15.私の役割
大学には毎日通っている。必修授業を受け、燕と昼食を食べ、家へ帰ればパパとママと一緒に夕食を囲む。けれど、病院へはもう1週間も行けていない。
病気になったわけでも、部屋へ閉じこもっているわけでもない。ただ、ピアノの蓋はあの日から一度も開けられずにいた。
『今日も狼の絵本を読まされたんだけど』
机の上へ置いたスマートフォンから、燕の疲れきった声が聞こえる。
「がおーのとこ、上手になった?」
『まぁまぁってとこね。前よりは怖くなったって言ってくれるし』
「よかったじゃん」
『その直後に、“でもゆきねえちゃんの方が上手〜”って言われんだけどね』
「ふふっ! 子どもって正直だねぇ」
『本当に。遠慮というものを知らないんだから』
燕は文句を言いながらも、今日も私の代わりに病棟へ行ってくれた。
大学の授業もあるのに、空いている時間を見つけては子どもたちの相手をしてくれている。ピアノは弾けないけれど、絵本を読み、折り紙を折り、全く知らない遊びにも燕なりに全力で付き合ってくれているらしかった。
「……ごめんね、燕」
『それ、何回目?』
「だって……」
『私はできるからやってるの。無理になったら無理って言う。雪奈みたいに、勝手に全部背負ったりしないから安心して』
「背負ってないもん」
『じゃあ、明日は病棟へ行けるの?』
返事が止まる。
窓の外へ目を向けると、冬の空はもう薄暗くなり始めていた。離れの窓にはまだ明かりがついていない。
倫ちゃんはきっとまだ、病院にいるのだろう。
「……それは」
『ほらね』
「……もう少しだけ待って」
『子どもたちに言ってるの? 自分に言ってるの?』
「わかんない……両方かも」
燕は電話の向こうで小さく息を吐いた。
『まあ焦って戻ってまたピアノの前で固まっても困るしね』
「……うん」
『でも、体力おばけのつーちゃんの腰にも流石に限界があることだけは覚えておいて』
「明日は何を頼まれそう?」
『今日、“次はお姫様ごっこして”って言われた。このままだと本当にプリンセスにされちゃう』
「に、似合うと思うよ」
『露骨な棒読みで言わないでよ。じゃあ……明日の講義でね』
「うん。今日もありがとう」
『どういたしまして』
通話が切れた。静かになった部屋で、私は机の端に置かれた楽譜を見る。大丈夫、前と同じように燕と笑い合えている。そう言い聞かせて湧き上がるような心臓の緊張を誤魔化す。
私の言葉や行動が、音が、相手の傷へ触れるかもしれない。そう考え始めると、何を選んでも間違っているように思えて、初めの一音を鳴らす勇気が出なかった。
そのとき、廊下からパタパタと急足の足音が聞こえる。その人は私の部屋でスッと止まり、小さくノックを鳴らした。
「雪奈、入ってもいい?」
「いいよ」
ほんのりと頬を赤くしたママが、すぐに扉から顔を覗かせる。
「倫太郎くん、来てるわよ」
「……倫ちゃんが?」
椅子から立ち上がりかけた身体が、途中で止まった。
会いたい。けれど、病棟へ行けなくなってから、倫ちゃんとはまともに顔を合わせていない。
あの日の言葉を思い出すと、今でも胸の奥が少し固くなる。
「えっと……私、いま、会うべきかな」
自分でも情けない質問だとわかっている。でも、何かに背中を押してもらわなくては動き出せないほど、私は今、暗礁に乗り上げている。ママはすぐには答えず、扉のそばで私の顔を見つめた。
「倫太郎くんは、雪奈に会いたそうだったわよ」
「……本当に?」
「ええ。少なくとも、パパや私に用があって来たような顔ではなかったわね」
その一言で、止まっていた身体が動いた。
「すぐ行く!」
「転ばないようにね」
鏡を見る暇も惜しく、私は部屋を飛び出す。スリッパを履き忘れた足は滑るけれど、それすらも勢いに変えて。
階段は駆け下りないようにしたつもりだったけれど、最後の数段ではほとんど小走りになっていた。
リビングの扉を開けると、倫ちゃんはソファへ座らず、窓際に立っていた。
仕事帰りらしく、濃紺のスーツを着ている。けれど、いつもなら乱れのないネクタイは僅かに緩んでいた。寒さで赤くなった左手は、透明なクリアファイルを強く握りしめているのが見える。
「……倫ちゃん」
呼びかけると、こちらを向く。まっすぐと伸びるまつ毛はほのかに揺れていて、いつもの冷静な倫ちゃんではないようだった。
「急に伺って、申し訳ありません」
「ううん。どうしたの?」
「お渡ししたいものがあります」
倫ちゃんが差し出したA4サイズの封筒には、私の名前が書かれていた。丸みのある大人の字で、宝生雪奈様、とある。
「誰から?」
「えまさんのお母様です」
胸が跳ねた。
「えまちゃんの?」
「ご自宅へ戻られた日に、お預かりしました」
封筒へ伸ばした手が止まる。
「それって、旅行から帰った次の日だよね」
「はい」
「ずっと、持ってたの?」
倫ちゃんの視線がわずかに下がった。形のいい唇が一瞬、ためらうように結ばれる。
「次に病棟へ来たとき、お渡しするつもりでした」
「でも、私が来なくなったから」
「それだけではありません」
倫ちゃんはすぐには続きを言わなかった。古い壁掛け時計が、規則正しく音を刻む。
「旅行から戻ったばかりのあなたへ、どのように伝えるべきか迷いました」
「……うん」
「そのうえ、私が伝える順番を間違えました」
倫ちゃんの言葉は静かだった。言い訳をするのではなく、自分の失敗を確かめるように話している。
病院で見かけなくなった私のことを、この人はずっと気にしていたのだろうか。いつも完璧な倫ちゃんが、自分の言葉を悔いるように視線を床へ落としている。
「先に、これを渡すべきでした」
病院の名前の入った白い封筒が、もう一度私の前へ差し出される。受け取ると、思っていたより少し厚みがあった。
「ここで読んでもいい?」
「もちろんです」
私はソファへ座り、封筒を開けた。中から、便箋が二枚と、二つ折りにされた画用紙が出てくる。
まず便箋を広げる。丁寧な字で、私へのお礼が綴られていた。
『雪奈さんへ。
入院中は、えまのためにたくさんの時間を使ってくださり、本当にありがとうございました。
えまは治療や検査がある朝になると、よく泣いていました。それでも雪奈さんが来てくださる日は、「今日はゆきねえちゃんの日だから頑張る」と、自分から起き上がってくれました。
ピアノに合わせて歌うとき、読み聞かせに真剣になっているとき、私たちはあの子の本当の笑顔を見ることができました。
家へ戻った今も、雪奈さんに読んでいただいた絵本の話や、みんなで歌った曲の話をしています。
本人から雪奈さんへ渡したい絵があると言うので、同封いたします。
いつかまた、お目にかかれる日を楽しみにしています』
文字が滲み、最後まで読むのに時間がかかった。
「……私の日」
声に出した途端、涙が一粒、便箋へ落ちそうになる。優しさの溢れた手紙を汚したくなくて、慌てて顔を上げた。
倫ちゃんは何も言わず、テーブルの上にあったティッシュの箱を私の方へ寄せた。
「ありがとう」
鼻をすすりながら、4つ折りになった画用紙を開く。クレヨンで描かれた色鮮やかな絵が現れた。
中央には、大きな黒いピアノ。
その前に、ピンク色のドレスを着た女の子が立っている。頭には黄色い冠が載り、長い髪が左右へ大きく広がっていた。
多分、私だ。
その隣には、白衣を着た背の高い男の人がいる。黒い髪の上には、なぜか王子様のような青い冠が描かれていた。
「倫ちゃん、王子様になってる」
「そのようですね」
倫ちゃんは少し困ったように眉を寄せた。
背景には、絵本が並んだ本棚と、子どもたちの笑顔。白衣の倫ちゃんの胸元には、耳の長いうさぎまで描かれている。
画用紙の上には、少し傾いた文字で、『ゆきねえちゃん りんたろうせんせえ だいすき』と書かれていた。
最後の「き」の下のアーチが本来あるべき方向とは逆を向いていて、えまちゃんが自力で頑張って書いたのがわかる。
「うさぎのペンまで、覚えてたんだ」
「気に入っていましたから」
「このピンクのドレス、可愛いね」
「えまさんが以前、雪奈さんに着てほしいと話していたものだと思います」
「……覚えてたの?」
「それは何度も聞かされましたから」
倫ちゃんの口元が、ほんの少しだけ緩む。私も笑おうとした。けれど、涙の方が先に溢れた。それはポタポタと大きな音を立てて溢れていく。
画用紙が濡れないようにテーブルへ置き、両手で目元を押さえる。
「よかった……」
声が震えた。
「私が行ってたこと、嫌じゃなかったんだ」
「嫌だったとは、誰も言っていません」
「でも、分からなくなっちゃったの」
あの日から胸の中にあったものが、言葉になってこぼれていく。
「ピアノを弾いて喜んでくれても、本当は笑いたくなかったかもしれないって。私が楽しそうにしてるから、合わせてくれてただけかもしれないって」
「雪奈さん」
「写真だって、絵本だって……何を選んでも傷つけるかもしれないって思ったら、怖くなったの」
倫ちゃんは私の向かいへ座った。膝の上で組んでいた手をほどき、まっすぐこちらを見る。
「怖いと思うこと自体は、間違いではありません」
「……うん」
「相手の状況を考え、受け取り方を想像することは必要です」
同じ言葉なのに、あの日とは声の温度が違った。
「ですが、考えることと、何もしないことは同じではありません」
私はゆっくりと手を下ろした。
「写真を見せるかどうか迷ったなら、看護師や担当医へ相談すればいい。子どもの反応を見ながら、一枚ずつ選ぶこともできます」
「私が一人で、全部正しく決めなくてもいいの?」
「当然です」
倫ちゃんは即答した。
「病棟では、誰も一人で患者さんと向き合っていません。医師も、看護師も、ご家族も、互いに相談しながら判断します」
「ボランティアも?」
「同じです」
倫ちゃんの声は落ち着いている。
私が間違えないように叱るのではなく、間違えそうになったときの方法を教えてくれている。
「あの日、私はそこまで伝えるべきでした」
倫ちゃんの視線が、えまちゃんの絵へ落ちる。
「善意が傷へ触れることもある。それは事実です」
「うん」
「ですが、それが無意味になるわけでもありません」
画用紙の中で、プリンセス姿の私は笑っている。白衣の倫ちゃんも、クレヨンのおかげで大きく笑っていた。
「えまさんは、あなたが来る日を楽しみにしていました」
「……手紙に書いてあったね」
「ほかの子どもたちも、毎日あなたのことを聞いてきます」
「燕じゃ駄目?」
「燕さんは、十分に頑張ってくださっています」
「がおー! も上手になったみたい」
「子どもたちからは、まだ修業が必要だと聞いています」
倫ちゃんが真面目な顔で言うから、泣きながら笑ってしまった。
「本人は褒められたって言ってたよ」
「気を遣われたのでしょう」
「燕が聞いたら怒るよ」
「事実です」
少しだけ、部屋の空気が軽くなる。倫ちゃんもそれを確認するように、息を吐いた。
「医師には、病気を治すという明確な役割があります」
倫ちゃんは続ける。
「ですが、病院で過ごす時間のほとんどは治療の効果を待つ時間です」
白い便箋の一文が、目へ入る。ピアノの音が聞こえている間だけは、病院にいることを忘れられる。
「雪奈さんは、確かにその時間を支えていましたよ」
「支える……」
「治療とは違う形で、不安や痛みから離れられる時間を作っていたんです」
倫ちゃんは画用紙へ視線を落としたまま言った。
「私はそれを、無意味だとは思いません」
胸の奥に固まっていたものへ、温かい水が染み込んでいく。すぐに全部が消えたわけではない。
また誰かを傷つけたらどうしようという怖さも、まだ残っている。
それでも、私がしてきたことが全部間違いだったわけではない。
そのことを、えまちゃんの絵と、倫ちゃんの言葉が教えてくれた。
「そういえば」
旅行のことを思い出し、倫ちゃんを見る。
「電車の中で、ずっとタブレットを見てたよね」
倫ちゃんの表情がわずかに止まった。
「旅館でも、病院から連絡が来たあと、また見てた」
「……はい」
「あれ、えまちゃんのことだった?」
しばらく沈黙したあと、倫ちゃんは小さく頷いた。
「似た経過の症例がないか、確認していました」
「旅行中だったのに?」
「すでに決まっていた方針を変えるためではありません」
倫ちゃんは慎重に言葉を選ぶ。
「何か見落としている情報がないか、自分で確かめたかっただけです」
「見つかった?」
聞く前から、答えは分かっていた。
倫ちゃんは静かに首を横へ振る。
「いいえ」
「……そっか」
「結果は変わりませんでした」
声は平静だった。
けれど、タブレットを見つめていた横顔を思い出す。私が隣ではしゃいでいた間も、倫ちゃんは諦めきれずに探していた。
それでも電車の中で、私が「楽しい」と言ったときには、「俺もだよ」と返してくれた。あれが夢じゃないのなら、倫ちゃんはあの旅行を楽しんでいなかったわけでも、患者さんを忘れていたわけでもない。
きっとどちらも、倫ちゃんにとって、本当だったのだ。
「倫ちゃんも、何もできなかったって思った?」
「思わなかったと言えば、嘘になります」
右手の親指が、人差し指へ触れる。倫ちゃんはその動きを隠さなかった。
「ですが、できなかったことだけを見ていても、患者さんが過ごした時間は変わりません」
「うん」
「何ができたのかを忘れないことも、必要だと思っています」
それはきっと、倫ちゃんが私へ伝えると同時に、自分自身へも言っている言葉だった。
私はもう一度、えまちゃんの絵を手に取る。
「これ、病棟へ持っていってもいいかな」
「お母様から、皆さんにも見せてほしいと伺っています」
「じゃあ、燕にも見せよう」
「喜ぶと思います」
「王子様の倫ちゃんも、みんなに見られるけど」
「…………それは避けたいですね」
「えまちゃんが描いてくれたんだから、ちゃんと飾らなきゃ」
「私の部分だけ折ることは?」
「駄目に決まってるでしょう!」
久しぶりに大きな声が出た。倫ちゃんの目元が、少しだけ緩む。細い皺が一本、目尻へ現れた。
「あっ、今笑った」
「笑っていません」
「一本出たよ」
「見間違いです」
「旅行のときと同じこと言ってる」
「雪奈さんも、同じことを指摘しています」
「だって、好きなんだもん」
反射的に言ってから、口を押さえた。好きと言うのは、休止中だったはずなのに。倫ちゃんも衝撃を受けたように目を見開く。数秒、リビングの時計の音だけが響くような、濃密な沈黙が落ちた。
「……今のは、その。不意打ちが過ぎます」
倫ちゃんがふいっと視線を逸らす。声は低く冷静そうだったけれど、黒髪と白い肌に浮かんだ彼の耳が。みるみるうちに赤くなっていく。
その色を見たら、胸の奥がじんわりと暖かくなって、私はもう一度笑えた。
「……明日」
絵を大切にファイルへ戻しながら言う。
「病棟へ行ってみる」
倫ちゃんの表情が変わる。
「無理をする必要はありません」
「ううん。まだちょっと怖いけど、燕に全部任せてる方がもっと怖いから」
「それは、確かに」
「そこは否定してあげてよ」
「今日、踊りを要求されたと聞きました」
「そうそう。このままだと本当にプリンセスの格好で踊らされかねないって」
「……子どもたちは喜ぶかもしれませんが」
「倫ちゃん、燕には結構辛辣だよね」
倫ちゃんはその言葉には答えず、立ち上がった。
「お渡しできてよかったです」
「もう帰るの?」
「勤務後に伺いましたので」
「そっか」
倫ちゃんはママへ挨拶をするため、リビングの扉へ向かう。その背中を見た瞬間、急に寂しくなった。
手紙を持ってきてくれた。
私の言葉を否定せず、間違えたときは一緒に考えればいいと教えてくれた。病棟の子どもたちが待っていることも伝えてくれた。
でも、倫ちゃん自身がどう思っているのかは、まだ聞いていない。
「倫ちゃん」
「何ですか」
振り返った倫ちゃんの袖を、私はそっと掴んだ。以前なら、何も考えず腕へ抱きついていた。今は、指先でコートの布地を摘むだけ。倫ちゃんは袖へ落ちた私の手を見る。
けれど、振り払わなかった。
「もう少しだけ、いて」
「……」
「駄目?」
倫ちゃんは扉へ向けていた身体を、ゆっくりこちらへ戻した。
「……少しなら」
「うん」
帰ろうとしていた人が、私のために立ち止まってくれた。
それだけで胸が温かくなる。
「病棟の子たち、待ってるって言ってたよね」
「はい」
「えまちゃんも、また会いたいって」
「そう伺っています」
「待ってくれている子、ちゃんといるんだね」
「一人ではありません」
倫ちゃんは、私の手から逃げないまま答えた。
「子どもたちも、看護師も、燕さんも。あなたが戻るのを待っています」
「そっか」
嬉しくて、袖を掴む指へ少しだけ力が入る。
それから、顔を上げた。
「倫ちゃんも?」
倫ちゃんの唇が、わずかに開いた。答えはすぐには返ってこない。けれど、目は逸らさなかった。
親指も動かない。
「……私は」
そう言いかけて、倫ちゃんは一度止まる。
いつものように「関係ありません」とも、「雪奈さんの自由です」とも言わない。
ただ、私が掴んでいる袖へ視線を落とし、その場に立ち続けている。
「答えないんだ」
「……」
「でも、帰らないんだね」
一度は落ち着いたはずの倫ちゃんの耳が一層、赤くなる。
「少しだけと申し上げました」
「うん。知ってる」
私は笑って、倫ちゃんの袖からゆっくりと手を離した。待ってくれている子どもたちがいる。もう一度会いたいと言ってくれる、えまちゃんがいる。
そして、目の前には、否定せずに立ち止まってくれた人がいる。
明日は、病棟へ戻れるかもしれない。ダメだったとしても、今度は一人で正解を探すのではなく、迷ったら誰かへ相談しながら進めばいい。
そう思えるだけで、閉じたままだったピアノの蓋へ、私はもう一度手を伸ばせる気がした。




