17.待つこと、待たせること
翌朝、カーテンを開けると、離れの玄関に人影が見えた。
黒いコートの襟を整えながら、倫ちゃんが病院へ向かおうとしている。少し前までなら、窓を開けるか迷っているうちに背中が遠ざかっていたかもしれない。
でも、昨日から供給は正式に再開している。
私は迷わず窓を開けた。
「倫ちゃーん!」
冷たい空気が、一気に部屋へ流れ込んでくる。
倫ちゃんは足を止め、ゆっくりとこちらを見上げた。
「窓を閉めてください。風邪を引きます」
「おはよう!」
「おはようございます」
「今日もかっこいい!」
倫ちゃんの表情が、わずかに止まる。
その反応が懐かしくて、胸の奥がむずむずした。
「……供給量を調整してください」
「昨日、再開していいって言ったでしょう?」
「会いに来ても構わないと言っただけです」
「私が会いに来る理由には、倫ちゃんを褒めることも含まれてるの」
「勝手に条件を追加しないでください」
「じゃあ、今日は一回だけにするね」
「助かります」
「今日もかっこいい!」
「今ので二回目です」
「一回目は挨拶みたいなものだから、ノーカウント」
「都合のいい規則ですね」
呆れた声なのに、以前のように完全に流そうとはしない。
それだけで嬉しくなる。
けれど、ここで「私のことは?」と返事を求めない。倫ちゃんの顔を見られて、好きだと言えた。それで今日は十分だった。
「いってらっしゃい!」
「雪奈さんも、遅刻しないようにしてください」
「まだ一時間あるよ」
「その状態から着替えるのでしょう?」
自分の格好を見下ろす。
ふわふわの部屋着に、髪は寝癖がついたままだった。
「……あと五分だけ倫ちゃんを見送ってから」
「すぐ支度してください」
「はーい」
返事をしても窓辺から離れない私を見て、倫ちゃんは小さく息を吐いた。
「行ってきます」
「うん。今日は病棟にも行くからね」
「待っています」
何気なく返された言葉に、胸が跳ねた。
聞き返すより先に、倫ちゃんは背を向けて歩き出す。
「今の、もう一回!」
「支度してください」
「待ってるって言ったよね?」
返事はなかった。
けれど、耳が少しだけ赤かった。
窓を閉めながら、どうしても頬が緩む。
好きと言えば逃げられていた頃とは、少しずつ違ってきている。
急がなくてもいい。
ちゃんと待つ。
でも、待っている間も、好きだと言うことだけはやめない。
そう決めて、私は急いでクローゼットへ向かった。
***
昼休み、大学のカフェテリアはいつもより混んでいた。
燕と向かい合って座り、私はフォークでオムライスを切り分ける。目の前では燕が、サラダのコーンだけを器用に避けていた。
「好き嫌いはよくないよ」
「味じゃなくて、フォークで食べづらいから避けてるだけ」
「それを最後に一気に食べるの?」
「食べない。残す」
「もっとよくない」
「雪奈は私の母親?」
「友人としての生活指導」
「病棟復帰した途端、他人の世話まで再開しないで」
燕がコーンを皿の端へ集めたところで、テーブルに置いていたスマートフォンが震えた。
画面に表示された名前を見て、手が止まる。
「奏多さん?」
燕がすぐに気づく。
「うん」
「開かないの?」
「開くよ」
指で画面をなぞる。
奏多さんから届いたのは、いつもの気軽な誘いではなかった。
『来月、御子柴財団が主催する医療福祉支援のチャリティー晩餐会があります。よろしければ、僕の同伴者として出席していただけませんか』
日時と会場名、その下には晩餐会の趣旨も丁寧に書かれていた。
医療的ケアを必要とする子どもと家族を支援するための基金を集める会らしい。パパの病院も関係のある団体名がいくつか並んでいる。
続く文章へ目を移す。
『雪奈さんが榊先生を好きなことは理解しています。それでも僕は、もう一度だけ、あなたと向き合う機会がほしいと思っています』
そこまで読んだところで、胸の奥が少し重くなった。
奏多さんは、最初から私の気持ちを知っている。
知っていて、それでも待つと言った。
私は傷つけたくないという理由で、曖昧な返事を続けてきた。
けれど、もう同じことはしたくない。
『これを最後のお誘いにします。そのうえで、雪奈さんのお返事を直接伺いたいです』
文章はそこで終わっていた。
「随分、誠実ね」
画面を覗き込んだ燕が言う。
「うん」
「だから余計に断りづらい?」
「前だったら、そう思ったかも」
スマートフォンをテーブルへ置く。
「でも、今はちゃんと断らなきゃって思ってる」
「なら、行かないって返せばいいじゃない」
「行くよ」
燕のフォークが止まった。
「え?」
「晩餐会、行く」
「断るんじゃなかったの?」
「断るために行くの」
燕はしばらく私を見つめたあと、眉間へ皺を寄せた。
「それ、余計に期待させない?」
「メッセージだけで断ることも考えた。でも、奏多さんはずっと私と向き合ってくれたから」
私が倫ちゃんを好きだと言っても、嫌な顔をしなかった。
病院の子どもたちの話をすれば、興味を持って聞いてくれた。
自分の好意を押しつけるのではなく、私が考える時間を待ってくれた。
「最後くらい、私もちゃんと顔を見て言いたい」
「何て?」
「私が好きなのは倫ちゃんだから、もう待たないでって」
言葉にすると、迷いがなくなった。
奏多さんを好きになれないことは、私の悪いところではない。
でも、好きになれないと分かっているのに、期待だけを残すのは優しさではない。
燕が小さく息を吐く。
「やっと言えるようになったのね」
「うん」
「傷つけないように断ろうとはしない?」
「それは無理なんでしょう?」
「そうね」
「傷つけると思う。でも、だからって曖昧にはしない」
燕はしばらく黙ったあと、皿の端へ避けていたコーンを一粒だけ口へ運んだ。
「雪奈も、少しは大人になったわね」
「コーンを食べただけで?」
「そっちじゃない」
「じゃあ全部食べて」
「調子に乗らないで」
燕は残りのコーンから視線を逸らした。
「それで、榊先生には言うの?」
「言うよ」
「晩餐会へ行くこと?」
「それも。奏多さんにちゃんと断ることも」
「隠して後から知られるよりはいいでしょうね」
「うん。それに、倫ちゃんには改めて伝えたいこともあるから」
「何を?」
私はスプーンを置き、少しだけ胸を張った。
「好きだから、待ってるって」
「まだ待つの?」
「待つよ」
「随分余裕ね」
「全然ないよ。毎日早くしてって思ってる」
「じゃあ待ってないじゃない」
「急かさずに心の中で焦るのは、待つに入ると思う」
「都合のいい定義ね」
燕は呆れたように言いながらも、少し笑っていた。
「でもね、倫ちゃんを待つのと、奏多さんを待たせるのは違うと思うの」
「そこまで分かってるなら、もう私から言うことはないわ」
「じゃあコーン食べて」
「話を戻さないで」
今度は私が笑った。
***
午後のボランティアが終わる頃には、窓の外が薄い橙色へ染まっていた。
子どもたちを病室へ見送り、絵本を本棚へ戻す。ピアノの蓋を閉じると、少し離れた場所で倫ちゃんが待っているのが見えた。
白衣の袖口から腕時計を確認している。
「待っててくれたの?」
「帰る時間が同じになっただけです」
「でも、先に行かないで待ってたでしょう?」
「病棟内で走られると困るので」
「私が追いかける前提なんだ」
「違いますか?」
「正解」
バッグを肩へ掛け、倫ちゃんの隣へ並ぶ。
病院の廊下を歩きながら、何度か話を切り出そうとした。
けれど、奏多さんの名前を出した瞬間、せっかく少し近づいた倫ちゃんが、また遠ざかる気がした。
それでも隠す方が嫌だった。
「倫ちゃん、話があるの」
「何ですか」
「奏多さんから、チャリティー晩餐会に誘われた」
倫ちゃんの足音が、一瞬だけ遅れた。
「……そうですか」
「来月なんだけど、私も行くことにしたの」
「宝生家として出席する必要がある席ですか」
「パパの病院も関係してるみたい。でも、私は奏多さんの同伴者として誘われた」
倫ちゃんは前を向いたまま歩いている。
表情は変わらない。
けれど、白衣のポケットへ入れた右手が、動きを止めたように見えた。
「僕へ報告する必要はありません」
「報告したかったの」
「なぜですか」
「倫ちゃんに隠して行きたくなかったから」
「雪奈さんが決めたことなら、僕が口を出す立場ではありません」
また、その言葉だ。
以前なら、胸の奥が冷たくなっていた。
今は違う。
倫ちゃんが立場を理由に逃げようとしていることも、何も感じていないわけではないことも、少しずつ分かるようになってきた。
「そうだね。私が決めることだよ」
あっさり認めると、倫ちゃんの視線がこちらへ向いた。
「だから、自分で決めたの」
「……そうですか」
「でも、勘違いしないでね」
廊下の突き当たりにある窓から、夕方の光が差し込んでいる。
私は立ち止まり、倫ちゃんを見上げた。
「私が好きなのは、倫ちゃんだから」
倫ちゃんも足を止める。
目がわずかに見開かれた。
「昨日、会いたいだけでも来ていいって言ってくれたでしょう?」
「……はい」
「だから私も、好きって言い続ける」
「それとこれは別の話では」
「返事は急かさないよ。でも、好きじゃないふりもしない」
倫ちゃんは何も言わなかった。
私は続ける。
「私は倫ちゃんが好きだから、待ってる」
言葉にした瞬間、倫ちゃんの肩からわずかに力が抜けた。
安心したのだと思う。
その変化が少し嬉しくて、同時に少しだけ腹立たしい。
「でもね」
倫ちゃんの眉が、ほんの少し寄る。
「奏多さんまで待たせ続けるのは違うと思うの」
「……」
「晩餐会へ行って、ちゃんと断ってくる」
倫ちゃんの表情が再び固まった。
「晩餐会へ行く必要がありますか」
今度は、返事までに間がなかった。
思わず目を瞬く。
「行ってほしくない?」
「そういう意味ではありません」
「じゃあ、どういう意味?」
「返事だけなら、メッセージでも伝えられるでしょう」
「私も最初はそう思ったよ」
「でしたら」
「でも、奏多さんはちゃんと私と向き合ってくれたから」
倫ちゃんの声を遮るように言う。
「私が倫ちゃんを好きだって知っても、適当に扱わなかった。待つって言ったことにも、最後まで責任を持とうとしてくれてる」
「だから、二人で晩餐会へ行くと?」
「うん」
「断るために?」
「うん」
倫ちゃんの眉間の皺が深くなる。
何かを言いたそうなのに、言葉にできないようだった。
「変かな」
「……いいえ」
「じゃあ行ってくるね」
「僕に許可を求める必要はありません」
「許可は求めてないよ」
倫ちゃんが、わずかに目を細める。
「行くって、決めたことを伝えてるの」
以前の私は、倫ちゃんが嫌だと言えばやめるつもりだった。
自分の答えを、倫ちゃんの反応へ預けていた。
でも今は違う。
好きだから待つ。
好きだから、自分で決めたことまで手放すつもりはない。
「安心してね。好きなのは倫ちゃんだけだから」
「……安心しているわけではありません」
「そうなの?」
胸の奥が少し弾む。
「じゃあ心配?」
「そういう意味でもありません」
「難しいなぁ」
「僕の感情を勝手に分類しないでください」
「でも、さっきちょっと安心した顔したよ」
「していません」
「したもん。肩が下がった」
「観察しすぎです」
倫ちゃんは歩き出した。
私はその隣へ並ぶ。
「でも、安心しすぎないでね」
「今度は何ですか」
「私、倫ちゃんが好きだから待つけど、何もしないまま同じ場所で待ち続けるわけじゃないから」
倫ちゃんの横顔が、こちらへ向く。
「大学にも行くし、病棟にも行く。友達とも遊ぶし、誘われた場所にも自分で考えて行く」
「……はい」
「その間に、倫ちゃんが私をどうするか決めるのは、倫ちゃんの自由」
「僕が決めることでは」
「私の気持ちは私が決める。倫ちゃんの気持ちは倫ちゃんが決める。そういうことでしょう?」
倫ちゃんは答えなかった。
けれど、否定もしなかった。
正面玄関へ向かう途中、スマートフォンが震えた。
画面を見ると、奏多さんからのメッセージだった。
『ご検討いただけましたか』
私はその場で立ち止まり、返信を打つ。
『参加します。当日、私からきちんとお話ししたいことがあります』
送信ボタンを押す。
すぐに既読がつき、返事が届いた。
——ありがとうございます。当日はご自宅までお迎えに上がります。
画面が光った瞬間、隣を歩いていた倫ちゃんの視線が、無意識に私の手元へ落ちたのがわかった。
「迎えに来るんですか」
普段なら他人のスマートフォンなど見向きもしないはずの彼が、低く尖った声で言う。
「うん。晩餐会だからね」
「ご家族の車で行けばいいのでは?」
「奏多さんの同伴者だから迎えに来るんじゃない?」
「そうですか」
声の温度が、少しだけ下がる。私はスマートフォンを閉じた。
「大丈夫。ちゃんと終わらせてくるから」
「何をですか」
「奏多さんを待たせること」
倫ちゃんは何も言わなかった。
ただ、私がしまったスマートフォンへ、一度だけ視線を落とす。
「倫ちゃん」
「何ですか」
「私は待ってるよ」
もう一度伝える。
「でも、倫ちゃんの許可を待つのはやめる」
その言葉をどう受け取ったのか、倫ちゃんの表情からは分からなかった。
けれど、今までのように「僕には関係ありません」とは言わなかった。
玄関の自動ドアが開き、冬の冷たい風が吹き込んでくる。
倫ちゃんは私が外へ出るまで、何も言わず隣を歩いていた。




