13.善意の脆さ
温泉旅行から帰った夜、私はリビングのソファに座り、パパとママへスマートフォンの写真を見せていた。一泊二日で歩きまわった足はパンパンだけれど、今はその痛みすらも喜びに感じられる。
「これは芦ノ湖。向こうに見える船が海賊船なの」
「へえ。ずいぶん立派だねぇ」
「でも本当に海賊が乗ってたわけじゃないんだって」
「それくらいはパパも分かってるよ」
画面を横へ送ると、湖を背にして笑っている私の写真が出てくる。これを撮影したのはもちろん倫ちゃんだ。
カメラを向けられることが恥ずかしくて、最初はうまく笑えなかった。
けれど倫ちゃんが画面越しに「もう少し右です」「もう少し顎を引いて」と真面目な顔で指示を出すから、可笑しくなって笑ってしまった瞬間を撮られていた。
「あら。いい顔ね」
ママが私の肩越しに画面を覗き込む。
「倫太郎くんが撮ったの?」
「うん。普段は写真なんて撮らないからって、最初は断られたけど」
「どうやって頼んだんだい?」
「一生のお願いを使った」
「雪奈の一生のお願い、今年だけで何回目かなぁ」
「パパ! 細かいことはいいの」
次に出てきたのは、お醤油サイダーを飲んだ直後の写真だった。瓶を片手に、私はひどく複雑な顔をしている。
「これは?」
「お醤油サイダー」
「美味しかった?」
「最初はサイダーで、すぐみたらし団子みたいな味になって、最後はお醤油のしょっぱさが追いかけてくる……」
「名前のとおりね」
ママは冷静に頷いたが、パパは写真を見るなり肩を揺らして笑い始めた。
「雪奈、ものすごい顔だね」
「倫ちゃんも笑ってた」
「それで、倫太郎の目尻の皺は三本出たのかい?」
「出た!」
私はソファの上で背筋を伸ばした。
「しかもね、他にも事件がいっぱいあったの。手も2回つないだし、浴衣を可愛いって言ってくれたし、それから——」
一番大切なことを思い出し、声が自然と大きくなる。
「私のこと、ゆきって呼んだの!」
パパが笑うのをやめ、ママは「あら」と楽しそうに目を細めた。
「倫太郎くんが?」
「うん! 私が転びそうになったら、反射で!」
「転びそうになったのかい?」
「そこは今、重要じゃないよ」
「そうかい? パパには一番重要だよ……」
心配そうな顔をするパパを無視し、私はママへ身を寄せる。
「酔ってたときだけじゃなかったの。起きてる倫ちゃんも、ちゃんと私をゆきって呼んだんだよ」
「まぁ。それは大きな進歩ね」
「でしょう?」
胸元で両手を握ると、あのとき腰を支えてくれた腕の力や、真っ赤になった倫ちゃんの首筋まで鮮明に蘇ってくる。
「でも、もう1回呼んでって頼んだら断られた」
「そこはいつもの倫太郎だねぇ」
「けど、部屋へ戻るまで手はつないでくれたよ」
「雪奈」
パパが複雑そうな顔で私を見る。
「話を聞いていると、パパは少し寂しくなってきたよ」
「どうして?」
「目に入れても痛くない娘が、どんどん大人になっていくからね」
ママが隣で「そういうものなのよ」と、くすくす笑う。今日のパパの泣き真似は私にだって見破れるほど単純だけど、それでもちょっと嬉しくて、くすぐったい。
「いい加減、子離れしなくてはね」
「美咲さんは平気なの?」
「雪奈が幸せなら、私は嬉しいわ」
「パパだって嬉しいよ。でも、それとこれは別なんだよぉ」
パパはそう言いながらも、私の写真をもう一度見返した。口元には、隠しきれない笑みが浮かんでいる。
「まぁでも倫太郎くんも、少しは素直になってきたようだね」
「うん。だから私も、もう少しだけ待てそう」
好きと言うことを休んだままでも、倫ちゃんから返ってくるものが増えている。以前の私なら今すぐ離れへ走っていき、旅行中の言動をひとつずつ問い詰めていただろう。
けれど今は、あのとき握ってくれた手も「可愛い」と言ってくれた声も、今は胸の奥にある小さな宝箱の中で、大切にしまっておきたかった。
「明日は病棟へ行くの?」
ママに尋ねられ、私は頷いた。
「うん。みんなと旅行の写真見ながらお話ししたいなって」
芦ノ湖の海賊船や、雪の残る温泉街。
中でも子どもたちが喜びそうなのは、芦ノ湖の近くで立ち寄った教会の写真だった。
色とりどりのステンドグラスから光が差し込み、床や壁へ赤や青の模様を作っていた。
中へ入った瞬間、まるで絵本の世界のようだと思った。えまちゃんに見せたら、きっとプリンセスのお城みたいだと言うだろう。
青いガラスを見て水色のドレスがいいと言うのか、赤や黄色を見てもっと華やかなものを選ぶのか。その反応を想像しながら、私は同じ窓を角度を変えて何枚も撮っていた。
「みんな、喜んでくれるといいねぇ」
「うん」
私は写真の中のステンドグラスを指先で広げた。画面の中の光は、何度見ても鮮やかだった。
***
翌日の午後。
小児病棟へ着くと、いつもより廊下が静かで、空気は冷たいままだった。
旅行中の写真は、スマートフォンだけでなく、何枚か印刷して透明なファイルへまとめてある。
子どもたちが触っても破れにくいように、一枚ずつ厚い用紙で印刷して、ラミネートした。海賊船、温泉まんじゅう、雪景色、そしてステンドグラス。
談話室でみんなと一緒に見れば、次はどこへ行きたいか、どんな景色が好きかという話もできる。
「あっ! あきくん……!」
エレベーターを降りたところで、看護師さんとニットキャップを被った男の子が廊下の窓際に立っていた。
少年は旅行番組が映っているタブレットを見つめたまま、唇を尖らせている。その表情は決して、明るくて楽しそうなものではない。
「今度、元気になったら行きたいね」
看護師さんが優しく声をかける。けれど、男の子は首を横へ振った。
「今度っていつ? ぼくはいつ元気になるの?」
「先生と一緒に頑張って、少しずつ少しずつだよ」
「そんなことない。ママも来ないし、ぼくだけずっとここにいる」
風が吹けば、今にも消えてしまいそうな小さな声だった。看護師さんはすぐに画面を閉じ、男の子の隣へしゃがんで目線を合わせた。
大きくてつぶらな瞳ごとこぼれ落ちてしまいそうなほど大粒の涙が、看護師さんの膝へボトボトと夕立のような音を立てて、落ちていく。
「あきくん。今日は、お母さんと電話しようか」
「やだぁ……。電話じゃなくて、お家に帰りたい」
あきくんはその場を動き出すことなく、ただ看護師に抱きついて泣き、しばらくして泣き疲れたタイミングで、ベッドへとゆっくり運ばれていった。
自分の能天気さが嫌になって、足が止まる。腕に抱えていたファイルの角が、ブラウスの上から胸へ当たる。
私が楽しかった景色は、誰にとっても楽しいものではない。
次に行きたい場所を増やすことが、希望になる子もいる。けれど、病院から出られない子や、家族と離れて暮らす子にとっては、自分が行けない場所を突きつけられることになるのかもしれない。
そんな当たり前の可能性を、浮かれ過ぎた私は一度も考えていなかった。
その現実に、打ちのめされる。
「雪奈さん?」
声をかけられ、顔を上げる。いつも通りの戦闘服に身を包んだ倫ちゃんが、その奥に立っていた。
ネイビーのスクラブの上から白衣を羽織り、胸ポケットには白いうさぎのボールペンが差してある。旅行中とは違う、普段通りの医師の顔。
「どうしました?」
「ううん。何でもない」
私はファイルを後ろ手に持ち直す。
「旅行の写真を持ってきたの。みんなと話す話題になったらいいなって」
倫ちゃんの視線が、ファイルの表紙へ落ちた。
「そうですか」
「でも……少し考えた方がいいのかな、って」
廊下の向こうでは、看護師さんが眠ってしまったあきくんを抱いたまま、病室へ戻っていくところだった。倫ちゃんも、その後ろ姿を見ていた。
「写真の内容と、見せる相手によります」
「やっぱり、そうだよね」
「……談話室へ来られる子どもたち全員が、同じ状態ではありませんから」
責める口調ではなかった。それでも、ファイルが急に重くなったように感じる。手のひらにはじんわりと居心地の悪い汗が滲んだ。
「あっ、そうだ。えまちゃんは?」
「あの教会の写真、早く見せたいの。えまちゃんなら絶対、『プリンセスのお城みたい』って言うと思わない?」
答えを待たず、私は病室の方へ足を向けた。倫ちゃんはすぐに答えなかった。その沈黙が気になったものの、私はえまちゃんのいた病室へ足を向ける。
今日は最初に写真を見せて、それから談話室へ一緒に行こう。そう考えながら扉の前へ着き、中を覗いた。
「えまちゃ——」
私の呼びかけた声は、そのまま誰もいない個室に響き渡る。えまちゃんが使っていたはずのベッドには、新しい白いシーツが張られていた。
枕元に並んでいたたくさんの折り紙の花も、クレヨンで描いたプリンセスの絵もなくなっている。ベッド脇の名札も外され、次の誰かを迎えるための、何もない場所へ戻っていた。
「……いない」
驚いたあと、すぐに胸へ明るいものが広がる。
「そっか。……退院したんだ、知らなかった」
お家へ帰れた。病院の外へ出られた。
あきくんも持っていたさっきの苦しみから、えまちゃんは抜け出せた。そう思うと、心の荷物がひとつ、降ろせた気がする。
それなら、この写真もいつか別の形で見せられるかもしれない。私は振り返り、後ろに立っていた倫ちゃんへ笑いかけた。
「よかったね。えまちゃん、お家に帰れたんだね」
けれど、倫ちゃんの表情は動かなかった。部外者の私に伝える言葉を選ぶように、倫ちゃんの目はしばらく空中を泳ぐ。
「はい。今はご家族と一緒です」
「じゃあ、よかった!」
そう言いかけた私を、倫ちゃんは静かに見つめた。
「でも……退院ではありません。病気が良くなったから帰った、わけではありません」
「……どういうこと?」
「……これからは病院で治療を続けるより、ご自宅でご家族と過ごすことになったんです」
けれど、耳へ届いた瞬間、病室の空気が急に冷たくなる。
「それって」
私は空のベッドを見る。
「でも、この前まで笑ってたよ」
えまちゃんは佐伯先生へ、プリンセスになると言っていた。
私がピアノを弾けば歌って、絵本を読めば次も読んでと、ねだった。
「元気、だった……よね?」
倫ちゃんの眉が、ごくわずかに寄る。
「よく笑っていたことと、病気が良くなることは、同じではありません」
厳しい言葉だった。
けれど、倫ちゃんは私ではなく、自分自身へ言い聞かせるように空のベッドを見ていた。
「……私、全然分からなかった」
旅行写真の入ったファイルへ目を落とす。
ステンドグラスの写真が、透明な表紙越しに見えている。
「雪奈さん」
「えまちゃんに見せたら、プリンセスのお城みたいって言うかなって。青いドレスがいいとか、赤がいいとか、きっと楽しそうに選ぶと思って」
もう、その反応を見ることはできないかもしれない。会えるのが当然だと思っていた自分が、急に恥ずかしくなる。
「でも、そんなの……見せられないよね」
「見せてはいけないとは言っていません」
倫ちゃんは一度言葉を切った。
「ただ、見せる前に考える必要はあります」
分かっている。さっき廊下で、家へ帰りたいと泣く子を見たばかりだもの。
「雪奈さんにとって次の楽しみになる景色が、ここにいる子どもたちにも同じように映るとは限りません」
透明なファイルの中で、ステンドグラスは鮮やかなままだった。
「外へ出られないことや、家族と過ごせないことを、改めて突きつけてしまう場合もあります」
「……うん」
「相手の状態を見て、誰に、どの写真を見せるのか考える必要があります」
「私、何も考えてなかった」
「そういう意味では——」
「旅行が楽しかったから、みんなも見たら楽しいと思ってた」
胸の奥へ、次々と記憶が蘇る。
私が歌えば、子どもたちは笑った。私が絵本を読めば、楽しそうに聞いてくれた。それを見て、自分は一瞬でも、役に立っていると思っていた。
けれど、本当にそうだったのだろうか。
「善意だから、許されるわけではありません」
倫ちゃんの声が、少しだけ強くなった。
「相手を喜ばせたいという気持ちが、相手の傷へ触れることもあります」
白いうさぎが、倫ちゃんの胸元で小さく揺れる。
「ここにいる子どもたちは、雪奈さんが思っている以上に、自分が失ったものを分かっています」
息がうまく吸えなくなった。えまちゃんは、自分の病気が良くなっていないことを知っていたのだろうか。それでも私の前では笑ってくれていたのだろうか。
子どもだから分からないと、どこかで決めつけていたのは私だったんじゃないだろうか。
「……そっか」
自分の声が、ひどく遠く聞こえる。ファイルをギュッと抱き込むと、倫ちゃんの眉がわずかに下がった。
さっきまでまっすぐ向けられていた視線が揺れ、白衣のポケットから出しかけた手が、行き場をなくしたように止まる。
「雪奈さん、今のは——」
「ううん。倫ちゃんの言うとおりだよ」
「写真を持ってきたことが、間違いだと言っているわけではありません」
「分かってる」
うまく笑おうとした。けれど、口元が動いただけで、いつもの形にはならなかった。
「私は、喜んでもらえたら、それでいいと思ってた」
「雪奈さん」
「相手が本当はどう思うか、ちゃんと考えてなかった」
「そうではありません」
倫ちゃんの声が追いかけてくる。それでも、一度形になった疑いは消えてくれなかった。
私がこの病棟へ来るのは、本当に子どもたちのためだったのだろうか。
最初は倫ちゃんに会いたかったから始めた。子どもたちが喜んでくれて、必要とされることが嬉しくなった。でもそれは、支えることだったのか。それとも、私自身が満たされていただけなのか。
「でも、笑ってたから……」
空のベッドから目を離せないまま呟く。
「えまちゃんは、いつも楽しそうだったから」
倫ちゃんはしばらく何も言わなかった。やがて空のベッドへ視線を落とし、白衣のポケットへ手を入れる。指先が、私の贈ったうさぎのボールペンへ触れた。
「……僕も、そう思いたかったです」
顔を上げる。倫ちゃんの横顔は、これまで見たことがないほど疲れていた。
「倫ちゃんも?」
「……笑っている姿を見ると、少しだけ安心していました」
倫ちゃんは、空になったベッドから目を逸らさない。
「痛みや不安を忘れられる時間が、少しでも長く続けばいいと思っていました」
倫ちゃんが、そんなことを言うとは思わなかった。いつも正しい答えを知り、どんな状況でも動揺せず、患者を救う人だと思っていた。
でも、倫ちゃんも同じだった。分かっていても信じたくなかった。笑顔に救われ、まだ大丈夫だと思いたかった。
「医師なのに?」
倫ちゃんはわずかに目を伏せた。
「医師だからです」
その言葉の意味を、私はすぐには理解できなかった。
談話室の方から、子どもたちの声が聞こえる。
「ゆきねえちゃん来た?」
「今日は何弾くの?」
私を待っている声だった。いつもなら、それだけで身体が自然に動いた。けれど今日は、足が床へ縫いつけられたように動かない。
倫ちゃんの言葉が、頭の中で繰り返される。相手を喜ばせたいという気持ちが、相手の傷へ触れることもある。
「……行かなきゃ」
自分へ言い聞かせ、私は誰もいない病室を出た。
倫ちゃんも何か言いかけたけれど、今度は追ってこなかった。
***
談話室へ入ると、子どもたちが一斉にこちらを見る。
「ゆきねえちゃん!」
「遅いよ!」
「写真持ってる?」
ファイルへ目を留めた子が、嬉しそうに駆け寄ってくる。
私は反射的に胸へ抱き込んだ。
「うん。でも、写真はまた今度にしようかな」
「どうして?」
「今日は、先にピアノを弾こうと思って」
笑顔を作り、窓際のピアノへ向かう。椅子へ腰を下ろし、蓋を開ける。白と黒の鍵盤が並んでいる。何度も触れてきた、見慣れた景色だった。
「何弾くの?」
「明るいやつがいい!」
子どもたちの声を聞きながら、鍵盤へ指を置く。いつもなら、何を弾けば喜んでもらえるか自然に思いついた。
今日は、分からない。
明るい曲を弾けば、本当に明るい気持ちになってくれるのか。帰れない現実を、かえって意識させてしまわないか。
私が楽しそうに弾くことで、無理に笑わせているだけではないのか。
ポーンと、ひとつの音を鳴らす。高く澄んだ音が、談話室へ広がる。子どもたちは続きを待っている。
けれど、次の鍵盤へ指を下ろせなかった。
「ゆきねえちゃん? どうしたの?」
「どっかいたいの?」
小さな声に、胸が痛む。私は鍵盤から手を離した。
「……ごめんね」
振り返り、できる限りいつもの笑顔を作る。
「今日は、ちょっと弾けないみたい」
「具合悪いの?」
「ううん。少し疲れてるだけ」
嘘ではない。旅行で眠れなかったせいかもしれない。
けれど、本当の理由は自分でも分からなかった。
ファイルを抱え、立ち上がる。
「今日は先に帰るね。ごめんね」
子どもたちの残念そうな顔を見た瞬間、自分がまた傷つけたように感じた。もう、それ以上ここにいられなかった。
談話室の入口には、倫ちゃんが立っていた。
なぜかこんな時ばかり、自然と目が合う。倫ちゃんは一歩、こちらへ近づこうとした。
けれど私は、足早にその横を通り過ぎる。
「雪奈さん」
「ごめん。今日は帰るね」
「先ほどのことは、僕の伝え方が——」
「うん。また今度聞くね」
今は、どんな言葉を受け取っても、悪い方へ考えてしまいそうだった。一度も振り返らず、足早に病棟を出た。
***
翌日。
ボランティアへ行く時間が近づき、私はいつも通り支度をした。
髪を整え、服を着替え、絵本と楽譜をバッグへ入れる。最後に、旅行写真をまとめたファイルを持ち上げる。透明な表紙越しに、ステンドグラスの写真が見えた。
床へ落ちた青や赤の光。子どもたちは、きっと綺麗だと言う。
けれど、そのあとは?
家へ帰りたいと思うかもしれない。家族に会いたいと思うかもしれない。
私がピアノを弾けば、喜ぶかもしれない。けれど、笑いたくなくても私に気を遣って笑うのかもしれない。
時計の針が、出発する時間を過ぎた。私はファイルを持ったまま、ベッドへ腰を下ろす。
なんだか力が湧いてこなくて、そのままくたりと横になってみる。
スマートフォンには、ボランティア予定時刻10分前のアラームが表示されていた。
立ち上がらなきゃ。子どもたちが待っている。
そう思うほど、身体は動かなかった。
やがて出発時刻を知らせるアラームが鳴り止み、スマートフォンの画面から予定の時刻が過ぎていく。
私は旅行写真のファイルを机へ戻し、絵本と楽譜の入ったバッグを床へ置いた。
その日、私は初めて、自分から病棟へ行かなかった。




