16.プリンセスと
翌日の午後、私はいつもより早めの足取りで病棟へ向かった。談話室の扉に手をかけると一瞬指先が冷えたけれど、深呼吸をして、いつもより勢いよくそのドアを開けた。
「たっだいまー!」
中にいた子どもたちが、いっせいにこちらを振り返る。その中心にいたのは、頭に金色の紙で作った冠を載せ、肩から薄桃色のビニールを巻き付けられたつばめだった。右手には、星の折り紙がついた杖まで握らされている。
「……何、その格好」
「見れば分かるでしょう……プリンセスよ」
「すごく似合ってる!」
「全然嬉しくないわね」
燕が憮然とした顔で杖を下ろす。
「つーちゃん、まだ踊ってないよ!」
「ゆきねえちゃん来るまではやるって言った!」
「私はやるなんて一言も言ってない。検討するって言ったの」
「けんとうした?」
「検討した結果……踊らないことに決まりました!」
「えー!」
子どもたちから一斉に不満の声が上がった。
燕が助けを求めるように私を見る。
「ほら。正選手が戻ってきたんだから、もう私を解放して」
「せいせんしゅ!」
「ゆきねえちゃん、ほんものだ!」
「偽物はどこにいたの?」
「あなたの目の前で冠を被ってるわよ」
燕が自分の胸に手を当てて前へ躍り出たところで、子どもたちが私の周りへ集まってきた。
「ゆきねえちゃん、今日ピアノ弾ける?」
「がおーもできる?」
「旅行の写真は?」
「つーちゃんより踊れる?」
「最後のは、できるって言わないで」
燕が先回りして釘を刺す。
私は子どもたちの顔を順番に見ながら、胸を張った。
「今日はピアノも弾くし、写真も持ってきたよ。それから、みんなに見せたいものもあるの」
「がおーは?」
「それは燕が上達したって聞いたから、任せようかなぁ」
「前よりちゃんと怖くなったよ!」
「そう! おばけみたいになった!」
「だから、それは上達じゃないのよ……」
燕の抗議に笑い声が広がる。
昨日まで、病棟へ来ることを考えるだけで胸の奥が固くなっていた。でも今は、子どもたちの声を聞いていると、どうして自分がこんなに長く離れていられたのか不思議なくらいだった。
「雪奈」
燕が冠を外しながら、私の前に立つ。
「なに?」
「数日間のしおらしくしてた雪奈はどこへ行ったわけ?」
「えっとね……私、いっぱい考えたし」
「うん」
「いっぱい落ち込んだ」
「知ってる」
「あと、いっぱい泣いた!」
「それも知ってる」
「それで結局、やるしかないってところに落ち着いた!」
人差し指を立てて宣言すると、燕はしばらく私を見つめた。
「それだけ?」
「それだけって言わないでよ。私なりに一週間かけて出した答えだよ?」
「もっと哲学的な何かを掴んだのかと思った」
「できることはやる。分からないことは聞く。間違えたら謝って直す。これ以上考えたら、また動けなくなるもん」
燕の口元が、ふっと緩んだ。
「……あんたのそういうところ、案外好きよ」
「ふっふーん。知ってる!」
「腹が立つわね」
「でも嬉しいから、あと10回言って!」
「言わない」
「じゃあ私が言う。燕、大好き!」
燕の肩へ両腕を回して抱きつく。
「いつも助けてくれるし、子どもたちの相手もしてくれたし、プリンセスにまでなってくれたし!」
「最後は強制よ」
「それでも、ありがとう!」
「暑い。病院で抱きつかないで」
そう言いながらも、燕は私を押し返さなかった。
「つーちゃん、ゆきねえちゃんにはぎゅーってするんだ」
「ぎゅーじゃない。これは友情」
「私も友情する!」
「俺も!」
「待って。全員で来るのは違う!」
子どもたちが次々と燕へ飛びつき、即席のプリンセスはあっという間に小さな人垣へ埋もれた。
「雪奈! 見てないで助けて!」
「人気者だねぇ」
「ちょっと! 笑ってないで助けて!」
そうやって、私たちは無邪気に、心の底から笑った。
談話室の入口へ視線を向けると、いつの間にか倫ちゃんが立っていた。ネイビーのスクラブの上に白衣を羽織り、胸ポケットからは白いうさぎのボールペンが覗いている。
子どもたちに囲まれる燕を見ながら、目元は柔らかく弧を描いていた。
「倫ちゃん!」
声をかけると、こちらを見る。
「……おかえりなさい、雪奈さん」
それだけだった。
でも、胸の奥が一気に温かくなる。
「ただいま!」
倫ちゃんの視線が私の顔を確かめるように留まったあと、ほんの少しだけ細くなる。昨日、リビングで立ち止まってくれた人が、今日もここで待っていてくれた。
「みんなに見せたいものがあるの」
私はテーブルへ置いた透明なファイルから、えまちゃんの描いた絵を取り出した。
「えまちゃんから?」
子どもたちがすぐに集まってくる。
「そう。お家で描いてくれたんだって」
画用紙を広げると、ピンクのドレスを着た私と、白衣姿の倫ちゃんが現れた。
背景には黒いピアノと本棚があり、倫ちゃんの胸元には白いうさぎも描かれている。
「ゆきねえちゃん、お姫様!」
「りんたろーせんせー、王子様!」
「頭に青い冠ある!」
「本当だ。倫ちゃん、王子様だったんだね」
「違います」
「ゆきねえちゃんと結婚するから?」
「しません」
「未来の夫です!」
「昨日までの反省は、どこへ行ったんですか」
「反省したから、正しく言ってるの。まだ未来だもん」
「未来にも予定はありません」
燕が子どもたちの輪からようやく抜け出し、絵と倫ちゃんを見比べた。
「えまちゃん、人物観察が正確ね」
「どの部分がですか」
「雪奈がプリンセスで、先生がその隣にいるところ」
「事実ではありません」
「子どもの絵へ本気で反論しないでください」
燕にまで押され、倫ちゃんは小さく息を吐いた。
「うさぎもいる!」
「本当だ、本物と一緒だ!」
絵の中のうさぎを見つけた一人の男の子が、今度は倫ちゃんの胸ポケットへ手を伸ばす。
けれど、その手は届かない。倫ちゃんが大きな手で白衣を押さえ、うさぎのボールペンを守ったから。
「引っ張らないでください」
「えー! りんたろーせんせいのけち!」
子どもたちの手を避けながら、倫ちゃんは立ち上がる。その表情は以前より柔らかかった。
私は絵の下に入っていた手紙を燕へ渡した。燕は便箋を最後まで読み、眼鏡の奥で何度か瞬きをする。
「……よかったね」
「うん」
「私の代打が下手だったことも、無駄じゃなかったかも」
「自分で言うの?」
「雪奈じゃなきゃ駄目だって、みんなに再確認してもらえただろうから」
「燕じゃ駄目なんて言ってないよ」
「そうよ。つーちゃんのがおー、面白いよ!」
「慰め方が雑なのよ」
子どもたちがまた笑う。
一人の女の子が、えまちゃんの絵に描かれたピアノを指した。
「ねえ、わたし、えまちゃんに……ゆきねえちゃんのピアノ聞かせたい!」
「私も、そう思ってた」
私は倫ちゃんを振り返る。
「えまちゃんに、みんなの動画を送れたりしないかな」
「ご家族に確認します」
「うん、お願いします」
倫ちゃんは担当の看護師さんと話し、すぐにお母さんへ連絡を取ってくれた。以前なら、思いついた瞬間に撮影を始めていたかもしれない。
今は、分からなければ聞けばいい。
倫ちゃんが昨日言ってくれたように、私一人で全部を決める必要はない。しばらくして、倫ちゃんが戻ってくる。
「お母様から、ぜひお願いしますとお返事をいただきました」
「えまちゃんも見てくれる?」
「皆さんの顔を見たがっているそうです」
「やったー!」
子どもたちの歓声が上がる。
「ぼく、太鼓やる!」
「私、歌う!」
「つーちゃんはがおーね!」
「お歌に狼は必要ないでしょう?」
「えまちゃん、好きだよ」
「絵本の狼が好きなのであって、私の奇声が好きなわけじゃないと思うけど」
燕が抵抗している間に、私はピアノの前へ座った。
今日は、えまちゃんが好きだった明るい曲を弾く。子どもたちは歌と手拍子で参加することになり、燕が撮影用のタブレットを机の上へ固定した。
「全員、ピアノの周りに並んで。画面からはみ出さないでね」
「つーちゃんも一緒!」
「私が撮影する人なんだけど」
「タイマー使えばいいよ」
「今どきの子ども、機械に強いわね」
燕がタイマーを設定し、私の左側へ急いで並ぶ。子どもたちも私たちの前後へ集まり、タブレットへ向かって手を振った。倫ちゃんだけは、少し離れた場所に立っている。
「榊先生も一緒に! はい!」
燕が倫ちゃんの白衣の袖を掴んだ。
「僕は必要ありません」
「えまちゃんの絵に描かれてたでしょう。出演者が勝手に欠席しないでください」
「僕は演奏できません」
「そこに立っていればいいです」
「それなら画面外でも同じです」
「十秒しかないんです。正論を言う暇があったら走って!」
「撮影開始までの時間を増やせばいいでしょう」
「その説明をしてる時間がないの!」
燕は倫ちゃんを引っ張り、私の右隣へ押し込んだ。
白衣の肩が私の腕へ触れる。
「倫ちゃん、もう少しこっち」
「十分近いです」
「画面から半分切れてるよ」
「それで構いません」
「構わないのは先生だけです」
燕が反対側から背中を押すと、倫ちゃんがさらに私へ寄った。肩同士が完全に触れる。
「近いね」
「僕は先ほどから、そう申し上げています」
「でも嬉しい」
「撮影が始まりますよ」
タブレットの画面で、数字が減っていく。
「えまちゃん、見てるー?」
「まだ撮ってないよ!」
「ゆきねえちゃん、早く歌って!」
「歌うのはみんなでしょう? 私は弾く人」
「つーちゃん、がおー準備して!」
「しないって言ってるでしょう!」
燕の声へ子どもたちの笑いが重なったところで、撮影が始まった。私は鍵盤へ手を置く。
あの日、指が止まったときと同じピアノだった。でも、今日は何を弾けばいいのか分かる。えまちゃんが喜ぶ曲を、みんなと一緒に届ける。それだけ考えればよかった。
「ゆきねえちゃん、早く!」
「はいはい。いくよ」
最初の和音を鳴らす。明るい音が談話室へ広がり、すぐに子どもたちの歌声が重なった。
手拍子の速さは揃っていない。歌詞を間違える子もいる。燕は途中で隣の女の子から音程を直され、不満そうな顔をしていた。
倫ちゃんは歌わなかったけれど、曲の途中で胸ポケットのうさぎをタブレットへ向けた。子どもたちが笑い、歌声が一度大きく乱れる。それも全部、楽しかった。
最後の音を弾き終えると、全員で画面へ手を振る。
「えまちゃん、また会おうね!」
「えまちゃんも歌ったかな!」
「つーちゃんのがおーも送るからね!」
「送らない!」
燕の声まで入ったところで、動画が終わった。
「ちゃんと撮れた?」
子どもたちがタブレットへ集まる。
燕が再生しながら、途中で吹き出した。
「榊先生だけ、卒業写真の校長先生みたいな顔してる」
「映っているなら問題ありません」
「えまちゃんには、王子様が緊張してたって説明しておくね」
「説明しなくて結構です」
「もっと笑えばよかったのに」
「要求されて笑うものではありません」
「三本出してほしかったなぁ」
「何の話ですか?」
燕が私を見る。
「倫ちゃんは大笑いすると、目尻に皺が三本出るの」
「そんなところまで数えてるの?」
「当然でしょう?」
「当然みたいに言われても困るわ」
子どもたちは動画を何度も見たがったものの、看護師さんに促されて病室へ戻っていった。燕も大学へ戻る時間になり、冠と布を片づけながらバッグを持ち上げる。
「正選手も帰ってきたし、私は日常生活へ戻るわ」
「それは大学生の生活、だよね」
「今週はここへ来ることが本業になりかけてたの」
「本当にありがとう」
「次に休むときは、ピアノを弾ける代打を探して」
「燕が弾けるようになればいいんじゃない?」
「復帰した途端、私へ新しい業務を振らないで」
「私が教えるよ」
「雪奈に教わったら、褒められるまで帰してもらえなさそうだから嫌」
「燕ならすぐできるよ!」
「そういう根拠のない励ましも要らない」
燕は私の額を軽く押した。
「じゃあ、また明日」
「うん。また明日!」
その言葉が、自然に出た。
燕も満足したように頷き、談話室を出ていく。子どもたちの声が遠ざかると、部屋の中は静かになった。けれど、以前のような空っぽの静けさではない。さっきまでのピアノと歌声が、まだ壁や天井に残っているように感じられた。
「最後まで弾けた」
鍵盤の前へ座ったまま呟く。
「ええ」
倫ちゃんはタブレットを確認し、動画が問題なく保存されていることを確かめていた。
「お母さんへ送ってもらえる?」
「担当の看護師から送ります」
「えまちゃん、喜ぶかな」
「喜ぶと思います」
「倫ちゃんが校長先生みたいな顔してたから?」
「その話はもう終わりです」
真面目に遮られ、また笑ってしまう。笑いながら談話室を見渡した。
「私ね、最初は倫ちゃんに会いたくて、ここへ来てたんだよ」
「知っています」
「えっ、知ってたの?」
倫ちゃんがタブレットから顔を上げる。
「隠していたつもりですか」
「子どもたちのために来ていますって顔、してなかった?」
「病棟へ着くと、最初に僕を探していました」
「それは出勤確認だよ」
「僕は出勤簿ではありません」
「白衣を見たら、一日が始まったって気持ちになるの」
「病院へ何をしに来ているんですか」
「だから最初は、倫ちゃんに会いに来てたの」
私は立ち上がり、閉じたピアノへ手を置く。
「でも、途中からはそれだけじゃなくなった」
今日は誰がどんな話をしてくれるのか。どの絵本を読んだら笑うのか。何の曲を弾けば、一緒に歌ってくれるのか。そんなことを考える時間が、いつの間にか好きになっていた。
「みんなに会いたかったし、ここでピアノを弾くのも好き。今日戻ってきて、やっぱりここは私の居場所なんだって思った」
倫ちゃんは何も言わず、静かに頷く。
「でもね」
「まだあるんですか」
「倫ちゃんに会いたくて来るのは、これからもやめないよ」
倫ちゃんの目が、わずかに細くなる。
「……それは、なくしていただいても」
「無理!」
即答すると、倫ちゃんが一瞬だけ口を閉じた。
「8年も続けてるのに、今さらやめられるわけないでしょう?」
「努力してください」
「努力する方向を間違えたくないから、もっと好きになる方へ頑張る」
「頑張らなくて結構です」
「それに、これからも倫ちゃんがいるから来る日、絶対にあるからね」
「……」
「子どもたちに会いたい日もある。ピアノを弾きたい日もある。でも、倫ちゃんの顔を見たいだけの日もある」
倫ちゃんは困ったように眉を寄せた。また「僕には関係ありません」と返されるかと思った。けれど、その言葉は来なかった。
「それだけでも、来てください」
聞き間違いかと思った。
「……何が?」
「僕に会いたいという理由だけでも、来て構いません」
「倫ちゃんに会いたいだけでも?」
「はい」
「一日中、倫ちゃんの顔を眺めるだけでも?」
「業務の妨げにならない範囲でお願いします」
「じゃあ、見つめるだけならいい?」
「離れた場所からにしてください」
「毎日来ても?」
「何度も言わせないでください」
胸の奥で、弾けるように喜びが広がった。
気づいたときには、倫ちゃんの白衣へ飛び込んでいた。
「倫ちゃん、大好き!」
「雪奈さん」
胸元へ頬を押しつける。
白衣の下から、速くなった心音が聞こえた。
「久しぶりに言った!」
「……そうですね」
「供給再開です!」
「経済用語の使い方が、最後まで改善されませんね」
「嬉しい?」
「答えません」
「迷惑じゃない?」
「それは以前、お答えしました」
「じゃあ、もっと言ってもいい?」
「一度に話すのは1つにしてください」
押し返されないことをいいことに、腕へ少し力を込める。
「もう少しだけ、このままいていい?」
「……」
「離れてって言わないでね」
倫ちゃんの身体は硬いままだった。それでも逃げない。
白衣の袖がわずかに動き、腕が私の背中へ回りかける気配がした。
抱き返してくれる。それを期待して待ったけれど、手は触れる直前で止まった。
しばらく迷ったあと、倫ちゃんの腕はゆっくり下ろされる。抱き返してはくれなかった。けれど、「離れてください」とも言わず、私が満足するまで、その場に立ち続けてくれた。
「りんたろーせんせー、抱っこ下手なの?」
廊下から突然声がして、倫ちゃんの身体がさらに硬くなった。忘れ物を取りに戻ってきたらしい女の子が、談話室の入口からこちらを見ている。
「違います」
「腕、途中で止まってたよ」
「見間違いです」
「倫ちゃん、次は練習しようね!」
「しません」
「ゆきねえちゃんが教えるの?」
「うん。まずは私で練習してもらう予定」
「勝手に予定を立てないでください」
倫ちゃんがようやく私の肩へ手を置き、身体を離そうとする。私は素直に一歩下がったが、白衣の袖だけは掴んだままにした。
「でも、会いたいだけでも来ていいって言ったよね?」
「それと抱きつくことは別の問題です」
「じゃあ抱きつかずに、会いに来るところから再開するね」
「最初からそうしてください」
「慣れてきたら抱きついていい?」
「慣れません」
「じゃあ、練習が必要だね!」
「必要ありません」
間髪入れずに否定されても、もう落ち込まなかった。倫ちゃんの耳が赤いことも、私の袖を振り払わないことも知っているから。
病棟には、またピアノの音が戻った。私にも、明日また来たいと思える場所が戻った。
その理由の中には、子どもたちだけでなく、倫ちゃんがいてもいい。そう思えることが、今は何より嬉しかった。




