09.夢の中くらい
教授からの課題は残酷で、数日では終わらないほどに困難を極めていた。
机の上には、開きっぱなしの教科書と、半分ほど埋まったレポート用紙が広がっている。
私はシャープペンシルを指の間で回しながら、教授から出された課題をもう一度読み返す。
『需要が存在するにもかかわらず、供給が停止した場合に市場へ生じる影響』
そう、それは授業中に燕と話し込んでいた罰として出された実質的な反省文。
「需要があるのに、供給が止まると……」
書きかけた文章の先で、ペンが止まる。
需要はある。かなりある。
毎朝、倫ちゃんの顔を見た瞬間に「今日もかっこいい」と言いたくなるし、病院で白衣姿を見れば最低でも3回は褒めたい。夜に離れの明かりがつけば、窓を開けて一日の報告もしたい。
けれど現在、私はそのすべてを自主的に供給停止している。
「つまり今の私は、『倫ちゃん不足により、エンカウント時の破壊力が過去最高値を更新中』……」
そこまで書いて、首を横に振る。
「さすがに、これを提出したら単位の供給まで停止しそう」
書いたばかりの一文へ、二重線を引いた。
「でもこの市場って……私が一人で需要と供給を回してたんだよね」
空欄に、私から倫ちゃんへ向かう矢印を描く。
大好き。ずっとかっこいい。結婚してほしい。矢印の上へ、思いつくまま書き足していく。
次に、倫ちゃんから私へ戻る矢印を描こうとして、ペン先が止まった。
「……何を書けばいいんだろう」
倫ちゃんは、たまに優しい。
毎年、あのネクタイを締めてくれる。転びそうになれば助けてくれたし、私が部屋へ戻るまで見送ってくれる。
書けることはある。でも、どれも私が欲しい答えそのものではない。
結局、戻ってくる矢印の上へ小さな疑問符を書いた。
「供給を止めたら、循環しなくなって、私の需要だけが残る……?」
それでは、ただの片思いだ。
「えっ、無理すぎる……」
机へ突っ伏すと、レポート用紙が額の下でわずかに皺になった。
危うく教授へ、倫ちゃん不足で干からびかけている現状を提出するところだった。
「もう少し冷静に書かなきゃ駄目だ……」
気を取り直して教科書へ視線を戻す。けれど、数行読んだところで、窓の外にある離れが気になった。
カーテンの隙間から覗いてみても、書斎の窓は暗いまま。時計はもう、午後十時を回っている。最近の倫ちゃんは帰りが遅い。
パパによれば、仕事が特別忙しいわけではなく、医局や談話室を必要以上に片づけているらしい。
それが本当に私のせいなら、少しは喜んでもいいのかもしれない。
でも、本人からは何も言われていない。私はカーテンを閉じ、椅子へ戻った。
「需要があるのに、供給がないことで……」
声に出して考えたところで、机の上のスマートフォンが震えた。画面に表示された名前は、パパだった。
「もしもし?」
——雪奈、まだ起きてる?
「起きてるよ。課題中」
——あぁ、よかった。悪いんだけど、ママと一緒に玄関まで来てくれないかな
電話の向こうは妙に騒がしい。車のドアが閉まる音と、誰かが低く何かを呟く声が重なって聞こえた。
「どうしたの?」
——倫太郎くんが潰れた
「……え?」
——しかも、かなり
その言葉が気になって、椅子が後ろへ倒れそうな勢いで立ち上がる。
「今どこ!?」
——もう着いてるよ、玄関前
返事を最後まで聞く前に通話を切り、部屋を飛び出した。
私が階段を駆け下りたところで、ママも寝室から出てくる。もこもこのガウンを羽織り、何事かと目を丸くしていた。
「雪奈、どうしたの?」
「電話があって、パパのせいで倫ちゃんが潰れたって!」
「あらあらあら……」
柔らかなガウンをきたママはそれだけ言うと、私よりずっと落ち着いた足取りで廊下を進んでいく。
玄関の扉を開けると、冷たい夜気と一緒に、タクシーのヘッドライトが目へ飛び込んできた。車の脇では、パパが倫ちゃんの肩を支えている。
倫ちゃんはスーツ姿のままだった。
けれど、いつも隙なく締められているコートのボタンは外れ、ネクタイは緩み、黒い髪も額へ少しかかっている。
目は閉じかけていたものの、完全に眠っているわけではないらしい。覚束ない足取りで、どうにか自分でも立とうとしていた。
「倫ちゃん!?」
私の声に、重たそうなまぶたが少しだけ持ち上がる。
「……雪奈、さん」
玄関に強いアルコールの香りが漂う。私を呼んだのは低く、かすれた声だった。
名前を呼べる程度には意識がある。そのことに安心した直後、倫ちゃんの身体が大きく傾き、顔を真っ赤にしたパパが慌てて抱え直した。
「ねえパパ! 何したの!」
「接待で少し……飲ませすぎちゃって」
「少し?」
「思っていたより、倫太郎くんがお酒に弱かったんだよぅ」
「飲ませた本人が初めて知ったみたいに言わないで!」
ママがタクシーの料金を支払いながら、笑顔でパパを見る。
「あなた。あとで……ゆっくり、お話ししましょうね」
「美咲さん、目が怖いよ」
「当然でしょう?」
パパの背筋だけが、倫ちゃんを支えたまま少し伸びた。
「とにかく、中へ入りましょう」
ママが玄関の扉を大きく開ける。
パパが倫ちゃんを連れて一歩進もうとしたけれど、本人も普段より足元が怪しい。倫ちゃんを支えながら二人とも転ばれては困る。
「パパはママに任せていい? 倫ちゃんは私が支えるから」
「雪奈一人じゃ重いよ」
「……玄関から客間までなら頑張れる」
私は倫ちゃんの隣へ回り、広い肩の下へ身体を入れた。
「倫ちゃん、私の肩に腕を回せる?」
「いえ……歩けますので」
こんなところで遠慮するなと顔を見つめる。
倫ちゃんの瞼はもう自動ドアのように開いたり閉じたりしていた。
「今、立ってるだけで左右に揺れてるけど」
「問題ありません」
「もう……問題しかないから、お願い頼って」
手首を取って肩へ回すと、倫ちゃんはわずかに眉を寄せたものの、抵抗はしなかった。ずしりと体重がかかる。
「お、重い……」
「だから、言っただろう?」
「あのね、パパは黙って! ちゃんと反省して!」
倫ちゃんは背が高い。
私の身長では肩を貸すというより、腕にぶら下がられているような格好になってしまう。それでもすぐ隣から伝わってくる体温を感じると、驚くほど力が出た。
「倫ちゃん、右足出して」
「……出しています」
「それ左足」
「そうですか」
「ねえ、だいぶ駄目だよ?」
タバコとアルコールの匂いに混じって、よく知っている柔らかな香りがする。それはこの前、肩へ掛けてもらったコートと同じ匂い。
そのことに気づいた途端、重さとは別の理由で心臓が速くなった。
普段は私の歩幅へ合わせ、転びそうになれば簡単に引き寄せてくれる人が、今は私を頼らなければ歩けない。
倫ちゃんが一歩進むたび、緩められたネクタイが胸元で揺れる。肩へ回された腕から熱が伝わり、頬のすぐそばには無防備な横顔がある。
「雪奈、本当に大丈夫?」
「だ、大丈夫……!」
パパがママの肩に捕まりながら、私の様子を伺ってくる。本当は腕も肩もすでに痛い。でも、倫ちゃんを支えられる機会なんて、次があるか分からない。ここでパパへバトンタッチするつもりはなかった。
「……すみません」
「倫ちゃんは謝らなくていいから。今日はもう、何もしないで」
私が背中へ手を添えると、倫ちゃんは悔しそうに眉を寄せたものの、さすがに諦めたらしい。その後は大人しく、私へ肩を預けてくれた。
「今夜はこのまま客間に寝かせましょう。離れまで歩かせるのは危ないわ」
「うんうん、一人にするのも怖いからね」
「……パパが言うと、全部自作自演に聞こえるんだけど」
「そんなことないよぉ。パパ、すっごく反省してるよ?」
「……顔が笑ってる」
「これは困ったときの顔だよー」
「パパが本当に困った顔は、もっと眉が下がるもん」
ママに腕を取られたパパを後ろに残し、私は倫ちゃんとゆっくり廊下を進む。
「あと少しだよ」
「……離れへ、戻ります」
「だめ。今日は客間」
「ご迷惑を……」
「誰も迷惑だなんて言ってないでしょう?」
そう返すと、倫ちゃんはそのまま黙って従うようになった。
肩へ回された腕の力が、ほんの少しだけ抜ける。安心してくれたように思えて、胸の奥が温かくなった。客間へ着き、ベッドの縁まで連れていく。
「倫ちゃん、座れる?」
「はい」
返事だけは、しゃんとしていた。倫ちゃんが腰を下ろした瞬間、マットレスが深く沈み、その反動で私の体まで倫ちゃんの方へ傾く。
「わっ」
思わず倫ちゃんの胸元へ手をついて、バランスをとる。薄いシャツ越しに、早鐘を打つ心音が伝わってくる。
近い。ほんの少し顔を上げれば、私の唇は倫ちゃんの頬へ触れてしまいそうだった。
「……雪奈さん」
「な、なに?」
「すみません」
「だから謝らなくていいってば」
倫ちゃんは身体を起こそうとしたけれど、腕に力が入らないらしい。そのまま一度壁にもたれ、目を閉じた。
「もうそのまま、寝ていいよ」
「まだ、平気です」
「その台詞、今日何回目?」
「……分かりません」
「じゃあ、もう平気じゃないってことにするね」
背中へ手を添え、ゆっくりと身体を倒させる。
倫ちゃんは最後まで自分でも姿勢を保とうとしていたけれど、頭が枕へ触れた途端、張っていた力が一気に抜けた。
マットレスが大きな身体を受け止める。倫ちゃんは一度だけ苦しそうに息を吐き、緩んだネクタイへ指をかけた。
「苦しい?」
「……少し」
ようやく素直な返事が返ってきた。
「触るね」
一応断ってから、結び目をもう少し下げる。第一ボタンも外すと、詰まっていた首元が緩み、倫ちゃんの喉がゆっくり動いた。
「楽になった?」
「はい……ありがとうございます」
目は閉じられているけれど、まだ意識はある。こんなに無防備な姿を見るのは初めてだった。
いつもは私が近づけば一歩離れ、触れようとすれば理由をつけてかわす人が、今は私の手を拒まない。
だからこそ、必要以上に触れてはいけない気がした。私はネクタイから指を離し、ベッドのそばから一歩下がった。
私は一度キッチンから水の入ったグラスを持って戻り、ベッド脇の小さなテーブルへ置く。倫ちゃんは、さっきと同じ姿勢で目を閉じていた。
「倫ちゃん、お水飲めそう?」
小さく尋ねても、今度は返事がない。
客間へ運び終えたことで緊張が切れ、本当に眠ってしまったらしい。呼吸は落ち着いているけれど、頬にはまだ酔いの赤みが残っていた。
「本当に、飲みすぎなんだから」
そう呟き、私はベッドの端へ腰を下ろした。返事はない。眠っているのだから当然だ。
それでも、今なら普段は言えないことを言っても許されるような気がした。
「好きって言うのを休んだら、少しくらい寂しい?」
倫ちゃんの閉じたまぶたを見つめる。
「医局を綺麗にしてるの、本当に私のせい?」
聞いても、答えてくれるはずはない。
分かっているのに、胸の中へ溜めていた言葉が次々と出てくる。
「私は、すごく寂しいよ」
ベッドの上に置かれた倫ちゃんの手は、力なくシーツの上で開かれている。いつも私を止める指も、距離を取る腕も、今日は動かない。
触れたい。
けれど、酔っている人へ勝手に触れるのは違う。私は膝の上で自分の手を握り、代わりに倫ちゃんの寝顔を見つめた。
そのとき、長いまつ毛がかすかに震えた。
「……ゆき?」
ひどく、小さな声だった。
聞き間違いかと思った。けれど、胸の奥では、その二文字だけが何度も響いている。
「なぁに?」
思わず身を乗り出す。
倫ちゃんが、ゆっくりと目を開けた。焦点の合わない黒い瞳が、すぐ近くにいる私を映す。
「ゆき」
今度は、はっきり聞こえた。9年前、倫ちゃんが私を呼んでいた名前。
「どうして、ここに……?」
倫ちゃんは目を細め、私の顔を確かめるように見つめた。それから、ふっと力の抜けた笑みを浮かべる。
「ああ……また、この夢か」
倫ちゃんの声は、いつもよりずっと低く、掠れていた。
また。
以前にも、私が出てくる夢を見たことがあるんだろうか。
いろんな疑問が一気に湧いて、その答えを聞きたくなる。けれど、その口元があまりにも穏やかで、言葉が出てこない。
夢じゃないよと言えば、きっと倫ちゃんは我に返る。いつものように私を「雪奈さん」と呼び、距離を取ってしまう。
だから私は、何も言わなかった。
倫ちゃんの黒い瞳が、私の顔をゆっくりとなぞる。額から目元へ、頬へ、唇へ。その視線が触れた場所だけ、順番に熱を持っていくようだった。
「……ゆき」
「なぁに?」
返事をすると、倫ちゃんの目元が緩んだ。ぎゅっと心臓を掴まれたような衝撃に、指先が痺れる。
私がずっと見たかったのは、こんな顔だった。子どもたちへ向ける優しい笑顔とも、パパやママに見せる穏やかな表情とも違う。
私だけを見て、安心したように力を抜いた顔。
「本当に、いる……」
存在を確かめるように呟き、倫ちゃんの右手がベッドから離れる。逃げるべきだと思う間もなく、その指先は私の髪へ触れた。
お風呂を済ませたばかりの髪は、一度肩にぶつかって、まっすぐ落ちている。その一房を、倫ちゃんはそっと掬い上げる。
普段なら、絶対にしない。
私が新しい髪型を自慢して見せても、「褒める必要がありますか」と冷たく流す人なのに。
指の間を滑っていく髪を、倫ちゃんは大切なものでも扱うように見つめていた。
「夢の中くらい……」
小さく息を吐く。
「俺を置いていかないで」
次の瞬間、掬い上げた髪へ唇が触れた。
何が起きたのか分からなくて、息が止まる。ほんの一瞬、触れただけだった。けれど、そこから熱が伝わったように、耳の奥まで一気に熱くなる。
倫ちゃんが、私の髪にキスをした。夢だと思っているから、できたのだ。そのことが嬉しくて——同じくらい苦しい。
この人は、夢の中でしか私を引き止めてくれない。
「倫ちゃん」
名前を呼ぶと、倫ちゃんの指が髪から離れた。そのまま手のひらが、私の頬へ向かってくる。
ゆっくりと。
逃げる時間はいくらでもあったはずなのに、動けなかった。倫ちゃんの手が、あと少しで頬へ触れる。
その距離は、一センチもない。
まだ触れていないのに、指先の温かさを頬で感じる。
そのまま、触ってほしい。そう思った途端、倫ちゃんの手が止まった。
指先が、わずかに震えている。倫ちゃんは小さく眉を寄せ、ひどく困ったように笑った。
「……だめだ」
掠れた声が、静かな客間へ落ちる。
「夢でも、泣かせることはしたくない」
手は私へ触れないまま、ゆっくりと布団の上へ戻っていった。
どうして。
倫ちゃんから触れてくれたら、私は嬉しいのに。きっと一生、忘れられないくらい幸せなのに。
そう伝えたかった。
けれど倫ちゃんは、もう目を閉じていた。さっきまで私を映していた瞳が隠れ、呼吸が少しずつ深くなっていく。
「倫ちゃん?」
返事はない。
代わりに聞こえるのは、規則正しい寝息だけだった。
本当に眠ってしまったらしい人の隣で、私はしばらく動けなかった。
髪へ触れた唇も、頬の手前で止まった指も、全部がまだ近くに残っている気がする。
「……ずるい」
眠っている倫ちゃんへ、小さく抗議する。
「こんなことしておいて、寝ちゃうなんて」
もちろん、返事はない。
首筋から、手櫛で梳かすようにして髪の先へ触れる。
キスされた場所なんて、正確には分からない。それでも倫ちゃんが掬ったあたりを指で撫でると、そこだけが別のものに作り変わってしまったような気がした。
「……ゆ、き」
軽く身を捩るように体勢を変えながら、倫ちゃんがもう一度私を呼ぶ。
「なぁに」
今度も、すぐに返事をする。
けれど、その先は続かなかった。眠ったままの横顔は、さっきまでのことがすべて幻だったように静かだった。
それでも私は、確かに聞いた。
——夢の中くらい、俺を置いていかないで。
倫ちゃんは、私が離れていくことを嫌がってくれた。好きと言わなくなった私を、少しは寂しいと思ってくれている。そう信じてもいいのだろうか。
「……やっと呼んでくれた」
声にすると、胸の奥に溜まっていたものが、少しだけほどけた。
「ゆきって」
目の奥が熱くなる。泣くつもりなんてなかったのに、溢れた涙が一粒だけ頬を伝った。
私は慌てて指で拭う。倫ちゃんに見られる心配はない。それでも、泣かせたくないと言ってくれた人の前で、泣きたくはなかった。
「大丈夫だよ」
眠る倫ちゃんへ言い聞かせる。
「泣いてないから」
誰も見ていない今日だけは、嘘をつかせてもらう。
ずっと欲しかったものを、ほんの少しだけもらえた。それだけで、胸がいっぱいだった。
そのまま、私はしばらくベッドのそばを離れられなかった。
水の入ったグラスへ手を伸ばす気配がないことを確認し、呼吸が落ち着いていることも、何度も確かめる。部屋へ帰らなくてはと思うたび、髪へ触れられた感覚が蘇った。
時計の針が進んでも、眠気は少しもやってこない。倫ちゃんの寝顔を見つめながら、私は何度も心の中で呼び返していた。
ゆきと呼んでくれた、たったそれだけのやり取りが、夜が明けるまで私の胸を満たし続けた。




