11.柔らかな時間
旅行前夜、私は午前一時を過ぎても眠れずにいた。
ベッドの横には、明日のために用意した小さなキャリーケースが置いてある。
着替えに下着、化粧品、充電器。何度確認しても中身が増えるわけではないのに、私はまた布団から抜け出し、三度目のチェックを始める。
「着替えはある。充電器も入れた。お財布も、ハンカチも……」
旅館の浴衣があるのだから、部屋着は必要ない。
そう思って一度は戻したカーディガンを、夜は冷えるかもしれないと考え直して詰める。代わりに、同じような色のニットを一枚取り出す。
蓋を閉め直して今度こそ大丈夫だと思った直後、洗面台に置いたままのヘアオイルを思い出して、また蓋をあけて。ずっと何かを忘れているような気がして、そんなことを永遠に繰り返していた。
「……こんなに荷物を確認しても、倫ちゃんが来てくれる保証にはならないんだけど」
独り言を漏らすと、急に不安が戻ってくる。パパから院長オーダーが出たとはいえ、倫ちゃんは最後まで了承したとは言っていない。
明日の朝になって、「やはり仕事があります」と断る可能性だって十分にある。むしろ、あの夜のことを覚えているなら、二人きりの旅行など何としてでも避けたいはずだ。
髪へ触れた唇を思い出す。
『夢の中くらい、置いていかないで』
ベッドへ戻り、ふわふわの枕へ顔を埋める。
あれから何度、思い出したか分からない。髪を洗っても、梳かしても、倫ちゃんが触れた場所だけは今も、熱を宿しているような気がした。
本人は覚えていないふりをしている。けれど、嘘をついたときの癖は確実に出ていた。
「覚えてるなら、どうして何も言ってくれないのよ……」
枕の中へ小さく抗議する。
問い詰めれば、倫ちゃんはきっと謝る。二度としませんと約束して、また一段遠くへ離れてしまう。それは、絶対に嫌だった。
だから明日は、すぐにあの夜のことを聞くつもりはない。二人で旅行をして、いつもと違う景色を見て、倫ちゃんが少しでも楽しいと思ってくれたら。
そのとき、夢の中でしか言えない言葉を、もう一度だけ現実へ引っ張り出せるかもしれない。
「……本当に、来てくれるよね?」
答えの代わりに、枕元の長針が小さな音を立てて1歩進む。
その後も目を閉じては開き、旅行の予定を考えては、倫ちゃんが来なかった場合を想像した。
結局、私が眠りについたのは、空が白み始めた頃だった。
***
「雪奈。目の下に、うっすら熊がいるよ」
翌朝、ダイニングへ下りると、パパが私の顔を見て言った。がおー! と全然怖くない熊の真似をして口を開けて近くへやってくる。
「熊じゃなくてクマだよ」
「どちらにしても、あまり可愛くないねぇ」
「楽しみで眠れなかっただけだから!」
席へ着きながら答えると、ママはスッと目を細めた。
どんな服にすればテンションが合うか、大人っぽく見せた方がいいのか、可愛い方が好きなのか。
何度も何度も着替えて悩んだ結果、私はキャメルのロングワンピースにライトグレーのショートコートを選んだ。
「しっかりと、恋する女の子してるじゃない」
「素直に旅行が楽しみだっただけだよ!」
「ほとんど同じ意味でしょう?」
「全然違うよ!」
否定はしたものの、倫ちゃんと二人で旅行に出かけられることを楽しみにしているのだから、あまり説得力はない。パパは今日も焼きたてのクロワッサンへ追いバターしながら、困ったように首を傾げた。
「いい加減、仲直りして普段に戻ればいいのにね」
「喧嘩してるわけじゃないもん」
「でも、まだ倫太郎くんを先生って呼んでるだろう?」
「それは大人の距離感を保ってるだけ」
「雪奈が大人の距離感を口にする日が来るとはねぇ」
「パパまでひどい!」
思わず頬を膨らませると、ママがくすりと笑った。
「今日の旅行でどうなるかしらね」
「どうなるって?」
「神のみぞ知る、よ」
ママはそれ以上教えてくれず、優雅に微笑んでスープを口へ運ぶ。
待ち合わせまでは、あと15分。倫ちゃんが来るかどうか心配で、朝食の味はほとんど分からない。玄関の方で物音がするたびに顔を上げてしまう。
約束10分前、パパとママはお互いに褒め合っておしゃべりを続けている。
約束8分前、私だけがお水を大量に飲み続けている。
約束の5分前になったところで、廊下の向こうから規則正しい足音が聞こえてきた。
心臓が一度、大きく跳ねる。
「おはようございます」
倫ちゃんがダイニングの入口へ現れた。
来た。
本当に来た。
思わず立ち上がりかけたけれど、テーブルの下でスカートを掴んで耐えた。
「おはよう、倫ちゃん!」
好きも、かっこいいも休止中だけれど、名前を呼ぶくらいは許してほしい。今日まで「榊先生」と呼び続けたのだから、旅行中くらいは元へ戻してもいいはず。
倫ちゃんは一瞬だけ目を見開き、それから何事もなかったように頭を下げた。
「おはようございます、雪奈さん」
淡いグレーのニットにベージュのスラックス。その上から、濃いグレーのロングコートを羽織っている。
休日でもスーツで来るのではないかと警戒していたけれど、今日はきちんと私服だった。ただし、片手には普段の通勤鞄よりひと回り大きい程度の黒いバッグしかない。
「荷物、それだけ?」
「一泊ですので」
「本当に着替え入ってる?」
「入っています」
「温泉旅行のわくわくは?」
「荷物へ入れるものではありません」
「どうしようパパ……倫ちゃん、全然旅行する気がない」
「……旅行をするために来ています」
はあ、と小さくため息をついた後、淡々と返される。
でも来てくれた。
それだけで、胸の奥へ溜まっていた不安が一気にほどけていく。
「倫太郎くん、雪奈をよろしくね」
「承知しました」
「二人で、楽しんでくるんだよ」
「……目的は休養です」
「うんうん、分かってる分かってる」
パパは明らかに分かっていない顔で笑ってバシバシと倫ちゃんの背中を叩く。ママは私のコートの襟を整えてから、倫ちゃんへ穏やかに微笑んだ。
「倫太郎くん、今日は仕事のことは忘れて楽しんできてね」
「善処します」
「善処ではなく、実行してね」
「う……はい」
ママにまで逃げ道を塞がれ、倫ちゃんがわずかに視線を逸らした。その横顔を見ているだけで、頬が緩みそうになる。まだ旅行は始まってもいない。それなのに、私はもう十分に楽しかった。
***
新宿を出た特急列車は、冬の街並みを窓の外へ流していた。
私は窓側の席に座り、発車してから何度目か分からないくらい、外を眺めている。隣の倫ちゃんはといえば、座席へ腰を下ろして10分もしないうちに、小型のタブレットを取り出した。
倫ちゃんはさっと眼鏡をかけて、ファイルを開く。薄い画面には、びっしりと英語が並んでいた。指先でページを送るたび、医学用語らしい長い単語の見出しや図表が現れた。
「倫ちゃん」
「何ですか」
「旅行中までお勉強するの?」
「……最新の症例報告を確認しているだけです」
「それをお勉強って言うんだよ」
「雪奈さんもタブレットを持ってきていますよね」
私のバッグへ目を向けられ、言葉に詰まる。
「私のは非常用だもん」
「何に備えた非常用ですか」
「急に教授が現れて、提出を求められたとき」
「箱根まで追いかけてくる教授はいませんよ」
「万が一ってあるでしょう?」
「ありません」
真剣に否定する倫ちゃんがたまらなく面白くて、私は体を丸くして声を出さないように笑った。倫ちゃんは、再びタブレットへ視線を落とす。
休日の私服姿も当然ながら素敵すぎる。タブレットを持つ手も、眼鏡越しに細かい文字を追う横顔も、何もかも褒めたい。けれど、今はまだ供給停止中だ。
あっちから頭を下げてきたら、休戦してあげてもいいくらいの寛大さは持ち合わせているけれど。
真面目に論文を追う倫ちゃんを早々に諦めて、代わりに車内販売の案内を開いた。
「車内販売のお姉さんが来たらまず駅弁を買うでしょ。そのあとは温泉プリンも食べたいし、お醤油サイダーも飲んでみたい」
「朝食を食べたばかりでは?」
「旅行中の朝食と駅弁は別会計なの」
「胃の中では合算されます」
「倫ちゃんは食べないの?」
「必要ありませんね。特にその……お醤油サイダーとやらは」
「もったいない。旅行先では、その土地のものを全部食べなきゃ」
「一泊で全部は無理です」
「だから時間配分が大事なの! 駅弁食べて、温泉街でプリンとサイダー。旅館へ着いたらお茶菓子をいただいて、夕食のために少し休憩する」
指を折って数えていると、その手を邪魔するように倫ちゃんの手が包む。
「休憩を挟んでも摂取量は減りません」
「気持ちが整うから大丈夫」
「胃は気持ちで容量を変えません」
真面目な顔で注意される。
いつもの会話が戻ってきたことが嬉しくて、私は窓ガラスへ映る自分の顔を見た。
かなり、笑っている。
倫ちゃんに気づかれないよう表情を引き締め、流れていく景色へ視線を戻す。
「山が見えてきたね」
「ええ」
「……雪、積もってるかな」
「数日前に降ったようです」
「……温泉街も……白いかな」
「日陰には残っているかもしれません」
タブレットを見たままでも、話しかければ必ず答えてくれる。その声を聞いているうちに、昨夜ほとんど眠れなかった身体へ、急に重さが押し寄せてきた。
列車の一定の揺れと画面をスライドする指先の小さな音。それに、肩から伝わる倫ちゃんの体温。3つが重なると、まぶたを開けているのが難しくなってくる。
「眠いなら寝てください」
「全然眠くないよ」
そう答えた直後、大きなあくびが次々と溢れて、止まらない。口を押さえて何度も欠伸している間、私は会話もできずにただ倫ちゃんを見つめていた。
「説得力がありませんね」
「だってね……寝たら、景色を見逃すし……駅弁も……」
「元々無理な予定だったでしょう」
「そ、だけど……」
どうしても耐えられない眠気が襲ってきて、窓へ頭を預ける。ガラスは思っていたより冷たくて、列車が揺れるたびにこめかみがぶつかる。ゴツゴツと何度目かの頭突きを繰り返しているうち、大きな手に肩を引かれた。
「そちらではなく、こちらへ」
低く響くような——それでいて甘さと優しさを感じる声が、耳元で聞こえる。
すぐに私の頭は硬く冷たい窓から離れ、温かな布地へと着地した。
それが倫ちゃんの肩だと気づいたときにはもう、睡魔に意識の半分以上を持っていかれていた。
「……重いよ」
「雪奈さんの頭より、荷物の方が重いです」
「……喜んでいいの?」
「まあ、事実ですから」
ひどい。
抗議しようとしたけれど、倫ちゃんの肩は思っていたよりはるかに心地よかった。コート越しに伝わる体温と、よく知っている柔らかな香り。前に貸してもらったコートと同じ匂いが、すぐそばからする。
タブレットの画面を送る音が一度止まった。膝の上へ、何かがふわりと掛けられる。薄く目を開けると、倫ちゃんが着ていたコートだった。
「倫ちゃん、寒くないの?」
「大丈夫です」
「私も、大丈夫だよ」
「寝てください」
「寝ないもん……」
自分でも、ほとんど寝言だと分かる声だった。首元へ、柔らかな布が触れる。倫ちゃんのマフラーだろうか。確かめようとしても、もう目は開かない。
トンネルを抜けたのだろうか。窓から差し込む冬の日差しが、まぶたの裏を白く染める。
眩しい。
そう思って少しだけ眉を寄せた、そのとき。遠くで、タブレットのカバーを閉じる小さな音がした。
それから、ふっと光が和らぐ。目元がふんわりとした闇に包まれた。
誰かが窓際へ立ったのか、それとも私が夢を見始めたのか。
頬の近くには、ほのかな体温が降りてきた気がした。
「……倫ちゃん」
「はい」
「私ね、今日……すっごく楽しい……」
返事は、すぐには聞こえなかった。
やっぱり倫ちゃんは、休むためではなく、仕事の合間に私へ付き合っているだけなのかもしれない。私だけが浮かれているのだと思うと、沈みかけた意識の底へ、少しだけ寂しさが混ざる。
「…………ん、俺も」
聞き間違いかと思った。
倫ちゃんが、そんなふうに素直な言葉を返してくれるはずがないから。
きっと眠りかけた私が、自分に都合のいい続きを作ったのだ。いつだって夢の中の倫ちゃんは、現実より少しだけ甘い。
そのまぶたを守るような温かな暗がりへ身を預け、私はそのまま意識を手放した。
***
——ご乗車ありがとうございます。次は箱根湯本、箱根湯本です。
耳元へ流れた到着案内で、目が覚めた。
窓の外には、さっきまでとは違う山の景色が広がっている。建物の屋根や線路脇の日陰には、薄く雪が残っていた。
「……あれ?」
頭を起こすと、腕の方へするりと柔らかな布が滑り落ちる。
それは、今朝確かに倫ちゃん首元に巻かれていたマフラーだった。膝には、きれいに広げられたコートも掛かっている。
隣を見ると、倫ちゃんは淡いグレーのニット姿のまま、小型のタブレットで続きを読んでいた。何事もなかったような横顔に、さっき聞いた声が蘇る。
『……俺も』
思い出しただけで胸が大きく跳ねた。けれど、あのとき私はほとんど眠っていた。
そもそも、倫ちゃんが、あんなふうに素直な返事をするはずがないのだ。
肩を借りたことや、コートを掛けてもらったことへ、願望が混ざって夢を見たのだろう。
「これ、倫ちゃんの?」
「ほかに誰のものがあるんです」
「そっか。じゃあ、返すね」
コートを持ち上げようとすると、倫ちゃんはタブレットから目を離さないまま言った。
「いいですよ。まだ寒いでしょう」
「倫ちゃんは寒くない?」
「私は大丈夫です」
「でも、ニット一枚だよ?」
「雪奈さんより寒さには強いので」
受け取るつもりはないらしい。私は言葉に甘えて倫ちゃんのコートをもう一度膝へ掛け、マフラーを首元へ巻き直した。
全部が、夢だったわけではない。その事実だけで、口元が緩んでくる。
「……もしかして、もうすぐ到着?」
「ええ」
「どうしよう! 私、電車へ乗ったばかりの気分なんだけど」
「一時間以上眠っていましたからね」
「えっ! 一時間!?」
身体を起こして車内を見回す。駅弁も、飲み物も、何ひとつ買った形跡がない。
「私の駅弁……」
「はい」
「温泉プリン……」
「それは到着後です」
「お醤油サイダー……!」
「同じく、到着後です」
「でも、車内で何も食べてない!」
「朝食を食べたでしょう」
「……起こしてくれてもよかったのに」
倫ちゃんの指が、タブレットの画面上で止まった。
「よく眠っていましたので」
こちらを見ずに答える。
それだけだった。
けれど、眠っている私が窓へ頭をぶつけないよう肩を貸し、寒くないようコートとマフラーを掛け、到着するまで一度も起こさなかった。
もしかしたら、夢だと思った返事も本当だったのではないか。
そう尋ねたくなったけれど、今はまだ胸の中へしまっておく。
列車が速度を落とし、ホームへ滑り込んでいく。倫ちゃんはようやくタブレットを閉じ、私の膝からコートを受け取った。
「着きますよ」
「うん」
立ち上がりながら、首元のマフラーへ指を触れる。
「これは?」
「そのままで構いません」
「借りてていいの?」
「外は冷えますから」
倫ちゃんは立ち上がり、私のキャリーケースを先に荷物棚から下ろした。
温泉街へ着く前から、こんなに甘くされていいのだろうか。
列車の扉が開き、冷たい空気が車内へ入り込んでくる。
私は倫ちゃんのマフラーへ口元を埋め、口角が上がっているのを誤魔化して、その背中を追ってホームへ降りた。




