10.コンプライアンスではないらしい
会食翌日、頭には鈍い痛みが脈打っていた。
倫太郎は眉間へ皺を寄せたまま、ゆっくりと目を開けた。見慣れない天井が、朝の淡い光に照らされている。
ここは、普段住んでいる離れではない。
布団の質感も、明るさもまるで違う。
身体を起こそうとした途端、頭痛が一段強くなり、片手で額を押さえた。
瞼ははっきりと浮腫み、口の中はカラカラに乾ききっている。昨夜のスーツを着たまま、ネクタイは胸元まで緩み、シャツの第一ボタンも外されていた。
ベッド脇のテーブルには、水の入ったグラスが置かれている。誰かが用意した割には少ない量だけれど、自分で飲んだ記憶はなかった。
代わりに、別の記憶が鮮明に蘇る。
肩に触れた、細い身体。自分の重さに耐えながら、懸命に廊下を歩く雪奈。
ネクタイへ触れた指。心配そうに覗き込んできた顔。そこまでは、まだよかった。
問題は、そのあとだ。
『……ゆき』
自分の声が、頭の奥で再生される。倫太郎は両手で顔を覆った。
完全に、夢だと思いこんでいた。
雪奈がそばにいることも、またいつもの呼び方で名前を呼ばれたことも、すべて自分が都合よく作り出した夢だと思っていた。
だから、髪へ触れた。夢の中くらい、自分のものではない幸福へ手を伸ばしても許されると思った。
『俺を置いていかないで』
髪へ口づけた感触まで、はっきり残っている。もちろん、そのまま頬へ触れようと手を伸ばし、寸前で止めたことも。
倫太郎は頭を抱え、己の発した言葉を思い出す。
『夢でも泣かせることはしたくない』
なぜ、そこだけ理性が残っていたのか。むしろすべて忘れていればよかった。
倫太郎は、もう一度枕へ頭を戻した。天井を見上げても、昨夜の雪奈の顔が重なって見える。
驚きに見開かれた目。赤くなった頬。
そして、拒絶しなかった声。
雪奈は「なぁに?」と首を傾げて、期待した目でこちらを見ていた。
あれが現実だったのなら、雪奈は自分が何をしたのか、すべて知っている。
いっそ今すぐ離れへ戻り、そのまま病院へ逃げたい。しかし、黙って立ち去ればさらに不審に思われる。
謝るべきだ。だが、何をどこまで謝ればいい。
肩を借りたことか。
介抱させたことか。
昔の呼び方で名前を呼んだことか。
髪へ口づけたことか。
夢の中でも手放したくないと、本人へ告げてしまったことか。
一晩で犯した失態が、あまりにも多すぎる。
倫太郎は、もう一度布団を頭まですっぽりと被った。外の光も、昨夜の記憶もすべてシャットアウトするように、暗闇の中で小さく丸まる。
病院の緊急呼び出しが今すぐ鳴って、この場から強制連行してくれないだろうか。生まれて初めて、激務の救急外来を恋しく思う。
「消えたい……」
だが、消える前に雪奈へ謝らなければならない。結局、最初の問題へ戻っている。
大きくため息をついたところで控えめなノックの音がして、全身が固まった。
「倫ちゃん、起きてる?」
扉の向こうから、昨夜と同じ声が聞こえる。返事をしなければ、眠っていると思って帰ってくれるかもしれない。
卑怯だとは思いながらもそう信じて目を閉じた直後、扉が少しだけ開いた。
「入るね」
返事を待つつもりは、あまりなかったらしい。
雪奈がトレーを持って部屋へ入ってくる。淡い色のニットに長いスカートを合わせ、髪はいつもより丁寧に梳かされていた。
ハーフアップにした長い髪が、肩からまっすぐ落ちている。昨夜、自分が触れた場所へ、無意識に視線が吸い寄せられた。
「おはよう。体調どう?」
「……おはようございます」
どうにか声を出す。
「頭、痛い?」
「ええ、まあ少し」
「少しって言う人は、大体かなり痛いんだよ」
雪奈はベッド脇のテーブルへトレーを置いた。シャツ1枚で眠っていても寒くないくらいの暖房で、グラスの表面は早くもうっすらと曇りはじめていた。
「飲めそうなら、少し飲んで。ママが胃に優しいものにしてくれたから」
「ありがとうございます」
「昨日のこと、覚えてる?」
水へ伸ばしかけた手が止まった。
雪奈は何気なく尋ねたような顔をしている。しかし、黒い瞳はこちらの反応を見逃さないように、まっすぐ向けられていた。
正直に答えればいい。
その上で謝り、二度と同じことをしないと約束する。そうするべきだということは、分かりきっている。
「いえ……ほとんど、何も」
倫太郎は右手の親指で、人差し指の第二関節をなぞった。触れた瞬間、自分でも気づいた。もう遅い。
雪奈の視線は、すでに右手へ落ちている。
「そっか」
それでも雪奈は、何も指摘しなかった。
「覚えてないんだね」
口元は笑っている。
けれど、その目元はほんの少しだけ残念そうに見えた。倫太郎は、行き場を失った親指を隠すように手を握る。
「昨夜は、ご迷惑をおかけしました」
「ううん。私も、パパも、普段は倫ちゃんに助けてもらってるから。たまには頼ってくれてよかったよ」
「頼ったというより、介抱させただけです」
「肩はちょっと痛くなったけどね」
「申し訳ありません」
「冗談だよ。倫ちゃんを支えられて、ちょっと嬉しかった」
雪奈はベッド脇の椅子へ腰を下ろすと、長い髪を耳へ掛けた。
昨夜、倫太郎が掬い上げたあたりだった。胸の奥が嫌な音を立てる。
「私、何か変なことしてなかった?」
「……していません」
「倫ちゃんは?」
「覚えていません」
「本当に?」
「はい」
今度は指を動かさなかった。しかし返事が早すぎた。
雪奈はしばらくこちらを見つめたあと、膝の上で両手を重ねた。
「じゃあ、思い出したら教えてね」
「何をですか」
「何でも」
喉の奥が詰まった。雪奈は答えを待たず、椅子から立ち上がる。
「朝ごはん、みんなで食べるって。歩けそう?」
「離れに戻ります」
「まだ帰さないよ? ママが、朝食を食べてからにしなさいって」
「ですが——」
「倫ちゃん」
柔らかな声で名前を呼ばれ、言葉が止まる。
「昨日、あんなにフラフラだった人が急に一人で大丈夫って言っても信用できないよ」
「それは……」
「右足と左足、わかってないレベルだったよ」
そこまで酷かったとは、覚えていなかった。
倫太郎が黙ると、雪奈の目元へ楽しそうな笑みが戻る。
「よかった。そこは覚えてないんだね」
雪奈がケラケラと笑う。その笑顔を直視するのも久しい気がして、思わず言葉が出る。
「ほかは覚えているような言い方をしないでください」
思わず返してから、自分の失言に気づいた。雪奈も目を瞬く。数秒、二人の間へ沈黙が落ちた。
「……ほか?」
「言葉の綾です」
「そう?」
「そうです」
また親指が動きかけた倫太郎は、右手を布団の中へ隠した。雪奈の口元が、わずかに上がる。
「朝ごはん、行こっか」
「……はい」
追及されなかったことへ安堵しながら、倫太郎は同時に、もっと深い不安を覚えた。
雪奈は絶対に、何か知っている。
不安が確信に変わって、倫太郎は頭を抱えたままダイニングへと向かった。
***
朝食の席には、すでにパパとママが揃っていた。
「倫太郎くん、おはよう!」
パパは昨夜のことなど忘れたような明るい声で迎えた。
向かいに座るママだけが、静かな笑顔で紅茶を飲んでいる。パパの目元が普段より少し疲れて見えるのは、想像よりも長くお説教が続いたせいかもしれない。
「昨日はご迷惑をおかけして、申し訳ありませんでした」
倫ちゃんが深く頭を下げる。
「いやいや。私も少し勧めすぎたからね」
「少し、ではありませんよね」
ママがパパの方をまっすぐ見据えて、カップを置く。
パパは背筋を伸ばし、パンへ視線を落とした。
「……はい」
「そもそも、疲れている人へ無理に飲ませるものではありません。あなたは院長でしょう?」
「反省しています」
「昨夜も聞きました」
ママの笑顔は優雅なのに、パパはすっかり小さくなっていた。
倫ちゃんはまだ頭痛が残っているらしく、スープを少しずつ口へ運んでいる。
倫ちゃんが、私の隣にいる。
昨夜と同じくらい近いわけではない。それでも、テーブルの下では膝が少し動けば触れそうな距離だった。
倫ちゃんがスプーンを動かすたび、右手へ視線が向いてしまう。
倫ちゃんは、嘘をついた。
覚えているのに、覚えていないと言った。それなら、「ゆき」と呼んだことも、髪へキスしたことも覚えている。そう考えただけで、耳が熱くなった。
「雪奈、顔が赤いよ」
パパに指摘され、慌てて水へ手を伸ばした。
「この部屋が暖かいだけ!」
「そうかい?」
「そうなの!」
隣から倫ちゃんの視線を感じる。余計に熱くなりそうで、正面だけを見ることにした。
そのとき、テーブルの端へ伏せていたスマートフォンが震えた。画面に表示された通知を、反射的に開く。
——来週りょこ行けない。無理。しんだ
燕からだった。一瞬、何のことか分からなかった。
続けてメッセージが届く。
——インフル。いま39度。旅行キャンセル料100%。私の代わりに行って
「えっ」
思わず声が漏れる。
「雪奈」
ママが静かに私を見る。
「お食事中にスマートフォンを見るのは、お行儀が悪いわよ」
「ごめんなさい。でも、燕がインフルエンザになったみたいで……」
「あら。大丈夫なの?」
「熱が三十九度だって。来週一緒に行く予定だった温泉旅行にも行けなくなっちゃったみたい」
パパが、パンにバターを塗っていた手を止める。
「温泉旅行?」
「燕んちのグループが運営してる旅館に、二人で一泊する予定だったの。キャンセル料が百パーセントだから、代わりに行ってって」
「一人で?」
「二名一室のプランだから、一人では泊まれないと思う……」
返信欄へ、体調を心配する言葉を打ち込みながら肩を落とす。
久しぶりに燕とゆっくり過ごせると思っていた。インフルエンザなら仕方がないが、楽しみにしていただけに残念だった。
「じゃあ、倫太郎と行ったらどうだい?」
パパが、今日の天気でも話すような調子で言った。
「無理です」
隣から即答が返ってきた。
スプーンを口へ運ぶより早かった。
「えっ、倫ちゃんと!」
私はパパと倫ちゃんを交互に見る。
「いや、でも……倫ちゃんは仕事があるでしょ?」
「そうです。担当患者もいますし、引き継ぎも必要です」
「来週なら十分に間に合うよ?」
「急な呼び出しへ対応できません」
「君がいないと病院が回らないような体制なら、院長として私が困るなぁ」
パパはふくふくした頬へ笑みを浮かべたまま、倫ちゃんを見る。
「最近は、残業も多すぎる。君は来週、二日以上の有給を取りなさい」
「必要ありません」
「有給は、必要だから取るものではないよ」
「ですが、仕事が――」
「仕事とは、自分一人で抱えるものじゃない」
パパの声から、柔らかな笑いが少しだけ消えた。
食卓の空気が変わる。
「誰かへ任せられる状態を作るのも、医師の仕事だよ。君が休んだだけで困るのなら、後輩を育ててこなかった君の責任になる」
倫ちゃんは反論しかけ、口を閉じた。
パパは低身長で、大福みたいなほっぺたをしてて、普段は誰より温厚で優しい。けれど、院長として話すときは、倫ちゃんでさえ簡単には押し返せない強さがある。
「佐伯先生も、私もいる。僕はまだ、君一人に背負わせるつもりはないよ」
「……分かっています」
「分かっているなら、休みなさい」
倫ちゃんは黙り込んだ。
ママが優雅に紅茶を飲みながら、さらに逃げ道を塞ぐ。
「雪奈一人で行かせるのは心配だけれど、倫太郎くんが一緒なら安心ね」
「母さんまで……」
「雪奈は嫌なの?」
ママに尋ねられ、隣の倫ちゃんを見る。昨夜の低い声が、耳の奥へ蘇る。
『夢の中くらい、俺を置いていかないで』
二人きりで旅行へ行けば、素面の倫ちゃんから何か聞けるかもしれない。
少なくとも、覚えていないという嘘を、いつまでも押し通すことはできなくなる。
「私は……行きたい」
正直に答える。
倫ちゃんの肩が、ごくわずかに固まった。
「だそうだよ」
パパは満足そうに頷く。
「それでは来週、二日間の有給を取るように。院長命令です」
「先生」
倫ちゃんが低い声で呼ぶ。
「家ではパパと呼んでほしいなぁ」
「そういう話ではありません」
「院長として命令しているんだから、仕方ないね」
倫ちゃんは額へ手を当てた。頭痛が悪化したのかもしれない。
私はスマートフォンを開き、燕から送られてきた予約内容を確認する。
「えっと、来週の水曜日から一泊二日。駅から歩ける距離だから運転もいらないし、安心だよ」
「雪奈さん」
「はい」
「まだ同行すると申し上げていません」
「でも、パパが決めたよ?」
「私の意思は?」
倫ちゃんの切れ長の目が、まっすぐこちらへ向く。
少し考えてから、胸を張った。
「コ……ッコンプライアンスです!」
食卓が静まった。倫ちゃんの眉間に深い皺が寄る。
「……使い方が違います」
「あれ?」
「あえて言うなら、院長からのオーダーでしょうか」
「じゃあ、オーダーです!」
「言い直せばいいという話でもありません」
パパが楽しそうに笑う。
「倫太郎くん。雪奈へ言葉の意味を教えるのは、旅行から帰ってきてからでいいよ」
「……はあ」
「倫ちゃん、よろしくお願いします」
「まだ了承していません」
「パパが了承したじゃない」
「だから、僕の意思はどこへ行ったんですか」
「温泉?」
「行き先を聞いているわけではありません」
「もう。ねぇ、いいでしょ。ね? お願い!」
「…………分かりました。行けばいいんでしょう」
ママが口元を押さえ、肩を揺らしている。倫ちゃんは完全に逃げ道を失った顔で、深く息を吐いた。
私はテーブルの下で、こっそり拳を握る。
昨夜のことを覚えていないふりをするなら、思い出させればいい。
それに、夢の中でしか言えないことがあるのなら——今度は、目を覚ましている倫ちゃんの口から聞きたい。
スマートフォンへ、燕への返信を打ち込む。
——お大事に。旅行は倫ちゃんと行くことになったよ
送信すると、熱が三十九度あるとは思えない速さで既読がついた。
——勝ったね
何に。
そう返そうとしたところで、さらに一通届く。
——予約、一部屋だから。頑張れ。
指が止まった。
「……え?」
「どうしました?」
倫ちゃんが警戒したようにこちらを見る。
予約画面を開く。
二名一室。
女性二名で予約された、露天風呂付きの客室。
布団は二組と書かれている。
そこだけは、ひとまず安心した。
「部屋、1つだって」
倫ちゃんの顔から、すっと血の気が引いた。
パパは何の問題もないように頷く。
「布団は2つあるんだろう?」
「あるみたい」
「じゃあ大丈夫だね」
「大丈夫ではありません」
倫ちゃんだけが、即座に否定した。
私は、昨夜キスされた髪の束を指先に巻き付けた。覚えていないふりを続ける倫ちゃんと、一部屋で一晩。
来週まで待つには、少し長すぎる。
「楽しみだね、倫ちゃん」
「私は今から、キャンセル方法を確認します」
「キャンセル料、百パーセントだよ」
「払います」
「燕のご厚意を無駄にしたら、コンプライアンス違反です!」
「だから、使い方が違います」
いつもの返事が戻ってきた。
それだけで、昨夜から胸の中に浮かんでいた幸福が、また少し大きくなった。




