14.鳴らないピアノ
雪奈が病棟へ来なくなってから、三日。
その日の午後、談話室には久しぶりに子どもたちの笑い声が響いていた。
「つーちゃん、おさんぽの歌やって!」
「無理よ。あんなに難しいの、私には弾けないもん」
ピアノの前へ連れていこうとする子どもをかわしながら、燕は手にしていた絵本を頭上へ持ち上げる。トレードマークの黒縁メガネは、子供たちの相手をしているうちに若干下の方に落ちている。
「じゃあ、オオカミくんの絵本読んで!」
「それならいいけど、最初に言っておくわよ。雪奈みたいな『がおー』はできないからね」
「じゃあ…………一緒に踊る?」
「やだ。結構ハードル上げてくるじゃない」
燕は子どもたちを見回した。誰一人として冗談を言っている顔ではない。むしろ、次はどの要求を出そうかと真剣に考えている。
「じゃあさ、つーちゃんは何ならできるの?」
芯をついた質問に、燕は一瞬黙ってから「何もできないかもしれない」と小さく呟く。
子供達はそれでも文句を言わず、鬼ごっこやかくれんぼ、お絵描きなどたくさんの遊びを提案した。
***
離れた場所でカルテを確認していた倫太郎は、談話室から漏れる一際明るい笑い声に思わず視線を上げた。
燕は雪奈に頼まれ、しばらくの間だけボランティアの代打を務めることになったらしい。
二人でボランティアに来ることはあっても、一人で来るのは初めてか、数える程度。雪奈本人は、まだ病棟へ来られないようだった。
それでも、子どもたちとの約束を何も言わずに放り出すことはできなかったのだろう。自分の代わりとして燕を送り込み、人気の絵本と活動予定を書いたメモまで渡していた。
燕はピアノを弾けない。歌も、雪奈ほど得意ではない。一人で一冊まるまる読み聞かせをした経験も、今日が初めてのようだった。
それでも、慣れない場所で子どもたちに囲まれながら、懸命に場をつなごうとしている。
「分かった。じゃあ……今日はこれを読むわよ」
燕は観念したように絵本を開いた。
森で暮らす臆病な狼が、初めて友達を作る話。
雪奈が読めば、狼は低く迫力のある声で唸り、兎や小鳥は一人ずつ違う声で喋る。けれど燕は初めの一文を、講義の資料でも読み上げるような平坦さで読んだ。
「森の奥深くに、大きな狼が住んでいました」
「もっと怖く!」
「注文が多いわね……」
燕は一度咳払いをし、わざと声を低くする。
「森の奥深くに……おお〜きな狼が、住んでいました……」
狼というより、夜中に聞いたら別の意味で眠れなくなりそうな声だった。子どもたちは一瞬黙ったあと、一斉に笑い出した。
「つーちゃん、そんなの全然怖くないよ!」
「狼じゃなくておばけみたい!」
「つーちゃん、下手っぴ!」
「知ってる! だから最初に言ったでしょう!」
燕も頬を赤くしながら言い返す。久しぶりに見るその景色に、倫太郎の口元がわずかに緩む。
雪奈の代わりにはなっていない。それでも、燕なりに子どもたちを笑わせている。これなら今日は大丈夫だろうと思い、カルテへ視線を戻そうとしたときだった。
「でもさ、やっぱり、ゆきねえちゃんの『がおー!』がいいな」
一人の女の子が、開かれた絵本を見ながら呟いた。燕は怒るでもなく、少しだけ困ったように微笑む。
「知ってる。私もそう思う」
「ゆきねえちゃん、いつ来るの?」
「……分かんない」
「じゃあつーちゃんはくる?」
「私はね、代打だから来るよ。正選手が戻るまでの」
「だいだ? せいせんしゅ?」
「そう。一番上手な人と、その代わりの人ってこと」
燕は明るく説明したが、談話室の隅に置かれたピアノは、今日も蓋が閉じられたままだった。
倫太郎が視線を落としたところで、別の少女が倫太郎のところへ走ってきた。
「りんたろーせんせい」
「どうしました」
「ほんとうに、ゆきねえちゃんはお休みなの?」
「……はい」
「明日は来る?」
カルテを持つ指へ、力が入る。雪奈が明日来るかどうかを、倫太郎は知らない。
連絡を取り会っていない、わけではない。旅行後の体調を気遣うメッセージには短い返事が届いたし、病棟を休むという連絡も、その日の朝に本人から受けていた。
けれど、いつ戻るつもりなのかは書かれていなかった。
「まだ、分かりません」
「せんせいがきいてきてよ」
「それは……」
「だってゆきねえちゃん、先生のいうことなら、何でもきくもん」
子どもに悪意はない。ただ、事実をそのまま口にしただけだった。けれどそれは今の倫太郎には答えられず、誤魔化すように閉じられたピアノへ視線を向けることしかできなかった。
「せんせい、かわりに弾けるの?」
「僕には弾けませんね」
「いっこも弾けないの?」
「……残念ながら」
そっかぁと笑った少女は、燕の方を振り返って声をかける。
「つーちゃん! りんたろーせんせい、つーちゃんといっしょだって!」
「ちょっと、一緒にしないで。私は『きらきら星』の途中まで弾けるんだから」
「でも途中までだったらうたえないじゃん!」
「えー! お歌が上手なみんななら、歌えると思ってたんだけどなぁ残念だなぁ」
まだ場に慣れていない様子だった燕は、いつの間に子供達の意識を奪う力を身につけていたのだろう。軽く倫太郎に目配せして、燕はきらきら星を歌える人を募り出した。
「はい! 僕、うたえるよ! きらきら星!」
「おっいいね〜! じゃあ行くよー、さんはいっ!」
燕がすかさず手拍子をはじて、子どもたちは笑い、歌い出した。子供達の視線が完全に倫太郎を見失う。
倫太郎はその早さに思わず笑って、廊下を進んだ。けれど、胸の奥へ残ったものは消えなかった。
子供達に、雪奈が来ない理由を説明できない後ろめたさが、両肩に乗っている。
しかもそれが自分の言葉がきっかけになったとは、言えるはずもなかった。
***
診療時間が終わったあとも、倫太郎は医局へ残っていた。翌日用意しても構わない資料を確認し、期限まで一週間以上ある書類を処理し、佐伯が担当する予定だった症例報告にまで目を通す。
「榊先生、それ私がやりますよ」
佐伯が向かいの机から声をかけた。
「確認だけですし、いいですよ」
「その確認だけで、もう三十分経っていますけど」
「修正箇所が多かったので」
「それは……すみません。でも、明日いっぱいまでって言われてますよね」
「今日できることは、今日終わらせた方がいいでしょう」
そう言って、倫太郎は画面から目を離さなかった。
佐伯はしばらく黙っていたけれど、やがて椅子の背へ体重を預け、倫太郎の机を眺めた。
すでに本日の業務は終わっている。
救急対応が入れば別だが、今すぐ倫太郎が手をつけなければならない仕事は残っていなかった。
「燕さんがボランティアの代打に来てくれたことですし、榊先生も今日は帰ったらどうです?」
「燕さんが来たことと、僕の業務には関係がありません」
「関係ない人は、絵本を読んでる間に何度も談話室を見ませんよ」
倫太郎の指が止まった。
「見ていたんですか」
「途中から気になったので」
「暇なんですね」
「……榊先生が持ってる資料を取り返したら、やることはあります」
佐伯が手を差し出す。倫太郎は画面を閉じず、その手も見なかった。
「もう少しで終わりますので」
「それが終わったら、また別の仕事を探すでしょう?」
「必要な仕事があれば行います」
「終わらせたい仕事があるというより、帰りたくないだけに見えますけど」
医局へ、キーボードを打つ音だけが響く。
佐伯先生の言葉を否定しようと思えばできた。
離れへ帰りたくないわけではない。雪奈の姿を見かける可能性があるから残っているのでもない。医師として、必要な仕事をしているだけだ。
そう言えばよかった。
けれど、口にすれば自分自身へつく嘘になる。帰宅して離れの窓を開ければ、否応なく本邸が目に入る。雪奈の部屋に明かりがついていても、以前のように窓が開くことはない。
これが当たり前の関係性だと思い知らされるのを、体が拒絶している。
けれど病院にいれば、少なくとも仕事をしている間は考えずに済むのだ。自分の言葉で、雪奈が病棟へ来られなくなったことも。
「榊先生」
医局の入口から、看護師長の声が飛んできた。
「まだ残っていたんですか」
「確認事項がありますので」
「院長からも、残業を減らすように言われているでしょう。先週、有給まで取らされたばかりですよね?」
「今日は有給ではありません」
「そういう意味ではありません」
看護師長は机まで来ると、倫太郎が開いている資料を確認した。
「これは明日でも間に合います」
「ですが——」
「医師が疲労で判断を誤れば、患者さんへ影響が出ます。休むのも仕事です」
返事をするまで帰らないという顔の看護師長は、ずっと倫太郎を見続けている。
倫太郎は返事をせずに画面を見つめていたが、数分経っても変わらない様子を見て仕方なく資料を保存した。看護師長はそれを見届けてから、佐伯へ視線を向ける。
「佐伯先生も、榊先生へ仕事を渡さないでくださいね」
「むしろ奪われています」
「では奪い返してください」
「……善処します」
「実行してください」
どこかで聞いたような言い回しに、佐伯が小さく笑った。倫太郎はパソコンの電源を落としたが、帰り支度をする気にはなれなかった。
「見回りへ行ってきます」
「もう終わってますよ」
「念のためです」
佐伯が何か言うより先に、倫太郎は医局を出た。
***
病棟の照明は、昼間よりも少し落とされている。消灯時間にはまだ早いが、子どもたちはすでに病室へ戻っていた。
談話室の前を通ると、中では燕が一人で絵本を片づけていた。背表紙の高さを揃え、子どもたちが出した折り紙や色鉛筆を元の箱へ戻している。
「まだいらしたんですか」
倫太郎が声をかけると、燕が振り返った。
「使ったものを片づけてから帰ろうと思って」
「こちらで行います」
「大丈夫です。途中で投げ出したら、雪奈に怒られるので」
燕は狼の絵本を本棚へ戻し、疲れたように肩を回した。
「代打って大変ですね」
「そうでしょうね」
「雪奈が普段さらっとやってるから、もっと簡単だと思ってました」
子どもと遊び、絵本を読み、求められればピアノを弾く。その合間に一人ずつの顔色を見て、疲れている子には無理をさせず、寂しそうな子には自然に声をかける。雪奈は特別なことをしているつもりなどなかっただろう。
けれど、誰かが代わろうとして初めて、どれだけ多くのことを同時にしていたのかが分かる。
「私じゃ、これだけはどうにもならないんですよね」
燕が閉じられたピアノへ目を向けた。
「楽器を弾けないことは、仕方ありません」
「そういう意味じゃないです」
燕はピアノの前に置かれた椅子へ近づき、背もたれへ手を添えた。
「私が下手な狼をやっても、子どもたちは笑ってくれました。でも、ずっと雪奈を待ってる。……先生も」
倫太郎はその声に答えず、腕時計へ視線を落とした。時計は19:30を指していた。
「もう外も遅いです。駅まで送ります」
「一人で帰れます」
「でしたら、正面玄関まで——」
「先生も、まだ帰らないんですか」
燕の声が、先ほどより少し低くなった。
「見回りが残っていますので」
「佐伯先生から聞きました。仕事はとっくに終わってるんですよね」
余計なことを話した後輩へ、明日注意する必要がある。そう考えたものの、今は佐伯への苛立ちすら長く続かなかった。
「必要があって残っています」
「仕事をしていれば、会いたいと思わずに済みますか」
談話室から、空調の静かな音が聞こえた。燕は雪奈とは違い、こちらの答えを期待するような目をしない。
ただ事実を確認するように、倫太郎を見ていた。
「そういう話ではありません」
「じゃあ、何のために毎日残業してるんですか」
「……」
「帰ったら、雪奈の部屋が見えるから? 雪奈から、逃げたいんですか?」
倫太郎の喉から、ひゅっと声にならない音が抜ける。燕はそれを無視したまま、ピアノの椅子から手を離して倫太郎を見つめた。
「雪奈は、先生を嫌いになったから来ないわけじゃありません」
「分かっています」
「本当に分かってる人は、こんなところで一人になるまで残らないと思いますけど?」
「あなたに、僕たちのことを説明する必要はありません」
「そうですね。私には関係ありません」
燕はあっさり認めた。それから、帰り支度をするために自分のバッグを持ち上げる。
「でも、雪奈が来なくなった原因には、先生も関係あるんでしょう?」
倫太郎の視線が、燕へ向いた。
「雪奈から聞いたんですか」
「何も聞いてません。あの子、先生を悪者にするような話はしないから」
それが余計に胸へ刺さった。雪奈は、倫太郎に傷つけられたとは絶対に言わない。
自分の考えが甘かった。
自分の善意が間違っていたのかもしれない。
そうやってすべて自分の行動を振り返る方を考える。
あの日もそうだった。
言葉を強くしすぎたのは倫太郎なのに、雪奈は「倫ちゃんの言うとおり」と笑おうとした。
「先生が待っていれば、雪奈が勝手に元気になって戻ってくると思ってるなら、今回は無理ですよ」
燕は肩へバッグを掛けた。
「傷つけた方が、迎えに行ってください」
「……」
「雪奈は先生を嫌いじゃない。だからこそ、先生の言葉を誰より重く受け取るんです」
燕は倫太郎の横を通り過ぎ、談話室の出口へ向かう。
「——待ってるだけじゃなくて、そっちから行けばいいのに」
最後にそれだけ残し、廊下へ出ていった。
倫太郎は追わなかった。遠ざかる靴音が聞こえなくなるまで、その場から動けなかった。
一人になった談話室は、昼間よりも広く見えた。
子どもたちが使った机や椅子は、きれいに片づけられている。燕が戻した絵本も、背表紙を揃えて本棚へ並んでいた。
ピアノの椅子だけが、正面からわずかにずれている。倫太郎は背もたれへ手を掛け、雪奈がいつも座っていた位置へまっすぐ直した。それだけで立ち去るつもりだった。
しかし、閉じられたピアノの前から足が動かない。
雪奈が最後に弾いたのは、聞き慣れない悲しい旋律だった。
好きなら何をしてもいいわけではないのかもしれない。あの日、雪奈はそう言った。倫太郎は自分の正しさを優先し、彼女が何を恐れているのかを最後まで受け取らなかった。
ピアノの蓋へ手を掛ける。ゆっくり開くと、細長く赤いフェルトが挟まれている。その下に、細かい傷の入った白と黒の鍵盤が並んでいた。
倫太郎には、どの鍵盤を押せばどの音が鳴るのかも分からない。雪奈なら、子どもの顔を見ただけで曲を選び、最初の一音から談話室の空気を変えられた。
自分には、その代わりができない。人差し指で、中央に近い白鍵をひとつだけ押す。
期待していたよりも高く、硬い音が、静かな部屋へ響いた。思っていた以上に大きく聞こえ、倫太郎はすぐに指を離す。余韻が消えるまで、数秒もかからなかった。
音がなくなると、談話室は鳴らす前よりも静かになったように感じられた。
倫太郎はもう一度鍵盤へ指を置いた。けれど、今度は押せなかった。廊下の向こうから、まだ眠っていなかった子どもの声が聞こえる。
「ゆきねえちゃん、明日は来るかな?」
その問いかけには看護師が優しく返していたけれど、言葉までは聞き取れなかった。
倫太郎にも、答えは分からない。
ただ一つ分かるのは、ここで仕事を増やし、雪奈が戻ってくるのを待っていても、何も変わらないということだった。
ピアノの蓋をゆっくりと閉じる。病棟は束の間の静けさに包まれていた。v




