12.楽しいのはきっと私、だけじゃない
駅の改札を抜けると、葉っぱの香りを乗せた冷たい空気が鼻腔をくすぐる。
空はよく晴れているのに、日陰には数日前に降った雪がまだ白く残っていた。駅前から温泉街へ続く坂道には観光客があふれ、土産物店の軒先からは湯気と甘い香りが漂っていた。
「倫ちゃん、見て! 温泉まんじゅう!」
「まずは旅館へ荷物を置きましょうか」
「あっ! あった! お醤油サイダー!」
「それはなぜそんなに飲みたがるんですか」
「だって、お醤油とサイダーだよ? どんな味なのか確かめないと、今夜も眠れなくなるかもしれない」
「——今夜も?」
倫ちゃんの視線が、私の顔へ向く。
「もしかして、昨夜も眠っていないんですか。ああ、だからクマが」
「いや、まあ、その、言葉の綾と言いますか。……そんなにひどい?」
「電車へ乗ってすぐ眠った理由が、ようやく分かりました」
隣を歩く倫ちゃんは、それ以上私の相手をせずに私のキャリーケースを片手で引いていく。
もちろん、もう片方の手には自分の黒いバッグを持っているのに、だ。電車を降りる直前にコートは返してしまったけれど、マフラーだけはまだ私の首に巻かれたまま。
歩くたび、風に乗ってふわりと倫ちゃんの匂いがする。
それだけで十分に幸せなのに、私は眠りへ落ちる直前に聞いた声まで何度も思い出してしまう。
『俺もですよ』を反芻する。本当に、言ってくれたんだろうか。それとも、都合のいい夢だったんだろうか。
隣で何事もなかったように歩く横顔からは、何も読み取れない。
「雪奈さん」
「なに?」
「前を見てください」
「見てるよ」
「僕の顔を見ながら歩くことを、前を見るとは言いません」
「今は、倫ちゃんが何か隠してないか——観察してるの」
「何を隠すんですか」
「電車の中で、私に何か言わなかった?」
倫ちゃんの足が、ほんのわずかに遅くなる。けれど、それも一歩だけだった。すぐに元の速度へ戻り、前を向いたまま答える。
「寝言への返事ならしました」
「何て?」
「覚えていないんですか」
「眠ってたから曖昧なの」
「では、忘れたままで」
「それ、絶対に何か言った人の答えじゃん! やだ、教えてよ!」
追及しても、倫ちゃんは教えてくれない。
それでも、完全な夢ではなかったらしい。その事実だけで、首に巻いたマフラーへ口元を埋めたくなる。
私は緩みそうになる頬を隠しながら、隣へ並んだ。
温泉街の中心へ近づくにつれ、人の数が増えていく。
道幅はそれほど広くない。両側の店を眺める人、写真を撮る人、立ち止まって地図を確認する人が重なり、少し進むだけでも誰かの肩とぶつかりそうになる。足元は満員電車と同じくらいに踏み場がない。
「倫ちゃん、あっちのお店、黒い温泉卵が——」
「雪奈さん」
店先へ目を向けた瞬間、後ろから来た人の波に押され、倫ちゃんとの間が開いた。
「あっ」
踏み止まろうとしたけれど、前から来た旅行客を避けるため、さらに道の端へ追いやられる。
だめだ、と目をギュッと閉じたのとほぼ同時に、前から伸びてきた手が私の手を掴んだ。
指先から手のひらを超えて手首まで、そのまますっぽり包み込まれる。驚いて顔を上げると、額にほのかに汗をかいた倫ちゃんが、私と人波の間へ身体を入れていた。
「こちらへ」
低い声で告げ、そのまま私の手を引く。
「倫ちゃん?」
「人が多いので」
それだけだった。
迷子にならないように。人にぶつからないように。
これはきっと、いつもの安全策。分かっているのに、手のひらから伝わる熱だけで胸がいっぱいになる。
倫ちゃんの手は私よりずっと大きくて、指は長い。爪の辺りは少しカサついているけれど、それは診察のたびに消毒や手洗いを何度も繰り返すせいだろう。それでも握る力は強すぎず、私が痛くないように加減されている。
私は何も言わず、その手へ少しだけ指を絡めた。恋人つなぎにする勇気まではなかったけれど、離れないように握り返す。
倫ちゃんの肩がわずかに固まった。けれど手はそのまま、離されることはなく繋がっている。
「こっちで合ってるの?」
「ええ。旅館までは直進で、この先を右です」
「調べてくれたの?」
「迷う時間が無駄なので」
「そういうことにしておくね」
「ほかに何があるんですか」
「私との旅行を、楽しみにしてくれてたのかなって」
「昨夜、経路を確認しただけです」
「何時まで?」
「……23時頃です」
「ふーん。旅行の前日に、ちゃんと調べてくれたんだ」
「通常の準備です」
言葉はそっけない。それでも、いつも通りの倫ちゃんが戻ってきたことが嬉しかった。
好きとも、かっこいいとも言わない日々は続いている。けれど、電車の中で肩を貸してくれて、寒くないように包んでくれて、今は手をつないで歩いている。
もしかすると、私が言葉をかけるのを止めたことで、倫ちゃんから返ってくるものが少しずつ増えているのかもしれない。
そんな都合のいい期待をしながら歩いているうちに、人通りの多い通りを抜けた。
道幅が広がり、観光客の姿もまばらになる。
もう誰かに押される心配はないのに、倫ちゃんの手は私を包んだままだった。
私は何も言わず、つながれた手を見つめながらしばらく隣を歩いた。
安全のために握ったのなら、もう離していいはずだ。それでも手のひらから伝わる熱は途切れないから、私の脳は少しずつ誤解していく。
「倫ちゃん」
「何ですか」
「もう、迷子にならないよ」
倫ちゃんの視線が、ようやく私たちの手元へ落ちた。そこで初めて気づいたように指先がわずかに動いたけれど、すぐには離れなかった。
「……知っています」
そう答えたあとも、倫ちゃんは理由を探すように前を向いたまま、しばらく私の手を引いて歩いた。人混みはもう遠く、私たちの周りには誰もいない。
やがて倫ちゃんは、名残を断ち切るように手を離し、何事もなかった顔でキャリーケースの持ち手を握り直した。
「足元を見て歩いてください」
「うん」
空いた手を胸元で一人抱きしめる。握ったり、開いたりしてみても、倫ちゃんの体温はまだそこに確かに残っていた。
「どうしました?」
「何でもない」
「そうですか」
倫ちゃんは耳をほのかに赤くして、前を向いている。
だから私は、こっそり笑った。
理由がなくなってもすぐには離せなかったあの数歩を、私はずっと忘れないんだろうと思いながら。
***
旅館は温泉街の奥、川沿いに建つ古い木造の建物だった。
大きな格子戸をくぐると、磨かれた床と芳醇な木の香りが迎えてくれる。玄関には季節の花が活けられ、奥の窓からは湯けむりの立つ庭が見えた。
「わあ……!」
思わず声を上げると、着物姿の仲居さんが笑顔で出迎えてくれた。
「お待ちしておりました。宝生様でいらっしゃいますね」
「はい。本日から一泊でお願いします」
「ご案内いたします。ご主人様のお荷物も、こちらでお預かりしますね」
「ご、ごしゅ……!」
「いえ、夫婦ではありません」
倫ちゃんが間髪入れずに訂正する。けれど私も負けていられない。思わず照れて噛んでしまったことを挽回すべく、その隣から、仲居さんへ笑顔を向けた。
「いえ、あの、未来の夫です!」
「違います」
「今はまだ、予定です」
「予定にも入っていません」
「あららぁ、仲良しですこと」
仲居さんは私たちを見比べ、楽しそうに目を細めた。
「では、これからが楽しみですね」
「はい!」
「雪奈さん、否定してください」
倫ちゃんの声が、いつもより少し低い。耳がまたうっすら染まっていることに気づき、ますます嬉しくなる。これは絶対に、寒暖差のせいなんかじゃないから。
案内された客室は、畳敷きの広い和室だった。
障子を開けると、雪の残る山と川が一望できる。その手前には小さな縁側があり、さらに奥には客室専用の露天風呂が設けられていた。
「倫ちゃん、見て! お部屋に露天風呂がある!」
「ホームページにも書いてありましたね」
「書いてあるのと、本物を見るのは違うの」
「走らないでください」
私は縁側へ向かいかけて、言われるまま足を止めた。
倫ちゃんは荷物を部屋の隅へ置くと、窓の鍵、非常口の案内、露天風呂へ続く戸まで順番に確認し始めた。
「倫ちゃん、旅行なのに点検員みたい」
「安全確認です」
「私より部屋を見てる」
「雪奈さんは確認する必要がありません」
「どうして?」
「僕が確認していますから」
当然のように返される。
本人は何気なく言ったのだろうけれど、その一言だけで胸が甘く締めつけられた。
仲居さんが、お茶と和菓子を用意しながら室内の説明をしてくれる。
「お夕食は六時半から、個室のお食事処でご用意いたします。お食事の間に、お布団を二組敷かせていただきますね」
「二組、ですね」
倫ちゃんが念を押す。
「はい。二組でございます」
「一組だと思ってたの?」
「確認しただけです」
「そんなに心配しなくても、襲わないよ?」
「そういう発言をしないでください」
「コンプライアンス?」
「常識です」
仲居さんは笑いを堪えるように口元へ手を添えていた。説明が終わり、襖が閉まる。私は出されたお饅頭へ手を伸ばした。
「ん〜っ! これ、外側はサックサクなのに餡子はしっとりしてて、すごく美味しい!」
「先ほどまで、駅弁を食べ損ねたと嘆いていた人とは思えませんね」
「これは旅館のお茶菓子だから、別会計なの」
「胃の中では――」
「合算されるんでしょう? 覚えたよ」
先回りして答えると、倫ちゃんの口元がほんの少し緩んだ。
目尻に、細い皺が一本だけ浮かぶ。その瞬間を見逃さず、私はすぐに身を乗り出した。
「今、笑った?」
「笑っていません」
「笑ったよ。目のところに一本出た」
「見間違いです」
「三本出るところまで笑ってよ」
「要求されて笑うものではありません」
「じゃあ、旅行中に1回は三本! 出すからね」
「何の目標ですか」
答えながらも、倫ちゃんの表情は朝よりずっと柔らかかった。私だけが楽しいわけではないのかもしれない。
電車の中の返事も、本当に倫ちゃんが言ってくれたのかもしれない。
そう思い始めると、胸の中で期待が膨らむ。けれど、ここで一気に追及すれば、また倫ちゃんは遠ざかってしまう。
私はお饅頭をもう一口食べ、浴衣を選べる場所があると聞いたことを思い出した。
「そうだ。色浴衣を選びに行こう!」
「備え付けのものがあるでしょう」
「可愛い浴衣が選べるから、この旅館にしたの!」
「温泉や食事ではなく?」
「それも大事。でも浴衣も大事。今回はビジュで攻めなきゃ」
そのとき、倫ちゃんのタブレットが短く震えた。
画面を確認した倫ちゃんの目元から、さっきまでの柔らかさが消える。
「……先に温泉へ入ってきてください」
「倫ちゃんも入る?」
「別々の浴場へ、です」
「分かってるよ」
「分かっている人は、今の聞き方をしません」
「仕方ないなぁ」
真面目な顔でタブレットへ視線を落とす倫ちゃんを見る。
ここへくる電車の車内でも、小児医療に関する海外の文献を熱心に読んでいた。
旅行中くらい仕事を忘れてくれてもいいのに、とは思う。でも、それが倫ちゃんなのだ。
「先に入ってるね」
私は深く考えず、大浴場へ向かった。
***
大浴場でゆっくり温まったあと、私は迷いに迷って選んだ色浴衣へ袖を通した。
淡い藤色の生地に、白と薄桃色の花が散っている。帯は深い赤で、鏡の前に立つと普段の洋服より少し大人びて見えた。
髪は高い位置でまとめるか迷った末、うなじの近くでゆるくまとめた。顔まわりへ数本だけ髪を残すと、鏡の中の自分がいつもより知らない人に見える。
「……大丈夫。可愛い」
自分へ言い聞かせる。でも、自分で可愛いと思うだけでは意味がない。倫ちゃんに、可愛いと言ってほしい。好きも、かっこいいも休止している代わりに、一度くらいは私が褒めてもらってもいいはずだ。
ロビーへ戻ると、倫ちゃんは先に湯浴みを終えてぼんやりと雪景色を眺めていた。濃紺の浴衣に、黒い帯。倫ちゃんは、旅館の備え付けの、シンプルな浴衣を着ているだけなのに——恐ろしくビジュアルがいい。
ほんのり濡れた黒髪は普段より少し無造作に、額へ数本落ちていた。そのあまりの破壊力に、私は襖を開けた姿勢のまま固まった。
「どうしました?」
「……」
「雪奈さん?」
「……危ない」
「何がですか」
「倫ちゃんが浴衣を着ると……危ない。破壊力がありすぎる。直視したらバブル崩壊しちゃう」
「意味が分かりません」
いつもの癖で、かっこいいと続けそうになる。
慌てて胸元を掴んで、唇を結んだ。
倫ちゃんは不思議そうに眉を寄せたあと、改めて私を見る。
その視線が、顔から髪、浴衣の襟元、帯へゆっくりと下りていく。
何も言わない。けれど、その一瞬だけは呼吸を忘れたように見えた。
「そんなことより倫ちゃん、見て!」
私は袖を広げ、その場で一度だけ回った。
「この浴衣が着られるから、ここにしたの。似合う?」
「……似合っています」
「本当に?」
「ええ」
「可愛い?」
倫ちゃんの視線が、すぐに逸れた。
「それは、ご自分で判断してください」
「自分では可愛いと思ってるよ」
「なら、それでいいでしょう」
「倫ちゃんに判断してほしいの」
正面へ回り込むと、倫ちゃんはさらに顔を逸らした。
逃げられないよう、今度は反対側へ回る。
「倫ちゃん」
「何ですか」
「可愛い?」
「……」
「1回だけでいいから」
「なぜ、僕が」
「いつも私は何回も倫ちゃんを褒めてるでしょう?」
「現在、休止中では?」
「だから、今は供給を受ける側なの」
「何の話ですか」
「需要と供給」
「教授へ提出するレポートで、僕を市場へ持ち込まないでください」
「市場じゃなくて、私へ供給して」
倫ちゃんは深く息を吐いた。
呆れたのだと思った。
でも、視線を戻した倫ちゃんの目は、いつものように冷たくなかった。私の浴衣姿をもう一度、確かめるように見る。それから——観念したように口を開いた。
「……可愛いですよ」
時間が止まった。
「え?」
「一度しか言いません」
「今、可愛いって言った?」
「…………言いました」
「私に?」
「ほかに誰がいるんです」
「本当に!?」
「何度確認するんですか」
「だって、倫ちゃんが?! 私を可愛いって!?」
嬉しさを抑えきれず、その場で両手を上げる。
「やったー!」
「走らないでください」
「走ってないよ!」
そう言いながら、私はすでに縁側へ向かっていた。
外には夕方の淡い光が残り、庭の木々や石の上に雪が薄く積もっている。客室露天風呂から立つ湯気が冷たい空気へ溶け、幻想的な景色になっていた。
「倫ちゃん、見て! 雪が残ってる!」
「分かりましたから、足元を――」
振り返りながら一歩踏み出した瞬間、草履の底が濡れた板の上を滑った。
「きゃっ」
身体が後ろへ傾く。
「ゆき——!」
鋭い声と同時に、腕を強く引かれた。
転ぶはずだった身体が、温かな胸元へぶつかる。倫ちゃんの腕が背中へ回り、もう片方の手が私の腰を支えていた。
頬に感じる体温が厚くて、息が止まる。耳のすぐ近くで、倫ちゃんの速い呼吸が聞こえる。
濡れた髪から漂う石鹸の香りと、浴衣越しに伝わる湿度が、妙に生々しい。少し顔を上げれば、倫ちゃんの顎へ唇が触れそうなくらい近い。
でも、今はそれどころではなかった。
「ねえ、今……なんて呼んだ?」
その質問をぶつけた瞬間、倫ちゃんの全身に力が入って、触れているところ全てがぎゅっと硬くなる。
「走らないでくださいと言ったはずですが」
「そうじゃなくて」
「足元を見てください」
「ゆきって、呼んだよね?」
「……」
倫ちゃんは答えない。けれど、目の前にある肌の血行が良くなっていく。それを見た私の頬まで、一気に熱くなった。
遅れて、自分が倫ちゃんの胸へ両手をつき、腰を抱かれていることにも気づく。さっきまで指先からカタカタと震えそうなほどに冷えていた全身が、今は髪の先まで燃えるように熱い。
「倫ちゃん」
「何ですか」
「まだ、その……抱いてる」
腕の行先を指さすと、倫ちゃんは何かに弾かれたような勢いのまま、その腕を離した。
「申し訳ありません」
「ううん。もっとでもよかったけど」
「よくありません」
「じゃあもう1回だけ、ゆきって呼んで」
「呼びません」
「1回だけ! お願い!」
「足元を見てください」
「もう1回転びそうになったら呼んでくれる?」
「やめなさい」
今度は、はっきりと叱られた。それでも私の口角はもう伸び切ったヘアゴムのように緩みっぱなしだった。
あの夜、酔った倫ちゃんが呼んだ「ゆき」は、夢の中だけの名前ではなかった。
危ないと思った瞬間、理性より先に出てきた。今も倫ちゃんの中には、昔の呼び方が残っている。
「夢じゃなかったんだ……」
小さく呟く。
「何がですか」
「ううん。こっちの話」
浴衣の袖で、どうしても上がってしまう口元を隠す。髪へ触れた唇も、私を引き止めた声も、今の「ゆき」も。
どれも、たった一夜の夢ではなかった。
倫ちゃんは、耳まで赤くした顔を不自然に背け、濡れた縁側を確認するように視線を落とした。それから、私へ向かって手を差し出す。
「部屋へ、戻りますよ」
「また手、つないでくれるの?」
「……転ばれると困りますので」
「うん」
私は今度こそ、迷わずその手を取った。
指先を重ねると、倫ちゃんは一瞬だけためらったあと、私の手をしっかりと握り返す。
もう、人混みじゃない。部屋まで、ほんの数歩しかない。
それでも倫ちゃんは、襖の前へ着くまでその手を離さなかった。




