが誇っていた最強という看板の裏側には、一体どれほどの脆さが隠されていたというのだろう。
広場を撫でる夜風が、俺の体温を少しだけ奪っていった。




